トーテムとタブー1913-001/1937.ja
  • S.

    六九

    序

    次に述べる四つの論文は、余の發行せる雑誌『Imago』。の一
    一號及び二號に本書の別名を以て發表したものであつて、精神
    分析學の見地と効果とを民族心理學の未解決の問題に適用せん
    とする余の側の最初の努力を示すものである。故にこの論文は、
    一方では非分析的心理學の假定と研究法とを、これと同様の目
    的に使用せむとする處のヴント W. Wundt の大著述に對して、他方では
    前者とは反對に個人心理學の問題を民族心理學的材料の蒐集によ
    つて解決せむと努むる處のチューリッヒ精神分析學派の仕事に對
    して、方法上の對立を保つてゐる。1)此の二方面から直接の刺
    戟が余の著作に對して加はつてゐる事は、無論承認するもので
    ある。

    是等の論文のもつ缺點は余にもわかつてゐる。是等の研究が最初
    の試みである爲めの缺點については、余は觸れようとは思はぬ。
    然し其他の事に関しては一言述べて置く必要がある。此處に辯め
    た四つの論文は、比較的廣範圍の教育ある人の興味に訴へるもの
    であるが、實は單に精神分析の本質を

    1)ユングの Wandlung und Symbole der Libido. 同じく Ver-
    such einer Darstellung der Psychoanalyse. ラドストックの Zwischen Theorie.

  • S.

    七〇

    集全學析分神爾ドロイフ

    トーテムとタブー

    既に知つてゐる少數の者に理解され批判されるに過ぎないであらう。この論文は一方人種學者、言語
    學者、民族學者等と、他方精神分析學者との間を仲介しようとするものであるが、然し兩者に缺けて
    ゐるものを附與することは出来ない。即ち前者には、新しい心理學的技巧への十分なる解説を後者に
    は再考すべき材料の徹底的扱法を提出する事は出来ない。故に双方の研究者の幾多の接觸によつて、
    この研究は無効には終らぬといふ期待を喚起し、且つ各所に注意を刺戟することを以て満足せねばな
    らぬ。

    この小著の二つの主題となつてゐるトーテムとタブーとは共に同様の方法では取扱はれてゐない。
    タブーの分析は全く確定されたる且つ問題の徹底的なる解釋の試みを企てゝゐる。トーテミズムに關
    する研究は、精神分析學的觀察がトーテム問題の說明に對して現在爲し得る全部である、と説明して
    甘んじよう。斯様に區別する理由は、タブーは猶今日我々の生活の中に事實上存續してゐるからであ
    る。それは消極的に解釋され又は内容が變へられたとは云へ、その心理的性質から考へるならば、カ
    ントの無上命令の如く強迫的に作用しようとし、且つ總ての意識的動機を拒否するものに外ならぬか
    らである。これに反してトーテミズムは、今日の我々の感情よりは遠ざかつて、現實には久しく跡を
    絶つて新しい形に變つた宗教的社會的制度である。且つその制度は現代の文明民族の宗教、道徳、生

  • S.

    七一

    序

    活習慣の中に唯だ僅微の痕跡を殘してゐるに過ぎないものである。且つ又今日猶トーテミズムを奉じ
    てゐる民族に於ても、その制度に著しい改變を蒙らねばならなかつたものである。人間の社會的竝に
    物質的進歩は、トーテムを改變させたよりもタブーを改變させた程度は僅少である。本書に於てはト
    ーテミズムの根原的の意味を、幼年時代の痕跡から、即ち我々自身の子供の發達中に再び顯出される
    指示から説明しようと試みた。トーテムとタブーとの緊密な結合は、こゝに提出された假説に向つて
    今後の進歩を示してゐる。さうしてこの假説が結局に於て捨てられるやうなことが萬一あらぅとも、
    そのことのために、こゝに擧げた學説が、理解し難いトーテムやタブー關係の現實をよりよく理解
    するに多少の役に立つと云ふ可能性を拒けることには決してならないであらう。
    羅馬にて、一九一三年九月。
    ジグムンド・フロイド