自我とエス1923-003/1937.ja
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    五〇

    自我とエス

    第五章

    自我の従属的関係

    本書の各章題目がい何れもその内容と完全には一致してゐない事、並びに問題が新方面に向ふときに
    既に論じた事項にまで絶えず後戻りする事は、我々の問題が複雑なるがためとして許されるだらう。
    繰返し述べた如く、自我は、放棄されたエスの縁締の代償として為遂げられた同一化によつて、大
    部分が構成されてゐる。これらの同一化の早期のものは、常に自我の裡にあつて特殊な役目を果し、
    超自我の形をとつて自我と残餘の部分と分離する。其後に至つて自我は強健に發達するに従ひ、同一
    化の影響に對して強い抵抗を示し得るに至る。超自我が自我に對し若しくは自我に關する特殊な地位
    を有するに至つたのは一つの要素に基づくものであつた、この要素は二方面から考慮せねばならぬ。
    一方ではそれは最初の同一化であること、即ちそれは未だ自我が軟弱なりし時に生じたものであり、
    他方ではそれがエデポス・コンプレクスの後裔であること、即ち他の何物よりも大なる對象を自我の裡
    に取込んだといふ事實に基づくのである。其後に改變された自我に對する超自我の關係は、概して嬰兒

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    五一

    の原理的の性的段階が思春期後の成熟せる性的生活に對する關係の如くである。超自我は其後の總て
    の影響を受けない-
    ではないが、父コンプレクスから轉來した特質を終世保留してゐる。この特質は自
    我を超越-
    し、自我を支配する性能である。これは自我の嘗ての軟弱時代と依賴時代の記念物である(1)。
    而して自我は成熟した時と雖もその支配に服するやうになつてゐる。小供は嘗てその兩親に服すやう
    に強いられた如く、自我はその超自我から發せられた無上命令に服するのである。

    然し乍らエスの最初の對象戀繰、即ちエヂポス・コンプレクスより超自我の發生せる事は、これ以上
    の意義を有する。この發生は我々が既述した如くエスの種族的獲得と結び付いて、エスの裡に沈澱物
    を殘せる前世の自我をして後生に再生させるものである。斯くの如く超自我は常にエスと密接なる接
    觸を持つが爲めに、自我に關してはエスの代理を務める事が出来る。超自我はエスの中に深く根ざし
    てをり、爲めに自我よりも遙かに意識から遠ざかつてゐるものである。

    以上の關係は、或る臨床的事實に注意を向けるならば最も容易に理解できる。その事實は久しき前
    にその珍らしさを失つてはをるが、猶その理論的の研究を待つてゐるものである。

    (1)註 (一) 精神分析的――又は超心理學的自我は解剖的自我即ち腦皮質の小人 Homunculus と同じく獨立ち
    してゐると云ひ得る。

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    五二

    自我とエス
    分析の仕事中に全く奇異なる態度をなす人々がある。これらの人々に對して、治癒の見込みあること
    を語り或は治療の進歩に就て満足の意を表す時には、彼等は不満な顔貌を示して、常に症状を悪化せし
    める。我々は初めこの状態を反抗と見做し、醫師に對して優越を示さむ企てと解したが、後に至つて更
    に深い意味を知るやうになつた。彼等は賞讃や感佩に堪へることが出来ないのみならず、却つて治療
    の進展に對して正反對の反應を示すものであることを我々は確認するに至る。病症が解除される毎に、
    普通のの人ならば良好の結果を齎すか若しくは症状が一時的にも停止する筈であるにも拘らず、彼等は
    却つて其の病勢を亢めろに至る。彼等は治療期間中に快方に向ふ代りに悪化してゆく。そして所謂陰
    性の治療的反應を示すのである。

    彼等には治癒に反抗する何物かがあり、治癒に近づくことを恰も危険の如くに見做して怖れてゐる
    事は、疑ふべからざる事である。即ち彼等にとつては健康を希望するよりも疾病を必要とする方が重
    大であると云はざるを得ない。この抵抗を普通の仕方で分析する場合には、醫師に對する反抗態度や患
    者が疾病より得る種々の利益を固執することを引立つても、この抵抗の大部分は残される。この部分
    は治癒に反抗する障碍の最も強力なものとして現れる。而して我々の熟知せるナルチス的難攻不落、
    醫師に對する否定的態度、及び疾病利得の固守よりも更に強力なものである。

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    五三

    第五章
    自我の従属的関係

    結局我々は「道德的」要素と云はるべき即ち罪悪感に直面してゐる事を認むるに至つた。罪悪感は
    疾病中に贖罪法を發見し、苦痛の刑罰を拒否しようとせぬものである。我々は寧ろこの心細い説明を
    決定的であると見做さざるを得ない。然しこの罪悪感は患者側よりみれば全く啞者であつて、即ち患
    者は罪悪のあることを告げることを爲さない。爲めに彼は罪を感じないで、唯だ疾病を感ずるのみで
    ある。この罪悪感は治癒に對する抵抗として顯はれるのみで、克服するに非常に困難である。疾病が
    永續するといふ裏面にはこの動機が存在することを患者に信ぜしむるは更に困難な事で、患者はその
    疾病に對して精神分析療法が正しい療法でないといふ一層明かな説明を固守するのである。(1)

    (一)無意識の罪悪感が呈する障碍との爭闘は、分析者にとつて容易ではない。それに對しては直接には何
    等の方法もなく、間接には唯その無意識の抑壓された根原を徐々に暴露し、漸次と意識の罪悪感に代
    へようとする手段より外にはないのである。然しこの無意識の罪悪感が他よりの傍物であつた場合、
    即ちそれは嘗て性的錯綜の對象であつた他人との同化に因る生産物であつた場合には、それに影響
    を與へる特殊な機會を我々は持つてゐる。この仕方で罪悪感が採用された時は、これは屢々放棄され
    た戀愛關係の唯一の殘物であつて、それと認知する事が困難なものである。この作用と憂鬱症に起る
    作用との類似は明白である。若し我々が無意識の罪悪感の裏面に潜むこの憂鬱症であつたものを
    暴露し得るならば治療の成功は屢々顯著であるか、これが出来ないならば努力の効果は不確實とな

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    五四

    自我とエス

    る。これは主として罪悪感の強度に依る。然し治療がこの強度に相應するような對抗力を有しない場合
    がある。又恐らく分析者の人格の力で患者が自分の理想自我の代りに分析者を収容するか否かに依つ
    て治療が進むかも知れない。これは分析者が患者に對して豫言者、救世主及身許主の役目をつくす意
    味になるかも知れない。醫師の人格を斯様な仕方に利用する事は分析の規定に反するが故に、我々は
    數に分析の作用に新しい制限の存することを告白せねばならない。それは分析は要するに病的反應を
    不可能にするに非ずして、むしろ患者の自我に何れをも選ぶべき自由を與へるようにするのである。

    茲に述べた事柄は極端なる例に適用されるものだが、これより低い程度のものは、甚だ多くの例、
    恐らくは重い神経症の總ての例に於て認められるのみならず實際この状態に於けるこの要因即ち理想
    我的態度によつて、恐らく神経症の重症なるか否かが決定されるものであらう。故に罪の感が種々な
    る條件の下に表現される仕方について、更に詳細に説明したいと思ふ。

    普通の意識的罪悪感(良心)の説明は何等困難なものではない。それは自我と超自我との間の緊張
    に基いて居り、その批判能力によつて自我に對し行つた判決の表現である。神経症患者に廣く知られ
    たる劣等感は明かにこれと密接な關係を有する。よく知られてゐる二種の病状に於ては、罪の感が非
    常に強く意識されてゐる。これらは理想我が特別なる峻厳さを示して屢々怒さをもつて自我を襲つて
    ゐる。これらの二種の病状、即ち強迫症と鬱憂症とに於ける理想我的態度は、一方にこの類似性を有

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    五五

    すると共に他方に重大なる差異を示してゐる。
    流離の強迫神経症には、罪の感が高唱され過ぎて、自我に對して正常に認めさせることが出来ない。
    その結果、患者の自我はこの罪の服罪に對して謀反を起し、これを拒絶する爲めに醫師の助けを求め
    る。然しこの求めに應ずることは愚である。何となれば應じたとして何等の効果もないからである。分
    析によると、この場合超自我は、自我に知られずにゐる過程によつて影響を受けてゐることが分る。
    事實、罪の感に基づける處の抑壓された衝動を發見する事が出来る。斯くして無意識のエスに就いて
    は超自我は自我以上の知識を持つてゐる事が證明される。

    鬱憂症に於ては、超自我が意識を掌握してゐるといふ事が更に著しく強く認められる。然しこの際
    自我は毫も反抗をしないで、却つてその罪を認めて膺懲に服する。斯かる相違は容易に説明される。
    強迫神経症に於ては超自我より非難されるが如き不埒なる衝動は決して自我の一部を構成してゐない
    が、鬱憂症に於ては超自我憤怒に値する對象が同一化によつて自我の一部を構成するに至つた。
    是等の一種の神経症に於て、何故に罪の感が著しく強烈になるかは明らかでない。然しこの
    狀態の主要問題は事實他の方面に存する。我々には他の例の罪の感が無意識になつてゐる場合を論じる
    まで、この論は猶豫して置く。

    第五章 自我の從屬的關係

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    五六

    自我とエヌ
    それは本質的にヒステリー及びヒステリー型の状態に見られるものである。罪の感が無意識にされ
    てゐる機制を發見するは容易である。ヒステリー型自我は、超自我の非難によつて脅威される處の苦
    痛なる感覺を、恰も雄々しき對象縲縛と防禦すると同じ手段をもつて防禦する。これは何かと云ふと
    即抑壓の手段である。故に罪の感が無意識になつてゐることの責任は自我にある。普通、自我は超自
    我の爲めに、又その命令通りに抑壓を行ふことは既に知られてゐる事である。然し乍ら前記の場合は
    同じ武器をその峻厳なる主人に向けたと同上事である。強迫神経症に於ては、知つてゐる通り反應構
    成の現象が主となつてゐるが、然しこの場合、自我は罪惡の酬聯せる材料を遠ざけることで自ら滿
    足してゐる。
    我々は更に一歩を進め、罪惡の大部分は普遍無意識であるといふ假定を此處に見出し得る。何とな
    れば良心の根原は無意識に屬せるエヂポス・コンプレクスと密に關聯してゐるからである。若し何人か
    が「正常の人は彼が自ら信ずるよりも以上に不徳義であるのみならず又彼が考へるよりも以上に不徳義
    的である」といふ矛盾した提案を出すやうな心を持つてゐるとすれば、この主張の前半に對して責任
    を持つてゐる精神分析は、後半の言葉に對して何等異議を申出でないだろう。
     

    註 (一)この提案が矛盾してゐるのは唯外觀だけである。それはは次の事に過ぎない。即ち人間の本性は思

    註 (二)

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    五七

    つたよりも以上に、換言すれば自我の意識的知覚が知つてゐる以上に、善にも悪にも對しても一層大なる容積を持つてゐるといふ事である。(譯者曰、善にも強ければ悪にも強き意)
    驚嘆すべき事は、罪感が過大であると往々にして人を犯罪者に堕させる事がある。然もこれは疑ひもなく事實である。多くの犯罪者、殊に青年犯罪者には犯罪以前に非常に強い罪感を持つてゐる事を證明できる。故にこれは犯行の結果ではなく、むしろ犯行の動機である。この無意識の罪感を何か現實的な或は手近なものに結び付けるのは恰かも一つの慰藉として感ずるらしいのである。

    これらの總ての場合は、超自我は意識的自我から全然獨立し、その關係はむしろ無意識のエスに接近せることを示してゐる。自我に於ける前意識的言語の残渣の重要性を尊重すると次の問題が起る。即ち若し超自我の一部が無意識にあるとせば、それは斯かる言語の心象で出来てゐるものか、或は然らずんば果して何で構成されてゐるか。これに對して我々の解答は徹底的ではないが、超自我のみならず自我も誰もそれば錯覚から来た印象によつて生じたものである事は否定し難いといふ事である。

    超自我は自我の一部であつて、而して言語的心象(概念、抽象)によつて大部分意識になり得るものである。然し超自我の斯かる内容に纏綿してをるエネルギーは聴覚、教育、讀書から得たものではなく、むしろエス中の源泉から生じたものである。

    第五章 自我の從屬的關係

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    五八

    自我とエス

    解答を延期して導いた問題はこれである。即ち、超自我が本質的に自我を罪悪として表現し(或
    は寧ろ非難として表現。何となれば罪悪は非難に相当する自我の裡の知覚である故に)、且つ同
    時に自我に對して斯かる暴壓、峻厳を示すは如何なる理由か。若し我々が鬱鬱症の場合に注意して見
    れば、意識に固着する非常に強力なる超自我が、無慈悲な狂暴さをもつて自我に對して激怒してゐる
    のが分る。これは恰も超自我が、その人に存在する全虐待性を専有に占有してゐるが如き観がある。虐
    待性に関する我々の見地に從へば、破壊的要素はそれ自身超自我の裡に堆積して、これを自我に向け
    るに至つたことへゞるだらう。斯くして超自我の裡に権力を振へるものは、恰も死の本能の純培養の如
    き物であり、而して實際これは若し自我が相當の時期に於てManieに轉じてこの暴君を防御す
    るに非ざれば、往々自我を死に陥らしむるが如き大なる力を振ふに至る。

    同じやうな苦痛、懊惱は強迫症に於ける良心の呵責である。然し乍らこの状態は餘り明瞭で
    はない。強迫症では鬱鬱症とは反對で、決して自殺の手段を採らないことは注意に値する。強迫症患
    者は自殺に對しては恰も免疫性を有して、ヒステリー患者よりも更に都合よくそれに對して保護され
    てゐる。故に自我の安全を保證するものは對象の保留であることゝを知る。強迫症では前性器編制Prä
    genitale Organisationまで退行することによつて、この保證が得られる。即ち愛の衝動が對象に對

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    五九

    する攻撃的衝動に代へられることに依つてである。此處に再び破壊本能が解放されて、而して対象を
    滅亡せんとし、或は少くともそれを自論むが如き観を呈す。然るに自我はこの傾向を用ひず、これに對
    して反撥構成と防禦手段とを以て反抗して、この傾向はエスの裡に保留せらる。然るに超自我はこ
    の破壊對しては自我の責任であるかの如く振舞ひ、峻烈にその破壊意志を責める。即ちそれは退行
    によつて生じた現象とは見ずして、實際愛が憎に置換はつたものと見做して責めるのである。斯様に
    自我は何れの方面に於ても進路を失ひ、惨虐なるエスの強求に對し並びに腐徳する良心の呵責にして
    徒らに無益の防禦を行ふ。これは両者の最も残忍なる行動に對してのみ防禦し得るもので、その結果
    として先づ無限の自責が生じ、次いで、その力の及ぶ範囲内にある対象の系統的呵責が生ずるのであ
    る。

    各個體中にある危険なる死の本能は、種々なる仕方によつて所置されるものである。一部は性的要
    素と混合されて無害となり、一部は敵意的形式にて外界に向けられ、而して大部分は恐らく防げられ
    ずに内界の仕事を持續するのである。鬱憂症に於ては如何にして超自我が死の本能の集中箇所になり
    得るだろうか。

    本能の操縦や制限即ち道徳的の見地よりすれば、エスは全然無道徳的であり、自我は道徳的たらむ

    第五章 自我の従属的関係

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    自我とエエス
    と努め、超自我は超道徳的にして且つエエスの如く無慈悲になり得るものと云へるであらう。人間は外
    部に向つて彼の敵愾心を制限すればする程、彼の理想我は益々峻烈に即ち敵意になつて来る事は著し
    き事である。通俗的な見方をすればこれが反対に見えて、理想我によつて定められた規準が、敵愾心
    を禁壓する動機であるかの如く考へられる。然し事実は此処に述べた如くなるのである。即ち人間は
    敵愾心を統御すればする程、自我に対する理想我の態度は益々峻烈となる。これは轉位作用の如きもの
    で、峻烈さを自分自身に向けたものである。然し乍ら一般の常態の人の道徳と雖も可なり峻烈なる拘
    束力や殘忍なる禁制力を有してゐる。嚴格なる崇高なる實在物(譯者曰く、神を指す)が膺懲を定める
    といふ概念の生ずるは、實にこれに由来してゐる。

    是等の問題を進んで考慮するには、此處に新しき假定を導入しなければ不可能である。既に知れる
    如く、超自我は父を模型として見做したる同一化によつて生じたのである。この種の同一化は總べて
    無性化若しくは醇化作用の性質を有する。この種の變化の生ずる際には、常に同時に本能的分離
    が起るやうに見える。醇化された後は性的要素は最早混合してゐた破壊要素の全部を束縛する力を失
    ひ、その結果破壊本能は攻撃や破壊的傾向の形をとつて解放されるに至る。此の分離から理想我は主
    としてその暴壓と殘忍なる、即ち命令的の Sollen (何々すべし)の性質を受けるのである。

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    六一

    更に強迫神経症に就いて暫時考へて見るなら、その関係は少し異つてゐる。愛が敵愾心に分離さ
    れる事は自我の力によるに非ずして、エスの裡に齎らされたる退行の結果である。然し乍らこの退行
    はエスのみならず超自我にまで擴がり、爲めに超自我の暴壓は無垢なる自我に對して増加するのであ
    る。しかし此場合に於ても鬱憂症の場合と同じく、自我は同一化によつてリビドーを占領し得た爲め
    に、嘗てリビドーと混合せる折に示されたる敵愾心によつて、超自我から罰せられるのである。

    第五章 自我の従属的関係

    自我に關する我々の觀念やその種々なる關係は明白になりかけて来た。今は自我の強さも弱點も認
    めた。猶ほ自我は重要なる作用を托されてゐる。即ち自我知覺區域に就いての關係のために、精神界
    の過程を時間的順序に整頓し、この過程が現實に適合するか否やを試驗する。更に考慮過程を挿入し
    て運動的解放の延期を遂げ、運動の通路を支配する。この最後の役目は事實よりも寧ろ形式的であつ
    て、即ち自我は行動に當つては先づ立憲君主の地位の如くであつて、自我の直裁がなければ一つの法
    律も發することが出來ず、然し議會を通過せる法律に對して否認權を使行する事を躊躇するのである。
    自我は生存中外界から生ずる總ての經驗によつて自分を豊富にする。然しエスは自我に對しては更に
    一個の外の世界であつて、その外界を克服しようと自我は努める。自我はエスからリビドーを奪取し、且
    つエスの對象纏綿を自我構成材料に變へる。自我は超自我の助けによつて、エスの裡に貯藏されてゐ

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    六二

    自我とエス

    る前世の経験を汲取る。然しその仕方は我々に未だ明かでない。
    エス の内容が自我の裡に闖入するに當つて二筋の道がある。一は直接に、他は理想我を經て行く。
    この道筋の何れかを探るかは多くの精神活動の上に非常に重要さを持つ。自我の發達は、本能を承認す
    る事よりこれを操縦する事に、即ち本能に服従する事よりこれを禁制する事に及ぶ。この仕事の大きな
    る役目は理想我によつて果されるが、その一部はエス の本能的作用に反對する反應編成と見做される。
    精神分析は自我をしてエスを服従せしめむが爲めに猶深くその歩を進ましめる道具である。

    然し乍ら他の見地より見る時、この同一の自我が三人の主人に仕へ、為に二個の危険によつて脅威さ
    れるといふ哀れむべき動物である事を認めざるを得ない。この危険は外界から、エス のリビドーから、
    及び超自我の峻烈さから生ずる。この三個の危険に相當する三種の不安が生ずる。何となれば杞憂は、
    危険からの避避を表現してゐるからである。自我は恰も國境の住民の如く外界とエスとの間の調停者
    たらむと試み、エスをして外界の要求に從はしめ、而して筋肉運動によりエス の願望通りに外界を改
    變せしめむと努めるのである。實例を擧ぐれば、自我は恰も分析治療を施しつゝある醫師の如く振舞
    ふ。即ち自我は、現実世界に對する順應力をいふ見地をもつて、自身をリビドー的對象としてエスに
    提供し、エス のリビドーを自身に附着せしめやうとする。自我はエス の同盟者たるものならず、又主

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    六三

    人 の 愛 を 求 め む と す る 従 順 な る 奴 隷 の 如 く で あ る 。 自 我 は 出 来 得 る な ら ば 何 時 に て も エ ス 
    と 親 善 関 係 を 続 け む こ と を 試 み 、 エ ス の 無 意 識 の 要 求 を 前 意 識 的 理 屑 附 を 以 て 隠 蔽 し て 、 エ ス が 頑 迷 不 屈 で あ る 
    時 で さ へ も 現 實 の 命 に 服 従 し て ゐ る か の 如 く 偽 り 、 エ ス が 現 實 と 衝 突 せ る 場 合 に も 假 裝 を 施 し 、 又 出 来 
    る な ら ば 更 に エ ス が 超 自 我 と 衝 突 せ る 場 合 に も 假 裝 を 施 す 。 エ ス と 現 實 と の 中 間 に 位 せ る 自 我 の 地 位 
    は 、 自 我 を し て 往 々 に し て 抑 鬱 者 、 不 節 者 、 虚 偽 者 た ら し め る の で 、 こ れ は 恰 も 政 治 家 が 事 實 を 認 め 
    乍 ら も 之 を 偽 つ て 一 般 的 人 気 に 仰 合 せ む と す る が 如 き も の で あ る 。

    二 種 の 本 能 に 対 す る 自 我 の 態 度 は 決 し て 公 平 で は な い 。 彼 の 同 一 化 及 び 醇 化 の 仕 事 は 、 エ ス に 於 け る 
    本 能 に 、 リ ビ ド ー 操 縦 の 助 力 を 奥 へ る 。 然 し 其 際 に 自 我 は 死 の 本 能 の 対 象 と な り て 死 滅 す る 危 険 に 相 
    遇 す る 。 そ れ を 救 は む が 為 に 、 自 我 は 自 身 を リ ビ ド ー を 以 て 充 慎 し な け れ ば な ら な か つ た 。 斯 く し て 
    自 我 は エ ロ ス の 代 表 と な り 、 而 し て 其 後 生 き 且 つ 愛 さ れ む と す る の で あ る 。

    然 し 乍 ら 自 我 の 醇 化 の 仕 事 は 、 本 能 の 分 離 と 超 自 我 に 於 け る 攻 撃 本 能 の 解 放 と を 来 す が 為 め に 、 自 
    我 は リ ビ ド ー に 対 す る 争 闘 に よ つ て 自 ら 虐 待 と 死 と の 危 地 に 其 身 を 晒 す の で あ る 。 超 自 我 の 攻 撃 に 悩 
    ま さ れ 、 或 は こ の 攻 撃 に 征 服 さ れ て 、 自 我 は 恰 も 自 身 の 作 れ る 頽 廢 的 産 出 物 に よ つ て 死 滅 す る 原 生 物 
    の 如 き 運 命 に 出 逢 ふ 。 経 済 的 見 地 よ り す れ ば 、 超 自 我 の 裡 に 働 く 徳 性 は 、 斯 か る 頽 廢 的 産 出 物 の 如 く

    第五章 自 我 の 従 属 的 関 係

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    六四

    自我とエス

    見ゆるのである。
    自我は示す従属的関係の中で最も興味あるものは、超自我に対
    する関係である。
    自我は不安の本家である。自我は三方面からの危険に脅威されて
    逃走反射を展開するに至る。即ち
    脅威しつゝある知覚から、或はエスに於ける是れと等しき恐るべき
    過程から、自身の羈絆を撤回し、
    而して是れを杞憂として解放するのである。この原始的反応は其後
    に防禦纏綿(恐怖症の機制)によ
    つて置換へられる。自我が外界の危険及びリビドー的危険を怖れる
    は果して何であるかは的確には云
    ひ難い。我々はこれを唯征服されること或は滅亡される事とは知る
    が、分析では決定され難い。自我
    は単純に快不快原則の警告に従ふのみである。之に反して我々が自
    我が超自我に対する杞憂、即ち良
    心の杞憂の裏面に何か隠匿されてゐるかを知り得る。其後理想自我
    となつた崇高なる者は嘗て自我を
    去勢を以て脅威した。この不安杞憂は恐らく一つの中心となつて、
    其後その周囲に良心に対する不安
    が集まつたものであらう。良心の不安として持続するものは、これ
    外ならぬのである。
    「如何なる不安も結局は死の不安である」といふ秀句は、何等の意味
    も持たず、何れの場合にも正當
    と認められない。これに反して、死の不安を外界の対象不安(現実不安)
    及び神経症的リビドー杞憂
    と區別する方が正しいと信ずる。これは精神分析學に困難な問題
    を提供する。何となれば死は、無意

  • S.

    六五

    識中にそれと相営する何物をも見出し難き、消極内容を有する抽象概念だからである。死の不安の機
    制は要するに自我がナルチス的リビドー纒綿を大規模に放棄する事で、即ちある場合に自我が犯襲を
    感じて對象を捨てるのであるらう。余は思ふに、死の不安は自我と超自我との
    間の相互影響であらう。
    死の不安は二つの條件の下に發することをしる。この條件は又他の不安を發する場合と全類類似し
    てゐる。即ち外界の危険に對する反應として、及び欝憂症の如く内部の過程として發現する。此處に
    再び神経症の例は我々をして常態の場合を理解せしむる助けとなる。
    欝憂症に於ける死の不安は、唯一の説明が許さるるのみである。即ち自我は超自我より愛さるる代
    りに憎まれ迫害されるが故に、自身を放棄するのである。生きるといふ事は、それ故に自我の側に於
    ては愛される事と同じ意味であり、その愛される事は即ち超自我より愛される事であり、その超自我
    は又此處でエスの代表として現はれてゐるのである。超自我は早期には父から、後には攝理或は運命
    から爲されたやうな保護と救助との仕事を代つて爲す。然し自我は自身の力では打勝つ事の出来ない
    と信ずるやうな現實の不可抗的の危険に逢着する時は、亦これと同じ結論を齎らさざるを得なくなる。
    即ち自我は總ての保護力から見捨てられたと考へて自身を死なせて了ふ。のみならず又これと同じ狀

    第五章 自我の從屬的關係

  • S.

    六六

    自我とエス

    態であるのは、出産最初の大祀憂状態及び不在を禁禁ふ嬰児的不安、即ち保護して呉れる母との
    分離が不安の根柢をなしてゐることである。

    これらの考慮によつて、死の不安は恰も良心の不安の如く、去勢不安の發達せるものと考へ得る。
    神経症に対して罪悪が大なる意義を有する事より考へて、普通の神経症的不安が貢献となつた場合に
    は、自我と超自我との間の不安(去勢=良心=死の不安)の展開によつて強められた事として容易に
    認められ得る。

    我々はエスに戻つて来たが、このエスは自我に対して愛又は憎の何れをも示すべき手段を持つてゐ
    ない。エスは思ふ事を云ひ得ない。意志の統一を遂げられない。エスの裡にはエロスと死本能が相互
    に奮闘してゐる。或る本能は如何なる武器を以て他の本能に防禦してゐるかは既に述べた。エスは、
    沈黙してゐるが非常に強力なる死の本能の支配下に置かれてゐるかの如く云ひ現す事が出来よう。こ
    の死の本能は快不原則の要求に従つて平和を願望し、闖入者たるエロスを終息せしめむとするもので
    である。然しこの場合、エスによつて果される役目を餘り低く評價する事を、我々が怖れるのであ
    る。(終)