夢の註釈1900-001/1932.ja
  • S.

    1

    第一章

    夢に意味あり

    『科學前期』とも云ふべき時代に於いては、人々は夢の判斷に就いて何等遲疑するところはなかつた。覺醒後に夢を思ひ出した時には、それ等の夢は何
    か人間以上の力――惡魔か神か――の好意ある又は敵意ある顯現と考へられた。科學思想の勃興と共に、このやうな劃切な神話は全部、心理學に委讓せ
    らるゝことゝなつた。今日では教育のある人々の間では夢が見た人自身の心的行爲であることを疑
    ふやうなものは殆ど稀である。

    けれども神話的假説の沒落以來、夢の註釋と云ふことはなくなつてしまつてゐる。夢の起源の條件、
    覺醒時に於ける我々の心理生活に對する夢の關係、睡眠狀態の間に懸がれてそのために注意を強ひら
    れるやうに思はれるが、夢はそれには關係がないといふこと、或る夢の影像がそれとは似ても似つか
    ぬ感情を惹起すこと、それから夢の消え易いこと、覺醒後に我々の意識が夢を何か奇體なものとして
    抑除けるその抑除け方、また我々の回想が夢を改刪したり拒否したりすること――總てこれ等の、竝

    第一章 夢に意味あり

  • S.

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    夢の註釋

    びご他の多くの諸問題は幾百年の間答案を要望して来たが、その答案は今日までたゞ曾て満足なもの
    はなかつたのである。何よりもまづそこに夢の意味に關する問題がある。これはそれ自身に二方面を
    持つ問題である。第一に夢の心理的意義である、心理的過程に於ける夢の位置である、何か一つの生
    物學的機能に於ける夢の位置である。第二に、夢には一つの意味があるか、他の心的綜合からは意味
    が汲めるやうに、個々の夢から意味が汲めるか。

    夢の測定に於いては三つの傾向が見られる。多くの哲學者はこれ等の諸傾向の一つを流行せしめて
    ゐる。その一つは同時に、昔ながらの夢の貫被りを幾らか保存してゐるのである。夢の生活の基礎は
    彼等にとつては、心理的活動の一つの特殊の状態であつて、その状態に依つて或るより高い状態に登
    攀するのだと云ふので、彼等は非常に大切にするのである。例えばシウベルト Scherer の如きは、『夢
    は精神を外的自然の壓迫から解放することであり、物質の桎梏から靈性を脱却せしむることである』
    と云つてゐる。總ての哲人がこの通りだと云ふのではないが、併し大抵の人は夢が現實の精神的亢奮
    にその起源を有し、晝間に自由を發動することを遮ぎられた精神力が外部に顯現したものだと主張す
    るのである。『夢のファンタシー』シーネル Scherer フォルケルト Volkelt 多くの觀察者は、夢の生
    活が、少くとも或る分野(記憶)に於いては、異常な働きをなし得るものであることを承認してゐる。

  • S.

    3

    これとはまた正反対に、大部分の醫學者たちは夢が抑々心理的現象で
    ある。彼等に依れば、夢は感官又は肉體から来る刺戟に依つて、専ら惹起されるものである。その
    刺戟と云ふのは外部から睡眠者に達するか、或はその人の内的器官が偶然に攪亂せらるゝことなので
    ある。夢が何らの意味や重要さを持たないことは、宛も音樂のツブの素人が樂器の鍵盤の上に十指を
    走らせて捏立てた音響と同じである。夢は『常に無用な、屢々病的な肉體的過程として』考ふべきだ
    とヒンツ Bier は云ふ。夢の生活の一切の特殊性は或る器官の、又は夢見てゐる以外の點では眠つて
    ゐる頭脳の皮質的要素の、緩まりもない骨折り(何か生理的刺戟に因る)だと解せらるゝ。

    併し科學者の意見には頓着なく、また夢の起源などには煩はされずに、一般人は夢が實際に一つの
    意味を持ち、何とか未來を豫言するものであると共に、またその意味は屢々奇醜で且つ謎のやうな夢
    の内容から何とか彼とかほぐし出すことが出来るものだと云ふことを固く信じてゐるのである。夢判
    斷とは夢の出来事を、記憶してゐる限りに於いて、他の出来事に置換へゝることであるのだ。これは
    何等かの厳密な要訣に依つて、場面と場面とを置きかへゝたり、或は夢全體をその夢に依つて象徴せら
    れてゐる何物かに置換へたりしてやるのである。眞面目な御仁たちははかう云ふ努力を嘲笑する―『夢
    なんか海の泡さ!』

    第一章 夢に意味あり

  • S.

    四

    夢の註釋
    嘗て私は發見して驚いた次第だが、迷信に基く一般の見解が、醫者の見解よりも、夢に關しては眞
    理に近いのである。私は心理探究の新しい方法を用ふることに依つて、夢に關する新結論に到達した
    のである。その方法に依つて私は恐怖症、強迫症、錯覺などの研究に甚だ獲るところが多かつた。さ
    うしてその方法は『精神分析』の名に依つて或る一派の研究者の全體に採用せらるゝことになつたの
    であつた。夢の生活が覺醒狀態に於ける精神病の各種難多な状態といろくアプリオリに類似してゐることは、
    多くの醫學者に依つて正しくも主張せられてゐる。であるから、精神病理學上の過程で試驗せられた
    研究の方法を、夢の註釋に適用することは有望であるやうに、實驗的に考へられたのである。強迫症
    や、かのさまぐノルマルな特殊の恐怖感とが常態の意識にとつて奇異であることは、夢が我々の覺醒意識
    に奇異であるのと同じである。それ等恐怖の起源が意識に知らざることは夢の起源と同じである。
    これ等の病氣に於いて、我々は實際上の目的に強要せられてその起源と構成とを測定するやうになつ
    たのである。經驗の結果、吾人には、強迫觀念の治療、並びにその結果それらを支配することは、病的
    觀念と自餘の心的内容との連結環たるそれ等の強迫觀念が、一朝意識面(これまでは匿れてゐたの
    が)に出て来た時に於いてゐることが明かとなつた。夢の註釋のために私の用ゐた方法は、このやうに
    精神療法から起つて来たのである。

  • S.

    五

    その手續きは、それを實施するには訓練と經驗とを要するけれども、説明することはわけはない。
    まづ、病者が激烈な病的恐怖に惱んでゐると假定せよ。吾人は病人に問題の觀念に注意を向けさせる。
    が、併し、これまで屢々して来たやうに、その觀念に關して瞑想するのではないのだ。これに關して
    彼に起る一切の印象は、一つの例外もなく、醫師に告げさせる。その時恐らく病人は全く何物にも注
    意を集中することは出来ないと云ふであらうが、それに對してはそのやうな心の空白狀態は全然あり
    得ないのだと云ふことを具さに説きさとさねばならぬ。實際、幾多の印象が直ちに生じて来る、それ
    と共に他の印象もそれに關聯して生じて来る。これ等の印象には必ず觀察者としての意見の表白がつ
    きまとふものである、つまり無意味な印象だとか、重要でない印象だとか云ふ―。で、この自己批
    評のために病人がその觀念を吐き出すことを妨げられてゐるのであり、またそのために既に意識から
    除外されてゐるのだと云ふことが直ちに分るのである。もしも病人がこの自己批評を捨て、注意を集
    中することに依つて得らるべきやうな思想の連結を追及することが出来るやうになるならば、最も
    重要な事柄を捉へることが出来るのである。即ち問題の病的觀念に明かに連結してゐると直ちに分る
    であらう事柄を捉へることが出来るのである。その事柄が他の觀念と結合してゐることが明白となり
    後にはその病的觀念に代つて新鮮な、精神の連續性に完全に適合する新鮮な觀念を以てするやうに

    第一章 夢に意味あり

  • S.

    六

    なるであらう。
    只今我々はこの實驗が依つて立つところの假定を、或はこの實驗がいつも必ず成功することか
    ら引出せる推論を、十分に檢察してをる場合でない。たゞもし吾人が我々の思想を擬擬するところの、招
    かいざる聯想へと吾人の注意を特に向けるならば、一切の病的觀念を解體せしむるに足る事柄を獲得
    するのだと云ふだけで滿足せねばならぬ。もしこの手續を自分自身に實施するのならば、この實驗を
    助くる最上の方法論は、自分の一切の判然せぬ空想を直に書き止めるのである。
    さて、私はこの方法を夢の檢察に適用した場合にはどうなるか、それを示さうと思ふ。どのやうな
    夢でもこの方法で行けば役に立つのである。併し或る動機から、私は私自身の夢を探らうと思ふ。私
    の記憶には混亂し無意味のやうに思へるが、併し簡單であると云ふ取柄がある夢を探らうと思ふ。多
    分私の昨夜の夢がその要求に協つてゐる。その内容は眼覺めて後直ちに書きとめたのだが、次のやう
    である。
    『會社、卓1)又は共同食卓に向つて。……ほうれんさうの皿が出てる。EL夫人が私の隣に掛けて、
    私の方に專念注意を向けてゐる。さうして手を私の膝の上に酬々しくかける。それを防ぐために私は
    彼女の手を除ける。その時彼女は云ふ「だつて貴方はいつもそんな美しい眼をお持ちなんですよ。」

  • S.

    七

    …私はその時、素描畫のやうな、または眼鏡のレンズの輪廓のやうなもの
    刹然と見た。……』
    これが全體の夢である、或は少くとも、私の思ひ出し得る總てである。それは私に甚だ漠然とし
    てをり、無意味であるばかりでなく、それ以上に特別にかしこいのである。El夫人と云ふのは訪問
    し合間柄でさへない人物である。それこれこれ以上親密になりたいと思つた覺えもない。私は彼女と
    は久しく會つた事はない、また彼女のことを近頃考へて見たとも考へられない。何の情緒も夢の過程
    に伴ひはしなかつた。
    この夢を反省して見ただけでは、この夢は少しも私の心に明白にはなつて来ない。併しこれから、
    私は豫考も批判もなしに、内省の結果得た觀念を呈示して見よう。私はこの夢を要素に分解して、各
    斷片に自らを連結してゐる觀念を探索するのが得策であることに氣付くのである。
    會社、卓文は共同食卓に向つてゐる。昨晩の終りに起つたさゝやかな出来事の追憶が直ちに呼出さ
    れる。私は或る友人の會社の小集から辭去した。彼は私を彼の馬車に乗せて送らうと申出た。『僕はタ
    クシの方が好きなんだ』と彼は云つた。『タクシは坐り場所が愉快で、何か見るものがいつもあつてね』
    我々は馬車に乗込んで、馭者が圍板を轉じて最初のハイトレル錢が見えるやうにした時に、私は
    第一章 夢に意味あり

  • S.

    八

    夢の註釋

    冗談を続けた。
    『我々はタクシ1)に乗つたかと思ふと、早六十ヘルレルを借りてゐるのだね。
    タクシはいつも僕に共同食卓を思はせる2)。タクシに絶えず僕に僕の借りを思ひ起させる事に依つて、僕を貪慾にし利己的にする。僕にはそれがあんまり早く昇りすぎるやうな気がする。さうしていつも僕は不利益に陥るやうな気がする。それは丁度共同食卓では自分があまりに少ししか食べないやうな、自分を警戒してゐなければならないやうな、滑稽な不安を感じることを拒み得ないのと同じだ。』これと遙かな聯關も
    あるから、この詩を引用しておく。

    『地上に、この退屈な地上に、そなたは我々を連れて来た。
    罪へ、そなたよ、無頓着に行かうではないか。』

    共同食卓に関して、もう一つの觀念がある。數週間前にティ-
    ロールの養生園で晝食の時に、私は自分
    の愛妻と噛み合つてゐた。と云ふのは、彼女が、私の絕對に交渉したくないと思つてゐる或隣人たちに對して十分な隔意を保つてゐなかつたからである。私は彼女に他所の人と一緒にゐるよりは、寧ろ私と一緒にゐて貰ひたいと云つたのである。それは丁度共同食卓で不利益に會つたやうなものであ
    る。食卓での妻の行動と夢の中でのEL夫人の行動との對比が今や私に首肯けた。『私の心は、注意
    を向けてゐる。』

  • S.

    九

    第一章 夢に意味あり

    更に、今や、この夢が、私のひそかに彼女を口説きつゝあつた時分に、妻と私自身との間に起つ
    た一小場面の再寫である事が、私に分つて来た。テーブルクロースの被ひの下で抱きかゝつた事は、
    求情者の熱烈な手紙に對する應答である。夢の中では、併し、妻は馴染の淺いEL夫人で置換へられ
    て居る。

    EL夫人は私の借金してゐる人の娘である。私はこゝにおいて夢の内容と私の思想との間の畏ひも
    かけぬ連結が暴露せられてゐる事を氣付かないわけに行かない。もしも夢の或る一要素から出てゐる
    聯想の鎖を追うて行つたとしても、我々は直ちにその夢の要素へと連れ戻される。夢の惹起す思
    想は、夢それ自身に於いては氣付かなかつたところの聯想を呼覺ますものである。

    他人が彼等自身の利得にはならないのに、たいゞ自分の利益を求めて呉れると期待してゐる人がゐる
    場合には、『これが貴君の美しい眼のために為されるのだと思つてゐるのですか』と無邪氣な質問を皮
    肉に云ふのが普通ではないだらうか。夢の中でのEL夫人の言葉はこゝから來てゐる。『貴方はいつも
    そんな美しい眼を持つてゐらつしやる』は『人々は貴方を愛するために、いつも一切の事をしてゐる。
    貴方は何もいゝゝ、一切を得てゐる。』と云ふ事に外ならぬ。その反對は勿論本當である。私は他人が
    私に示してくれた如何なる親切に對しても、いつも厚く報いて來た。けれども、昨日友が彼の馬車に

  • S.

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    乗せて私を家に送つてくれた時に、一文も拂はず
    に馬車に乗つたことと云ふことは、私に一つの印象を與
    へたに違ひない。
    何れにせよ、昨日我々が訪客となつたその友からは、屢々私は好意の受け越しになつてゐた。近頃、
    私は彼に報ゆべき機会を一つ遭遇した。彼から私から唯一つの贈物を受けたいけである。それは昔の肩
    掛けで、その上には一面に深山の眼が描いてゐる。それは所謂 Ocellata. であつて、Malocchio に
    對する禁壓としてゝあつた。それに、彼は眼科専門醫で、その同じ晩に、私は嘗て彼のところへ眼鏡
    の事で遭つた患者の事を尋ねたのであつた。
    [註]私の述べた通り、この夢の殆ど總ての部分はこの新しい關係に持來たされたのである。併しなほ私
    は調べて見たい、何故この夢に於いて卓に出てるたのはほうれんさうであつたのかを。何故と云ふに
    ほうれんさうは、我が家の食卓で近頃起つた一小場景を呼覺ます。本當に賞讃に價する美しい眼を
    持つた一人の子供が、ほうれんさうを喰べることを拒んだ。私も子供時代には丁度その通りで、永い
    間私はほうれんさうが嫌ひであつたが、後年になつて私の嗜好が變つてからはそれは私の好物の一つ

    [註1)](ラテン語の oculus (眼)から來た語であるらしい。眼のお守りと云ふ意か。Malocchio は凶眼とで
    も譯すべきか。その眼に睨まれゝば、睨まれたものに不幸が來ると信ぜられる眼。(邦譯者))

  • S.

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    となった。ほうれんさうが出たので私の子供時代とこの子供のそれとが近接せられたのである。」は
    うれんさうが載けるのは、うれしいと思はなければなりませんよ』と母親はこの小さい美食家に云つた
    のであつた。こはうれんさうを戴くのを非常に喜ぶ子供もゐるんですよ。」かうして私は両親の子供に
    對する義務を思ひ出すのである。ゲーテの言葉たる

    『地上に、この退屈な地上に、そなたは我々を連れて來た。
    罪へ、そなたよ、無頓着に行かうではないか』

    はこの夢に關しては、まづ別の意味を採るのである。
    こゝで一先づ止めておいて、私は夢の分析の結果を約説して見よう。その前後のものから切離され
    てゐる夢の單一要素に連つてゐる聯想を辿つて行つて、私は一團の思想と回想とに到達したが、そこ
    には私は自分の精神生活の興味ある表現を認めざるを得ない。夢を分析することに依つて獲たものは夢
    の内容と密接な關係にある。併しこの關係は甚だ特殊的で、直接夢自體から新發見を推論し得なかつ
    たほどである。その夢は無情熱で、無聯關で、而も不可解なものであつた。夢の背後にある思想をほ
    ぐしてゐる間、私は強烈な、充分に根拠のある情緒を感ずる。思想自體は互に美しく調和して鎖狀
    となり、その鎖は常にそれ自身を繰返すところの或る中心的觀念と論理的に互に結ばれ合つてゐる。

    第一章 夢に興味あり

  • S.

    11

    夢の註釋

    そのやうな觀念は夢それ自身の中には現れてして、この場合には利己的、
    非利己的、貴ひ、いやしい、なつ
    てゐると只働きをしてゐるなど、相反するもののとなつてゐる。分析に依つて明と
    なつた繊維をもつて
    丁寧に引出すことも出来ようし、またさうしてそれ等の絲が如何に互に絡り合つて
    一つの結ばれとな
    つてゐるかも明かにし得るやうになりたくも思ふが、併しこの仕事の性質が學問的
    でなく私的であ
    るのを思ふと、これを公にすることも憚られる。自分のものと認めたくない多くの
    事を明かにした後に
    は寧ろ私の秘密として残しておきたかつたやうなことも啓示しなければならない
    であらう。では、
    どうして私はその分析を公表するに適わしやうな夢を選ばなかつたか。さうして
    分析に依つて暴露せ
    られた結果の意味と脈絡とのより公明な納得を得させるやうにしなかつたか。その
    答へは、何となれ
    ば私の調べる一切の夢は同じ困難に導き、私に同じやうな遠慮の必要を感ぜしむる
    からである。まし
    て他人の夢を分析した場合にはかやうな困難はなほさら無視するわけには行くまい。
    それをなし得る
    のは、私を信頼してゐる人々を傷けることなしに、一切の秘密を放擲し得るやうな
    機會が來た時のみ
    である。
    で、今や私の奥へなければならない結論と云ふのは、夢が完全な分析の後に私の
    到達した情緒的、
    知力的思想系列に對する一種の代償であると云ふことである。私は未だその夢が
    如何にしてそれ等の

  • S.

    一三

    思想から生じたかの過渡な知らないけれども、併し私はその夢を精神的に重要ならざるものであり、睡
    眠のために眼覚めた孤立的な皮質的要素の活動から生じた純粋に物的過程であると考へることの誤り
    であることは知つてゐる。

    勿論私は、もしだゞ一つの分析だけが私に知れてゐたのであつたならば、そのやうな遠大な結論を
    引出さうとは思はないのだ。経験に依つて私は、如何なる夢の連絡でもこれを正直に追及して行くな
    らば、そのやうな思想の鎖が引出され、夢の構成部分が正確に屡々と互に結合して再現するものだと
    云ふことを知つたのである。このやうな連続はたゞ一寸観察した時の単なる偶然ではないかと云ふや
    うな考へは、だから、絶対に放棄しなければならぬ。であるから、私はこの新しい見解を一つの固有
    の術語に依つて確立することを私の権利として考へる。私は、私の記憶が呼出す夢と、夢並びに、分
    析に依つて引出された他の附加物とを對比する。前者を私は夢の顕在内容と呼び、後者を(始めの内
    はこれ以上小分けせずに)その潜在内容と呼ぶ。で、私はこれまでに決定しなかつた二つの新問題に

    更にもまた私は、夢が、夢に依つて置換へられてゐる(と私の斷ずる)思想よりも、遙かに短いもの
    だと云ふことを云つておかねばならない。分析の結果、その夢は、結局前夜のつまらない出来事のた
    めに惹起されたことが發見されはしたが……。

    第一章 夢に意味あり

  • S.

    一四

    夢の註釋

    到達する。(一)夢の潜在内容を顕在内容に變改する精神的過程は何であるか。(二)そのやうな變改を
    必要とする動機は何であるか。潜在内容から顕在内容へと變化される過程を、私は夢の仕事と名付け
    る。これに對比するものは分析の仕事であつて、これに依つて反對の變改が生ずる。夢の他の問題
    —夢への刺戟物に關する、夢の材料の根源に關する、夢の可能なる目的に關する、夢の機能、夢の忘
    却に關する探究—これ等は私は夢の潜在内容に關聯させて論じようと思ふ。

    顕在内容と潜在内容との混同は、私は極力これを避けようと思ふ、何となれば、夢の生活に就いて
    の一切の矛盾した、また不正確な話は、分析に依つて今や始めて明かとなつた此の潜在内容を知らぬ
    ために生ずると思ふからである。

    夢の潜在思想が顕在思想へと轉換する事は、心的材料が-
    最初に知られた實例として、吾人の嚴密なる研究に慣習する。つまり、直ぐに分る表現方法から、我々
    がたゞ努力と指導とに依つてのみ透視し得る別の表現形式へと變改するのだ、尤もこの新方法は我々
    自身の精神活動の一つの努力として同等に評量されなければならないものではあるが-。夢の潜
    在内容と顕在内容との關係と云ふ見地から、夢は三種に分類することが出来る。我々はまづ第一に、
    意味があつて同時に分る夢、それ以上骨折らずに我々の精神生活に潜入せしむるやうな夢を擧げるこ
    とが出来る。

  • S.

    一五

    とが出来る。そのやうな夢は数が多いが、短いのが常である。また概して非常に注意すべきものゝ如
    くには思へない、何となればそこには凡そ著しいもの、驚かせるやうなものは一切缺如してゐるから
    である。それにまた、さう云ふ夢があつたと云ふことは、夢を或る皮質的要素の孤立的活動から引出す
    學説に反對する強い論證となるのである。低下した、又は小さく分裂した精神活動の徴證は全然見ら
    れない。けれども吾人はそれを夢と認めることに何等の異議を申立てないし、またそれを吾人の覺醒
    時の所産と混同もしないのである。

    第二の夢は、實際はそれ自身に脈絡あり、また判然たる意味を持つてゐるが、併し我々がそれ等の
    夢の意味を我々の心的生活と一致せしむることが出来ない故に、不思議に見えるやうな夢である。例
    へば、或る近しい親戚が、惡疫で死んだ夢を見たとして、我々がそのやうな期待、杞憂、臆測の何の
    根據も知り得ないやうな場合がそれである。

    我々はたゞ『何だつてあんなことが頭に浮んで来たらう?』
    と不思議がって自問するばかりである。第三類には意味もなく分りもしない夢が屬する。それ等の夢
    は脈絡もなく、錯亂してをり、且つ無意味である。我々の夢の大多数はこの性質を帯びてゐる。さう
    してこのために夢を輕視する態度が起るやうになり、また醫學上でも夢の精神活動を限定する説が生
    じて来たのである。殊に一層長い錯雜した夢に於いては、支離滅裂の徴證は殆んど缺けたことはない

    第一章 夢に意味あり

  • S.

    一六

    夢の註釋

    夢の顕在内容と潜在内容との對比は、第一類の夢に對して、また一層特別に第三類の夢に對して、
    明かに価値があるばかりである。これ等の問題は顕在的の夢がそれの潜在内容に依つて置き換へらる
    る場合に於いてのみ解決せらる。我々が分析に附した夢は、この種の錯雑した、わけの分らぬ夢の
    一例であつた。ところが我々の期待に反して、我々は、夢の潜在思想の完全な認識を妨げたところ
    のさまゞゝな理由に逢着したのであつた。この同じ経験を繰返してゐるうちに、我々は、そこに、
    夢のわけの分らない錯雑したい性質と、夢に闘聯してゐる思想の探索に附随する困難との間に、それ自
    身の法則を持つ一つの密接な関係があることゞとを假定せざるを得なくなつたのである。この関係
    の性質を探索する前に、第一類の、より容易にわけの分る夢、と我々の注意を向ける方が便宜であら
    う。何となれば、第一類の夢に於いては顕在内容と潜在内容とが同一であるからして、夢の仕事が省
    略せられてゐるらしく思へるからである。

    かゝう云ふ夢を扱へることは、今一つの立場からもまた結構なことである。子供の夢がこの性質
    である。子供の夢には意味があつて奇體ではない。序ながら云ふが、この事も、夢を睡眠中に於ける
    大脳の活動の分裂のせるにしてしまふ事に反對する今一つの理由となるのである。何となれば、精神

  • S.

    一七

    機能のそのやうな低下が成人の睡眠の性質に属して、子供のそれに属さないのであらうか。併しなが
    ら子供の精神過程(は本質的に単純なものではあらうが)の説明が、成人の心理學への缺くべからざ
    る準備として役立つであらうと我々の期待するのは、十分に理由のある事である。
    それ故に、私は自分の集めた子供の夢の實例を二三擧げるであらう。十九ヶ月の
    分が悪かつたので一日中食事をとらずに過させられたところ、乳母の云ふところに依ると、苺なべ
    ために、とう-
    名と呼び、さうして『苺、卵子、パップこ』と附加へた。彼女は食事中の夢を見て、彼女の獻立表の
    中から確かに彼女が今は澤山に喰べたいと思つてゐるもの選び出してゐるのである。
    『謎』(パン)を牛乳又は水に入れて煮たるもの。幼児、病人等に興ふ。
    禁斷された食膳の同種の夢は、二十二ヶ月になる一男兒のそれであつた。その前日に彼はその叔父
    さんに櫻桃の一籠を贈物にするやうに云はれ、その子はその内、勿論、たつた一つだけを賞味する事
    を許された。彼は眼が覺めると共に嬉しげに叫んだ。『ヘルマンは櫻桃をみんな喰べちやつたよ。』
    三歳半になる一女兒は晝間の中、海上で舟遊びをしたが、それは彼女にはあまりに短くて舟から出
    なければならなかつた時に泣き出してしまつたのであつた。その次の朝、彼女の物語るところに依る
    第一章 夢に意味あり

  • S.

    一八

    夢の註釋
    と、夜中に彼女は海上にあつて舟遊びの續きをやつてゐたと云ふのであつた。
    五歳半の一男兒がダハシュタイン地方に遠足してゐる間、彼の仲間には加はつてゐるのをあまり面白
    く思つてゐなかつた。新しい山嶽が眼に見えるや否や、それがダハシュタインかどうかを尋ねた、さ
    うして遂に旅行の仲間へ加はつてゐる事を拒んだ。彼のこの行爲は疲れたゝめだと云ふ事にされたが
    併しもっとよい説明がその翌朝になつて出て來た。翌朝彼の物語つた夢に、彼はダハシュタインに登
    つたのであつた。明かに、彼は遠足の目的がダハシュタインに登ることだと期待してゐた。ところが
    その山の瞥見をだに得なかつたので面白くなかつたのである。晝間彼の得損つたものを、夢が彼に與
    へたのである。六歳の一女兒の夢も同様である。彼女の父はもう遲くなつたことゞ云ふので、約束のとこ
    ろへ達するまでに散歩を切上げてしまつた。歸り道に、彼女はまた別の遊び場所の名の出てるる看板
    を見た。彼女の父は何かその内にまたそこへも連れて行かうと約束した。その翌日起きた時に彼女は
    父に、昨夜お父さんいゝいゝいゝいゝ場所へいゝいゝ來た夢を見たとの挨拶をした。
    總てこれ等の夢の共通なるものは明かである。彼等は晝間遂げんとして遂げ得なかつた願望を、夢
    で充分に満足させてゐるのである。それ等の夢は單に、明瞭に、願望の實現である。
    次の子供の夢は、一見したところでは全く理解出来ないが、願望の實現に外ならぬのである。四歳

  • S.

    一九

    未滿の一女兒が脊髄角炎(小兒麻痺)のために田舎から町へ連れ來られ、さうして徹宵、子供のな
    い叔母と一緒に大きな――彼女にとつては勿論、巨大な――寢臺の上に寢てゐた。翌朝彼女の語ると
    ころに依ると、彼女はその寢臺が非常に小さくて自分の寢る場所がないほどであつたと夢みた。この
    夢を一つの願望として説明するには、總て子供が『大きく』なることの願望を屢々洩すものである
    ことに想到すれば、容易である。寢臺の大きさは、小成人憧憬をなして自分の小ささをあまりに力強
    く自覺せしめたのであつた。この面白からぬ立場は夢の中で正され、かくて彼女は非常に大きくなつ
    て、今や寢臺が彼女にとつてあまりに小さ過ぎるやうになつたのである。

    子供の夢が錯雑し美化されてゐる場合でも、その内容が願望の實現であることは充分に明かである。
    八歳の男兒がディオメデスに導かれてアキレスと共に戰車に乗つて行く夢を見た。その前日に彼は偉
    大なる英雄たちの話を一生懸命に讀んでゐたのである。彼がこれ等の英雄をその軌範とし、その當時に
    生きてゐないことを殘念に思つたことは、これを知るに容易である。

    この僅かな蒐集からして、子供の夢の一層立入つた性質は明かとなる――つまり、それ等の夢が晝
    間の生活に關係あることである。これ等の夢の中に實現せられてゐる慾望は晝間から、或は概して前
    日から、持越され、さうしてその感情は晝間の考への間に偏に強調せられ、定着せられたものである。

    第一章 夢に意味あり

  • S.

    110

    夢の註釋
    どちらでもいゝやうな事柄、又は子供にとつてさう思はれるやうな事柄は夢の内容として取容れられ
    る事はないのである。

    そのやうな嬰児風の夢の無數の例は、成人者の間にも發見する事が出来るが、併し、既に云つたや
    うに、これ等は殆んど確實に顯在内容に似てゐるのである。で、任意に人々を選んで調べて見ても、
    夜中に咽喉が渇けば水を飲んでゐる夢でこれに應じ、かくてその渇いた感覺を逃れて睡眠を續けよう
    とするのが一般である。多くの人々は眼醒める前に、丁度必要な時に、かう云ふ愚拙的な夢を見るの
    が屢々である。それから彼等はもう起きてしまつた夢を見る。顔を洗つてゐる夢を見る、又は學校に、
    役所に、その他一定の時間に行つてゐるべきところにゐる夢を見る。行きたくても仕様のない旅行の前
    夜には、人々は屢々もう目的地に着いてしまつた夢を見る。芝居見物や宴會の前には夢は、まるで待
    ちきれないかのやうに、期待されてゐる快樂を豫め味ふことが一再でない。また夢が慾望の實現をい
    さゝか間接的に表現する場合もある。多少の闘諍、多少の歸結が知悉せられねばならぬ―これが慾
    望認識の第一歩である。さう云ふ次第であるから、或る夫からその妻が月のものが始まつた夢を見
    たと聞かされた時には、その若い妻は月のものがなかつたなら妊娠であると期待してゐたらうと私
    は考へざるを得なかつたのである。その夢はその場合、妊娠の一徴證である。その意味は、只今のよ

  • S.

    11

    ころ姫嬢になつてはいけないと云ふ願望の實現された事を示してゐる事である。普通でない極端な事
    情の下に於ては、これ等小兒型の夢は甚だ屢々起るのである。例えば、或る北極探險隊の隊長の語
    るところに依ると、氷の間に冬籠りしてゐる間、船上たちは食物が單調であり量も僅かなものである
    から、子供のやうに、素晴らしい御馳走を、タバコの山を、家庭を、必ず夢見たとの事である。

    分析の仕事に依つて、成人の無意味な錯雜した夢を追つて子供の型に、その日の中に經驗された何
    等かの強烈な慾望の實現に、到達することが出來ると云ふのならば、それは慥かにこの謎に對する單
    純簡便な解釋方法であらう。併しきう云ふアテの付くやうな證據は少しもないのである。成人の夢は
    概して非常につまらない、奇體なものに満ちてゐるて、願望實現らしいものは一向其の内容に見出され
    ない。

    實現せられざる慾望に相違ないこれ等子供の夢に關して語るに就いて、云ひ忘れてはならない今一
    つの主な夢の特徴がある。それは久し-
    い間注意せられて來たものであつて。また最も明かにその種の
    夢に見られるものである。私はこれ等の夢の何れをとつても、願望を表はす句を以てこれに置換へる
    ことが出來る。海の舟遊びがもう少し長く續けたら、顔を洗ひ衣服を着更へてさへるならば、櫻桃を叔
    父さんに遺らずにみんな持つてゐてもよかつたのであつたら。併し夢にはかうしてほしいと云ふだけ

    第一章 夢に意味あり

  • S.

    三二

    夢の註釋
    ではなく、それ以上のものがある。何となれば夢は願望に
    現は實在的であり、本物である。夢の表象は主として(全然ではないまでも)場景から成り、またお
    もに視覚的影像から成つてゐる。そこで、一種の變形が此の種の夢に全然缺如することはないのであ
    る。さうしてこの變形を當然、夢の仕事と名付ける事が出来るのである。たい
    い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、い、