• S.

    144


    七  同一視
     

    同一視は他人との情緒的結合の最も早い表現として精神分析に知られて居る。それはエディ
    プス錯綜の早い歴史の中に役目を演じて居る。幼き男兒は彼の父に對して特殊の興味を表す。 彼
    は父のやうに生長し、父と同じ様になり、凡ての場合に父の代りにならんと欲する。簡単に言へ
    ば、彼は父親を理想とすると言へる。この行動は父(及び一般の男性)に對する受動的又は女性
    的態度と無關係で、それは寧ろ立派な男性的態度である。それは極めてよくエディプス錯綜に適
    合し、錯綜への準備を助ける。
     

    この父との同一視と同時に、或はそれより少し後れて、男児は依頼型 (Anlehnungstypus 性
    衝動は最初滿足をする爲に獨立的手段をとらず、 自己保存の衝動に依頼することによりて滿足す
    る。故に個人の性的對象の第一の選擇は依頼型であると言はれる。)に従つて、母親の方へ眞の對
    充積を愛せしむることを始める。従つて彼は二つの心理的に異る結合、即ち母に對する直進
     

  • S.

    145
     

    的性的對象充積と、父に対する代表的同一視とを示す。この二つは相互の影響や干渉を被ること
    なく暫くの間相竝んで存在する。心的生活の統一化への抵抗し難き進歩のために、それ等はに
    合一する。 正常のエディプス錯綜は、この合一から生する。 幼き男兄は、母との間を父が邪魔する
    ことに気付く、彼が父と同一視することが敵對的着色を生じ、母に對して父の位置を占めんとの
    欲求と同じくなる。同一視は實にその最初から竝立的である。それは温情の表現に容易に變ると
    等しく、他人を排除する欲求にも容易に浸ることが出来る。それはリビドー組織の最初のロ杼時
    代(orale Phase)の派生物のやうに振舞ふ。その時代に於ても欲し尊重する對象が食べること
    と合體し、又かやうなものとして、その者を食べてしまふ。 人肉を食ふことは明かにこの見地か
    ら残つて居る。彼は食ふほど敵を愛するもので彼は愛するもののみを食ふるのである。
     

    * Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie 及び Abraham: Untersuchungen über die friiheste pragon-
    itale Entwicklungsstufe der Libido. Internat. Zeit. f. Psychoanal. 1916. B. IV 等を見よ。
     

    父と同一視することのその後の歴史は容易に見失はれる。エデイブス錯綜は轉換して、父が女
    性的態度の對象となり、その對象によりて直接に性的衝動の滿足を求めんとするやうになるから
     

  • S.

    146
     

    知れない。その場合に父と同一視することは父との對象結合の先瞞になつて居る。 同様なことが
    幼い女に於ても行はれる。
     

    父と同一視することと、對象として父を選ぶこととの別を公式的に言ふことは容易である。
    第一の場合では、人間の父は各人がありたいと欲するものであり、第二の場合では、各人が持ち
    たいと欲するものである。即ちその別は結合が主に結びつくか、或は自我の對象に結びつく
    かに基いて居る。故に前者は性的對象選擇が行はれる以前に作用することが出来る。この別を
    超心理學的に明瞭に叙述することは非常に困難である。他の者を模範として採用したと同じやう
    に、自身の自我を對象にせんと努力する作用が同一視であるといふことだけを苦人は認知する。
    同一視が神經症的徴候の組織の中には複雑な結合を生するので、人はその複雑を解明しよう
    と思ふ。では幼い女兒のことを述べることにするが、その女児が母と同じ不快の徴候、例へば
    同じく苦しい咳をなすやうになったと想像せよ。これは種々の仕方につて行くかも知れない。
    同一視がエディプス錯綜から来ることもあるが、この場合には母の位置を取らんとの、敵意的欲
    求を示す。而して父に對する對象的愛情が徴候として表れ、母の位置を取らんとの欲求は、罪惡
     

  • S.

    感として現されるものである。 「汝は母たらんと欲した。 今は少くとも苦しんで居る」。これ
    がヒステリー的徴候構成の全機制である。或は一方にその徴候は愛される人のそれと同一のこと
    もある。例へば「ヒステリー分析の小篇集」中に記述しあるドーラは父の咳を模倣した。 この場
    合には同一視が對象選擇の代りに表れたもので、それは又、對象選擇が同一視に退行したと説明
    することが出来る。 同一視は情緒的結合の最も早い起原的形式であると吾人は聞いて居る。候
    が構成される件の下では、換言すれば、抑歴作用が表れ、且つ無意識的機制が優勢なる場合で
    は、對象選擇は同一視に復帰し、自我が對象の特質を受取るやうになることが屢々である。この
    同一視に於て、自我は時として愛しない人を模したり、時として愛する人を模したりするこ
    とは著しいことである。二つの場合に於て、同一視は部分的であり、且つ非常に制限されたもの
    で、それの對象となる人から單一の特質を借りるに過ぎないことに吾人は驚かされる。
     

    徴候構成の中に特に屢々起り、且つ大切な第三の場合がある。この場合に、同一視は模寫され
    る人に対する對象糊係を全く無視する。 例へば寄宿舎の一女生徒が秘密にし、且つ嫉妬を感じ
    て居たものからの手紙を持つて居たと想像せよ。而して彼女はそれに対してヒステリーの作を
     

  • S.

    148
     

    以て反應すとすれば、それを知る彼女の友人のあるものは心的染によりてその作を招くであ
    らう。その機制は同一狀態に自身を置くことの可能又は置かんとの欲求に基く同一の機制であ
    る。他の女兒は又秘密の愛情關係を有せんことを欲し、罪悪感の影響のに、それに結びつい
    て居る苦痛を受取る。 彼等は同情からその徴候を受取ったと推定することは、正常でないであら
    う。却つて反對に同情は同一視のみから生するもので、それは次の事から説明される。即ち女
    校の友達間に通常存在するよりも、少ない同情が豫め存在すと推定される場合でも、この種の
    傅や模倣は生ずるものである。一人の自我は一つのに於て他人の自我と重要なる類似のある
    ことを認知した。その一つのとは人の例によると情緒に対する類似の準備である。 同一視は
    この準備の上に構成され、病的状態の影響の下では、同一視は一人の自我が生じた徴候にまでも
    移する。かくして徴候による同一視は、抑されて居なければならぬ二つの自我が一致せるこ
    との表蹴になる。
     

    これ等の三つの源泉から學んた所のものを次の如く總括することが出来る。第一に同一祝は對
    象との情緒的結合の起原的形式である。 第二に同一視は退行的方法によりて謂はば對象が自我に
     

  • S.

    149
     

    投入 (Introjektion)することによりて、リビドー的對象結合の代りになる。 第三に同一視は共通
    性質を新に知覺することによりて、性衝動の對象でない人間にも生することが出来る。この共通
    性質が重要なものであればある程、この局部的同一視は有効になり、かくしてそれは新結合の
    端をなすやうになる。
     

    集団の部員間の相互結合は、重要なる情緒的共通性質に基く、この種の同一視の性質を有する
    ことを苦人は知する。而してこの共通性質が指導者との結合の性質の中にあることを推測する
    ことが出来る。他の豫知としては、同一視の問題を遺渴なく論じして居ないことと、心理で
    いふ移入 (Einfühlung) の過程に當面して居ることである。而してその移入の過程は他人に於け
    る他我 (Ichfremde) の理解に最も大なる役目を演じて居る。しかし吾人はこの場合に、同一視
    の直接の情緒的結果のみを取扱ひ、知的生活に於けるそれの意義に就ては省くことにする。
     

    精神分析的研究は既に時々精神症の困難な問題を取扱つたが、その結果、直に理解し難いやう
    な他の二三の場合の同一視を吾人に示すことが出来た。私はその中で二つの場合を詳細に述べて
    人の考察の材料としよう。
     

  • S.

    150
     

    男子の同性愛の生は大部分の如くである。年少の男子はエデイブス錯綜の意味に於て母親
     

    に非常に長く且つ強く執着して居る。しかし、窓に青年期の終りに於て、母を他の性的對象に取
    換へる時期がくる。弦に於て急激なる變化が起る。 年少の青年は彼の母を棄てず、彼自身を母と
    同一視する。彼は自身を彼女に整形し、且つ彼の自我に置換はり得る對象即ち彼の母から経験し
    たやうな愛情と心配とを奥へ得る對象を授がす。これは屡々生する過程で、吾人は好むだけ幾ら
    でも確證し得る所のものである。而してその過程は有機的推進力と急激なる整形の動機とにし
    て下された恨説とは全く獨立したものである。この同一視に就て著しい事はそれの豊富な仕組で
    ある。それはこれまで對象であつたものの模範によりて、自我を重要な様式の一つ、即ち性的特
    質に整形する。この過程に於て對象そのものは棄される。その臓棄が全く行はれるか、或は無
    意識の中に保存されるといふ意味に於て行はれるかは現在の議論以外の問題である。 され又は
    失はれた對象と同一視して、その對象の代りにすること、即ちこの對象が自我に投入することは
    最早吾人に取りては珍らしくない。この種の過程は時々幼い子供に於て直接に観察されることが
    出来る。少し以前にこの種の観察が「精神分析雑誌」の中に公にされた。それによると子
     

  • S.

    猫を失って不幸に感じて居た一人の子供が、今は彼自身子猫であると宣言し、従つて四つ這ひに
     

    なつて歩き廻り、食卓で食事をしようとしなかつたといふことである。
     

    * Marcuszewicz: Beitrag zum autistischen Denken bei Kindern, Internat. Zeit. f. Psychoanal.
    1920. Bd. VI.
     

    かやうな對象の投入の他の例は欝憂症の分析によりて得られる。この病気は最も著しき興奮の
    際に、愛する對象の現實的又は情緒的損失を計算する。これ等の場合の主なる特質は、自我の残
    酷なる自己軽視で、それに厳しき自己批判としき自己非難とが結合して居る。分析の示す所に
    よると、この卑下と非難とは根本に於て對象に適用されたもので、對象に対する自我の復仇を示
    して居る。私が他の場合に述べたやうに、對象の陰影が自我の上に映って居る。この場合の對象
    の投入は全く明白である。
     

    * Trauer und Melancholic. Kleine Schriften zur Neurosenlehre. 1918.
     

    しかしこれ等の愛症は又吾人の後の議論に対し、他の重要なるものを人に示して居る。即
    ちこの疾患は自我が分裂して二つの部分に分かれ、その一つは他のものに対して激怒して居るこ
     

  • S.

    553
    152
     

    とを人に示す。この他の部分は、投入によりて壁化したもので、失はれたる對象を包宥して居
    る。しかしかやらに殘酷に振舞ふ部分は吾人に知られないことはない。それは良心、即ち自我の
    批判力を包含して居る。而してこの良心は正常時には自我に対して厳しくもなく不正でもない批
    判的態度を取るものである。 かかる能力は自我の中にし、自我の残りのものから切離され、
    それと手をするやうになるとの假定に人は他の場合(私の論文、自己愛竝に苦悶と憂欝)に、
    於でした。而してそれを自我理想 (Ichideal) と名づけ、それの機能としては自己観察、道徳
    的良心、夢の監視、抑壓に於ける主なる作用であると述べた。それは子供の自我が自己滿足を
    見出した最初の自己愛の相続人であることを述べた。 それは環境が自我に求め、自我が常にそ
    れに従ふことの出来なかった要求をその環境の影響から漸次に集めて行く。而して人が彼の自我
    そのもので満足することの出来ない時には、自我から分化した自我理想に満足を見出すことが出
    来るやうにする。観察の錯亂に於ては、その批判力の不統一が明白になり、その批判力の起原
    は権威者、殊に両親の影響の中に發見されることを吾人は他の論文自己愛の中に述べた。 しかし
    この自我理想と眞の自我との間の距離の大さが個人によりて夫々相違すること、竝に多くの人々
     

  • S.

    153
    *
     

    に於ては自我の中のこの分離が子供に於けると同じ程度であるといふことを附言することを吾人
    は忘れてはならぬっ
     

    しかし集團のリビドー的組織を理解するために、これ等の材料を使用し得る前に、吾人は對象
    と自我との相互關係に就ての他の例を考察する必要がある。
     

    吾人は病理學より取った如上の例で以て、十分に同一の性質を言ひつくしたといへ いことに
    その結果として、集団構成の謎には溺れなかったことをよく知って居る。何一層根本的な且つ包括的な
    心理的分析をこの點に加へなければならぬ。同一視より摸倣を越えて移入に行く一の道がある。換言す
    れば吾人が他人の精神生活に対して一定の態度を取り得るやうにする機制を理解する一の道がある。 何
    存在する同一祀の表現中に説明を要すべきものが夥多ある。他の場合には同一視は次の如き結果を生ず
    る。即ち人は自己と同一視するものに進撃することを制限し、或は差腔へ 又はそのものに補助を奥へ
    る。階殺感情の根となつて居るやうな同一視の研究に於てロバ
     

    ートソン・スミス (Robertson Smich)
    は驚くべき結果に到達した。即ちとの同一視は共通物質の認知に基くことを賛見した。 (Kinship and
    Marriage) 從つてその同一親は共同の食事によりて生じ得るかも知れない。 これ等の様式は、私の
     

  • S.

    154
     

    「トテムとタブー」の中に述べた人間家族の早期の歴史とこの同一視とを結びつけることを可能ならし
    めて居る。
    愛す