S.
S.
茲に遙かに有益な仕事は、最初に定義を下すことでなく、先づ今論ぜんとする現象の範圍に關
する二三の指示から初め、更に吾人の研究に關係ある二三の特に著しく且つ特質ある事實を選び
出すことである。而してこれ等の二つの目的を達するには、 吾人はルボンの有名なる著書「群集
心理學」から引用しなければならぬ。
今一度事實を明白にしよう。 若し素質、衝動、動機、個人の行動の目的、彼に最も接近せる者
との關係に就て、 心理が完全に研究しし、これ等の事にそれ等の關係を明白にしたとし
ても、これまで解決されてない新しい任務が心理の上に突然表れてくるであらう。即ち一定
の條件の下では、個人は豫期されたと全く異った仕方に感じ、考へ、行ふといふ驚くべき事を
心理は解しなければならぬ。而してこの一定の件とは、心理的集團の特質を有する人間の
集合の中に入り込むことである。然らば集團とは何か。かやうな決定的影響を個人の精神生活の
上に及ぼす力を、集團は如何にして獲得するか。集が個人に強ゆる心的變化の本質は何である
か。この三つの問題に答へることが、理論的集團心理學の任務である。而してそれ等の問題に近
よる最良の方法は、明かに第三の問題から出立することである。個人の反應が變化することの観
S.
95
察は、集團心理學に材料を提供するものである。蓋し何れの事物の説明を企てるにしても、それ
を説明する前に叙述しなければならぬからである。
今ルボンの言葉を引用しよう。曰く、「心理的集團によりて示される最も著しき特質は、次のや
うなことである。集圏を構成する個人は誰であっても、彼等の生活様式、職業、性格、智能が如
何に類似又は相違して居ても、彼等が一の集圏に形されたといふ單なる件によりて、一の集
合精神を有するやうになる。この集團精神の影響の下に彼等が感じ、思考し、行爲する仕方は、
各個人が孤立の状態に於て感じ、思考し、行爲する仕方とは全く異つて居る。集圏に属する人々
の観念と感情とは個人がその集圏を構成しない場合には表れもせず、 又行爲に變ることもないも
のである。心理的集團は異質の要素から形成された一時的のものである。かやうに要素が一定時
間結合することは、恰も生物を構成する細胞が結合によりて新しいものを形成し、一々の細胞の
有したものと全く異った特質を示すと同一である。」
この處でルボンの主張を中止して、吾人自身の解を述べ且つ一の観察を挿入しようと思ふ。
若し集團中の個人が統一般に結合するならば、彼等を結合せしむる何かが確かに存在しなけれ
S.
る。
ばならぬ。而してこの結合物は集團の特質となって居るものと全く同一であるかも知れない。し
かしルボンはこの問題に答へて居ない。氏は個人が集團の爲に被むる變化を考察し、吾人の奥秘
心理學 (Tiefenpsychologie) の根本假定とよく一致する所の術語を以て、その變化を叙述して居
曰く「集團を構成する個人が、孤立せる個人とどれだけ相違するかを確定することは容易であ
る。しかしこの相違の原因を発見することは容易でない。これ等の原因を幾分なりとも酸見する
爲に、先づ第一に、近世心理學によりて建設された確證を回想しなければならぬ。近世心理學に
於ては、無意識現象が有機的生活のみならず、知的行爲に於ても全く優勢な役目をなして居るこ
とを示して居る。意識的精神生活はそれの無意識生活と比較すると一小部分の重要さを有する。
最も微細な分析者、最も精密な観察者ですら、行動を支配する極めて少数の意識的動機を發見し
て居るに過ぎない。吾人の意識的行爲は主として遺影響によりて心の中に生じた無意識的基
礎の産物である。この基礎は種族精神を構成する無数の共通特質から成り立つもので、それは世
代から世代へ傅はつたものである。吾人の行爲の明白な原因の後方に、明白でない秘密の原因が
S.
E
横りて居り、その秘密の原因の後方に多くの他の一層秘密な原因が存するもので、それ等の原
因に就て吾人は全く無知である。吾人の日常行爲の大部分は吾人の観察を逃れて居る隠れた動機
の結果である。」
ルボンの考によると、個人の特殊の獲得は集團の中に消滅し、その爲に個人間の特質は無くな
る。種族的無意識のものが生じ、異質のものが同質のものの中に吸込まれる。個人の中に異化的
に達する心的上部構造は撤回され、各人に類似せる無意識的基礎が表れてくると。
この仕方に於て集中の個人は平均の特質を示すやうになる。 しかしルボンは各個人が以前に
有したかった新特質を示すやうになると信じ、その理由を三種の成分に求めた。
「第一の成分は、集團を構成する個人が、本能に従はんとの、打勝ち難き力の感を群集に属する
爲に獲得することである。而してその本能に従ふことは、若し彼が單獨であれば無理に抑歴を加
へたものである。彼は集團を假名のものとし、従つて無責任であるとの考へから、彼自身を抑歴
することをせず、個人を常に統御する責任の感が全く消失する。」とルボンは言つて居る。
吾人の見解から言へば、新しい特質の出現に対して多くの値を置く必要はない。 個人が集
S.
の中では、彼の無意識的衝動の抑墜を撤廃する如き狀態に置かれることを言へば吾人に取りては
十分である。彼がその場合に示す外見上新しい特質は、質にこの無意識の表現である。而してこ
の無意識の中には人間精神に於ける凡ての罪悪が、素質として存在して居る。 從つてこの場合に
良心の表れないこと、或は責任感が無くなることを理解することは容易である。所謂良心の核
は社會的憂慮(Soziale Angst) であることを長い間人は主張した。
*ルボンの見地と吾人の見解との間に幾分の相違がある。蓋しルボンのいふ無意識の概念は、精神分析
學で採用する無意識の概念とは全く異って居るからである。ルボンの無意識は種族精神の中に深く埋沒
せる様式で、それは精神分析の考察以外のものである。吾人は人間精神の古代からの遺傳を有する自我
の核、後にェスと名づけたものは無意識であると認めて居る。しか 外に遺傳の一部より生ずる無
意識に抑歴されたものをも認知する。この抑意識の概念はルボンのへの中には発見されない。
ルボンの第二の原因は傳染で、集団はそれによつて特殊の表現を示し、同時に集團の取る方向
が決定される。傳染は容易に起り易い現象であるが、しかしそれの説明は困難である。染は吾
人が後に研究せんとする催眠現象に倒するに相違ない。 集團に於ける感情と行爲とはいづれも
S.
99
染的で、個人は集合的興味の爲に自己の興味を容易に犠牲にする位に傅染の程度は高い。而して
その傅染は個人の性質と反對した力であり、彼が集園の一部となる時以外には作用しないもので
あると。
吾人は後にこの最後の主張を基礎として重要なる推測をなさらと思ふ。
ルボンのいぶ第三の原因であり、且つ最も大切な原因は、集團に属する個人の中に生する特殊
の性質で、それは孤立せる個人によりて示される特質と時々全く反對することがある。私はそれ
を暗示性と名づけるが、上に述べた染は暗示性の結果に過ぎない。この現象を理解するには、
近世の生理的發見を心の中に有する必要がある。吾人は今日種々の手によりて次のやうな状
態を個人が生ずることを知つて居る。即ちその個人は彼の意識的人格を全く失ふやうになり、 そ
の人格をつた術者の凡ての暗示に従つて、彼の性格や習慣と全く反對せる行動をするやうにな
る。極めて注意深く観察すると、活動する集團の中に暫くの間入り込んだ個人が、集閣によりて
興へられた磁石的影響又は吾人の知らない他の原因からの結果として、全く特殊の状態にあるを
感することが分かる。而してその特殊の状態は、眠を施された者が術者の影響の下に感ずる魅
S.
IOO
惑によく似て居る。意識的人格は全く消失し、意志と辨別力は失はれ、凡ての感情と思想とは術
者によりて興へられた方向に傾いて行く。
心理的集團の部分を構成する個人の状態も催眠の場合と殆ど同様である。彼は最早彼の行に
就て意識しない。彼は眠を施された者と同じく、彼の種の能力は一方に破壊されると同時に
他の能力はその強度が非常に高まる。彼は暗示の影響によりて抵抗し難き激烈さを以て一定の行
動の慣行を企てる。その激烈なことは催眠を施された者の場合よりも、集團の場合が一層抵抗し
難いものである。蓋しこの場合の暗示は集團の凡ての個人に同様に作用する爲に、それの相互作
用によりて強力となるからである。
意識的人格の消失 無意識的人格の優勢、暗示と傅染とによりて感情と観念とが同一方向に
ること、暗示された観念を直ちに行に愛する傾向等が集團の一部を構成する個人の主なる特質
であることが分かる。彼は最早彼自身でなく、彼の意志によりて導かれることを止めた自動人形
になって居る。
以上ルボンの言葉を私は引用したが、それは氏が集圏中の個人の状態を全く催眠的状態である
S.
101
と説明し、二つの狀態の間の比較をしなかったことを十分に明白にせんが爲である。吾人はこの
點に於て反對を叫ばんとの企てはない。しかし集團の爲に個人が變化する原因の中の最後の二つ
帥ち傅染と高上せる暗示性とは明かに同格のものでないことの事質を單に強調しようと思ふ。蓋
し傅染は實際暗示性の一表現であるやうに見ゆるからである。二つの成分の作用はルボンの著
書の中に明かに別されて居ないやうである。吾人が若し集團に於ける各個人相互の作用に傅染
を結びつけ、催眠的影響の現象と同等にした集團に於ける暗示の現象を他の原因に帰するならば
氏の主張を最もよく解することが出来るやうである。然らば暗示の現象を如何なる原因にす
べきか。二つの現象を比較する際の一の主要、即ち催眠の場合に術者の位置を取る人が、 ルボ
ンの集團の説明には続けて居ることを見ると、氏の説明は、不完全であると言はざるを得ない
しかし氏はそれに拘らず、不明な魅惑の影響と、個人相互の上に働き、その爲に最初の暗示が強
力になる傅染の影響とを別して居る。
玆に又集盥中の個人を理解するに補助をふる他の重要な見解がある。個人が組織風體の一部
を構成するといふ單なる事の爲に、彼の文化の階段が数段下って行く。彼は孤立せる時には、
S.
102
*
一個の文化人であるかも知れないが、群集中の一人となれば、野獵人、即ち衝動によりて働く生
物になる。彼は原始人の自性、 強暴、 残忍、 熱烈、 剛勇を有するやうになる。それに又彼は集
闇に入り込む時に知的能力が降下するのを経験する。
* シラーの次の對句を参照せよ。即ち、「獨りで居る時は誰でも可なりに放捷であり聰明である。彼等が
集團中にある時は愚鈍であることを汝は直に發見するであらう。」
今個人精神の説明を離れて、 ルボンが述べた集團心にじて説明しよう。 集圄心に表るる状態
の位置にそれの原因を究めることに、精神分析者は何等の困難を感じない。 ルボン自身も原
始人及び児童の精神生活と集團心との類似を指摘することによりて、解釋の道を吾人に示して居
る。
集團は衝動的であり、 變化的で、且つ刺戟され易い。それは、殆ど全く無意識によりて導かれ
る。集團の従衝動は、場合によりて、寛大であるか、又は残忍であるか、勇敢であるか、憶
であるかである。しかしその衝動は個人的興味、自己保存の興味ですら働くことの出来ない位に
常に専横である。それに就て少しも考察されることはない。それは激情的に要求された事項
S.
103
概念は消失する。
であつても、決してそんなに長くなく、固執は不可能である。その欲求と欲求の滿足との間に如
何なる猶豫をも忍ぶことが出来ない。それは全能の感を有し、集團中の個人に取りては不可能の
**
* この處ではルボンは無意識の語を叙述的の意味に正しく用ひて居る。而してこの無意識は抑歴された
もののみを意味して居ない。
** Totem und Tabu, III を参照。
集団は非常に影響を被り易く、且つ容易に信じ易いもので、批判的能力に続け、又有りさうも
ないと言ふことを集團は考へて見ない。個人が自由な想像の狀態にある時の如く、聯想によりて
相互に喚起される心像によりて考へ、それと現實との一致を合理的に審判することをしない。 集
の感情は常に極めて單純であり誇張されて居る。集團は又疑惑と不確實とを知らない。
* 吾人が無意識的心的生活に就て最上の知識を得るに至ったのは夢の解にくのであるが、その夢の
解の中に、吾人は夢の物語には疑惑と不確實とを無視すること、竝 夢の要素を全く確實のも
のとして取扱ふと 規則に従ふことを述べた。この疑惑と不確實とは夢の作用を支配する監視に基!
本
S.
104
と吾人は述べ、且つ最初の夢の思想は、疑惑と不確實とを批判的過程と認めないと假定した。疑惑と不
確賞とは、その他の内容と同じく、夢に導く日中の残留物の内容の一部として、現れてくる。 (Die
Traumdeutung, 7. Aufl. 1922 S. 386 を見よ)。
集圏は直ちに極端に走る。 若し疑惑が示されても、直ちに論争し難い確にへてしまふ。反
感の痕跡は烈しき悪に變化する。
* いづれの情緒も、この場合と同じく極端に強烈になることは、子供の情緒生活の一様式である。それ
は夢の生活にも同様に表れる。無意識に於ては單一の情緒が孤立するに、間の僅かな苦痛が夢の
中では加害者の死を欲求するやうに表れ、又少しの誘惑が犯罪行の夢の動力になる。ハンスザックス
(Hanns Sachs) はとれに就て適常な能釋を加へて居る。 「夢が現在(實在)に關係することを人に知ら
せる場合に、その夢の内容を意識の中に見せんと試 るならば、分析の顕微鏡の下では怪物として見
えた物が意識界では商品として認められる事を驚いてはな
ない。」(Die Traumdeutung. S. 457)
集團はそれ自身全く極端に傾いて居るので、過度の刺戟によりてのみ興奮され得る集団に影響
を及ぼさんと欲する者は、彼の議論の中に論理的調整を要しない。 最も強烈な色で着色し、誇張
S.
105
55
し、同一の事を再三再四反復しなければならぬ。
集團は何が眞理であり誤謬であるかに就て少しも疑はず、自己の大なる力を意識して居るか
ら、頑であり、且つ権威に服従する。 集團は力を尊敬し、親切を以て薄弱の一形式と認めて、
その爲に影響を被むることは殆どない。集團が勇士に要求するものは強力であり、強暴である。
集団は支配され抑墜されることを欲し、 又その主人を恐れる。根本的に集團は全く保守的で、 革
新とか進歩とかを凡て、傳統を無限に尊敬する。
集團の道徳を正しく判断する爲には次の如き事質を考察しなければならぬ。即ち、個人が團體
に結びつく時には、彼等の個人的禁止が無くなり、原始時代の遺物として個人の中に眠って居る
殘忍且つ破壊的な衝動が、自由な満足を得んとして覺醒されることである。しかし暗示の作用に
よりて集は又否認、利己的でないこと、理想に専心すること等の高等な行動をなすことが出来
る。孤立した個人に於ては個人的興味が殆ど動機の力となるが、集團に於てはそれが極めて稀に
行はれる。個人は集圏によりて生じた道徳的標準を有すと言ふことが出来る。集團の知的能力は
常に個人のそれより遙かに低いものであるが、圏の倫理的行動は個人の水準以下に深く沈むこ
S.
g
とが出来ると同じく、個人の水準以上に高く昇ることが出来る。
ルボンの叙述の他の特質は、集團心と原始人の心とを同一視することが如何に正常であるかに
光明をへて居る。集団に於ては非常に矛盾した観念が相並んで存在することが出来、且つそれ
等の間の論理的矛盾から軋轢を生することなく、相互に我慢することが出来る。 しかしこれが個
人、子供、 神經症患者の無意識的精神生活に於ても生することは、永い間精神分析の指摘した
所である。
★例へば幼児に於ては、彼等に最接近せる人に対する竝在的情態度が長い間相竝んで存在し、その
中の一方が、對立する他方の表現によりて干渉されることは無い。この二つの間に實際に軋轢を生ずる
ならば、子供はその對象を變化し、竝存的情緒の一方をその置換へた對象に移することになりて、
の軋轢の調停を計るものである。成人の神経症の發達史の示す所によると、抑された情緒は、屈々永
い間無意識の中か又は意識的空想の中に固執する。而してその緒の内容は優勢なる傾向に直接反對す
ることは自然である。しかしこの反對よりして、自我はその反對するものに干渉するやうなことは全く
空想は永い間我慢して静にして居るが、通常空想に於ける情緒的充積が増加するに、突然空想
S.
107
107
と自我との間の札が爆発し、 全く普通の結果を齎すものである。
兒童から成人へと発達して行く過程に於て、人格の統一が次に大して行き、子供時代には孤立し
て居た衝動や目的追求が糖括されて働くやうになる。性的生活に於けるこれと類似の過程は、己に長い
間人に知られて居る所で、ての性的衝動は一定の性器の組織に線括されるものである。 (Drei Ab.
handlungen zur Sexualtheorie, 1905) 自我の統一がリビドーの統一と同様な干渉を被ることは、
熟知せる例によりて示される。例へばそれは聖書やそれに類似のものを信ずる 然科者の如き場合で
ある。
自我のその後の分裂が種々と生ずることは、精神病理学の特殊の章を構成して居る。
尚集図は言語の真の力に服従する。言語は集中に最も恐しい嵐を生することが出来、又そ
れをることも出来る。理性と論説とを以て言葉と形式に對して戰ふことが出来ない。言葉や
形式は集團の面前では厳を以て話される。而してそれ等が破言されるや否や尊敬の表情が各人
の顔に表れ、凡ての頭が下げられる。多くの者は、それを以て自然力、又は超自然力であると考
へる。この際吾人は原始人に於ける姓名の禁忌 (Tabu) と、彼等が姓名と言語とにする魔力
を回想する必要がある。
S.
108
* Tutem und Tabu を見よ。
る。
最後に集圏は真理を決して渴望することをしない。彼等は錯を要求し、それなくしてはなす
ことが出来ない。彼等は絶えず現質のものよりも非現實のものに優先を興へ、真のものと同
程度に非眞質のものによりて影響される。彼等は、この両者を區別しない明白な傾向を有す
空想の生活、滿足されない欲求から生じた錯党の優勢なことが神經症の心理學に於ける決定的
成分であることを吾人は巳に指摘した。神経症患者は通常の客観的現によりて指導されること
なく、心理學的現實より指導されることを見した。ヒステリー的徴候は現實経験の反復にか
ず、空想に基いて居る。 強迫神網症に於ける罪悪感は、實行したことのない罪悪の意向に塞い
て居る。質に夢や催眠に於ける如く、集圏の心的活動には、事物の實在を検査する機能が、情緒
的充積を有する欲求の強さと比較して、背景の方に引込んで居る。
ルボンが集團の指導者に就て述べた所のものは十分でなく、 それの基礎となる原理が明白にさ
れて居ない。氏の考によると、生物が一定数に結合するや否や、 それ等が動物の群であっても、
S.
人間の集合であつても、いづれも本能的に首長の権威の下に置かれる。 集團は主人なくしては
生活の出来ない従順な群である。 集團は主人に任命した何れのものにも本能的に従所の従順の
渴望を有して居る。
かやうに集團の必要が指導者を歓迎しては居るが、しかしその指導者は彼の個人的性質に於て
集団に適して居なければならぬ。 彼は集團の信仰を覺醒する爲に、彼自身強い信仰、又は観念
を有して居なければならぬ。又それ自身の意志を有しない集團が彼から受取り得る所の強き且つ
著しき意志を彼は有しなければならぬ。 ルボンは種々の指導者を論じ、且つ集團に影響を及ぼす
手段を述べて居る。一般的に指導者は彼自身が狂信する観念によりて指導者たるの價値を有する
に至るものであると氏は信する。
尚氏は観念と指導者との二つに神秘的な不可抗的の力があるとする。 その力を氏は幻術 (Pres-
tige)と名づけた。幻術とは一個人、一作業又は一観念によりて吾人の上に働く一種の支配力で
ある。それは吾人の批判力を全く麻痺せしめ、 驚愕と尊敬とを生する。それは催眠に於ける魅惑
と同じ感情を惹起するやうに見ゆる。氏はこの幻術を獲得的又は人爲的のものと、人格的のもの
S.
とに区別する。前者は彼の姓名、財産、評判によりて個人に結び付いたものであり、又傅によ
りて意見や作品等に結びついたものである。何れの場合にも、それは過去に關係して居るから、
この不思議な作用の理解に多くの補助を興へることが出来ない。人格的幻術はそれによりて指導
者となった少数の人に附着せるもので、恰も磁石的魔術の作用であるかの如く、凡てのものを指
導者にはしむる作用を有する。しかし凡ての幻術は成功しなければ、その力を有せず、失敗す
るとその力を失ってしまふ。
ルボンは指導者の役目竝に幻術の重要を集圏精神に就て氏の企てた立派な叙述と完全に調和
せめて居るとの感を吾人は有することが出来ない。
三集合精神生活に就ての他の評價
吾人はルボンの叙述を序論として利用した。蓋し氏が無意識精神生活を強調したことが吾人自
身の心理學とよく一致するからである。 しかし氏の主張が實際に何も新しいものを持ち來さなか
You are here
集團心理學と自我の分析1921-001/1930.ja
1921-001/1930.ja/2