S.
二六二
第十章
禁制と徴候と杞憂
杞憂は危険に對する反應である。杞憂感情が精神的經濟關係に於て例外的の表現を強ひられる時に
も、それは危険の本體に關聯してゐるといふ觀念を吾人は變更することは出来ない。然し危険は人間
に共通のものであり、各人に對しては均等なものである。然るに我々が使用して任意にならないもの
は、次の要素である。即ち杞憂感情をしてその特殊なるにも拘はらず克服させて正常の精神本態にな
しうるやうな人を選擇させる要素であり、或は杞憂感情を克服できない人は誰であるかを決定する要
素である。余は斯様な要素を發見するが爲めに二つの研究を知つてゐる。それは困難に對して救助を
約束するが爲めに、明かに同情的に採用することを期待し得るものである。この二つの研究は相俟つて
完全になり、同時に問題を相反する決論で論じ合ふ。その第一はアルフレッド・アドラー Alfred Adler に
よつて十年餘の以前から着手されて居るもので、彼は危険によつて生じた問題の克服に失敗した人は、
その者の器官の劣等なる事が重大なる困難を惹起したのであると主張して、これを最も内部的の種子
に歸せしめたのである。Simplex sigillum veri (單純は眞理の記號である)といふ詞が正しく存在する
ならば、斯かる解決を好個の救助物の如く歡迎せねばならぬ。然しこれと反對に、過去十年の批評S.
二六三
第 十 章
は、この説明の全く不十分なる事を証明し、その説明が分析によつて發見した事實の全材量を全然度
外してゐる事に就いて立證した。
第二の研究は一九二三年オットー・ランク Otto Rank の著『出産の外傷』によつて企てられた。これ
を他の點に就いて研究したアドラーの論に對立させて、此處に主張されし研究として取扱ふことは、
正しくないかも知れない。何となればランクは精神分析いふ基礎の上に立つて、その思考行程を進
め、それを分析の問題の解釋に向つて正當な努力として認めてゐるからである。ランクは個人と危險
との間に生じた關係を論ずるに當り、個人の器官の虚弱といふことを否定して、危險の強さの變化と
いふ事に注目した。出産過程は最初の危險狀態であつて、それから生じし經濟的騷亂は杞憂反應の原
型となる。即ち吾人は先にこの最初の危險狀態と杞憂條件とがあらゆる其の後のものと結合する處の
發達線を探求して、其際にこれら總てのものには何か共同的に保護し、同時にこれら總てには或る意味
に於て、母より分離する意味である事を認めた。即ち最初は單に生物學的見地から、次には直接の對
象消滅の意味にて、其後には間接の方法によつて媒介された對象消滅の意味にて、母から分離するの
である。この偉大な關係を發見した事はランクの構成として爭ふべからざる功績である。此處に於て
出産外傷は各個人に種々なる強度をもつて關係し、外傷の強さによつて杞憂反應の威力を異にするのS.
二六四
抑制と徴候と杞憂
である。かくして個人は常に杞憂の支配を認め得るか否か、それが神経症的に
なるか或は常態に止まるかの問題は、ランクに従へば杞憂發生の最初の大きさに
關係してるなければならぬと云はれるのである。ランクの解説を個々に批評することは吾人の問題ではない。これは唯だ我々の
問題を解決するに當つて應用されるかどうかといふ試みに過ぎない。ランクの
形式、即ち神経症患者は、出産外傷の強かつたが爲めに完全に「出産外傷をア
プレアギーレン」する事の出来なかつた人であらうといふ事は、理論上甚だ非
難すべきことである。何をもつて外傷のアプレアギーレンと見做すかは、正當
に知り得ないのである。言語的にそれを解釋すれば、神経症は杞憂感情をより
強くより屢々再生すればする程、益々健康に近づくといふ奇妙な結論に達着す
るのである。余は會て事實をもつてこれに反駁せんとし
て、「アプレアギーレン」の學説を廢棄した事があつたが、この學説は洗滌法1)
に一つの重大な役目を持つ
たものであつた。出産外傷の變化性をもつた強さといふ主張には、それが遺傳
的素質の原因として是
認されるやうな何等の餘地を持つてゐない。この主張は確かつ一つの器官的要
素であつて、それは素質
に對して偶然の如くに振舞ひ且つ自ら偶然と稱せられる多くの影響、例へば出
産に於ける折好き救助
作用に關係してるる要素である。ランクの説は、概して種族發生學の因子の如
き素質的因子を等閑にS.
二六五
第十章
附してゐる。然し乍ら幾分の修正によつて、素質の意義に就いて或る餘地を作らうと思へば、之れに
は幾多のことが出来るかも知れない。即ちそれは失寵に個人が出産外傷の強度の變化性に反應し
て、それが爲めに世人はその理論から意義を奪ひ、且つ附隨した意味に新たに導かれた因子を制限す
るやうになるかも知れないのである。神經症の發生に就いての決定は、それゆゑ眞實に或る他の、更
或る不明なる領域に存在してゐるのである。
人類の出産過程と他の哺乳動物のそれとを比較して、人類には動物を差し措いて神經症となるべき
特殊の素質を特權として持つてゐるといふ事實は、ランクの理論に對して殆んど適切でないのであ
る。その主要な反對はその理論が確固たる觀察に基いてゐるにも拘はらず、うは附してゐるといふ事
である。難産で且つ長時間を要した出産、間違ひなしに神經症の發生と合致するものであるか、或
は又斯くして生れた小兒のみが早期小兒の祖憂現象を他のものよりも又より強く示すものである
か、これに就いての確かな研究はない。然し陰陸性出産は母にとつては軽い分娩だが、小兒にとつて
は恐らく重い外傷の意味を持つだらうと世人が主張するならば、窒息状態に導く出産は、唱導された
結果を確實さをもつて認定させねばならないと要求するのは確かに正しいことである。ランクの原因
論の利益なことは、再検査に呢懇な材料をもつて爲されるといふ機會が示されてゐる事である。吾人S.
二六六
禁制と徴候と杞憂
が斯くの如き検査を實際に始めない限りは、その理論の價値を測定す
ることは考へられないのである。何となればこの理論は危険状態に關する個人の關係のみを論じてゐる
のであつて、猶ほ好い教示を奥へて呉れてゐるからである。それに何かと云へば、最初の危険を克服
できなかった者は、其後に發生する性的危険の狀態をも拒絶せねばならざるが爲めに、神経症に襲は
れるのであるといふ好い教示を奥へて呉れたからである。故にランクの研究は神経症の根本問題に對する解答を奥へたものだとは余は考へないのである。又
思ふに、氏はこの問題の解決に向つて一大貢献の如きものをしてゐるとは未だ決定する譯には行か
ない。難産の影響に就いて彼の研究が神経症の素質に陰性に終つた時、この貢献に極めて少許より評
價されないのである。1)神経質の明かなる且つ一元的の『最終の原因』を要求することは、常に不満足
に終るのである。其だ遺憾に思ふのである。今日猶ほ醫師が望む處の理想的な例は蓋し細菌の如き
例であつて、これならば分離が出来、純粋培養が出来、更に各個人にこれを接種して同一の結果を生
ぜしめ得らるゝのである。或は稍幻想的に云へば、化學的物質の服用によつて一定の神経症を發生さ
せ又は中止させるやうな現象などもさうであらう。然し乍ら蓋し、時といふ事は、この問題の斯かS.
二六七
第十章
る解決に向つては適當しないのである。
精神分析の教示は餘り簡單であり、僅少にしか満足されなかつた。余は此處に以前より知られた事
を繰返すのみで何等新味のものを添へる事が出来なかつた。自我が或る危険なる本能活動を防禦する
ことが出来た時(例へば抑壓の機制によつて)、その場合にはエスのその部分を確かに禁制し且つ破壊
したのであるが、然し同時に自我は又關係のなかつた一片をエスに興へて、自身の本來の主權の
一片を放棄することになるのである。これは根本に於て避難企圖と認むべき抑壓の性質から生じてく
るのである。抑壓されたものは、こゝで『治外法權』であつて、自我の大なる編成からは除外されて居
り、唯だ無意識の領域に於て支配せる法則に従つてゐるのみである。危険状態が變化され、その結果
として自我は新規な、抑壓されたと同様なる本能活動を防禦すべき何等の動機を持たない程に至つた
ならば、自我制限の結果關係が顯はれる。この新規なる本能過程は自動機制の影響のもとに完成する
のである。–反復強迫の影響と云ふは躊躇されるが––これは、より早期に抑壓された危険狀態
と同一な途上に逡巡するものであつて、恰も征服された危険狀態が今猶現存するかの如くなるので
ある。抑壓へ定着せる要素は、それ故に無意識のエスの反復強迫であつて、常態の場合には單に自由
に運動する自我の機能によつて廢棄されるものである。自我が自ら選んだ抑壓の檻を再び破壊して、そS.
二六八
禁制と徴候と不安
の影響を本能活動に歸し、新しい本能過程を、抑壓された危険状態といふ意味として考へる事は、自
我に於て折々成功するかも知れぬのであるが、事實の上に於てはそれは屢々失敗するものであり、且
つ抑壓を退行せしむることは出來ないものである。量的關係はこれらの爭闘の結果に對しては比例す
るかも知れぬ。然し多くの場合にはこの決定は無理強いであると云ふ觀を吾人は抱かざるを得ないも
ので、抑壓された活動の退行する引力と抑壓の強さとは極めて著しく、爲め新しい活動は反復強迫
にのみ續いてくる程である。其他の場合では或る他の力が貢献してゐる事を吾人は認めて居り、抑壓
された原型のもつ引力は、現實的の苦難の側からの拒絶によつて増強するのである。その現實的の苦
難は、新しい本能活動が異つた過程をとつた場合に、それに反抗して出るものである。
是等は、抑壓へ定着する事及び既に實際でなくなつた危険状態を保持する事からの出來事だとすると
事は、慎ましき、が然し理論的には殆んど過信されない分析治療の事實によつて證明される。若し吾
人が分析の際に自我をして、彼の抑壓が解けるやうな位置にまで置く時には、自我は抑壓されたエス
に向けた自分の力を再得して、恰も昔の危険狀態は最早存在しないかの如くに、本能活動を經過させ
る事が出来るのである。斯くの如くにして到達したものは、かの醫師的仕事の權限と共に共鳴され得
るものである。普通の場合には確かに吾人の療法はより速かに、より信頼されて、少額支出で、幸運S.
二六九
にも自然に興へられたらしい好
果をもつて満足せねばならないので
ある。従来の考察によつて知り得た
ことは、量的関係といふものは直接
には示されるものではなく、これは
吾人の危険状態が固持されてゐる
か、等に就いて判定すべき斷案を下
す場合に於てのみ理解し得べきもの
である。神経症の起因に関係
せる要因、精神力を共に測り得る
條件を作つた要因によつて、生物學
的に三つの會得を吾人は興へられる
のである。生物學的の會得としては
嬰兒が永い間つゞけた無救濟
と獨立とである。人間の胎内存在は、
これを多くの動物に比すると短いや
うであつて、それ等よりも
不完成のまゝ世の中に送り出される。
これが爲めに現實の外界の影響が強
められ、ヱスから自我の分
立することが早められ、外界の危険
がその意味を高め、而してその對象
となつたものは、これらの危
險に對して保護し且つ失つた胎内生
活の代りになり得るものであるが、
その對象の價値が法外に高め
られるに至るのである。この生物學
的要素はそれ故に最初の危険状態を
再生して、愛されようといふ
要求を作るのである。この要求は人
類に永く附き纏ふものである。第 十 章
第二の種族的の要因は吾人によつて
推論されたものである。リビドー發
生の極めて著しい事實は、斯
かる假定を餘儀なくせしめたので
ある。人類の性的生活は人間に近い
多くの動物のそれの如く發端かS.
二七〇
禁制と徴候と根憂
ら成熟までは、一層と発達するものではなくて、最初の早期開花期後から五歳までは強く中断さ
れ、其後思春期と共に新たに發現して小兒時代の性質に結合することを吾人は發見してゐる。思ふに
この性的發達の中斷は歴史的殘渣として殘される何か重要事件を、人類の運命の中に偶發させるに
選びなかつたらしいのである。この要素の病的意味として現はるゝものは、即ちこの小兒性惑の多く
の本能要求は、自我からは危険として見做されて防禦を受けねば至る結果、其後に發した思春期の正
常であるべき性的活動は、嬰兒期の原型のもつ引力に屈服して、抑壓の下に置かれるといふ危険を生
ずるのである。そこで吾人は神經症の最も直接なる原因に達着するのである。自我に對しては性惑の
要求に早く接觸した事は、外界に早く接觸した事と同様に作用するといふ事で注目すべき事である。
第三の心理學的要因は吾人の精神装置の不完全といふ事であつて、それは正しく自我とエスの區
別に關して居り、それが爲めに最後の點に於て亦外界の影響といふ事に引戻されるのである。自我は
實現の危険に對する顧慮の爲めエス或る本能活動に對して自ら防禦し、これを危険として見做す
べく餘儀なくされるのである。然しながら自我は内部の本能危険に對しては、自身に未知の現實の一
部と對するが如き有効な方法では自衛し能はぬのである。自我はエスのもと密に結合して本能危険
を防御する事が出来、同時に自己の編成を制限し且つ本能の侵害に向つての代償として徴候形成をさS.
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禁制と徵候と杞憂1926-001/1931.ja
1926-001/1931.ja/10