禁制と徵候と杞憂1926-001/1931.ja
  • S.

    一八一

    集全學析分神精ドイロフ

    第一章

    徴候構成の特徴は、永い間研究され、且つ、恐らく遺憾なき方法で云ひ表されてゐる。徴候とは
    満足せしめざる本能の表現であり又代償であり、抑歴過程の結果である。抑歴は、自我が場合によつ
    ては超自我の命令でエスに起つた本能聯絡を共同しようとは欲しない時に、その自我から生ずるので
    ある。自我は抑歴によつて不快の亢奮傳達者たるが如き觀念をして、意識させないやうにすることが
    出来る。これが無意識の形式として存在しゐることは、分析によつて屡々證明されてゐる。然し乍
    らこれまでは明瞭にされたとしても、未解決の難問が直ぐ現れるのである。

    現在までは、抑歴に關する機制の說明は、意識されずにゐる結果が強調して居つて、其他の點に就
    ては疑惑を置かなかつたのである。そこで今、エスのの中に満足を得ようとして起つた活動的な本能は
    如何なる運命をたどるかといふ問題が生ずる。これに對する解答は間接的であつて、即ち抑歴の機制
    によつて、豫期されゐる滿足快感が不快感に變ずるといふ事であつた。さらば如何にして本能滿足の結
    果が不快になるだらうかといふ問題に逢着する。確固たる斷言をするには、吾々はこの關係を明かに
    したいのである。エスに於て企てられた亢奮行程は、抑歴によつては結局完結せられずして、自我が

    第二章

  • S.

    一八二

    牽制と徴候と杞憂

    それが禁断し若しくは拒絶して完結されるのである。かくして抑圧の場合の「感情變化」といふ謎は消
    散する。然し乍らこれによつて吾人は、自我がエスに對して頗る廣大なる影響を及ぼすことを承認し
    たのである。且つ如何なる途に自我の驚くべき力の傳搬が行はれてゆくかを理解せねばならぬのであ
    る。
    余の考へる處では、この影響は、知覺區劃と密接なる關係の結果自我に屬するものであり、この關
    係が確かに影響の本質を決定し、エスとの差別の根本となつたものであると思ふ。我々がW-Bw(知覺
    意識)と呼んでゐるこの區劃の機能は、意識の現象と結合してゐるものである。即ち亢奮を外部のひ
    ならず内部よりも受け、この内外より到来する不快感情に依つて、精神的の出来事の經過を快感原
    則の意味に従へようとするのである。自我はエスに對して無力であるのは相應しいものだと吾人は考
    へるが、然し、エスの本能機側に反抗する時には、彼の目的を達せんが爲めに快感原則の殆んど絕對
    的牽制の助力によつて不快の信號を與へればそれでよいのである。この關係を獨立させて觀察するな
    らば、我々は他の方面から引例によつて證明することが出来る。或る國家に於ては、或る主義者は大
    衆の傾向に一致するやうな決定を作る方策に對しては抗する。即ちこの少數者は歴史を持つて、これ
    に依つて支配者の「公の思考」を改變して、計畫された決定が中絶されるやうにするのである。

  • S.

    一八三

    この解答には猶問題が附随してゐる。それは、不快感信號に用ひられたエネルギーは何處から移動
    して来たかといふ事である。内部の好ましからざる機制に對する擁護が、外界の刺戟に對する擁護の
    型通りに起り、猶外界の危険に對すると同様に、内部に對する保護を同じ方法でするといふ事が、この
    移動の行程を證明するのである。外界の危険に際しては生物は逃亡の計畫をなし、次で危険の知覺か
    ら經緯を撤回する。その後に危険を拒絶する事が出来ない時でさへも、危険の及ぶ範圍から避けさせ
    ない時でさへも、効果のある方法即ちそれを筋肉動作とする事によつて、危険の知覺を處理するやう
    にする。斯くの如き逃亡計畫はまた抑壓と同質價のものである。自我は抑壓される本能代表から經緯
    (前意識の)を撤回して、これを不快感(杞憂)の解放に向ける。抑壓の場合に如何にして杞憂が生ずる
    かといふ問題は簡單には云へない。自我は本來の杞憂の場所であると主張すること、又抑壓された亢
    奮に纏綿せるエネルギーは自動的に杞憂に移行してゆくといふ、昔の解釋を再び支持することは、常
    に正しいことである。以前に一度斯く述べた事があつたが、それは現象學的の叙述であつて、超心理
    學的の説明ではなかつた。

    この記述から新問題が生ずる。それは前意識の自我經緯の撤回の如き、單なる撤回作用と轉送作用
    とが不快感或は杞憂を生ぜしむるに至るといふ事は、これは我々の假説では單に經緯が増加して来た

    第二章

  • S.

    一八四

    禁制と徴候と杞憂
    結果であるとしてゐるが、經濟學的には如何様に説明するかといふ問題である。余は、この原因を經
    濟學的だけでは決して説明できないと答へる。杞憂は抑壓の場合には新しく生ずるものでなく、むし
    ろ存在する記憶象による感情狀態として再生されるのである。我々はこの杞憂の由来―結局は感情
    も同じく―の、層深い問題を携へて、明瞭なる心理學の地域を振り捨て、而して生理學の領域を進
    んで行かうと思ふ。感情狀態は、古代の外傷的經驗の殘渣として精神生活に合伴して居り、それが記
    憶と同じ狀態に於て喚び起される。余は思ふに感情狀態を、遅く且つ個人的に得た處のヒステリー發
    作と比較して、それをそのものの常態の姿として觀察するのは不當ではないと考へる。人類並びに人
    類に近い動物では、出産といふ事が、杞憂感の表現上に個人の最初の杞憂の經驗として特殊の形式を
    與へたやうに見えるのである。然し我々はこの關係を過信してはならない。又この認知から、危険狀
    態に對する象徴感情は生物學上必要であり、それが各場合に起るであらうといふ事を見逃してはなら
    ない。杞憂發作の各場合には、出産狀態の再生と同様な或物が、精神生活中に生ずるといふ事を、余
    は不當なことと考へてゐる。根原的に斯くの如き外傷の再生である處のヒステリー發作は、この特徴
    を連續して保持するかといふ事は、確實なことではないのである。
    余は他の場所に於て、治療に當つて問題となつた多くの抑壓は、後期抑壓の例であることを論じ

  • S.

    一八五

    第二章

    た。この後期抑壓は以前に起つた初型抑壓から假定されて出来たもの
    で彼の強力なる影響を及ぼすものである。これらの抑壓の基礎となつて
    ゐるものに就ては未だよく知られてゐないのである。抑壓に際して超自我の働きを過信する
    といふ危
    險は屢々生ずる。超自我の分立された事が幾分初型抑壓と後期抑壓との境界を作るに至つたのではな
    いかと考へることは今俄かに判斷を下せない。最初の拒憂勃發―甚だ強大なる―は常に超自我の
    分立前に起るのである。元奮の過大なる強さ及び刺戟防禦を破壊するが如き量的要素が、初型抑壓の
    第二次原因となつてゐることは、極めて明瞭なことである。

    刺戟防禦の説明に當つて我々は刺語の如く想起させられるものがある。それは抑壓は二つの異なる
    狀態で起るといふことである。即ちその一は好ましからざる本能活動が外部的知覺によつて喚起され
    る場合と、その一はそれが斯かる煽動なしに内部に於て生起する場合とである。我々はこの差異に就
    いては後に述べよう。然し刺戟防禦はたゞ外部の刺戟に對してだけに止まり、内部の本能の要求に對
    しては働かないのである。

    我々は自我の逃亡計畫を研究してゐるたが爲めに、徴候構成に就いては何等觸れることはしなかつ
    た。徴候は、抑壓によつて侵害された本能活動から生じるのである。自我が不快感信號から請求され

  • S.

    一八六

    禁制と徴候と拒憂
    て、本能活動を完全に抑壓せむとする目的を成就するに當り、これが如何様に起るかに就いては我々
    は何を知らない。我々は多少不完全なる抑壓として、示された實例によつてそれを學ぶより外に途は
    ないのである。
    本能活動は、抑壓されるにも拘はらずある代償を發見するが、然しその代償は極めて萎縮された、
    移動された禁制されたものであるといふやうに一般からは見做されてゐる。それ故にこれも亦最早滿
    足なものとは認められない。若し代償が完成されたとするならば、快感は起らずに、却つてこの完成
    によつて強迫の性質を帯ぶるに至る。然し乍ら徴候が滿足になされなかつた場合には、他の點に抑壓
    の作用は及ぼされるのである。代償機制は運動によつて輸送される事が出来ず、且つ、又この機制が
    成就しない時には、外界に交渉をつけることは許されずして、自己の肉體を變化せしめる事に盡力せ
    ねばならない。即ち行動に換はることは禁ぜられるのである。抑壓に際しては、自我は外界の現實の
    影響のもとに働くのであつて、それが爲にこの現實が代償機制の結末を得るのである。
    自我は、意識に達する進路を、行動への通路と同様に外界に對して支配してゐる。そして抑壓の場
    合には、自我はその力を二方向に働かせてゐる。その一つを本能代表は受けとめてゐる。それは本能活動
    ですら、自我の力の發現する他の方面を探求する爲めである。そこで自我の能力を斯様に承認する事

  • S.

    一八七

    第二章

    と、我々の研究「自我とエス」に就てこの自我の立場に就いて説明した事が、如何なる関係にあるか
    を訊すに好都合となつた。其處で我々は自我の超自我竝びにエスに對する從屬性を述べ、兩者に對す
    る自我の無力及び祀憂胚胎、又懸命に保持せし自我の誇大心の假面を剥いだのである。それ以來、こ
    の判定は精神分析の文獻に強き反響を及ぼした。多くの聲は感銘的にエスに對する自我の薄弱及び吾
    人の内部にある神秘的(デラツシユ)な者に對する合理性の薄弱を強調し、これをもつて精神分析的世界觀の大黒
    柱にせむとするやうになつたのである。この抑壓作用の見解によつて、分析者は極端に偏した論者が
    ら全く隔絶されたと云つてはならぬであらうか。
    余は別に世界觀を創出しようとするものではない。それは哲學者に委ねる。哲學者は、何事にも詳
    細なる教示を與ふる處の手引書なしには、人生を全然實踐的には發見しないものである。我々は謙遜
    して侮蔑を受けよう。哲學者はより高い、窮乏の地點から、侮蔑をもつて我々を見下すのである。又我
    は我々のナルシシム的傲慢を否定することは不可能なる故に、熟慮次の如き考究をもつて慰安を求め
    むとすのである。即ち、斯かる「人生指導者」の總ては速かに老衰すること、それまさに我々の小範
    圍の實質的な小事業で、改版を要すること又その手引書の最も現代的なものをさへ、昔のかの適當な
    る且つ完全なる問答教(カテキスムス)に換へようなどと企てゝゐることである。從來科學の光はこの世界の謎に就
     

  • S.

    一八八

    禁制と徴候と杞憂

    いては極めて僅かの部分に投げられなかつた事を我々は精細に
    知りつてゐる。総ての哲學者の
    擧げた騒音は、それに就いて何等の變動をも齎し得なかつた。たい確實なるものに對する研究に、あ
    らゆるものを從屬せしめた忍耐ある仕事の繼續のみが、徐々に變動を創り得たのである。旅人は闊路
    をゆく時、唄を唄ふならば怖しさは覺えない。然しそれについて旅人は何等明確な理由を知らないの
    である。