S.
一二五
第十二章
追録我々の論究もようやくここに一段落を告げたが、ここまで進んで来た間に、我々は幾つかの岐路に
遭遇した。併しその時はそれらの岐路を辿ることを避けたのであつたが、それらの岐路には我々に洞
察の見込を與へるものが多量にあつたのである。そこで我々はそのやうに取扱して来た論點の二三を
取上げて見たいと思ふ。A. 對象と自我が同一化することゝ、對象が理想我の代りになることゝの差異は、我々がこの研究
の始めに論じた二箇の人為的大集團、即ち軍隊とキリスト教曾とに於いて興味ある例證を見いだすの
である。兵卒が自己の上官を、即ち本來軍隊の指揮者を、自己の理想と認め、然も兵卒は自らを同輩と同一
化して、彼等の自我のこの共通點から、僚友關係としての相互扶助及び所有物分配の義務が生じ来る
ことは明かである。しかし、もしも兵卒が自らを大将と同一化さうとするならば、彼は馬鹿者となるS.
一一六
集團心理と自我の分析
のだ。『ワルレンシュタインの陣營』“Wallensteins Lager” 中の兵卒は、常にこの理由で次のやうに軍
曹を笑つてゐる。Wie er räuspert und wie er spuckt,
Das habt ihr ihm glücklich abgedrückt!あの
方の咳拂ひや唾の吐き振り
君は巧に眞似てゐるね、それがカトリック教會になると事情を異にしてゐる。キリスト教徒は悉く自己の理想としてキリスト
を愛し、かつ同一化の羈絆に依つて自分自身が他の總てのキリスト教徒と結合されてゐると思つてゐ
るのだ。しかし、教會はキリスト教徒にそれ以上のものを要求してゐる。即ち、キリスト教徒はやは
り自らキリストと同一化し、かつ他の總てのキリスト教徒をキリストが愛したやうに愛さなければ
ならないのだ。それ故に、教會は集團構成に依つて奥へられるリビドーの位置がこの一點で補はるべ
きだと要求するのである。つまり、對象愛が生産したところには同一化が追加されなければならない。
また同一化が生じたところには對象愛が追加されなければならないのだ。この追加は明かに集團の構
成以上にでるのである。人は立派なキリスト教徒となることは出来るが、しかし自らキリストの位置S.
二七
に立たうとか、キリストのやうに人類に對する全包的な愛を得ようとか、さうした觀念は容易に持つて
ない。しかし、このやうにリビドーの集團的分布の一層進んでゐることは、恐らくキリスト教が
高い倫理的水準に到達してゐることを誇る點なのだ。B 人類の心的發達の如何なる個所に於いて、集團心理から個人心理への進歩が個々の成員に於い
てもまだ完成したかを指摘することは可能だと我々は云つた。註 (一)この點に就いてこゝに論ぜられることは、オットー・ランク (Otto Rank) との思想の交換の影響が少
くない。(『イマゴー』第八卷一九二二年所載『ドン・ホアン型』參照。)この目的のために、我々は昔らく原始團體の父に關する科學的神話に立歸らなければならない。原
始團體の父は後に至つて世界の創造者に高められたが、それは至當のことであつた。何故かと言ふに
彼は初期の集團を構成して總ての子供を産みいだしたからである。彼は子孫等の銘々に
たのである。しかし、これら多數の個人等は、結局團結して、原始父を殺害し、彼をばら
してしまつたのだ。しかもこれらの勝利者の集團に屬する者は、誰一人として父の位置に就くことは第十二章 追錄
S.
一二八
集団心理と自我の分析
出来なかつた。が、さもなくてもし彼等の一人が父の位置に就くならば、その度に争闘が新たに
開始されるので、彼等は父の遺産を悉く抛棄しなければならぬことを領解したのである。そこで彼等
はトーテミスムス的な兄弟集団を構成した。換言すれば、総ての者は平等の権利と、(殺害の記憶を保
持しかつ贖ふべき)トーテム禁制とに依つて結合したのである。しかし、かく成就されたものに対す
る不満はなほ残存して、新たな殺達の源泉となつたのである。この兄弟集団の人々は、畜事態を新た
な水準に於いて復活した。即ち、男はも一度家族の首長となつて、父なき期間に確立されるやうにな
つた婦人政治の特権を破壊したのである。だが、このことに対する補償として、男はその時に母の神
性を承認したのかも知れない。そして母の司祭は、原始圏の父が興へた例に依つて、母を保護する
ために去勢されたのであつた。しかもなほこの新家族は、舊家族の罪を好しに過ぎなかつたのだ。そこには多数の父が存在したが、彼等各自は他の父達の権利のために制限されたのである。
この制限に堪へ兼ねて或個人がその集団から避れて父の役割を引継ぐやうに動き出したのは、恐ら
くその時であるかも知れない。このことを敢行した者こそ最初の叙事詩人であつた。しかもその進歩
は彼の想像に依つて成就されたのだ。かゝる詩人は自己の憧憬のために、眞實を伴つたのである。か
くて彼は英雄神話を創作した。その英雄は神話に於いてなほトーテミスム的怪物として現れてゐる父S.
一九
を罵倒し殺した男であつた。丁度父が少年の最初の理想であつたやうに、父の地位を憧憬するこの英
雄を以つて、詩人は今や最初の理想我としたのである。この英雄への移り行きは恐らく、母の寵児た
る最少年の息子に依つて真-
の時代にあつては彼は父の後継者であつたのだ。原始時代の伴り多き詩的空想に於いては、婦人は戦
争の褒美であり、殺人の香餌であつたが故に恐らく罪悪の誘惑者、殺戮者となつたのであつた。
英雄はその仕事を只一人で成遂げたと主張するが、これは憶に全體としての群集が行つたことなの
だ。だが、ランクも述べてゐるとほり、お伽噺にはこの否認された事實が明白な痕跡を残してゐる。
何故かと言ふに、現に屢々見るとほり、何が困難な問題を解決せんとすると英雄は(通例最少年の息子
であが、愚鈍なるが故に、即ち無難なるが故に父の名代となつた者稀ではない)この問題(仕事)
を蜜蜂或は蟻のやうな一群の小動物の援助を俟つて仕遂げるからである。これらの小動物は原始團體
に於いては兄弟であつたのだらう。丁度夢の象徴に於いても同一の行方で、昆蟲や寄生蟲が兄弟姉妹
(輕蔑的に、小児として)を意味するやうに。なほ、神話及びお伽噺に於ける問題(仕事)は何れも
みな、英雄的行為の代償であることを容易に認めることが出来る。
それ故に、神話は個人が集團心理から脱却する階段なのだ。最初の神話は確に心理的神話、即ち英S.
110
集団心理と自我の分析
続精神であった。説明的性質の神話は論程後に至つて生じたものに相違ないのである。詩人はこの階
段を踏み、かくして自己の想像於かい十集団から離れたのであつたが、併し(ランクが更に進んでを観
察してゐるとほり)実際には集団へ還る道を見いだすことが出来るのだ。何故かと言ふに、彼に集団
へ趣いて、自己の創作した英雄の事業を物語るからである。實にこの英雄は彼自身にほかならないの
だ。かくて彼は自己を現實の水準へ引下げ、聽衆を想像の水準へ引上げるのである。しかし、聽衆は
詩人を領解する。しかも、原始父に對する憧憬といふ同一關係を抱擁してゐるために、彼等は自己を
英雄と同一化することが出来るのである。1)1)ハンス・ザクス『共通の白日夢』
Hanns Sachs: ‘Gemeinsame Tagträume’. 参照。この論文は一九二
〇年にハーグに於て開かれた第六回精神分析學會で朗讀した論文を講演者自身が要約したものである。
‘International Zeitschrift für Psychoanalyse’, 1920, Bd. VI. 所載。〔‘Day-Dreams in Com
mon.’ ‘International Journal of Psycho-Analysis’, 1920, Vol. I. 所
載。〕—英譯者英雄神話の虚言は、英雄の神格化に於いてその頂點に達してゐる。恐らく神化された英雄は父神よ
りも早く、かつ神としての原始父の再来の先駆者であつたかも知れない。それ故に、神々の系列は年
代順に並べるとかうなる。即ち、母神—英雄—父神。しかし、たゞ決して忘れられることのないS.
一二一
註 (一) この簡単な解説に於いて、私は解を立証するために、傳説、神話、お伽噺、風俗史、その他のものに
存在する材料は提出しようと試みなかった。C 直接的な性的本能と目的の禁制された性的本能に就いては、既に非常に多くのことな本冊中で
述べておいたので、この區別についてはあまりに反対されることはなかろうと思ふ。しかし、この問
題を詳細に論ずることは、たとひ前に大いに論じたことを繰返すに過ぎないとしても、餘計なことで
はあるまい。子供等に於けるリビドーの發達は、目的の禁制されてる性的本能に就いて、最初の、しかもまた
最も適切な例を我々に知らせた。子供が両親や世話してくれる人達に対して懐く總ての感情は、無造
作な體位に依つて、次第に子供の性的傾向を表明する願望へと容易に移つて行くのだ。子供は自分の
愛するこれらの對象に、あらゆる愛情の徴候を要求する。さうしてそれは彼等によく分つてゐるのだ。
子供は彼等に接吻したり、接觸したり、彼等を凝視したがるのである。また子供は彼等の生殖器
を見たがったり、彼等が秘かに排泄機能を果す時に一緒にゐたがつたりする。また小児は母親や乳母
と結婚の約束をする–それについゝ如何なることを領解してゐるにせよ。子供は
第十二章 追録
S.
一二三
集團心理と自我の分析
まうとする。等々。直接的に少年を觀察して見ても、少年時代の殘滓を生長後に分析的に研究して見
ても、優しい、嫉妬の感情と性的意圖とが完全に融合してゐることを、少しも疑ふことは出来ない。
まだ何か根本的の遣り方に於いて、子供は自己の愛する者を、まだその集中は不完全なくせに性的活
動の對象とするかいかるのである。)註 (一) 『性説に關する三論文』 (Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie; 本全集第五卷) 對照。
子供の愛のこの最初の形態は、典型的な場合にはエディポス-
コンプレクスと同格であるが、我々が
知つてゐるとほり、やがて潜伏期の初めから抑壓の波に屈する。しかし、抑壓を受けない愛は、純粹
に優しい感情的結合となつて現れる。この結合は同一の人々との間に成立つのだが、最早それは『性
的』と呼ぶべきではない。精神分析は心的生活の深部を明かにするものであるが故に、早期幼年時代
の性相結合か、抑壓されたもの、無意識的なものであるとは言へ、やはり存續することを立證するに
何等の困難も感じないのである。それ故に、我々は敢へて主張する、我々が優しい感情に遭遇する時
は如何なる場合でも、その感情は相手の人物、と言ふよりは寧ろその人物の原型 (或はイマゴーImago)
に對する完全に1)『官能的』な對象結合の承繼者なのだと。その感情を實は特殊な方法で研究して見な
ければ、一定の場合に以前の完全に性的の流程が抑壓のもとにとなは存してゐるか、或は既に消滅してS.
一二三
しまつたかどうかといふことが我々に分らない。なほ、一層明白に述べるならば、性的流れが一種の形
態及び可能性として存続し、かつ常にエネルギーの纏綿を受け得るし、退行に依つて再び活動に入り
得るいふことは確實である。たゞ、一つの問題は(しかしそれは常に答へられる筈のない問題なのだ)
如何なる程度の纏綿及び效力を目下なほそれが持續けてゐるかといふことである。これに關しては、
誤謬の二つの主因を避けるために、不等の注意が拂はれなければならない。誤謬の二つの主因とは、
即ち―抑壓された無意識の重要さを低く評價することのスキラ、及び全然病理學的標準に依つて常
態を判斷することのカリブディス。1)1)(一) スキラはイタリー海岸の岩でCharybdisはスキラと向合つてゐるシシライ海峡にある渦。往昔、こ
の岩と渦とは航海上の難所とされてゐた。と言ふのは、岩を避けようとすれば渦に卷かれる虞れがあり、
渦を避けようとすれば岩に衝突する虞れがあつたからだ。それ故、ここではスキラとカリブディスとは
ディレンマ的危險の意。(譯者)第十二章 追錄
抑壓されてゐるものゝ深部を洞察しようとしない、或は洞察することの出来ない心理學は、優しい
感情的結合をば性的目的を有しない傾向の表れであると常に見做すのだ、たとひそれらの結合が性的
目的を有する何処かから誘導されたものであつても。)S.
二二四
註 (一) 敵愾心は
その構成に於いて、
も少し複雑であるが、
この法則に對して毫も
例外でない。それ故に、かかる結合はこれの目的的
から派生したものと云つて正當である。た
とひかかる目的の遂行を以て超心理學の要
求に一致せんとするに幾分の困難を伴ふと
しても。なほまた、それらの本能は目的を
禁制されてゐるが、常に固有の性的目的を
幾分か保持してゐるのだ。即ち、優しい
信者でさへ、友人或は崇拜者でさへ、今や
『パウロ的』な意味に於いてのみ愛してゐ
る人對して、肉體的接近や隣睨を欲するの
だ。それ故に、もしも我々にその意がある
ならば、我々はこの目的の派生のうちに、
性的本能の昇華の始まりを認めることも出
來るし、また他方では、更に昇華の限界を
定めることも出来るのである。目的の禁制
されてゐるこれらの性的本能は、目的の禁
制されてゐない性的本能よりも大なる機能
的利益を有してゐる。即ち、目的の禁制さ
れてゐる性的本能は、實際に十分な滿足を
得ることが出來ないが故に、特に永久的結
合を造るために適用されるのである。然る
に直接的な性的本能は、滿足を得る度にエ
ネルギーが失はれるので、性的リビドーの
新たな蓄積に依つて更新されるのを待たな
ければならない、それ故に、その期間に對
象が變ることもあるのである。禁制された
本能は、禁制されぬ本能とあらゆる程度で
混和することが出来る。前者は逆戻りして
後者に變へられ得るのである、丁度前者が
後者から發生したやうに。親しい人物に對
する尊重と敬慕とに基S.
一二五
づいた感情的関係から色情的希望が如何に容易に生来るかは周りのとおりである(モリエールの『ギ
リシャ』を愛するために私を抱擁しておくれ』と比較せよ。)例へば先生と生徒と、演奏者と喜ばされた
聴手、殊に婦人等の場合には容易に生ずるのであ-
る。事實、この種の感情的結合が始めは目的にし
生ずるが、性的対象の選擇に向ふやうになることは屢々である。今、フイステルピツテルは、、『チツツエンド
ルフ伯爵の信仰』註 (一)といふ彼の論文中に、熱烈な宗教的結合でさへ如何に容易に熱烈な性的興奮へ
逆轉するものであるかといふことに就いて、他にも類例はあるが極めて明瞭な例を擧げてるる。しか
しまた一方、直接的な性的傾向は、それ自身としては本來短命であるに拘らず、永續的な純粋に優しい
い結合に變へられることは極めて普通である。また熱烈な惚れ込みから結婚した者同志が永く一つに
なつて行くのも大いにこの過程に基くのである。註 (一)フリヨムミヒケイトデスグラフエンフオンツインツエンドルフ, „シユリフテンツアアンゲヴアンデンゼエレンクンド.“
„ヘフト 8. ヴインナ, デンチケ, 1910. 所載。(英譯者)それ故に、我々は勿論、目的の禁制されてるる性的傾向が、内因或は外的障碍のために性的目的を
達せしめられない場合に、直接的な性的傾向から發生するといふことを聞いても驚かないであらう。
潛在期間に於ける抑壓は、この種の内的障碍――と
言ふよりは寧ろ、内的となつた障碍――である。S.
二六
集團心理と自我の分析
我々の假定するところに依れば、原始團體の父は、性的食慾のために總べての息子等に禁慾を強ひ、
その結果、息子等は目的の禁制された結合をしなければならなかつた。しかし、父自身は、性的享
樂の自由を留保し、かくして結合には加はらなかつたのである。集團が依つて成立する總べての
結合は、目的の禁制されてゐる本能の性質を帯びたものである。だが、こゝに於いて我々は、新たな
問題の議論に入らうとしてゐる。その問題と云ふは、直接的な性的本能が集團構成との關係を論ずる
ことである。D この最後の二項の説に依つて、我々は直接的な性的傾向が集團構成にとつて都合のよいもので
ないことを既に知つたのである。家族の發達史に於いても、如何にも、性愛の集團的關係(集團的結
婚)がやはり存してゐた。しかし、性愛が自我にとつて一層重要なものとなればなるほど、また一層
惚れ込みの特質を發達させればさせるほど、性愛はます-
ぐ切に、性的目的の本性に依つて規定さ
れてゐるとほり、二人の人々-
一人の女と一人の男 unus cum uno-
に限定されることを必要とす
るものであつた。一夫多妻的傾向は別々の對象が次々に現れることに満足せねばならなかつた。
性的な満足の目的で一緒になつてゐる二人が孤獨を求むる限り、群集本能即ち集團感情に對して反逆
しつゝあるのだ。彼等が惚込み合つてゐるればゐるほど、彼等は互に愈々完全に満足しあふのだ。集團S.
一二七
の影響に對する排斥は、羞恥心の形に於いて表はれる。極度に激烈な嫉妬の感情は、集團的結合の侵
害に對して性的對象選擇を保護するために喚起されるのである。それ故に、戀愛關係の優しい要因が
つまり個人的要因が全く肉感的要因の背後に匿れる場合だけ、二人の人々には他人の面前に於いて性
交をなすことも可能となるし、また厳格儀式に於いて起るやうに其集團内の一齊的な性的行為も可能と
なる。しかし、それと共に、性的關係の初期段階への退行は發生した。この段階に於いては、惚れ込
みはまだ何等の役割も演じなかつたし、かつ總ての性的對象は平等の價値を有するものと見られてゐ
たのであるが、それは幾分バーナード・ショウ1)の、惚れ込みは一人の女と他の女との差
異を甚だしく誇張することだ、といふ皮肉な警句の意味に近いのとである。惚れ込みは男女間の性的關係に於いて遅く現れたと云ふことに就いて豐富な徴證がある。であるか
ら性愛と集團的結合との對立もまだ遅く發達したのである。こゝに於いて、この假定は原始家族に關
する我々の神話と兩立しないかのやうに思はれるかも知れない。何故かと言ふに、結局、母及び姉妹
に對する愛のために、兄弟の群は我々が假定したとほり父殺しに驅られたからであつた。しかし、こ
の愛を分裂してゐないもの、原始的なものとばかり考へることは困難である
–換言すれば、優しい第十二章 追録
愛と肉感的な愛との密接な結合であると想像することは困難なのだ。だが、一歩進んで考察して見る
S.
二二八
集團心理と自我の分析
と、この反對は賛同となる。父殺しに對する反動の一つは、畢竟、トーテム-
イズム的異族結婚の制度で
あつた、詳言すれば、幼年時代から優しく愛して來た同族中の婦人等に對しては性的關係を禁制する
事であつた。かくして男子の優しい感情と肉感的な感情との間には楔は打ちこまれたのだ、さうしてそ
れは今日なほも彼の性的生活に打込まれたまゝになつてゐるのである。1)この異族結婚の結果と
して、男子等の肉感的求要求は、見知りもせず愛しもしない婦人等に依つて満足させられなければなら
なかつた。
註 1)『總愛生活の一般的低下について』
(原書全集第五卷) 參照。
人為的大集團、即ち教會及び軍隊にあつては、性的對象としての婦人を容れる餘地を存しない。從
つて、男女間の戀愛關係はこれらの組織外に存續する。集團が男女兩者に依つて構成される場合でさ
へ、兩性間の區別は何等の役割も演じないのだ。しかし、集團を團結せしめるリビドーが、同性愛的
性質のものであるか、或は異性愛的性質のものであるかを尋ねねるのは、殆ど何等の意味もないことで
ある。何故かと言ふに、リビドーは性の差異に依つて分化するものでないからであり、また特にリビ-
ドーの性器的組織の目的を完全に無視してるものだからだ。
S.
一二九
しかし、他の點では集團に沒頭してゐる人に於てさへ、直接的な性的な傾
向が幾分保存してゐるのである。もしそれらの傾向が強烈過ぎるほどになれば、それらはあらゆる
集團構成を崩解せしめる。カトリックの教會は、教徒等に結婚しないことを勸告し、司祭等を潔居を
課したのは十分に動機のあることだ。しかし、惚れ込みはしば-
く
司祭をさへ教會から離しめたので
であつた。同様に、婦人等に對する愛は、人種、國民的分立、社會的階級系統等の集團的結合に背き、
かくて文明の一要因として重要な成果を生ずるものである。なほ、同性愛の愛が、禁制された性的傾
向の形をとる場合に於てさへ、集團的結合に更に一層適合することは確實のやうに思はれる-
こ
れは注目すべき事實であるが、それに関する説明をしてはきりがない。精神神經症を精神分析的に研究して見ると、精神神經症の徴候は、抑壓されてはゐるがなほ活動を
つゞけてゐる直接的な性的傾向に遡つて尋ぬべきものである事が分る。しかし、我々は次のやうに附
言することに依つて、この命題を完全にすることが出来る。即ち、精神神經症の徴候は、或はまた目
的の禁制された傾向に遡つて尋ぬべきものであると、(但しその禁制は全然成功しなかつたか、若し
くは抑壓された性的目的に復歸の餘地を與へてゐる。)神經症に罹つた者は非社會的になり、かつ普
通の集團構成に入れなくなることは、この命題に適合する。それ故に、神經症は集團に對して惚れ込第十二章 追録
S.
一三〇
集団心理と自我の分析
みと同様の崩壊的効果を有してゐると言って差支ない。他方に於いて、力強い刺激が集団構成に興へ
られた場合には、神経症は低減し、現に角一時消滅するやうである。で、神経症と集団構成とのの
対立を警察的価値に變ぜんすることは正當の企てであつて、この企ては當然なされたのである。宗
教的錯覚が今日の文明社會から消滅することを惜まない人々でさへ、それらの錯覚が行はれてゐる限
りは、それに囚はれてゐた人々に、神経症の危険に對する最も有力な庇護をそれが興へてゐたといふ
ことを認めるであらう。また、神秘的宗教或は哲學的宗教の教派及び團體の總べての結合のうちに、各
種の神経症に關する歪みなりの治療の頼れるのを認めることも困難ではない。總べてこのことは、直
接的な性的傾向と目的の禁制されてゐる性衝動との相違に關係を有してゐるのである。
神経症患者を一人でおくならば、彼は自分が除外された大集団構成の代りに、自分自身の(微候症
状)を構成することが必要になる。神経症患者は獨りで自分自身の想像の世界を創造し、自分自身の
宗教を創造し、自分自身の安樂體系を創造するのである。かくして彼は、歪められた方法で人類の諸
制度を反復するのであるが、そのことは直接的な性的傾向が如何に優勢な役割を演ずるかを明かに證
明するものである。一)一)註 (一)『トーテムとタブー』”TotemundTabu„(本全集第七巻)第二編の末尾、DasTabuunddie
S.
一三一
Ambivalenz* 参照。
E 終りに臨んで、我々はリビドー説の見地から、これまで論じて来た諸状態-
隠れ込み、集団構成、及び神経症等-に関する比較評価を附言することにしよう。
い、隠れ込みは直接的な性的傾向と目的的の禁制されてゐるな性的傾向との同時的の存在に基くものであ
る。それ故に、ナルシスムス的な自我リビドーの一部分は対象に纏綿してゐる。その状態は、自我と
対象とがが容れる餘地がない。
催眠状態は二人の人間に限定されてゐる點が隠れ込みに類似してゐる。しかし、催眠状態は全く目
的の禁制されてゐるな性的傾向に基くものであつて、対象を理想我の代償とするものである。
集団はこの過程を多様にしたものである。集団はこれを結合する本能の性質と対象を以て理想我に
置替へてゐる點に於いて催眠状態と一致する。しかし、集団はこの上になほ、他の個人等に對する同一
化と云ふ要素だけが多い。何故に同一化が可能となつたかと云ふに、それは恐らく個人等が対象に對
して本來同一の關係を有してゐるためであつた。
催眠状態及び集団構成なる二つの状態は、人間のリビドーの系統的發生からの遺傳的殘物である-
即ち、催眠状態は自然的性向の形に於いての殘物であり、また集団はこの外更に直接的殘存物と
第十二章 追録
S.
一三二
集団心理と自我の分析
しての要素がある。直接的な性的傾向を目的の禁制されてゐる性的傾向と置替へることは、この二つ
の状態に於いて、自我と理想我との分離を助成する。換言すれば、惚れ込みの状態に於いて既にその
始めの見られる分離を助成するのである。
神経症はこの系列から脱れてゐる。しかし神経症もまた、人間のリビドーの発達の特徵–即ち、
直接的な性的機能は中間に潜期を介在せしめて二度スタートを切直すこと–に基いてゐるので
ある。¿) この限りにかいては、神経症は退行の特性を有する點に於いて催眠状態及び集団構成に類
似してゐる。しかし、退行の特性は惚れ込みに缺如してゐる。神経症は、直接的な性向能から目的
の禁制されてゐる本能への發達が十分に成功しない場合には如何なる場合にも姿を現すのである。か
つまた神経症は、この發達經過した後に自我に受容れられた本能と、同一本能の或る部分 (その部分
は完全に抑壓された他の本能的慾望と同様に、抑壓された無意識から直接の満足を得ようと努める)
との軋轢を意味する。神経症は内容が非常に豊富である。何故かと言ふに、神経症は自我と対象との
あらゆる可能な関係を–対象が保持されてゐる諸関係と、対象が抛棄されるか、または自我それ自
體のうちに取入れられる他の諸関係との両者を–包含し、その上なほ自我とそれの理想我との軋轢
関係をも包含してゐるからである。S.
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集團心理と自我の分析1921-001/1931.ja
1921-001/1931.ja/12