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一
集全學析分神精ドイロフ
一、ドイツ國際學會本部
一九三〇年三月二日午後四時、ベルリンに着くや否や私は日本鐵道省事務所に至つて用務を終へ、
その夜はヤンソン舊帝大教授未亡人(日本人)の經營する宿に一泊し、翌早朝直ちにベルリン郊外ダー
レムへと自動車を急がせた。現國際精神分析學會長アイティンゴン博士 Dr. Eitingon をその出勤前
に私宅に於いて捉へて面接するためであつた。博士は幸にしてまだ家にゐたが、只今學會事務所へ出掛けるための自動車の用意が整うたところで
あるからとて、三十分ばかり時間を割愛して吳れた。博士とは豫々通信を交し合つてゐたし、自分の
渡歐の事も知らせてあつたが、博士は自分が何日何處に着くかと云ふ事は知らなかつたので出迎へも
しなかつたが惡しからずと、誠にドイツ人は慇懃鄭重である。博士は童顔の、元氣に充ち満ちた、如
何にもドイツ人らしい精悍な風貌の男である。博士の自動車に同乘して再びベルリン市中へ歸つて來
たが、午後二時に再會を約し、自分は鐵道省事務所へ、博士は精神分析學會事務所へとそれゞゝに赴
いた。午後二時、果して博士の自動車は自分を迎へに來てくれ、ホテルに於いて我々は晝食を共にし
つゝ相語つた。一、ドイツの國際學會本部
S.
二
集全學析分神精ドイロフ
附録 フロイド先生會見記
ドイツに於ける國際精神分析學會はベルリン市ハヒマン街にあつて、ここに國際學會の現本部と、
同ドイツ支部と、並びに同支部附屬の治療所と研究室と講習所とがある。國際學會に參與するにはこ
れ等の三つが揃はねばならぬ。現學會長アイティンゴン博士は毎日九時出勤、午後三四時頃まで執務
してゐる。その間治療所に分析技術習得のために來てゐる生徒たちを指導する。分析もするが、個人
患者は扱はない。個人患者は自宅に於いて取扱つてゐるやうである。生徒をして患者を取扱はしめ、
その生徒の實習を指導してゐる。翌四日(火曜日)同じ研究所内に於いて國際學會ドイツ支部の會合が催された。午後八時十五分過ぎ
からであつた。集つた者は三十五六名であつた。アイティンゴン博士、國際學會長として立つて挨拶
を述べたが、支部長席にはハンス・ザッハス Hans Sachs 博士が着いてゐた。この人は嘗て日本でも公
開せられた精神分析の映畫『心の秘密』の監督をした人である。席上、アレクザンダー氏自作論文の朗
讀を試み、それに就いて一般の討議があつた。會後、アイティンゴン博士は私を臨席の人々に紹介した。今回日本より精神分析學の研究團體を代
表して矢部八重吉氏の來朝せられたことを喜ぶ。同團體は數年來フロイディズムを研究し、この度同
氏は國際學會に参加の目的を以てわが國に來られたのであると云はれてしまつたのには、いさゝか面S.
三
集全學析分神精ドイロフ
喰はざるを得なかつた。自分は本來、自分に最も親熟してゐる外國語の關係上、英國に赴いてジョーン
ズ博士に就いて研究すると共にその分析を受け、その上でもし資格を得たならば、その節は堂々と國
際學會参加のために來獨したと名乗りを擧げるつもりで、今度の會合出席の際には一個人として出席
させて貰ふのだと云ふ事を、昨日會食の節ア博士に云つておいたのだが、博士にはその意が徹底しな
かつたと見える。自分は已むなく立つてその意を述べ、特に自分に闘する個所を速記録の中から削除
して貰つた。翌五日朝ベルリンを發つて、同日夜十二時パリに到着した。私のパリに赴いた目的は自分の個人的
要務もあるにはあつたが、一つには自分が特別に興味を持つフロイドの愛弟子オットー・ランク Otto
Rank 博士に會ひたいと思つたからである。彼は『出産の外傷』 The Trauma of Birth (1929) と云ふ書
を著し、フロイドが四五歳に於けるエディポス・コムプレクスにまで遡つて分析治療するに對し、ラン
クは神經症の原因を遠く出産時の精神的外傷に求め、即ち分析治療の方法に百尺竿頭一歩を進めるも
のであつて、私は彼の『出産の外傷』が我々日本人にとつて特に興味の深い實例なり、考察なりを提供
してゐる事を思うて、特にランクに面接したく思つたのであるが、その住所をア博士に質したところ、
彼は暫くランクには會はない故にその住所も不明であるとの事に、自分は已むなくパリに來り、有名一、ドイツの國際學會本部
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四
集全學析分神精ドイロフ
附錄 フロイド先生會見記
な人であるから何とかして尋ねればその居所位は知れるであらうと思つて来たのである。彼がパリに
居ることは嘗て或る雑誌上で讀み知つたのであつた。見物を兼ね、四五日パリに滞在してその居所を
たづねたが遂に分らなかつた。分らなかつた筈である。彼はパリには居なかつたのだ。ランクに就い
てはなほ後節に言及するであらう。二、ロンドンの支部學會
三月十日ロンドンに着いた。
英國人は時間の事は厳しいので、豫め手紙と電話とを以て時間を打合せておいてジョーンズ博士を
そのプライベイト・オフィスに訪れた。このプライベイト・オフィスに於いて、博士は分析と分析技術の
講義をしてゐる。滞在期間を訊かれたので、自分は三ヶ月ばかりしか居られないが、その間に一ヶ年
以上を要すべき分析を受け、且つ技術上の講義を聞かねばならぬ。私は三ヶ月位では駄目だと云はれ
る事は始めから分つてはゐたが、自分は書物に就いては相當の研鑽を既に経た心算であるし、それ位
の時日で何とか目鼻の付くやうなれるであらうとの見當は、僭越ながら付いてゐたのである。ジョーン
ズ博士は暫く首を傾けて考へてゐたが、折角英國まで遥々來た事であるから何とか考慮して見よう、S.
集全學析分精ドイロフ
併し自分一存では取計ひ兼ねるから、他の連中によく相談して改めて返事をしようと云ふ事でその日
は別れた。
まづ口頭の試験を受けたが、その時の成績が優良であつたので、とにかく分析を受け講義を聴くこ
とになつた。現在、英國の學會は六十四名ばかり會員があるが、君を分析するのは一流の人でなければ
ばならぬと云ふのでエドワード・グラバー Ed. Glover 博士をしてこれに任ぜしめ、講義の方はジョー
ンズ博士自らそれに當つてくれた。一流の人と見做されるやうな人は只今のところでは六名ばかりあ
る。而も講習部員中に入會して一期分(六ヶ月)の授業料を支拂ふのはつまらないから、聽講生として
名を記し、晝夜二回講義のあるのを夜の方だけ出席し、晝間は分析を受けるやうに取計つてくれた。
分析と一口に云ふが、分析にも二種類あつて、一を病氣分析パソチカアと云ひ、他を性格分析アナリチカアと云ふ。前者は
普通の神経症患者の治療を意味するのであるが、後者は健康者と雖も分析士となり、他人を分析
治療せんとするものは何人と雖も受けて性格の改造を図り、無意識中の邪念を一掃しなければならな
いのである。さうでなければ他人を分析取扱することは不可能であるし、よしんばしたとしても甚だ
危険である。この性格分析は云はゞ一種の宗教であつて、これに依つて人々は解脱するのである。昔
は解脱するのに極めて少數の名僧知識で而も自力を以て半無意識的にするのであつたが、今日では科二、ロンドンの支部學會
五
S.
集全學分析分肺特ドイロフ
六
附録 フロイド先生會見記
學的方法を以て、極めて合理的の解脱が出来るやうになつたわけである。解脱とは畢竟するに、精
神分析の所謂アプレアクチオンに依つて無意識に潜る錯情コムプレックスを取去ることである。
ジョーンズ博士の講義は十回に亙り、何時も患者を前にしての臨床講義である。グラデー博士の分
析は二十回に亙つたが、自分は随分痛烈な分析を受けていい生恥を晒して来たわけである。分析には
普通、(一)開始期、(二)轉嫁期、(三)終末期の三期があるが、この三期を完全に通り終せないと分析
は十分でないのである。開始期とは患者に對して、分析を受ける心の準備を作らせる時期である。強
い警告を與へて、分析の邪魔になるやうな心の障碍を除かせる時期である。心の障碍とは、例へば
理ラショナリゼイションづけである。自分の心持や行爲を自分で是認しようとする事である。第二は批評である。自分
の心持や行動に自分で價値批判を與へようとする事である。これも検討なことである。第三は羞恥、
恐怖、嫌悪などである。矛盾を恐れることである。これ等は總て分析の邪魔になる。何となれば、そ
れは無意識を素直に出させないものだからである。これ等を除いて無念無想となり無意識なありのま
まに出すための準備は少くとも二三回、多くは十回又は二十回を要するのである。その結果、今度は
轉嫁期に入るのである。その過渡期に入つたか否かは夢で分る。
開始期から過渡期を經て轉嫁期に入るが、轉嫁期には積極轉嫁期と消極轉嫁期とがある。前者は愛S.
集全學析分神精ドイロフ
信頼、尊敬などを被分析者が分析者に対して抱く時期である。つまり、嬰児時代に父母に対して抱い
た感情を分析者に対して転嫁する時期である。消極転嫁期と云ふは被分析者が分析者に対して憎悪、反
感、嫉妬などを抱く時代である。これまた嬰児時代に父母に対して抱いた感じの転嫁である。分析者
は鏡として患者期に経験したところを再経験するのである。分析者は鏡となつて、患者の自覚出来
ないものを寫して見せるのである。転嫁期中は殊に分析技巧が重要である。分析を完全にするために
は自ら分析を受けて、また絶えず自己分析をしてゐる必要がある。患者が過去の経験を此方に投射し
て愛情を示したからとて、これに対して愛情を起してはならない。絶対し反撥を示してはならない。
愛情を解脱せよ、然らざれば患者の無意識を寫す影が歪んでしまふ。従つて分析には失敗する。完全
に分析された分析者にして而も不断に自己分析してゐる人にして、始めて患者の無意識の鏡となり得
る。かくで患者は愛情が自分自身の影に過ぎないことを悟るやうになつて来る。かくして治療の効果
が生ずるのである。終末期に至つてこの轉嫁の結果を解除して始めて分析は終了するのである。もし患者が轉嫁期に起
つた投出作用を持続して分析者を崇拝したり憎悪したりしてゐるやうでは、まだ終末期に入つてゐな
い證據である。完全に終了したならば、始めて相會つた時のやうに相互にエトランジエとして別れる二、ロンドンの支部學會
七
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八
集全學析分神精ドイロフ
附錄 フロイド先生會見記
のである。積極轉嫁からの思ひが殘つてゐるやうでは患者は精神的の脛囓りとなつて分析者から獨立
出来ない。精神分析の目的は現實に處する力を養ひ、獨立獨行の人を造るにある。轉嫁解除の方法は
無意識的に愛想づかしをすることである。情實の纒綿を切斷することである。グラヴー氏より私は實際に分析を受け、一期より次期に至る過渡期に就いて自分の注意を呼んで吳
れた。自分は四回目に轉嫁期に入つた。積極轉嫁の裏面に消極轉嫁を持つた事は分析で分つた。消極
轉嫁は抵抗の形で現れる。私は四日目にグラヴー氏の事務所を訪れむとして行過ぎてしまつた。それ
が更に五、六日と三日續いて起つた。これは偶然でない。これは自分で氣が付いた。この症状行動の
無意識の動機は、自分は一人前の分析者であるのに自分より年少のグラヴー氏などより分析を受ける
必要なしと云ふにあるのである。なほ轉嫁解除の時に、性器前期時代の材料を指摘せられた、さうし
てそれに就いて註釋を加へてくれた。かくして分析を完全に終了して、それ以後は行く度に握手をし、分析者、被分析者の關係でなく對
等の個人として相談じ、分析士としてのさまゞゝな方面の注意を與へられた。三、クライン女史の茶會
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集全學析分神精 ドイロフ
私の滞在中、英國支部の毎週水曜日の會合が六回ばかりあつた。來會者は四十名近くあつて、その
内婦人會員が二十七、八名にも及んでゐる。ドイツの學會にも婦人はゐたが、英國の會には婦人の
方が多いには一驚を喫した。
ジョーンズ博士が會長席に着く。會長席は椅子も特別のもので、この點はドイツの方がデモクラチ
ックのやうに見えた。二人宛くらゐ論文を朗讀して、それについて討議あり、ジョーンズが最後に總評
セクリタリセクリタリ
を下すと云ふ次第である。グラヴァーは學會の書記長の役目に就いてゐるのである。なほ速記者は別に
ある。始めての學會の會合に自分が出席して、ジョーンズ博士から紹介されたが、それが公式の紹介であ
ることを次回になつて知つた。次回に前回會合の報告文をグラヴァー書記長が朗讀する。それに依つて
分つたのである。
會員同志は相互に抑壓のとれた人々ばかりであるから、婦人が多いけれども、性的な話題も何等忌
憚なく、學問的に論ぜられる。婦人には四十代位の女醫が多い。學校の教師もゐる。専門の分析士も
ゐる。皆、有資格者であるから、論議は専門に亙る。自分はジョーンズから指名質問をされて、日本
の事情に就いて説明したこともある。その時の論文中に『婦人と眠る』“go sleep with woman”、と云ふ九
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10
集全學析分神精ドイロフ
附錄 フロイド先生會見記
言葉があつて、それは性交の象徴として用いられてゐるが、支那ではこの言葉は實際上性交を意味す
ると云ふが本當かと訊かれたのである。で、私は支那の言葉には、從つてまたそれから全然日本語化
した言葉に『同衾する』"to lie in the same bed" と云ふのがあるが、これは事實上性交の意であると
云つた。婦人會員の中に、クライン女史 Frau Melanie Klein と云ふのがある。彼女は元來ドイッ人である
が、今は國籍を英國に移して、ロンドンに在住してゐる。クライン女史は一度自宅で話し合つて見た
いから自宅へ來てくれと云ふので招待を受けた。女史は小兒分析家として一流の大家で、非常に獨創
的な學説を樹てゝゐる人である。女史の小兒分析法に依つて幼年時に分析を施したならば世に發狂者
は根絶する事が出来ると云はれてゐるのである。フロイドの分析は、エディポス・コムプレクスを除く
に三四歳頃にまで遡るが、クライン女史は生後六ヶ月頃にまで遡らなければならないことを治療法上
から證明した人である。女史の家へ行つて見ると同僚が四五人來合せてゐた。人々は自分をプロフェッサーと呼んでゐた。そ
の時の主なる話は右に述べたエディポス・コムプレクスを生後六ヶ月にまで辿る事に就いてであつた
が、女史はなほ二人だけで話したいからとて、茶の時間に來てくれと云ふので、その日取を打合せてS.
集金學分析分科精ドイロフ
別れた。つまりフロイドはリビドーが性器にも及んだ頃、即ち性器後期ポスト・ゲニタルにまで遡るのであるが、女史
は性器前期に、男根時代ファック・ステーヂ以前に、口唇性感時代にまで、エディポス・コンプレクスをたどるのである。
女史はこれを療法上から證明したのである。クライン女史は四十五六歳の、如何にもドイツ婦人らしく肥つた人であつて、ビールも飲めば煙草
も喫ふ。なかく盛んなものである。一體に分析者たちには非常に喫煙家が多いやうである。冬の部
屋でも時々窓を開けなければならなくなるほど、彼等の會合に於いては室內は煙幕に閉される。これ
或は彼等の御大フロイドが終始シガーを手に離さない愛煙家であるため、それに同ー化作用を起して
ゐるかも知れないのである。ジョンズ博士の如き、實にフロイドの生寫しである。その態度、物腰、
接客の様子などすべてフロイドに似てゐる。これは後にフロイドに會見した時に思ひ當つたことであ
る。グラバー博士も終始パイプを手にしている。四、フロイド先生とアンナ嬢
講習の結果も幸にしてよく、ジョーンズ博士は現學會長アイティンゴン博士に宛て、私の推薦狀を認
めてくれたが、アイティンゴンはなほ最終の決定をなす前に前々學會長にして現ハンガリー支部長た一二
四、フロイド先生とアンナ嬢
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集全學析分神精ドイロフ
附録
フロイド先生會見記一二
るフレンチ Jones, 博士の承認を得なければならないのである。即ち、アイティンゴンにとつては、
ジョーンズ, フレンチ両博士はその舅役に當るわけである。
ベルリンへ着いたのは五月一日であつた。アイティンゴンは今度は仲間として友人として、同志とし
て、自分を待遇した。自分もまた對等の人間として彼と固い握手を交したのである。が、自分がベルリンを再訪した最大の目的はフロイドに會ふにあつたのであるが、フロイドは病氣
のために入院してゐるから會見は望みながらうと云はれた時には非常に落膽したが、天未だ自分にそ
れほど無情ではなかつたと思えて、五月七日、永年憧憬し渇仰し來つたフロイド先生と面談すること
が出来たのであつた。而も先生はオースタリーの首都ギィンに在住する先生がベルリンへ來られるか
ら、ベルリンで會見することが出來ると聞いた時には、愈々自分の幸運を感謝しないわけに行かなか
つた。
私はアイティンゴン會長と自動車に同乗し、半時間のドライヴの後、ベルリン郊外テーゲルなるジム
カル博士邸前で車を停めた。ジムメルは多方面な天才的學者としてその令名はわが國にも聞えてゐる
人で、今更私が云ふまでもない。彼は富裕の人であるらしく、こんもりとした森を背景とした堂々た
る大邸宅に納まつてゐるのである。さうして博士邸の隣が丁度ベルリンに於ける精神分析療養所となS.
一三
集全學析分神精ドイロフ
り、博士はその所長を勤めてゐるわけである。恐らくは、この療養所の建物も博士が學會に寄附した
ものではないかと思はれる。フロイドはベルリンに來る度に、いつもジムメル博士邸を定宿としてる
るやうである。アイティンゴンは私を導きつゝ玄關に立つてベルを引いたが、ベルが壊れてゐたせいか返事が聞コえ
なかつたので、勝手口に廻つて家の内に入り、内側から玄關の扉を私のために開いてくれた。寫眞で
見ると、フロイドは髯のある、眼付の凄い、大柄の、恐ろしい親爺である。而もユダヤ人で革命的な
學説を樹立した偉人であり天才である。ジョーンズ、アイティンゴン等も『我等の偉大な先生』と呼び習
はして、フロイド氏、だとか、プロフェッサ・フロイドなどとは呼ばない位である。自分は精神分析
をやつたものでありながら、かくも父結情(ファーザ・コムプレクス)を起して、恐怖症(フォービア)に罹るやうでは
情ないと思つたが、事實自分はフロイドを恐れてゐたのである。彼の室は二階であつたが、自分が行くと彼は自分の方から扉を開いて室の外まで自分を出迎へ、行
きなり私の手を固く握つてその手を離さずに椅子のところまで自分を引連れて行き、自ら椅子を直し
て私を掛けさせてくれた。その微笑の無邪氣なこと、その態度のなつかしみのあること、その思ひ掛
けず小柄で好々爺であることなど、自分は意外の感に打たれたのである。たゞ寫眞と違はないのは、四、フロイド先生とアンナ嬢
S.
集全學析分神精ドイロフ
一四
附録 フロイド先生會見記
シガー
始終手にしゐる葉巻であつた。
さきに自動車中で、アイティンゴンから、フロイドに會つたら必ず『快不快原則を越えて』(對馬完治
氏譯)を何故に最初に版したかに就いて質問を受けるぞとの警告を受けてゐたが、果してフロイド
の第一言はその事に觸れて行つた。實は、我々の仲間の仕事としては大槻憲一氏譯の註釋が第一
に出たのであるが、今度の行に私は同書を持参するのを忘れ、『快不快原則を越えて』のみを持参し、そ
れをこの前アイティンゴンに會つた時に渡したので、かう云ふ話になつて来たのである。私は已むなく
それに就いて辯明を與へねばならぬ羽目になつてしまつた。『快不快原則を越えて』はフロイドの著書
中でも難解のものとされてゐるのに、それを最初に出すとはチト無謀であらうと云ふのが、フロイド
の難點である。併し私は答へた。この書の中に説いてある生死同一説、死の本能即ち生の本能説はそ
のまゝ佛敎の思想であつて、佛敎が相當に國民思想を支配してゐる日本としては、精神分析への理解
が却つてこの書に依つて容易になるであらうことを考へたからだと。さうして私以外にも、フロイド
の死の本能説に賛同する人が日本には澤山あると云つたところ、何しろフロイドはこの説のために諸
方面から論難を加へられて、最近の著書ではそれに就いて多少變色の氣味ある程であるから、フロイ
ドは意外の味方を得たことを非常に喜び、隣室に身じまひしてゐた娘の方に『アンナ、アンナ!』と聲S.
一五
集全學析分神精ドイロフ
をかけた。アンナは直ちに姿を現した。アンナは父の秘書として、また女分析士として世界的に令名
ある人であるが、打見たところ四十がらみの、誠に質素な様子をしてゐる。私は彼女に會釋しつつ云
つた。『私は貴女を子供の時分から知つてをります。』
『おや、どうして?』
『でも、御尊父の「夢の註釋」の中で、貴女は屢々註釋の材料となり、御幼時からの心の奥底まで、我
我フロイド學徒には親しみ深いものになつてゐるからです。』アンナ嬢は微笑しつゝ點頭いてゐた。
我々はそれからなほいろいろと語り合ひ、半時間の會見の約束が一時間以上に延び、十年の知己
の如くに隔てなく談笑した。辭去したのは零時半であつた。別れに臨み先生は自分の乞ひを快く容れ
て寫眞に自署して自分に與へ(口繪參照)、歸朝後は私にも寫眞を送つてくれ、自室の壁間に掲げて朝
夕眺めるであらうと云はれた。先生との會見中も、私は永年その著書に教へられ、その風貌を慕うて来た先生に咫尺してこれほど
愉快に語り合ふことは夢ではないかと思つたほどであつた。私はひそかに感激の涙の湧起し来るのを
こらへた。四、フロイド先生とアンナ嬢
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一六
集全學析分神精ドイロフ
附錄 フロイド先生會見記
禁ずることが出來なかつた。先生の前を退去した後も、永くその亢奮は去らなかつた。飽くまでも先
生の教への弘通のために全力を捧げて行くであらうことを私は決心した。總て偉人の事業はその效果が豫想外のところに至るものである。コロムブスは印度に至る海路を發
見せんとして偶然にもアメリカ大陸を發見し、ナポレオンは少尉になるのが希望であつたが、遂に皇
帝となつてしまひ、フロイドはまた單に神經症を治癒せんとして遂に圖らずも、文化問題、社會問題
教育問題にも影響を及ぼす程の眞理を發見したのである。フロイドの無意識心理説はガリレオの地動
説、ダーギンの進化論と共に、人類の自己中心思想を打破する第三革命の科學説とされてゐる。ガリ
レオの地動説は宇宙觀上地球を中心とする舊來の天文説を覆し、地球は單に太陽を繞る多數の遊星の
一つに過ぎないことを明かにし、ダーギンは生物學上人類が他動物と親類なることを明かにしたので
ある。思想問題にせよ、教育學説にせよ、今後はフロイディズムを無視しては不完全なものとなつて
來たのである。現今フロイドとははやゝ立場を異にする精神分析學者にはユング、アドラー、ステーケル等がある
が、彼等も元來はフロイドの弟子であつて、その立場の相違と云ふもたゝ多くは分析治療上の方法が
僅かに違ふのみで、例へばステーケルはどうしても催眠術をやめない。弟子達の間でやかましくて遂S.
集全學析分神精 ドイロフ
にステールケは破門の如くなつてゐるが、フロイドは師弟の情の厚い人で、破門後も常にステールケ
の主張に注意を怠らず、その著書中に常にステールケの説を引用し、参照し、批判してゐる。
最近またフロイドの愛弟子オットー・ランクが破門されようとしてゐるが、ランクは『出産の外傷』と
云ふ書を著し、フロイドが四五歳までのエディポス・コンプレクスを除くの分析の目的とするに對
し、出産時の精神的外傷にまで述べ付けようとするので、その治療方法も多少異るのである。談たま
たまランクの事に及ぶとフロイドは非常に亢奮し、その門下を思ふの眞情は切々と感ぜられたのであ
る。フロイドは門下生間に喧しいランク破門説を極力抑制してゐるらしいのである。
午前中にフロイド先生に會ひ、その日の午後分析士の資格証明の書付を受け取り、翌日ベルリンを發
つて歸國の途に就き、東京驛頭に歸着したのが五月二十三日午後八時であつた。五、歸朝後の事ども
歸朝後、自分は同志と共に日本精神分析學會を組織し、また東京市内に分析室を設けて一般の診療
に應じることにした。
それ等の細々としたことはフロイド先生を始め、アイティンゴン、ジョーンズ、グラヴーの諸博士に一七
S.
集全學析分神精ドイロフ
附録 フロイド先生會見記
通信しておいた。さる頃、フロイド先生から便りがあつて、それは英文を以て認め、次の如く書いて
あつた。一八
November 25th 1930
Dear Mr. Yabe
Many thanks for sending me the welcome picture of your group showing the sympathetic faces
of our new friends and the report of your activities mentioned in your letter.I am especially rejoicing in learning how assiduously you have pushed forward. The work of
translation, "Beyond the Pleasure Principle," I already possess; now I expect to get soon the other
books you have brought out.With the sincerest, though egotistical, wishes for your success,
「矢部様
your affectionate
FreudS.
集全學析分神精ドイロフ
貴方のお仲間のご寫眞、並びに貴方の御活動振りの報告など拝受、有難く御禮申上げます。我々の
新しい友の面々、しみ〱と眺め入りました。
私は貴方が孜々として進出なさることを嬉しく存じてゐます。「快不快原則」の譯書は既に落手して
ゐますが、貴方がたの出してゐられる他の譯書を早く手に入れたいと思つてをります。
貴方の御成功を心から――自分の勝手もあることながら――祈り上げます。一九三〇年、十一月二十五日
「貴方の御成功を心から』と云ひかけて『自分の勝手もあることながら』と云ひ添へてゐるのは、流石
に分析者らしい神経の動き方で、我々をして自ら微笑せしめる。(完)五、歸朝後の事ども
敬具
フロイド』一九
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フロイド先生會見記
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