宗敎の未來1927-001/1931.ja
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    一八七

    第七章

    宗教的教義が錯誤であることを
    認識して来ると、我々は直にその
    問題に対向するのだ。即ち、
    我々が高く評価し、かつ我々の生活を
    管理させる他の文化的所有は、恐らく
    同一性質のものであるまいか。我々の
    政治上の制度を規定する仮定は、同様に
    錯誤と呼ばれるものでなかろうか。更に
    我々の文化に於ける性の関係が一つ若くは、
    一聯のエロティック錯誤のため
    に擾されることは事実であるまい
    か。さて、我々の疑惑が
    一たび発生した以上は、尋ねるに
    躊躇せぬであろう、科学上の仕事の
    観察と推理とを應用して、客観の
    現実に關する何かを發見し得る
    という我々の確信に、何等か
    一層良い根據があるかどうかと。
    我々が自分自身の性質を觀察する
    ことを、或は推理の過程をそれ
    自身の批判の下に置くことを、
    引留めなければならぬ何物も
    ないのである。ここに到って
    一聯の疑問が現れるの
    で、それらは歸着する所、或
    『世界觀』を構成するに當つて、
    決定的に重要なものでなければ
    ならぬ。なほ我々は、かやうな
    努力が徒勞となるまい、また
    それは少くとも幾分かは我々の
    疑問を正當と證するであろうと
    推察する。しかし、本書の著者は、
    かかる廣い範圍の仕事に着手する
    手段を有して

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    一八八

    宗教の將來

    るない。たい必要に逼られて、著者は
    宗教の研究を爲すのである。
    然るに我々の反対者の高聲は、我々に止めよと命ずる。我々は自分達の違背を辯明せよと要求され
    るのだ。

    『考古學上の仕事は、固より大いに稱讃すべきものであるが、若しそのために、人の居住地を掘つて
    行く結果、地面が崩れて住民がその下に埋沒されるやうなことが起こるとすれば、誰を謗難を試み
    ないのだ。宗教の教義は、吾人が何か他の問題に就いて悧巧ぶれるやうには、これに就いて悧巧ぶれな
    い問題である。我々の文化は、それら教義の上に築きあげられてゐるのである。辭言すれば、人間
    社會を保存することは、人類の大多數がこれら教義の眞理を信じてゐるといふ假定の上に基づくので
    ある。だから、若し大多數が、全能にして全く正しい神も、神聖なる世界秩序も、また來世も存在し
    ないことを教へられるならば、彼等は文化の法則に服從するの義務を免ぜられたと感じるであらう。
    禁制もされず、恐怖もないならば、誰も非社會的な、利己的な本能のまゝに動いて、自己の力を試
    みようと勉めるであらう。幾千年年に亙る文明の所爲に依つて醸達した混沌狀態は再びはじまるであら
    う。人は宗教が眞理を所有してゐないことを知つてゐるとしても、またそのことを證明し得るとし
    て

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    一八九

    第七章

    も、その事實を隠蔽し、かつ『かのやうに』の哲學が要求するやうに振舞ふべきである—
    しかもこ
    のことは、如何なる者をも恐く保護するといふ利害關係からである。宗教の教義の無意義を説くこと
    の危険を離れて見ても、それな爲すことは無益の殘忍さでもある。無數の人々は宗教の教義に一つの
    慰藉を見いだすのであり、また、その教義の助けばかりかばかりに生活に堪へ得るのである。貴方は彼
    等を支持するものの空虚はうととするが、しかもその代りに與ふべき更に良いものは何も有つてゐないで
    はないか。今までに科學が非常に多くの事を成就してゐないことは認められて来たが、假令科學が更
    に一段と進歩してゐるとしたところで、それは人々を十分に満足させるものであるまい。人間はなほ
    他の緊急已むを得ない要求を有つてゐる、それらの要求は到底冷かな科學の力に依つて満足させらる
    べきものでない。然るに、頗る奇妙なことには—率直に言へば、次のことは矛盾の頂點である—
    人間の生活に於いて、どれほど叡智が本能の生活に面して退却するかを常に力説して來た心理學者が
    今や貴重な願望滿足を人々から奪はうと努力し、その代りに智的な性質の補償を人々に與へようとす
    るのだ。』
    一時に何といふ多數の批難であらう! とは言へ、私にはそれらの總てを否定する用意がある。なほ
    それ以上に、文化が宗教に對する現在の態度を抛棄させるためよりは、それを保持するために一層大な

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    一九〇

    宗教の将来
    る危険に陥るといふ主張を辯護するだけの用意もある。だが、どの點から答へはじめてよいのやら、
    私には能く分らない。

    先づ、私自身が私の企圖は全然無害であり、また危険もないと考へるといふ確信を以て答へよう。
    この度は、智性の買被りは私の方にはない。果して世の人々が反對者の説くやうなものであるならば
    –私はそれに反對しようとは思はない–熱誠な信者が私の論證に壓倒されて、信仰を阻まれるとい
    ふ虞れは決してない。剩へ、私より先に、他の優れた人々が更に一層完全な、有力な、胸に徹するや
    うな、方法で語らなかつたとは言ひはしなかつた。これらの人達の姓名はよく知られてゐる。私は彼等
    を引用しませい。私は彼等の仲間のうちに、自分自身を數へたいのだといふ印象を與へたくないのであ
    る。私は單に偉大なる先輩達の批判に對して、或心理學上の根據を附加したに過ぎないのであつて、
    私の説説に於いて新らしいものと言へば、これだけである。この追加こそは、以前の企圖が生じ得な
    かつた効果を生ずるであらうとは、期待さるべくもない。確かにこの點に於いて、私がそれらの企圖の
    無效なことを確信してゐるからなるば、何故にかやうな事柄を書くのかと尋ねられるかも知れない。
    しかし、我々は後になつて、この點へ引返すことにしやう。

    本書に害はれる唯一の者は私自身であらう。私は淺薄、狹量、理想主義及び人類の最も高荷な興味

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    一九一

    第七章

    に對する理解の不足、などの頗る不愉快な非難を聞かなければなるまい。
    とは言へ、一方に於いて、これらの抗議は私にとつて新らしいものでない。
    他方に於いて、私は尋ねたい、若い人が、既に若い
    時分に於いてさへ同時代の人々の不快に抵抗することを覚えたとすれば、
    やがて總ての厚遇も冷遇も及ばないやうになることが確かである。
    老年期に到つて、人に不快な顔をされるくらは何であるか
    と。往時には事情が異なつてゐた。その頃、かくの如き言辭を吐けば、
    その人の現世生活は正確に縮
    少され、來世の個人的経験を遥かに得る機会となつたのであつた。
    けれど、重ねて言ふが、それらの
    時代は過ぎ去つて、今日では著者でさへ、危険な目にあふことなく、
    かやうな事柄を書き得るのである。
    せいぜい起こりさうな事は、何處かの國に於いて、その著の翻譯または頒布が禁ぜられることで
    あらう――さうして、勿論このことは、自國の文化の高い標準を確信してゐるやうな國に於いて、
    兎角起こりがちである。しかし、願望抛棄、或は運命への默從を察して見るならば、
    このこともまた寛
    容し得るに相違ない。

    次に私が問はうと思つたことは、この書の出版は、結局、或害をなすのではなかろうか、
    人にで
    はなく、一事、即ち精神分析の主張に累を及ぼすのではなかろうか、
    と言ふことであつた。何となれ
    ば、精神分析は私の創意に成つたものであつて、それにして夥しい疑惑と悪意との示されたことは

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    一九二

    宗教の将来

    これを否定し得ないからである。そこで、若し私が今かやうな不愉快な陳述を提出するならば、人々
    は直に彼等の感情を私自身から精神分析へ轉ずるであらう。彼等は言ふであらう、今や精神分析の行
    先を知ることが出来よう。假面はとれたのだ、如何にも我々が常に想像してゐたほり、それは神及
    び倫理上の理想の否定に歸着するのである。この發見を防遏するために、精神分析は世界觀を持ち
    もせず、また持ち得ないのだと、我々に信じさせてゐたのであると。

    かやうに騒ぎ立てられることは、私にとつて全く不愉快である。それは私の研究家仲間のためであ
    つて、それらのうちの幾人かは、宗教上の問題に就いて全然私と態度を一にしないのである。とは言
    へ、精神分析は既に多くの難問を勇敢に凌いで来たので、今、この新らしい難局に臨まなければなら
    ぬのだ。實際、精神分析は一箇の研究法―例えば、微積分學のやうな公平な道具であるのだ。たと
    ひ物理學者が、微積分學の助けによつて、一定の時期に達すれば地球は滅亡するといふことを發見し
    たとしても、人は破壊的傾向を微積分學そのものに歸したり、またその發見を理由として、この學を
    擲斥することをなほ躊躇するであらう。私が宗教の眞理價値に反對して、こゝに述べたことは、少し
    も精神分析の支持を必要としなかつた。反宗教の意見は、精神分析が生まれて来た時よりも遙か以前に
    他の人々に依つて述べられたものである。若し人が精神分析法を應用して、宗教の眞理に關する新ら

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    一九三

    第 七 章

    しい論議を發見し得るならば、それだけ宗教にとつてはなはだ悪いことにな
    る。若し達は宗教的教義の情緒的意義を十分に評價するために、對等の権利を以
    て精神分析を利用するのであ
    らう。
    そこで、その擁護策に就いて説き進めよう。明かに宗教は人間の文化に對して偉大
    な奉仕をなした。
    宗教は非社會的な本能の抑制に關して多大の貢献をしたことにはたが、やはりまだ
    十分でない。幾千
    年間、宗教は人間の社會を支配して來た。成就し得るところを示すための時間は
    十分にあつたのであ
    る。若し果して宗教が、人類の大部分を幸福にし、彼等を慰藉し、生活に服従させ、
    また文明の支持
    者とすることに成功したとすれば、誰しも現在の事の變更に努力しようとは夢想せ
    ぬであらう。だが
    この代りに我々の見るものは何か。我々の見るものはかうだ。驚くべきほどに多
    數の人々は、文明を
    不滿に思ひ、その内に在つて不幸であり、また文明をば振捨てなければならぬと
    感じてゐる。これ
    らの人々は、この文明を變更するか、さもなければ文明に對する敵意を抱いて、
    文明に關しても、或
    は本能抑制に關しても、更に何事ををも爲さないほどである。この點に於いて抗
    議が出るであらう。こ
    の事情の起つたのには、科學の進歩といふ欺かはしい影響の故に、宗教が大衆に
    及ぼす勢力の一部
    を失つたといふ事實に歸着するのであると。我々はこの認容とそのために述べら
    れた理由とを書き留

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    一九四

    宗教の将来

    めて置いて、後に我々自身の目的のため
    にそれを利用しよう。だが、抗議その
    ものは、何等の力をも
    持たないのである。
    概して人々は現在よりも、宗教的教義
    が無限の勢力を保持してゐた頃のほうが
    幸福であつたか、それは疑はしい。確
    に彼等は現在よりも道徳的ではなかつ
    た。しかも、宗教上の歸服
    を強要しなければならなかつた僧侶等
    も、彼等と妥協してゐたのである。神
    の慈悲は正義の上に制限
    の手を加へなければならない。人が罪
    を犯した、それから供物を捧げ若しく
    は苦行をした、そこでこ
    の者は自由になつて、新たに罪を犯す
    のであつた。ロシアの神秘教は、罪は
    神恩の祝福を十分に享受
    するためにば缺くべからざるものであ
    り、從つて罪は本来神意に適ふもので
    あるいふ素晴らしい結論に
    到達してゐる。周知のとほり、僧侶等
    がなし得たのは、人間の本能に對して、
    これらの大譲歩をなす
    ことによつて、大衆を宗教に服従せし
    めることに過ぎなかつた。こゝに於て
    決定された、獨り神の
    みが強くかつ善良であつて、人間は弱
    くかつ罪深いと。不徳義は、徳義と同
    様に、常に宗教に支持を
    見いだして来たのである。若し人々の
    幸福を増進させ、彼等を文明に適合さ
    せ、かつ彼等を道徳的に
    支配することなどに関する宗教の成就
    が一段良いものでないならば、茲に、
    宗教が人類に必要なもの

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    一九五

    第 七 章

    であると考へることは正しいかどうか、また我々の文化の要求を宗教に基つかせことは賢いやり方
    であるかどうかといふ問題が生ずるのだ。
    我々は現在の事態の明白な特徴を考究して見よう。宗教が最早期と同樣勢力を人々のの上に有しない
    といふ容認を我々は聞いた(こゝではヨーロッパのキリスト教文化に就いて言つてゐるのである)。そ
    してこのことは、宗教の約束する所が減少したからではなく、約束が人々に信じ難いものと思はれる
    からである。我々はこの變化の理由が――これが唯一の理由であるまい――人間社會の上層に於ける
    科學的精神の増加に在ることを承認しようではないか。批評は宗教的文書の確實性の穴探しをなし、
    自然科學はそれらの文書に含まれた錯誤を暴露したし、比較研究法は我々の崇める宗教的觀念と、原
    始時代及び原始人の心的生産との間の致命的類似を明かに示した。
    科學的精神は現世の問題に對して特殊な態度を起す。宗教の問題に面する場合、科學的精神は暫
    らく停止し、次いで逡巡するが、結局こゝでもまた閾を越えて進むのだ。この過程には決して停止が
    ない。知識の所産が人々の手に入り易くなればなるほど、宗教的信念の衰頹は愈々廣きに亙るのだ。
    最初は宗教的信念にある古臭い、如何はしい表現の衰頹だけであるが、やがて、またその根本的假定
    の衰頹となるのだ。デイトン1)に於いて猿の審問を開いたアメリカ人だが、動搖のない所を見せ

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    宗教の将来

    たのだ。他所には必然の變遷が、姑息な手段と不誠實とに依つて成されるのである。

    註 (一) 「デイトンに於いて猿の審問云々」といふのは、米國の政治ブライアンが關聯した有名な裁判事件のことを言ふのである。米國テネシイ州デイトンの學校教師スコープスといふ人が、教場で進化論に據つて人類の由來を説いたのが問題となつたのだ。同州の法律は、人類の由來に就いて、バイブル以外の説を述べることを禁じてゐるのだ。そこでスコープスは法廷へ引張り出され、雄辯家として有名なブライアンは宗教的信念の擁護とスコープス彈劾とのために奮起した。結局、スコープスは罰金百ドルを納めることになつて事件は落着した。裁判は一九二五年七月中の事で、これが結了した後、幾許もなくブライアンは死去した。だから、彼が公衆の面前於て活動した最後は、この奇異な–寧ろ滑稽な裁判事件に關聯する時であつたのだ。(譯者)

    文化は教養ある人々や頭脳を働かせる人々を殆ど恐れるに及ばない。彼等の場合にあつては、禮文
    ある行動の基となる宗教的動機が衰類しても、その代りに他の非宗教的動機が目立たぬやうに置換へ
    られるであらう。その上、彼等の大部分は、自らの文化の支持者である。しかし、確に文化の敵とな
    るべき無教養な、壓迫されてゐる大衆は恐ろしいのである。人々は最卑神を信じないといふことを、
    彼等が發見しない間は、萬事好都合である。だが、確かに彼等にそれを發見する、たとへ私のこの著
    書が公刊されなかつたとしても、彼等はそれを發見することであらう。

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    一九七

    第 七 章

    しめる變化の過程を彼等自身に生ずることなく、科學思想の結果を何時でも受け容れるのである。こ
    れらの大衆が、文化に對する敵意を以て、彼等の取締人のうちに發見した弱點を襲つて來るといふ危
    險があるからではないか? 若し、神に禁ぜられたことではあり、かつ現世若しくは來世に於いて必ず
    復讐されるといふ理由だけで、隣人を殺してはならないといふ事であり、次いで神なるものは無いか
    ら、神罰を恐れる必要はないといふことになつたならば、確かに君は躊躇なく人を殺すであらう。さ
    うして、殺人を防止するものは、たい現世の强制力のみだといふことになる。それ故に、これらの危
    險な大衆に對する最も苛酷な禁壓並びに心的覺醒のあらゆる機會を用意見到に排除することか、或は
    文化と宗教との關係を根本的に修正することか、孰れかの必要が生ずるのである。