精神分析の興味 1913-011/1930.ja

Freud, Sigmund (1913-011/1930.ja): 精神分析の興味

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    精神分析の興味
     

     

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    一  心理學的興味

     

    精神分析とは神經過敏(神經諸症) 或形態を心理的技術によつて治療しようとする醫術的
    方法である。一九一〇年に公にした小冊子の中で、私は精神分析がブロイエル(J. Breuer) の下
    劑的療法から發達したことと、竝にそれがシヤルコー (Charcot) やジャネー (P. Janet) の學
    説に關係して居ることを述べた。
     

    *
     

    Über Psychoanalyse. 6. aufl. 1922.
     

    精神分析的治療法を適用し得る病症の例として、強迫神経症(強迫觀念、強迫行爲)の多様な
    微候と同様ヒステリー性の痙攣
     

    現象を繋げることが出来る。これらは全然、自發的治療
     

    を偶然に示し、且つ氣まぐれな未だ理解されてない方法で醫師の人格的影響に服する狀態であ
    る。
     

    眞正な精神障礙の困難な形態に於ては精神分析はまだ治療的に何もしてないが、しかし
    經症や精神症の疾患の由来や機制を洞察し得るに至つたもので、これは醫學史上最始のことであ
     

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    しかし精神分析のこの醫術的意義を、諸科の綜合に興味を抱く學者達の團體に對して紹介し
    ようとする企ては正常でないかも知れない。蓋し大部分の精神病署や神經學者がまだこの新療法
    に對して否定的態度を執り、その前提や結果を非難してゐる限り、この企ては早すぎると思はれ
    るからである。しかし精神分析は他の幾多の知識領域と接觸し、且つそれ等の知識と精神生活の
    病理學との間の思ひがけない關係を生ずるから、精神病醫以外の人々の興味をも要求するものと
    信じ、この企ては正営であると考へる。それで今精神分析に對する術的興味をさし描いて、こ
    の若い科學について私の主張したことを例によりて説明してみようと思ふ。
     

    正常者と患者との差別なく、その思考形成や身振り及び言語の表現中には、精神器官の機能の
    有機的障礙或は病的缺陷の結果とのみ見なされてて、今まで心理の對象とならなかったもの
    が頗る多い。それはどんなものかと言ふと、正常者に於ける間違ひ(言ひ遊び、書き違ひ、忘却
    等)、偶然の行爲、及び夢、神經病者における痙攣の發作、 譫妄狀態、幻覚、強迫観念及び強迫
     

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    行爲である。人はこれらの現象を 一間違ひのやうに概ね無視してしまはない限り -病理の
    領域にして、これを生理學的に説明しようと努めたが、満足な結果を得なかった。之に反して
    精神分析は、すべてこれらの現實は純粋に心理學的な性質の假定を通してのみ理解することが出
    來、既知の心理的現象と關職させることが出来ることを示した。斯くして精神分析は一方におい
    て生理學的思考方法の範園を局限し、他方において病理の大きな部分を心理學へと奪ったので
    ある。弦において正常な現象は強い證明力をた。精神分析は病理學的材料から得た洞察を正常
    狀態に適用するのだと云ふ非難は當らない。精神分析は彼方此方で相互に獨立な證明を引出し、
    斯くして正常過程も所謂病理學的過程と同一の規則に服することを示すのである。
     

    此處で問題とする正常現象中、即ち正常人において観察される現象中、間違ひと夢との二つを
    特に詳しく説明しよう。
     

    間違ひ、即ちよく憶えてゐる筈の言葉や名前や決意の忘却、 言ひ違ひ、読み違ひ、書き違ひ、
     

    二度と見出せなくなるやらな物の置き遊び、紛失、十分な知識を有するに拘はらず思ひ違ひをす
     

    ること、 への習慣的な身振りや運動私はこれらすべてを健全な正常人の間違ひとして包括
     

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    する -は心理によつて僅かしか注目されず、疲勞、注意の轉換、軽微な病的状態の副作用か
    ら誘導された『放心』 (Zerstreutheit) として分類されて来た。しかし分析的研究はこれらの誘
    導因子が單に助勢的價値を持つに止り、なくてもすむものだといふことを確實に示してゐる。
    違ひは完全に心理的現象であつて、何時でも意義と傾向とを持つてゐる。それは共都度の心理學
    的境遇の爲に他に表現の道を見出せない一定の意圖から生するのである。これらの境遇とは通常
    心理的衝突のそれであつて、この衝突の結果下部の傾向は直接表現の道を絶たれ、間接的な道を
    求める。間違ひをした人は之を認めることもあるし見のがすこともあり、その下に抑墜されて
    ゐる傾向に氣づくことがあるかも知れないが、然しの間違ひがこの傾向の所作だとは通常分析
    しなければ解らない。間違ひの分析は極めて容易に且つ迅速に行はれる。失策に注意深くな
    れば、次の場合に何故そのやうな失策をしたかの説明がつくやうになる。
     

    間違ひは分析的見解の正しさを確信したい人にとつて最も適當な材料である。私は最初一九〇
    四年に刊行した小で多数の斯かる例とその解とを述べたが、この集成はそれ 他の観察者
    の多數の寄與によつて豊富にすることが出来た。
    *
     

  • S.

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    その他の研究参照。
     

    * Zur Psychopathologie des Alltagslebens.[10. Aufl. 1924. 何メェデル、
     

    その際必要な目的を抑墜して、間違ひによりて表現するを喜ぶ動機の中最も夥しいのは不快の
    同避である。人は密かに恨んでゐる人の名を慢性的に忘れ、また或意圖を結局嫌々ながら遂行す
    る― -例へば慣習に強制されて―場合にその意岡を遂行することを忘れる。或人と仲が悪い場
    合、その人を憶え出させる物例へばその人から贈られたので を紛失する。またその時の
    旅行が厭で何處か外に止つてゐたい場合には、列車に乗込む時に間違へる。不快囘避の動機が最
    も明白に示されるのは印象及び經驗の忘却の場合であるが、これは精神分析の始まる以前既に多
    くの著者が認めてゐたものである。記憶は偏頗なもので、苦痛の感情が附帯するすべての印象を
    再現させまいとする。尤もこの傾向が何時でも實現され得るとは限らない。
    •
     

    他の場合間違ひの分析は、私達が轉移と呼ぶ一過程の混入によつて、複雑となり解決が困難と
    なる。例へば人は何ら非難の打所のない人の名前を忘却するが、分析はこの名前が、之と同一の
     

    或は類似した名前の所有者で、私達の嫌悪を招いてゐる人を想起させるのだといふことを示す
    オンズ、ラン
     

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    る。この關職のお蔭で何も罪のない人の名前が忘却されたので、忘却しようとの意岡がある聯想
    路に沿うて轉移されたのである。
     

    しかし不快を避けようとの意岡だけが間違ひを通して實現される唯一の意岡ではない。分析は
    多くの場合に於て、特定境遇の下に抑壓され、言はば背後から障礙として表現せざるを得ぬ他の
    傾向を暴露した。斯くして言ひ違ひは屢々相手に秘密にしておくべき意見を裏切る。 大詩人はこ
    の意味に於ける言ひ違ひを理解して、その作品中に使用した貴重な物品の紛失は歴々差迫る不幸
    を避ける爲の犠牲行為であつて、他の多くの迷信も間違ひとしてある人々の間に行はれてゐ
    る。物品の置き違ひは通常除去そのものに外ならず、物品の毀損はもつと良いのと取換へるのを
    必要とさせる爲に一見偶然らしく企てられる。
     

    間違ひの精神分析的解釋は、觀察の的たる現象が微々たるものであるに拘らず、世界観の變改
    を伴ふものである。私達は正常人が思ひの外々相反的傾向に動かされてゐることを発見する。
    私達が『偶然的』と呼んでゐた現象は著しい限局を蒙る。物品の紛失が概ね人生の偶然事から離
    れ、不器用さが秘密な計畫の虚託となつたことは殆ど慰安とも言ふべきである。尚大切な事は、
     

  • S.

    私達が全然偶然に着させる重大な災禍が分析の結果、たとひ明瞭に自白されなくても、とに角
    自己自身の意志が共愛に加つてゐたと知れることである。横死と自殺とを別するのは實際の所
    非常に困難だが、この別は分析的観察によつて一層疑はしくなる。
     

    間違ひの説明の理論的價値が解決の容易さと正常人におけるこの現象の生起の頻繁さとに依存
    するとすれば、精神分析のこれらの成果は健康人の精神生活に起るもう一つの現象に比してその
    意義に於て遙かに劣る。その一の現象と言ふのは、夢の解のことだが、質に之によりて精神分
    析は官僚的科學と對立し始めたのである。醫學的研究は夢を無意味無價値な純粋の肉的現象だ
    と説明し、睡眠状態に沈下した精神器官が部分的覺醒を強制する肉體的刺戟によつて表現させら
    れるのだと言ふ。精神分析は、夢を意味と意岡を持ち、個人の精神生活に於て一地位を占め、斯く
    して夢の怪奇さ、無聯絡性、及び荒唐さを超越する心理的行爲にまで高めた。肉體的刺戟は夢形
    成に際して加工される材料の役を演するに過ぎぬ。夢のこの二つの解釋の間には如何なる仲介も
    ない。生理學的見解の誤謬はその無さが證明してゐるが、之に反して分析的見解は数千の夢を
    有意味に翻譯し、之を深奥の精神生活の認識に利用したと言へるのである。
     

  • S.

    私は「夢判断」と面白い題目を一九〇〇年の著書で取扱ひ、その後精神分析の殆ど全ての
    協力者の寄輿によつてその中に述べられた學説が確證され促進されたのを見て喜んだ。夢判断は
    精神分析の基礎であつて、その成果は心理學に對する精神分析の最も重要な寄興を表示するもの
    だとは一般の賛同を得て主張出来ることである。
     

    * Die Traumdeutung. [7. Aufl. 1922.)。外に小著、Uber den Traum 〔3. Aufl. 1921.)。尚、ランク、
    シェェケル ジョオンズ、ジルベレル、プリル、メモデル、アブラハム、フェレンチその他の著作。
    私は玆では夢の解釋に到達する技術を具陳することも出来なければ、夢の精神分析的改作の導
    く結果を基礎づけることも出来ない。ただ数種の新概念の建設、成果の傳達、及び正常心理に
    對するその意義の強調を説くに止める。
     

    精神分析は次のことを教へる。即ち、あらゆる夢は意味を持つてをり、その奇怪さはその意味
    の表現の歪みから生じ、その荒唐さは故意的で侮蔑、嘲笑及び矛盾を表現し、その無聯絡性は解
    釋には關係がない。私達が覚めてから後まで憶えてゐる夢は、顯在内容とも稱すべきである。解
    釋の仕事によつて、人は顯在内容の背後に隠れ、之を通して顕現する潜在的な夢思想に到達する
     

  • S.

    ..
     

    ことが出来る。この潜在的な夢思想はも早奇怪でも荒唐でも無聯絡でもなく、覺醒思想の重要成
    分である。潜在的夢思想を顯在的夢內容に變化させる過程は夢の仕事と稱せられるが、これは歪
    みを生じさせてその結果夢内容に於ける夢思想はも早認識出来なくなってくる。
     

    夢の仕事はこれまで心理學に知られてなかった心理學的過程である。それは二つので私達
    の興味を惹く。第一に、それは私達が覺醒思想中に殆ど發見しない或は単に所謂思考缺陷の基礎
    としてのみ認める、縮(表象の)又は轉移(一表象から他への心理的アクセントの)のやうな
    新現象を示す。第二に、それは私達の意識的認識に隠されてゐる精神生活内の或活動を推測させ
    る。私達の内には檢問官、法廷、があつて、一表象が浮び出て意識に達しても良いか否かを決定
    し、不快を製したり再製したりする傾向のあるものは力の及ぶ限り容赦なく排斥する。私達は茲
    で、不快な記憶を避けようとするこの傾向についても、精神生活の諸傾向の衝突についても、
    間違ひの分析によつて諸々の暗示を得たことを想起する。
     

    夢の仕事の研究は精神生活についてのある見解を私達に強ひるが、この見解こそ心理學最大の
    難問を解決するものだと思はれる。夢の仕事は私達に、意識と結びついてゐるものよりも包括的
     

  • S.

    ある。
     

    で有意義である無意識的心理活動を假定させる。(これについては精神分析の哲學的興味を扱ふ
    時に再述する)。 それは種々の事件や系統に於ける心理的器官の組織を行はしめ、且つ無意識的
    精神活動の組織の中に 識内に認識されるのとは全然異つた過程の存在することを示すもので
     

    夢の仕事の機能は何時も睡眠を続けさせることのみである。 「夢は眠の番人だ。」夢思想そのも
    のも多種を 精神的機能に役立つのであらう。 夢の仕事は夢思想から出現した願望を幻覺的に
    實現させることを以てその任務として居る。
     

    夢の精神分析的研究は今まで推量もされなかった、奥祕心理學を初めて洞察させたと言へよ
    う。この新見解に追随し得る爲には、正常心理學は根本から改造されなければならぬ。
     

    * この心理的題目を解剖恐的位置或は粗學的分類に闢係さることは當時の精神分析が拒絶した所であ
    つた。
     

    この叙述内に夢判断の心理的興味を包括することは全然不可能である。私達はただ夢は意味
    を持つてをり、心理學の對象であることを高唱するのを目的としてゐることを忘れまい。そして
     

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    299
     

    心理學の新獲得物を病理學の領域に悪用しようではないか。
     

    夢と間違ひとから推理された心理學的新現象は、もしも私達がその価値を否その存在をさへ信
    すべきであるならば、他の現象の説明にも適用されなければならぬ。そして今や精神分析は實際
    に、私達が各々の正常現象の分析を通して得た所の、無意識的精神活動、檢閲官及び拒絕、歪み
    及び補充構成などの假定は一聯の病理的現象の最初の理解を可能ならしめ、言はば神經症心理
    學のあらゆる謎の鍵を興へたのである。斯くして夢は凡ての精神病理學的構造の正常的原型とな
    つた。誰でも夢を了解し得る人は、また神經諸症と精神病との心理的機制を洞察することが出來
    る。
     

    精神分析は夢から出したその研究を通して、一歩一歩不断に前進して神經症心理塁を建設す
    べき位置に置かれてゐる。しかし私達が今追求してゐる心理學的興味はこの大關係の二成分のみ
    を特に詳しく取扱ふやう要求する―即ち、人が生理的に説明しなければならぬと信じてゐた
    多数の病理的現象が心理的行爲であり、異常的結果を生起させる過程は心理的原動力に還元出
    来るといふことの據を要求する。
     

  • S.

    300
     

    先づ第一の主張を数種の例で説明してみよう。ヒステリー發作は昔から増大する昂奮の徴候だ
    と認められ、感情の勃發と同一視されて来た。シャルコーはその現象形態の多様性を記述的公式
    の内に拘束しようと努め、ジャネェはこの作の背後に潜む無意識的表象を認めたが、精神分析
    はそれらが経験し考案した光景の模擬的演出で、患者の空想を無意識的に活動させることを立識
    した。この身振りは演ぜられた行爲の壓縮や歪みの爲に、觀察者に見透しがつかなくなる。その
    他ヒステリー患者の凡ての所謂永額的徴候もまた之と同一の見地から観察することが出来るが、
    それらは全然空想の模擬的或は幻覺的演出であつて、患者の感情生活を無意識的に支配し、密か
    に抑壓された願望の充足を意味するものである。これらの徴候の苦痛性は、患者の精神生活が斯
    かる無意識的願望興奮の必然な闘争によつて妨害された時の、内部的衝突に起因する。
     

    他の神經症的昂奮、強迫神経症においては、患者は苦しげな一見無意味な儀式に固執し、その
    儀式は洗濯とか着衣とかいふ無頓着な動作の反復や律動化、又は不合理な規則の遂行、謎のやう
    な禁令の厳守となって現れる。すべてこれらの強迫動作が、その中の最も目立たない微々たるも
    のでさへも、如何に有意味であるか、如何に生命の衝突、誘惑と道徳的阻止との間の闘争、妨害
     

  • S.

    301
     

    された願望そのもの、刑罰と悔恨をそれらに無關係な材料に反映させてゐるか、を證明し得たの
    は正に精神分析の功績であつた。同じ病の他の形態に於ては、患者は強迫観念そのものの内容か
    らは説明出来ない種類と強度との感情を具へ、その内容が患者を強制する苦しい表象、強迫觀
    念、に悩む。この場合分析的研究は、これらの感情は少くとも心理的現質性を提抵に有してゐる
    非難に相願してゐるから正しいのだ、いふことを示した。けれどもこれらの感情に結びついてお
    る表象はも早最初のままでなく、何か排除されたものの移(補充、置換)を通じてこの結合に
    入ったのである。これらの轉移の還元(退行作用)は排除された観念の認識への道を開き、感情
    と表象との結合が全然適営であることを表示する。
     

    他の神經症、不治の早發性癡呆 (Paraphrenie, Schizophrenie)の場合には、その最悪の結果と
    して患者は全然無感動となつてしまふやうに見えるが、屢々唯一の行爲として テレオタイプと
    呼ばれる或單調な反復的運動、及び身振りが殘つてゐることがある。 斯かる残留物の分析的研究
    (ユングによる)はそれが、嘗て患者を支配してた願望衝突に表現の道を供してみた意味深い
     

    身振的行爲の残留物であることを明かにした。この患者の最も馬鹿げた談話も姿勢も舉止も、精
     

  • S.

    302
     

    神分析的假定を適用して以来、精神生活の關係に於ける、領解と脈絡とを有するやうになった。
    譫妄狀態や幻覚や、様々な精神病者の錯乱状態についても同じことである。今まで單に氣まぐ
    れが支配してゐるのだと思はれてゐた所の凡ての場合に於て、精神分析は、法則、順序及び關係
    を指摘し、研究が不完全な場合には、少なくともそれ等を推定した。しかし諸々の心理的疾病形
    態は根柢に於て同一であり、且つ心理學的概念で把握され得る過程の結果である。到る嘘に、既
    に形成に際して發見された心理的衝突、他の精神力の爲に無意識界に押しやられた衝動興奮の
    排除、排除された力の反動形成、及び排除されたが未だその全力を奪はれてゐない衝動の補充形
    成、が活動してゐる。この過程の到る嘘に、夢以來知られてゐる壓縮及び移の過程が出現して
    ゐる。精神病的臨床診断に際して観察される疾病形態の多様性は、他の二つの多様性に依存する
    即ち、排除に服する心理的機制の多様性と、排除された興奮に対して補充形成への打開を可
    能ならしめる進化史的傾向の多様性とに依存する。
     

    精神病學的問題の大部分は、その解のに精神分析によつて心理學的に委ねられるものであ
    る。だが、分析は精神障礙の純粋な心理學的見解を追求したり辯護したりすると想像するのは、
     

  • S.

    303
     

    大變な誤謬で、精神病學の他の半分の仕事は心的器官に及ぼす有機的因子(機械的,毒素的、感
    染的)の影響をその内容としてゐることは疑へない。精神障礙の病源摯に於ては精神分析は未だ
    曾て、その中最も軽微な神經諸症についてさへも、純粋な心理學的起原を要求したことはなく、
    却つてその起原を、後に説くやうな明白な有機的成分の精神生活に及ぼす影響中に求めるのであ
     

    心理學一般に有意義となるべき精神分析の詳細な成果は餘りに多くて、玆で立證することは出
    来ない。私はただ二つの點だけに溺れておく。即ち、精神分析が明確に精神生活の最高位を感情
    過程に與へること、正常人に於ける知力の感情的混亂と眩惑とが病人に於けると等しく、案外に
    も大きいといふことである。
     

  • S.

    304
     

    二 非心理學的科學に對する精神分析の興味
    A 言語學的興味
     

    精神分析にする言語學者の興味を求めるに當つて、私は普通の語の意味を少しく變更して用
    ひることにする。茲で言語といふのは、言葉による思考の表現のみでなく、身振語及びその他の
    例へば書寫の如き、精神活動のあらゆる表現を意味してゐると御承知願ひたい。さうすれば、精
    神分析の解釋は先づ第一に未知の表現様式を私達の思考に慣れ親んだ様式へと翻譯することだと
    言へる。私達が夢を判断する場合には、ただ或思想內容 (潜在的夢思想)を『夢の言語』から覺
    生活のそれへと翻譯するだけである。斯くして私達はこの夢の言語の獨自性を知り、それが古
    昔の表現系統に属してゐるのだといふ印象を得るやうになる。例へば、夢の言語においては否定
    は特に表示されたことがない。相反するものが相竝んで夢の内容中に顯現し、同一要素によつて
     

  • S.

    305
     

    變化に達したことを最近に證明した。
    (Hans Sperber) は、最初生殖活動を意味してみた言葉が、斯様な比較を基礎として豊富な意義
    でなく象徴的に演出されるのは主に生殖器と生殖機能とである。言語學者ハンス・シュペルベル
    る。この象徴は言語進化と概念形成との最古の段階から発生したに違ひない。夢の中で直接的に
    かとなつてをり、また他の象徴部分に於ては比較し得べき推量物が私達の意識的知識に缺けてゐ
    容の醍譯である。象徴の本質はまだ明白でない。が、相似を基礎とする置換及び比較は一部分明
    様な性質は象徴を頻繁に使用することで、これはある程度までは個人的聯想から獨立した夢の内
    ゐるが、言語學者の假設によれば最古の歴史的言語も亦さうであつた。夢の言語のもう一つの異
     

    * Abel, über den Gegensinn der Urworte. を参照せよ。その短評は、Jahrbuch für psychoanaly tische
     

    演出される。換言すれば、夢の言語における概念はなは未だ抗争的で、相反する意味を包蔵して
     

    ** Über den Einfluss sexueller Momente auf Entstehung und Entwicklung der Sprache" (Imago
     

    und psychopathologische Forschungen," II. Bd., 1910に掲載。
    I, 1912).
     

  • S.

    306
     

    もしも私達が夢の演出手段は主として幻像であつて言葉ではないと考へるならば、夢を言語と
    比較するよりも文字體系と比較する方が適常だと思はれるであろう。實際夢判断はエジプト文字
    のやうな古い象形文字の讀解と似てゐるのである。後者の場合と同じく前者の場合にでも、解釋
    やそれぞれの讀解に用ひられず、ただ指標として他の要素の了解に役立つべき要素がある。多様
    な夢要素の多義性も、結合によつて補足さるべき諸關係の表現も、この古い文字系中にその符
    合物を見出す。夢の演出に就ての斯かる見解がまだ發達してみないとすれば、それは言語學者が
    一麺目に近づいて行く時の視點と知識とが精神分析學者に全然続けてゐるといふ事情に歸せなけ
    ればならないo
     

    夢の言語は無意識的精神活動の表現方法だと言へよう。けれども無意識者は一の方言以上を語
    るものである。神経症の一形態を特徴づけて他と別つ種々な心理的件の下では、無意識的精
    神昂奮の表現も不断に變動する。ヒステリーの身振語が大體夢、幻想、その他の比喩言語と關聯
    するに反して、私達が一系列の下に理解し相互に關係せしめ得る強迫神経症及び Paraphrenien
    (早礎性疾呆及び偏執狂) の思考言語には特別なイヂ・ 的な形態が生ずる。例へば、ヒステリ
     

  • S.

    る。
     

    1の女が嘔吐によつて表示することは、強迫症患者においては傅染に對する惨ましい保護規定と
    なつて現れ、Paraphreniker においては毒を盛られるといふ敷き、或は疑となって現れる。玆で
    多様な表現を見出するのは、無意識中に拒絶された受胎の願望、それに對する各患者の防衛であ
    B哲的興味
     

    哲學が心理學の上に立てられてゐる限り、それは心理學に對する精神分析の寄興を十分に評價
    し、特殊科學のすべての著しい進歩の場合に示したと同様に、私達の知識のこの新領域にも反應
    せざるを得ないであらう。殊に無意識的精神活動の建設は、哲學がそれに味方し一致した場合に
    は、精神的なものと物質的なものとの間の關係についての假定を新見解に適するやうに修正さ
    せるに違ひない。勿論哲學は幾度となく無意識の問題を取扱つたけれども、その代表者は――小
    数の例外を除いては常に二つの立場の中の一を執った。彼等は意識されぬものを、その精神
    30的なるものに対する關係が明かでない何か神秘的なもの、把握出来ぬもの、呈示出来ぬものとす
     

  • S.

    308
     

    るか、或は意識されるものと精神的なものとを同一視し、この定義から、意識されぬものは精神
     

    的なものでなく従つて心理學の對象とはならないと結論した。即ち、彼等は無意識的精神活動の
    現象を知らないで、つまり、それが如何に意識的現象に近いか、如何なる點でこれと區別される
    かを推量せずに、意識されぬものを判断したのだ。尤もこの認識に反して、意識的なものと心理
    的なものとを同一視し、従つて無意識的なものが心理的性質を帯びてゐることを否定する人に對
    しては、斯かる差別が極めて非實際的だと答へる外はない。何故なら、無意識はそれが多くの共
    通點を有してゐる意識との關係の側から記述し易く、且つその進化を探求し易いに反して、物理
    的過程の側からそれを試みることは今の所全然不可能であるからである。従つてそれは心理の
    對象となってみなければならぬ。
     

    また他の方法で哲學は精神分析から刺を得ることが出来る。即ち、哲學は精神分析の對象た
    り得るのである。哲學の學説と體系とは小敷の優れた人々の作るものであるが、學者の人格が哲
    學程重要な役割を演する科學はない。茲に於て始めて精神分析は人格の心理的記述を試みること
    が出来るやうになる(後述の『社會的興味』を参照)。それは各個人の前提たる感情的統一
     

  • S.

    309
     

    衝動に依存する錯綜 -を私達に教へ、これらの衝動力から出て来る變化と最後の結果との研究
    に私達を導く。それは人の體質及び経歴と特別な天賦のお蔭で可能にされる傾向との間の關係を
    暴露する。それは作品の背後に隠れてゐる藝術家の内奥の人格を多少とも確實に解明する。斯く
    してまた精神分析は、事質に反して公平且つ論理的な勞作から發生したと称せられる哲學學設の
    主観的個人的動機を示し、批評それ自身にその系の弱断を示する。しかしこの批評を行ふと
    とは精神分析の任務ではない。何となれば一説の心理的断定がその科的正確さを否定する
    ものではないからである。
    C 生物的興味
     

    精神分析は他の新科のやうには、知識の進歩に興味を抱く人々に歓迎されなかつた。それは
    長い間傳聞されず、遂に最早等閑に附することが出来なくなった時には、今まで之を知るの勞を
    執らなかった人々から感情的な理由により激しい攻撃を受けた。この敵視は、精神分析が早々か
    神經病は性的機能の障礙の表現であり、その故に永い間無視されて来た性的機能を研究の對
     

  • S.

    310
     

    象にすべきであるといふ磯見をしたことに起因する。しかし、科學的判断は感情上の理由に影響
     

    さるべきでないと確信する人は誰でも、この研究方向の故に精神分析に、高度の生物的興味を
    認容し、それに對する反對そのものをその主張の正しさの證明として利用するであらう。
     

    精神分析は、多数の詩人や哲學者に唱へられ然も科學には認められなかった性的機能の精神的
    及び實際的生活に對する意義を詳細な點まで研究し、斯くして性的機能を正常化した。 この目的
    の爲に精神分析は偏狭な性の概念を義にしようとし、性の反則(謂はゆる倒錯)と子供の擧動
    とに注意を拂ふことによつて之を爲し得たのである。子供時代は無性的で、青春期に到つて始め
    て性的昂奮が突然襲来するといふ主張は最早支持することは出来ない。加之、子供に於ける性的
    興味と活動とがその凡ゆる時期を通じ且つその最初から存在してゐるといふ觀察は、若し利害と
    偏見とを脱し得たならば、容易に證明出来ることである。この幼児期性慾は、子供の性的行爲に
    對する境界が確實に標示されないといふ事の爲にその償値を減するといふ虞れは決してない。
    その中には、如何に把捉し難く且つ不道徳らしく見えようとも、後に倒錯として正常な性的生活
    と激しく對立するやうになる凡ての性的活動の萌芽が含まれてゐる。幼児期の性慾から成人の正
     

  • S.

    311
     

    常なそれが一聯の進化過程、複合、分裂及び抑堅、を經て現れ出るのであるが、これは完全に發
     

    達し得ることは決してなく、病的状態に於ける機能の髪質への傾向を宿してゐる。
     

    幼兒の性慾は生物學的見解にとつて貴重な二特質を示す。即ち、身體の或部分色情帯(ero
    gene Zone) ―と結合してゐるやうに思はれる一聯の部分的衝動から成立し、その各々が最初
    から一對宛の相對物能動的及び受動的目標を持つた衝動 として出現する複合を示して
    ゐる。後の性慾狀態において單に愛人の生殖器のみでなく、その全肉體が性的對象となると同じ
    く、幼年時代の最初から生殖器のみならず他の多くの肉部分も亦性的昂奮の源泉となり、適営
    な刺戟によつて性的快感を引き起す。それと密接に關聯して幼児の性慾の第二の特質は、自己保
    存に役立つ栄養攝取や排泄の機能、また恐らくは筋肉刺戟や感覺活動に依存してある。
     

    精神分析の助けを借りて成人の性慾を研究し、斯くして得られた洞察の光に照らして子供の生
    活を觀察すれば、性慾は單に消化や呼吸と同位に立ち生殖に役立つ機能たるのみでなく、もつと
    獨立的なもので、他のすべての個人活動と対立し、複雑な束縛の多い愛を通して個人生活に入
    りこむものだといふことが解る。この性的傾向の利益と自己保存のそれとが一致しないといふ
     

  • S.

    312
     

    理論的に考へ得べき場合は、神經諸症中に實現されてゐるやうに思はれる。何故ならば、精神分
     

    析が神經諸症の本質について興へる決定的公式は、神經諸症を生起させる根源的葛藤は自我保存
    の衝動と性的衝動との間のそれであるとくるからである。神經諸症は、性愁を壓服しようとす
    る自我の計蜚が失敗して、自我が却って多少とも性慾に屈服した場合に起る。
     

    私達が精神分析的作業に従事してゐる間生物學的見地から遠ざかり、發見的目的の爲に之を使
    用しなかつたのは、私達の眼前の精神分析的事實の判断に當つて誤謬に陥るまいと欲したからで
    あつた。しかし、その作業が完成したら生物學との連絡を計るべきだが、今の所一二の本質的な
    點でそれを成就することが出来たら満足であらう。神經諸症の源泉たる自我衝動と性的衝動との
    對立は、個體保存の衝動と種の保存の衝動との對立となって生物學的領域に移される。生物に
    は不滅な胚種原形質といふ大な表象があり、單一の死滅的個體は繼續的に發達した器官として
    之に依存するが、この見地に立つてのみ私達は個體の生理と心理學とに於ける性的衝動の役割
    りを正常に理解することが出来るのである。
     

    生物學的用語と見地とを精神分析的勞作に於ける主位に立たせまいとするあらゆる努力にも拘
     

  • S.

    313
     

    らず、私達は研究對象の記述にそれらを使用せざるを得ない。心理學的及び生物學的見解の境界
    概念として『衝動』なる語を避けることは出来ず、また性の差異は厳密に言へば何ら特別な精神
    的性格を要求しないに拘らず、精神的特質や傾向を形容するのに『男性的』とか『女性的』とか
    の語を用ひる。私達が生活中に男性的、或は女性的と呼ぶ所のものは、心理學的觀察によれば、
    能動と受動との性格、即ち衝動そのものからでなく衝動の目標から出て来る特質に歸着する。正
    規的な配合に於ては精神生活の斯かる『能動的』及び『受動的』衝動は、精神分析の臨床的前提
    たる個人の雨性的性慾に反映する。
     

    以上の約言によりて、精神分析が如何に豊富な仲介物を生物學と心理學との間に産出するかに
    ついて注意を引くいとが出来た らば私は満足である。
    D 進化論的興味
     

    心理學的現象の分析が凡て精神分析の名に價するものではない。後者は複合現象を單一現象に
    分解する。以上のことを意味し、心理的形成物をそれに先行し、且つそれの源となった他の形成
     

  • S.

    314
     

    へと還元することである。醤術的精神分析的療法は、もしもその發生と撥達とを知り得なけれ
    ば、如何なる疾患徴候をも除去出来ない。それ故に精神分析は先づ第一に進化過程を知らうとす
    る。それは先づ神經症的徴候の起源を磯見し、次いで他の心理現象を研究してその發生的心理學
    を建設しようと努めた。
     

    精神分析は成人の精神生活と子供のそれとを區別する爲に、『子供は成人の父である』といふ何
    を真面目に受取らざるを得なかった。それは成人の心理と共に幼児の心理の連続性を研究したの
    であるが、一方ではこの途上に出現する變化や轉換にも注意したのである。私達多くは幼年時代
    の記憶を大部分喪失し、その中のほんの断片だけが想出せるのみであるが、精神分析はこの缺陷
    を補充し、幼年時代の健忘を除去したと主張することが出来る(『教育學的興味』の項参照)。
     

    幼兒の精神生活を探求して行く間に数個の注目すべき發見物が現れた。そして、子供時代、殊
    に幼児時代の印象が如何に後年の全生涯に甚だしい影響を及ぼすか、といふ昔から愛々推量させ
    て来た事實を確證した。茲に於て吾人は、後年の記憶から喪失するのは正にこれらの最も貴重な
    印象である、といふ心理學的なパラドックス -尤も精神分析的見解に從へばこれは少しもパラ
     

  • S.

    315
     

    ドックスではない――に衝き當る。だが精神分析はこれら幼年時代の経験の表象性と不磨滅性を
    正に性的生活の爲に確立したのである。『人は何時も初戀に立歸る』は月竝な眞理である。成人
    の戀愛生活の多くの謎は戀愛に於ける幼兒的動機を強調して始めて解決することが出来る。この
    作用の理論の證據として、最初の小兒的經驗は單に偶然として起るばかりでなく、體質と共に賦
    興された基礎的衝動の活動に適するといふ事質が観察される。
     

    尚一つの驚くべき発見は、すべての後年の登達にも拘らず、幼兒の精神的構造の中何一つ消滅
    するものはないといふことである。 子供のすべての願望、衝動昂奮、反動方法、歪みは成人中に
    も侗歴として存在し、適常な狀況の下に再び出現することが出来る。それらは破壊されたのでは
    なくて、ただはれたばかりであると精神分析的心理學は断言しなければならぬ。それらは精神
    的過去の性質となって、歴史的過去のやうに子孫によつて消滅させられることはなく、潜在的に
    せよ同時的にせよ、自己が産出したものと竝存し続けるのである。この主張の證明は、正常人の
    夢が夜毎に子供時代を再經驗し、その全精神生活を、幼兒的段階に引戻すといふ事實中に見出せ
    る。これと同じく精神的發育不全への回歸(退行)は神經病者や精神病者にも見受けられるが、
     

  • S.

    316
     

    彼等の特質は大部分は心理的擬古態として記述することが出来る。精神生活の中に殘つてゐる幼
     

    見的なものの強さは疾病の質の尺度であつて、撥育阻止の表現である。 幼児的殘物は心理的材料
    中の使用に堪へない拒絶されたものとして無意識の核を形成してゐるが、私達は患者の精神史中
    に、如何にこの拒絶的な力に阻止されてゐる無意識が活動の機會を待伏せてゐるか、また後年の
    高級な心理的構造が現世界の困難に屈服する時如何にその機を利用するか、を洞察すること
    が出来ると信する。
     

    最近精神分析學者は『個體發生は系統發生の反復である』との命題が精神生活にも適用出来る
    筈だと考へ始めたが、この點からも精神分析の興味が新たに猜張されるであらう。
     

    * アブラハムシュピイルライン、ユング。
    E 文化史的興味
     

    個人の子供時代と民族の古代史との比較はまだ開始されたばかりであるに拘らず、既に多方面
    に亙つて實を結んだ。その場合精神分析的思考方法は、研究の新器具として用ひられたのである
     

  • S.

    が、民族心理學へのその前提の悪用は新問題を提起させ、来の問題を新見地から観察させ、ま
    その解決に寄興したのであつた。
    *
     

    先づ第一に、夢の場合に成功した精神分析的見解を、神話や童話のやうな民族空想の産物に應
    用することは全然可能なやうに思はれる。この空想を解釋する仕事は以前からは存在してゐて、
    人はその『秘密な意味』を推察し、その意味を隠してゐる修正や變形に注意してゐた。精神分析
    はこの歪みの經路を推測し得る技術を夢や神經症の研究から運んで来た。そして神話の原始的な
    意味を變形させる隠れた動機を多くの場合に發見することが出来た。それは神話形成への最初の
    原動力を、自然現象の説明や意味不明となった禮拜規定や儀式の解の爲の理論的必要の中に見
    出すことが出来ないで、之を夢や徴候形成の基礎として説明した心理的『錯綜』、感情的傾向の中
    に求めた。
    アブラハム、ランク、ユング。
     

    その見地、前提、及び知識の用によつて精神分析は 化的諸制度、宗教、道徳、法律、
    哲學の起原に新光明を投することが出来た。それはまた斯かる形成物の誘因を發生させた原始的
     

  • S.

    318
     

    心理的状況を探求してゐる中に、心理學的傳統を基礎とする多くの説明を斥け、より深遠な
    豊富な洞察を以て之に代へることが出来るやうになった。
     

    * Jung, Wandlungen und Symbole der Libido, 1912. 及び Frend, Über eiustimmungen im Seelen-
    leben der Wilden und der Neurotiker. Imago, I u. II. 参照。 [Totem und Tabu.〕
     

    精神分析は両方に対して同一の力學的源泉を要求することによつて、個人と配合とのすべての
    心理的活動中に内部的關係を作出した。それは精神的機制の主要機能は、生物を欲求がその中に
    作った緊張關係から解放することである、といふ基礎原理から出發した。この欲求の一部分は人
    間が外界から獲得する滿足によつて達成されるが、この目的の爲には現實世界の克服が必要とな
    る。この欲求の他の部分その中にはある感情的傾向も含まつてゐる――は現實世界によつて
    規則的に拒絶させる。この満足されぬ傾向に他の種の充足の道を興へようとする活動が共處から
    生じて来る。すべての文化史はただ、現實世界の承認と拒絶との變化的且つ技術的進歩によつて
    變改される條件の下に、人間がその充足されざる願望の爲に如何なる道を切り開いたか、といふ
    ことを示すのみである。
     

  • S.

    319
     

    原始民族の研究は人間が最初子供らしい全能崇拜に囚はれてゐたことを示し、多数の精神的形
    象はこの全能の暴を阻止しようとする努力であり、彼らがそれを支配出来ず、また自己の欲望
    充足の爲に利用することが出来ない限り、これで現實世界が感性生活に及ぼす影響を避けようと
    したのであると了解させる。不快囘避の原理はそれが外界適のより優れた原理に取って代られ
    るまで、永い間人間の行動を支配して来た。 人間の不斷の世界克服と並行して、世界観は段々と
    原始の全能崇拜から脱し萬有神論的段階から宗教的のそれを經て、遂に科學的段階にまで到達し
    た。この過程中神話、宗教、及び道德は願望不充足を補足しようとする試みとして現れる。
     

    * Ferenczi, Entwicklungsstufen des Wirklichkeitssinnes. Intern. Zeitschr. f. äirztl, Psychoanaly so
    I, 1913..
    -Freud, Animismus, Magie und Allmacht der Gedanken. Image, II, 1913. [Totem und
    Tabu.]
     

    個人の神経症についての知識は大きな社会的制度の理解に非常に役立つた。何故ならば神經症
    は、制度を通じて就會的に解決されるべき願望補充の問題を個人的に解決しようとする企てだか
    らである。配會的因子の減退及び性的因子の増進は、この心理的任務の神経症的解決を戯書化
     

  • S.

    320
    2
     

    この重要な問題についての私達の説明以外に役に立たせないやうにする。
     

    F 美的興味
     

    藝術と藝術家とについての或種の問題にしては精神分析的見解は満足な結果を奥へるが、
    の種の問題に對しては全然役に立たぬ。精神分析は藝術中に、先づ第一に藝術家自身の次にその
    結果として聽衆或は観衆の、滿足せられざる願望の充足を目的とする活動が存在することを認識
    する。藝術の衝動力は、個人を神経症に追ひやり、配會に制度を建設させるのと同一な葛藤であ
    る。藝術家の創造能力は何度から来るか、は心理學の問題ではない。藝術家は先づ自己解放を求
    め、次に作品を媒介として之を同じやうな願望抑制に惱んでゐる他者に及ぼす。彼は自己の個人
    的な願望空想を既に實現されたものとして表示するが、これは願望の衝突を緩和し個人的起原を
    隠す變形を通過して始めて藝術作品となり、且つ美的規定の厳守によつて始めて快感を與へる。
    藝術的快感の顯在部分の傍に、如何に有力であつても潜在的であり然も衝動解放の隠れた源泉か
    ら出て来る部分が存在することを證明するのは、精神分析にとつては決して困難ではない。藝術
     

  • S.

    331

    KOHSELODRRSREUNNSOUHRRREUAVOEENOESERURERE REP
    RUNEOERYRN
    » O. Rank, Der Künstler, Wien 1907. A5°
    »* O. Rank, Das Inzestmotiv in Diehtung und Sage. Wien 1912. 34° HARBZER( OR
    UNSPHT Freud, Der Witz und seine Bezihung zum Unbewussten, 1905. sat?

    SERLARENT AO N CENT ERERBERH OHR NEO" SNERORENE
    BEOWOZTEREKNERUAREN PEN HERRN SABE — HOTEL
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    © H&anER®

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  • S.

    322
     

    基礎を無視しておく謡に行かなくなった。それは配會的感情が規則的に性慾から寄典を受けるこ
     

    と、後者の強調と排除とは一圏の精神錯亂の特徴となることを發見した。 それは、一般に個人を
    社會から引離し、昔時の僧院をして病的孤獨となさしむる神経症の非社會性を知つた。多くの神
    經病者を支配してゐる強い責任感は神經症的不安の社會的修正である。
     

    他方に精神分析は神經症の原因となる配合的關係と要求との大部を知つた。衝動限局と衝動排
    除とが自我から誘致する力は本質的には配會の文化的要求に對する従順性から發生するものであ
    る。神経症へと導くことが當然であるやうな闇質と子供時代の経験とがあるに拘らずさうしない
    場合は、斯かる従順性が存在しないか、或はかる社会的要求が設定されてみなかった爲と思は
    れる。神經過敏の増進は文化の産物だといふ古来の言には少くとも事質の分が籠つてゐる。敬
    育と實例とは文化的要求を青少年に殺へ込むものであるが、雨者が存在しないのに衙動排除の作
    用が行はれるものは原始的要求が遂に人間の有機的遺産となつたといふ假定を證明するものであ
    る。自發的衝動排除を行ふ子供は、それだけではただ文化史の一断片を反復してゐるに過ぎぬ。
    今日内部的阻止である所のものは曾ては外部的な、恐らくは時代の必要によつて禁令された、阻
     

  • S.

    323
     

    止であつた。故に今日の成人に對しては外部的な文化的要求であるものも、将来には内部的な排
    除素因となるであらう。
    H 教育學的興味
     

    精神分析に對する教育の最大の興味は既に確證された一命題に支持されてゐる。即ち、子供
    の精神生活の中に移入し得る者のみが教育家となることが出来るといふ命題である。私達成人は
    自己の子供時代を最早理解しないから子供を理解することが出来ない。私達の子供時代の健忘は
    如何に私達がそれと疎遠になつてゐるかの設據である。精神分析は子供の願望、思考形成、及び
    進化過程を發見した。之に反して以前のすべての努力は不完全で誤謬に満ちてた、といふのは
    それらが貴重な性慾的因子の肉體的精神的顯現を全然無視してみたからである。子供時代につい
    ての精神分析の驚くべき知識―エデプス錯綜、自己愛(ナルチスムス)、倒錯、肛門性慫、性的
    好奇心についての は私達成人の精神生活、評價、思考過程と正常兒童のそれとの間の距離を
    無くしてしまつた。
     

  • S.

    324
     

    もしも教師が精神分析の成果を信じたならば、彼らは子供の達の段階と融和するのが容易と
    なり、子供の社會的に不必要な、或は倒錯した動興奮を、過常に評價する危険を免れるであら
    う。もしも彼らが強制手段は屡々悪徳の放任よりも悪結果を生むといふことを知つたならば、こ
    れらの衝動を暴力で抑壓することを避けるであらう。外部から子供の強力な衝動を暴力的に抑
    しようとする企ては決してそれらを消滅させたり克服させたりするものでなく、却つて後年の神
    經症への傾向を作る排除作用を助けるものである。精神分析は風々無目的無洞察でただ厳格なば
    かりの教育が如何に神経症の起因となるか、また無理強ひの正常性が努力能力と快感能力との如
    何に多くの損失を犠牲にして得られるものであるか、を観察する機會を得た。しかしそれはまた
    子供の非社會的倒錯的衝動が若しも排除されないで所謂昇華によつて最初の目的からより價値あ
    る目的へと指導されたらば、性格形成に如何に貴重な貢献をすることが出来るかを教へる。私達
    の最善の徳も反動形成及び昇華として最悪の土の上に成長したのである。教育はこの貴重なカ
    の源を保護し、諸精力が順調に進行する過程を促進するだけに甘 ければならない。私達が
    神經病者の個人的豫防法から期待し得ることは、精神分析に啓發された教育家の心持次第で如何
    --
     

  • S.

    385
     

    にでもなるのである(チュウリツヒの牧師オスカア・プフィステルの著作を参照せよ)。
     

    私はこの論文の中で精神分析の範圍、内容、前提、問題、成果を科學的興味を有する公衆に紹
    介しようとは思はなかつた。 ただ、それが如何に多くの知識領域にして興味があるか、それが
    それらの間に如何に豊富な關係を産出し始めてみろか、を明かにさくすれば私の意岡は達せられ
    たのである。