自我とエス1923-003/1930.ja
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    三 自我と超自我(自我理想)

    自我は知覚系統の影響によりて変化されるエスの
    一部であり、精神界に於ける真の外界の代表
    者であるに過ぎないとすれば、吾人は極めて
    簡単なる事物の状態を取扱ふことになる。しか
    しそれには何複雑なものがある。吾人は自我の
    中に分化せる一の段階の存在すること、即ち
    自我理想(Ich-Ideal)又は超自我(Über-Ich)と称するものを
    假定しなければならぬとの考察は既に他の
    所で公にした。*その假定は何有効である。
    自我のこの部分は、その他の部分よりも意識と
    結合することの少ないといふ新しい主張が今
    説明を要求して居る。**

    *Zur Einführung des Narzissmus. Massenpsychologie und Ich-Analyse.

    **事物の現実を検査する機能をこの超自我に歸した誤りをし
    たやうに見え、その點の訂正を要する外は凡て正常である。
    現実の検査は寧ろ自我そのものの一の機能であるとの見解は、
    自我と知覚世界との關係に就ての吾人の知識に完全に一致する
    であらう。「自我の核に就て」の以前の暗示は、可なり不確

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    定のもので、知覚—意識系統のみが自我の核として認め得ると訂正する必要がある。
    この點に於て吾人の領域を少しゞ擴げなければならぬ。鬱憂症の不快の苦痛を説明するに當り
    て、失はれた對象が自我の中に恢復されたと推定することによりて吾人は成功した。換言すれ
    ば
    對象充積が同一視によりて置換へられたと推測した。しかしこの説明を最初主張した時に、そ
    の過程の十分なる意義を認めず、且つそれが普通であり、代表的のものであることを知らなかつ
    た。その後にになつて、この種の置換へが自我の取る形式を決定するに大に關係すること、性格と
    名づくるものを構成するに實質上貢献することが明かになつた。
    *Trauer und Melancholie.
    個人の存在の原始的言語段階の極く初めに於ては、對象充積と同一視とは殆ど區別されて居な
    い。後にになつて對象充積はエスから生じ、エスの中では色情的傾向が必要として感ぜられること
    を推定することが出来る。自我はその初めに餘り強くないが、對象充積に就ての知識を有する。
    而してそれを承認するか、或は抑壓の過程によりてそれに對して防禦を試みる。
    *對象選擇が同一視によりて置換へることに竝行せる興味ある事實は、原始人の信仰中に發見される。

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    彼等の信仰のタブーに於ては栄養として同化する動物の属性が、それを食する人民の性格として残る
    ものである。よく知られて居る通りに、この信仰は人肉嗜食の一の根元になつて居る。而してその影響
    をトーテム饗宴より聖餐までの慣習を通して辿ることが出来る。この信仰に於て、対象の口頭支配 (oral
    object-mastering) に帰せられる結果は、後の性的対象選択の場
    合に貢献はれのものである。

    若し人が性的対象を捨てなければならぬ時には、自我の變化を生ずることが屡々である。その
    變化は吾人が自我の中に於ける対象の回復として叙述し得るもので、鬱憂症に於て生ずるもので
    ある。しかしこの置換への眞の本質はこれまで知られて居ない。自我をして対象を捨てることに
    都合よくならしめ、又その過程を可能ならしむるものは、この内部投射 (introjection)、即ち口
    唇階段 (oral phase) の機制の一種の退行によるのである。又この同一視は恐らくエスがその
    目的を捨て得る唯一の條件である。兎も角發達の早い階段に於てはこの過程は屡々起るもので、
    自我の性質は豐富な対象充積の沈澱物であり、過去の対象選択の記録を保存すと結論することが
    出来る。勿論抵抗する能力には最初から種々の程度があるもので、ある特殊の人の性格は、色情
    的対象選択の歴史的影響を承認し又は拒絶するといふやうに相違がある。多くの戀愛事件をす

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    吾人
    る婦人に於ては、それの性格の特質の中に、この對象充積の痕跡を發見するに容易である。吾人
    は又同時的對象充積と同一視の場合を考察しなければならぬ。即ち對象が捨てられる前に生ずる
    性格の變化を考察しなければならぬ。かかる場合に性格の變化は對象關係を殘し、ある意味に於
    てそれを保存することが出来る。
    他の見地から見ると、色情的對象選擇が自我の變形に置換へることは、自我がエスを支配する
    ことが出來、且つエスとの關係を深める一方法であると言へる。而してそれは自我がエスの經驗
    に大部分從順であることが生ずる。自我が對象の形態を取る時には、自我は自らを愛の對象とし
    てエスに強ひ「御覽、私は對象のやうでである。故は對象のやうに私を愛することが出來る」とい
    ふことによつて、對象の損失を補はんと試みる。
    かやうにして生ずる對象リビドーが自己愛的リビドーに變形することは、性的目的の破棄、即
    ち性慾退化(Desexualisierung)の過程を意味し、從つて一種の昇華作用である。茲に於て問題
    となるのは、これは昇華に常に用ひらるる通路であるか否か。凡ての昇華は、性的對象リビドー
    を自己愛的リビドーに變化せしめ、他の目的に代へて行く所の自我の調停によりて生ずるか否か
    *

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    の問題で、注意深き考察を要する。吾人は後に他の衝動の運命がこの變化から結果しないか、例
    へば共に融合して居る衝動の分解がこの變化から生じないかを考察しなければならぬ。
    *今吾人は自我とエスとの區別をしたが、自己愛に就ての私の序論中に述べたやうに、エスをリビドー
    の大貯水池と見なさなければならぬ。上に述べた同一視によりて自我に流れ込むリビドーは、それの二
    次的自己愛を生ずる。

    少しく吾人の論題を外れる嫌ひがあるが自我の對象同一視のことを暫く述べなければならぬ。
    この同一視が優勢になり、多數となり、相互に兩立し難くなると病的結果を生ずる。個々の同一
    視が抵抗によりて相互から切斷されるために、自我の分裂を生ずる。恐らく所謂複重人格の場合
    の秘密は、種々の同一視が意識を順次に占領することである。それほど烈しくなく病的とは言へ
    ないにしても、尙異なる同一視の間の軋轢が表れて自我の分裂を來たす問題、結局純粹の病的現
    象として敍述することの出来ない軋轢の問題が殘つて居る。
    豐富なる對象充積の影響に抵抗するために、如何なる性格の力が後年に至りて生ずることがあ
    つても、最も早い子供時代に於ける最初の同一視の結果は一般的且つ持久的である。このことが

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    自我理想の起源の問題に吾人を導く。蓋し自我理想の背後には、凡ての中で最初であり且つ最も
    重要なる同一視、即ち各人の歴史以前に生ずる所の父との同一視が隠れて居るからである。これ
    は明かに対象充積の結果又は産物でなく、直接の同一視で、何れの対象充積よりも一層早く生ず
    る。しかし最も早い性慾期に属し、且つ父と母に関係する対象選択は、最初の同一視を強める如
    き種類の同一視の中に通常それの結果が表れて居るやうである。

    *恐らくこれは「父」と言はず「両親」といふ方が一層安全であらう。何となれば子供が性の相違に就
    て確実な知識を得るに至るまでは、陰茎のないことが父と母との価値に相違を来さないからである。私
    は近頃一人の若い結婚した婦人の例に遭遇した。その女の物語によると、彼女自身に陰茎のないことに
    氣づいた後、それは凡ての婦人に缺けて居らず、劣等のものと見做される婦人のみが缺けて居ると推測
    し、彼女の母もそれと信じて居たと想像したといふことである。しかし私の叙述を簡単にするために、
    單に父との同一視といふことにする。

    しかしこれ等の関係は極めて複雑で、今少し精密に述ぶる必要がある。この問題を複雑にす
    るものは、エディプス関係の三角の特質と、各個人の生来の両性的なることの二つの成分に基い

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    て居る。
    それの単純なる形式に於ける男児の場合を叙述すると次の如くである。極めて早い年齢に於て
    は、幼児は母の対象充積を發達せしむる。それは最初母の胸に關係し、依賴型(Anlehnungstyp)
    即ち自己保存本能に倚れば保持された愛―譯者)の對象選擇の最も早い場合である。而して男
    児は父を自己と同一視して取扱ふ。暫くはこの二つの關係は相竝んで存在するが、後には母への
    性的欲求が一層強烈になり、父はそれに対する障碍物として認められる。これがエディプス錯綜
    を生ずる。*その後父との同一視は敵の調子を帯び、母に對する父の位置を占めんために、父を
    除かんとの欲求に變ずる。その後父に對する關係は、竝存性(Ambivalenz)を取り、恰も同一視
    の中に最初から存在する竝存性が表はれたかの如くに見ゆる。父に對する竝存的態度と、母に對す
    る純粹の愛情的對象關係とが、男児の中に、單純なる積極的エディプス錯綜の内容を作り上げ
    る。

    エディプス錯綜の分解と共に、母の對象充積は放棄されなければならぬ。その場所は、二つの

    *Massenpsychologie und Ich-Analyse, VII. 參照。

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    事物の中の何か一つによりて満
    たさるかも知れない。即ち母との同
    一視か、又は強烈になつ
    た父との同一視かである。而して後者
    の結果が一層正常のものと認むべき
    で、母との愛情関係
    がある程度に保存される。この仕方
    に於てエディプス錯綜の通過は、男
    児の中に男性を鞏
    固にする。それと全く同じ仕方
    に於て、幼き娘に於けるエディプス
    態度
    の成果は、母との同一視
    を強烈にし(或はかかる同一視が
    やうにして初めて生ずるかも知れ
    ない)その結果子供の性格
    の中に女性の型を生ずるであらう。
    これ等の同一視は豊富なる対象を
    自我に吸収しないから、常に上に述べ
    た通りになるとは言へ
    ない。而して前記の二つの結果の
    中の何れかが生ずるもので、それは
    男児に於てよりも女児に於
    て多く表れる。即ち分析の結果、吾
    人の屡々遭遇する所は、少女が愛の
    対象として彼女の父を棄
    て、男性を凌駕して、彼女の父と
    自分とを同一視した。換言すれば
    自己の
    中に男性型が十分に強くあるか否
    かに明か
    故に両性に於て、男性的及び女性
    的傾向の相対的強度がエディプス
    状態
    の結果として父と同一
    に基いて居る。
     

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    観ずるか又は母と同一視するかを決定する。これが両性に於けるエディプス錯綜その後の変化
    を来たす一の方法であるが、他の方法も亦大切である。単純なるエディプス錯綜はその最も普
    通の形式を取らず、単純化又図式化をなして表れるもので、それが却つて實際的目的に適する
    ことが屢々である。一層精密に研究すると、一層完全なるエディプス錯綜が明かになる。それは
    積極的と消極的との二つがあり、子供時代に最初に表れた両性的傾向に基いて居る。換言すれば
    男児は父に對する竝存的態度と、母に對する愛の對象關係とを有するのみならず、同時に女児の
    やうな行動をし、父に對して愛の女性的態度を表し、母に對して、敵意と嫉妬とを示すものであ
    る。この両性的傾向によりて生じた複雑な要素のために、最も早い對象選擇と同一視との關係を
    明白に考察することも、亦それ等を明白に叙述することも困難である。両親に對する關係に示さ
    れる竝存性は全く両性的傾向に歸すべきであるが、競爭の結果として同一視から發達するもので
    ないとすべし。

    私の考へによると、完全なるエディプス錯綜の存在を假定することは一般に都合よく、殊に神
    經症に關係する場合に然りである。分析的經驗によると、多数の場合に、只區別し得る痕跡を餘

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    いては、他の成分は消失する。即ち一方にはその系列が正常の積極的
    他方には倒逆的の消極的エディプス錯綜を生じ得るが、その中間に位する部分は、この二つの成
    分中優勢のものと完全なる形態を構成する。エディプス錯綜が崩壊する時には、それを構成する
    四つの傾向が集合して、父の同一視と母の同一視とを生ずるやうになる。父の同一視は積極的錯
    綜に属する母への対象関係を保存し、同時に倒逆的錯綜に属する父への対象関係の代りをする。
    同様のことが母の同一視にも生ずる。何れの個人に於ける二つの同一視と相対的強度は、二つの
    性的傾向の何れかがその人に優勢であるかを示すものである。
    故にエディプス錯綜によりて支配される性的段階の一般的結果は、ある仕方に結合せる二つの
    同一視から成立する自我中の沈澱物を作ることであると考へてよい。自我のこの変化は、その特
    殊の位置を保存し、自我理想又は超自我の形式に於ける自我の他の成分と相対立して居る。
    しかし超自我は単にエスの最初の対象選択によりて残された貯蓄でない。それは又この選択に
    反対する一の強い反撥構成をも示して居る。それの自我に対する関係は、「汝はかやうに(父のや
    うに)あるべきである」との訓戒によりて盡きて居ないで、尚「汝はかやうに(父のやうに)あ

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    つてはならぬ、換言すれば父のなす所の凡てを行つてはならぬ、多くの事が父の特権になつて居
    る」との禁止をも含んで居る。この自我理想の二重の方面は、自我理想がエディプス錯綜の抑壓
    に努力する事實から生ずる。而してこの抑壓は實に革命的出來事によりて初めて生ずるものであ
    る。エディプス錯綜の抑壓は確に容易の仕事でなかつた。兩親、殊に父がエディプス欲求の實現
    に障碍として認められた。それで子供の自我は自身の中にこの同一の障碍を造ることによりてこ
    の抑壓行為を強力にした。これをなす力は謂はば父から借りて来た。而してこの借財が非常に大
    切な行為であつた。超自我は父の特質を保存するが、エディプス錯綜が強くなるに従つて、尙迅
    速に(權威、宗教教育、訓練、講義の影響によりて)抑壓を生じ、且つ後になりて超自我は益々
    自我を嚴密に支配するやうになる。而してこの際の超自我は良心の形式、或は恐らく無意識の罪
    惡感として自我を支配する。かやうな仕方に支配する力の源泉に就ては、後に説明するが、その
    源泉は強迫的性質を有し、無上命令の形式に於て示される。
    若し超自我の起源を今一度考察するならば、それは二つの重要なる結果であることを知るであ
    らう。その一は生物學的で、他は歴史的である。即ち人間が子供時代に助けなく、頼ることの長

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    いことと、エディプス錯綜の事実とである。その錯綜の抑圧は、愛情の
    発達が潜在期によりて中断されることと関係し、又性慾生活の一種の活動と
    関係して居る。一精神分析者の見地によると人間に特有な前記の錯綜は、
    氷河期に必要であつた文化遺産である。超自我が自我から分化することは
    偶然のことでなく、個人竝に種族の發達に於ける最も重要なる出来事の
    代表物である。かやうに両親の影響を永久に表現することによりて、その
    起源となつた成分の存在を不朽に示して居る。
    精神分析學は人間本質の高等な、道徳的、超人的方面を無視すと長い間
    非難された。この非難は疑ひもなく歴史的に且つ方法論的に不正である。
    何となれば第一に抑壓を鼓舞する機能を自我の道徳的美的傾向に最初から
    歸した。第二に精神分析的研究は、哲學系統のやうに、出来合の完成した
    教義を以て進んで行くことが出来ず、正常及び異常の現象を分析探究する
    ことによりて一歩一歩複雑なる心理を理解する方法を取らなければなら
    なかつた。心の抑壓せる部分の研究が吾人の仕事であつた間は、人間生活の
    高尚な方面の存在を理解する必要が無かつた。しかし今は自我の分析を
    初めるやうになつて、人間の高等なる本質があるに相違ないと非難した
    凡ての人に答へ

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    ることが出来るやうになつた。吾人はこの高等なる本質が自我理想或は
    に對する關係の代表物の中に存すといふことが出来る。吾人が小さい子供であつた時に、これ等
    の高等なる性質を知つた。吾人はそれ等を尊敬し、恐れた。而して後には自分自身にそれ等を取
    入れたのである。
    故に自我理想はエディプス錯綜の後継者であり、又それはエスの最も有力なる衝動と最も大切
    なるリビドーの變化の表現である。この自我理想を生ずることによりて、自我はそのエディプス
    錯綜を支配し、同時にそれ自身エスに服従する。自我は主として外界、即ち現實の代表者である
    から、超自我は内界、即ちエスの代表者として自我に對立する。故に自我と理想との間の爭闘は
    結局現實のものとの、心的のものとの對立、外界と内界との對立たることを示して居る。
    生物學的發達と人間種族の中に行はれた變化とによりて、エスの中に殘された凡ての痕跡は、
    理想の構成によりて、自我に受繼がれ、自我によりて各個人の中に生存する。自我理想はそれが樺
    成される仕方よりして、各個人の系統發生的賦與、即ち古代の遺産と多くの點に接觸して居る。
    かくて各人の心の最低部に屬するものは、理想の構成によりて、人間精神の最高として價値づけ

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    られるものに變化する。しかし自我を定位した意味に於て、自我理想を定位する企ては無益であ
    る。或は自我とエスとの關係を示すやうに試みた補助を自我理想に取入れることも無益である。
    人間の高等なる本質に就て豫期されるものは、自我理想によりて容易に答へられる。自我理想
    は父への思慕の代表である限り於て、凡ての宗教發達の萌芽を含んで居る。自我がそれの理想
    に達しないと宣言する自己判斷は、宗教信仰者の思慕の證明になる無價値の感を生産する。子供が
    成長する時に、父の役目は教師又は他の權威あるものによりて行はれる。彼等の命令や禁示の力
    は、自我理想の中に残り、良心の形式に於て道德的監視を行ふことをつゞける。良心の要求と自
    我の現實の行爲との間の緊張は、罪惡の感として經驗される。社會的感情は、共通の自我理想を
    有することによりて他人との同一視を生産することに基いて居る。
    人間に於て最高なるものの主要素たる宗教、道德社會感は根本に於て同一物である。私が「ト
    テムとタブー」の著書中に述べた假定によると、それ等は系統發生的には父錯綜から獲得したも
    のである。宗教及び道德的制限は、エディプス錯綜そのものを支配する實際の過程によりて得ら
    れ、社會的感情は若い世代の人々の間に殘る競爭心を打破する必要から生じたものである。男子

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    が凡てこれ等の道徳的獲得を發達せしむる先導をなし、交錯遺伝によりて、それ等が婦人
    に傳達されたやうに見ゆる。今日でも社會的感情は、兄弟姉妹に對する嫉妬と競争の衝動の
    上に部構造として個人の中に生ずる。敵意が満足されることが出来ないで、以前の競争者との
    同一視が發達する温和な同性愛の場合の研究は、この場合に於ける同一視が、敵對的進撃的態度
    に惹起する温情的對象選擇の代表物であることを確めて居る。***

    *茲では科學と宗教とを暫く措いて述べる。

    **Massenpsychologie und Ich-Analyse [Ges. Schriften, Bd. VI]. 及び Über einige neurotische Mechanismen bei Eifersucht, Paranoia und Homosexualität. [Ges. Schriften, Bd. VI]. 参照。

    しかし系統發生の叙述と共に、世人が驚いて退却したい位の新しい問題を
    生ずる。吾人が骨折って建設した全體の組織の不適當を暴露するかも知れないとの恐れ
    あるに拘らず、どうしても吾人はこの問題の考察を敢てしなければならぬ。即ちその問題
    とは、早い時代に於て父緒絲から宗教と道徳とを獲得したものは、原始人の自我か或は原始
    人のエスか。若しそれが彼の自我であれば、自我によりて遺傳されたものに就て何故に吾人
    は述べないか。若しそれが彼のエスであれば

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    エス の 特質 と 如何 にし て 一致 する か。 或 は 自我、 超 自我、 エス の 分化 を、 かやう な 早い 時代 に 及
    ぼす こと は 不正 で ある か。 或 は 自我 の 中 の 過程 の 全部 の 概念 は、 系統 発生 を 理解 する に 助け と な
    らず、 又 それ に 適用 出来 ない こと を 正直 に 告白 し て は なら ない か。
    先 づ 答 へる の に 最も 容易 な 第 一 の 問 に 答 へよう。 自我 と エス と の 分化 は 原始 人民 のみ ならず、
    匈 遙か に 単純 なる 生活 形式 に 歸 せ なけれ ば なら ぬ。 何 と なれ ば、 それ は 外界 の 影響 の 免れ 難き 表
    現 で ある から で ある。 超 自我 は トテミズム に 導い た 經驗 から 生じ た もの で ある。 これ 等 の 事物 を
    經驗 し 獲得 し た もの が 自我 で あつた か、 エス で あつた か の 疑問 は 直ち に 意義 を 失つ て しまふ。 即
    ち エス に 對し て 外界 の 代表 者 と なつ て 居る 自我 を 頼ら なけれ ば、 エス は 外界 の 變化 を 經驗 し、 そ
    れ に 遭遇 する こと が 出来 ない。 しかし 又 自我 による 直接 遺傳 といふ こと も 出来 ない。 故 に 於 て 現
    實 の 個人 と 種族 の 概念 と の 間 の 空隙 が 明か に なる。 匈 又 自我 と エス と の 相違 を 嚴密 な 意味 に 取つ
    て は なら ぬ。 自我 は エス の 一部 で、 特に 分化 さ れ た もの たる こと を 忘れ て は なら ぬ。 自我 の 蒙 む
    る 經驗 は、 先 づ 後代 に は 失 はれる やう に 見 ゆる。 しかし その 經驗 が 多く の 世代 の 連続 的 個人 に 於
    て 十分 に 反復 さ れ、 強度 を 弱め られる 時 に は、 エス の 經驗 に 變形 し、 その 印象 は 遺傳 に よつ て

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    保存される。かくして遺伝され得る所のエスのの中に、無数の以前の自我の存在の痕跡が蓄積され
    る。而して自我がエスから超自我を構成する時に、それは過ぎ去った、自我の復活せる像に過ぎ
    ない。
    超自我が生ずるに至つた歴史は、如何にして自我がエスの対象充填と早い時代の軌轢を生じ、
    竝に自我の後継者たる超自我との軋轢をつゞけ得たかを説明する。若し自我がエディプス錯綜を
    支配するに成功しなかつたならば、エスから發生したエディプス錯綜のエネルギー充填は、自我
    理想の反應構成にその出口を求めるであらう。理想と無意識の衝動との間に極めて自由に行
    はるる交通は、理想が大部分無意識たり得ることを、自我に寄りつき難きことを説明する。嘗て心
    の最も深い層の中に生じた争闘、迅速な昇華と同-
    視によりて終結しなかつた争闘は、今ではカ
    ウルバッハ(Waldeck, 千八百五年獨逸のワルデックに生れた歴史畫家–譯者)の繪にあるフ
    ロンの戦争が空中で行はれる如く、今では一層高い領域で行はれて居る。