自我とエス1923-003/1937.ja
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    自我とエス

    第一章

    自我とエ-ス

    病理的研究によつて我々の興味は専ら抑圧されたもののみに集中し過ぎた。
    自我も亦辞義通り無意
    識であり得るといふことを知つてからは、我々は猶一層自我といふものに就いて知りたいのである。
    従来の研究は、意識或は無意識の特徴を唯一の指示としてをつた。處が遂にはこの特徴は如何に不明
    瞭なものであるかを知つたのであつた。

    借て我々の知識は總て常に意識の範圍に限られてゐる。無意識の知識といふものも亦我々がそれを
    意識的にすることによつてのみ得られるのである。然し待てよ、それは如何にせば出来るのであろうか。
    意識的にするとは、それは果して何ういふ事を稱するのでか、何うしてそれが爲されるのか。

    我々はそれに対して何處より着手すべきかは既に知つてゐる。意識は精神装置の表面であることは
    述べて置いた。云ひ換へれば、空間的に外界に最も近接してゐる處の機能としての區劃を意識と稱し
    たのである。しかのみならず空間的に云ふ事は、機能の意味のみならず却つて此の場合には解剖学的

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    の意味をも有してゐるのである。」我々の研究も亦この知覚される精神装置の表面を出發点とせねば
    ならぬ。

    註 (一)「快不快原則を超えて」参照。

    外界より受けた知覚(感覚器知覚)及び内部より受けるもの即ち感覚及び感情と称するものの知覚
    は総ては初めから意識的である。しかし我々が大體一-
    漠然と且つ不正確に-思考過程として総括
    し得る處の、かの内部過程に就いては如何。それは何處か装置の内部に於て自ら精神エネルギーの轉
    移として行動への途に導く處の内部過程を示してをるのである。そして此れは表面へ進み來つて、そ
    の結果意識を生ずるのであらうか。或は意識が該装置の方に来るのであるか。この問題に吾人が精神
    的現象の空間的即ち局所的の觀念を盲目的に肯定しようとするならば、その際に逢着する困難の一つ
    であることを覚るのである。この両者の可能性は等しく考へられない事であつて、ここには何か第三
    のものが存在せねばならないのである。

    余は嘗て他の場所に於て、(二)無意識及び前意識の觀念(思考)の實際的差異は次の如く假定した。即ち前
    者は認められずに存する或る材料に関連してゐるが、後者は此の關連以外に言語心象を結合してゐる
    ことである。このことは前意識と無意識との兩區劃の特徴を、意識に關聯せずして研究する最初の試み

    第一章 自我とエス

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    一一

    自我とエス

    である。如何にして或物が意識的になるかの問題を更に有利に云へば、
    『如何にして或物が前意識的になるか』である。その答は、その或物に該當せる普語心象と結合する事によつて
    云ひ得るならん。
    註 (一)『無意識』國際精神分析學雜誌一九二五、第三卷及び神經學小論集

    この普語觀念は記憶の殘渣であつて、嘗ては知覺されたものであり且つ總ての記憶の殘渣の如く再
    び意識的になり得るものである。我々が猶豫いてその性質を述べる前に、新しき發見の如きものが浮
    んで来る。曰く、嘗て一度意識的に知覺したもののみが意識的になり得ること、及び内部より生ずる
    何物にも(感情以外の)意識的にならむとするものは、それ自身を外部からの知覺に轉換しようと
    試みなければならないことである。これは記憶の痕跡によつて可能になる。

    記憶の殘渣は、知覺意識の區劃に直接に隣接せる區劃の内に含まれてゐるものと見做されのである。
    その結果として、記憶の殘渣に關するエネルギーの纏綿は、知覺意識の要素へ容易に侵入する事を
    得るのである。斯う論じて来ると、我々は此處に幻覺といふ事を思ひ出す。これと同時に、最も歴然た
    る記憶と雖も、常に幻覺及び外界から生ずる知覺とは區別され得るという事實をも追憶する。又我々
    は記憶が復活される時に當つては、記憶の區劃に於けるエネルギーの纏綿はその働きを持續するが、
    知覺と區別する事の出来ない幻覺は、エネルギーの纏綿が記憶の痕跡から知覺の要素に侵入し来るの

    (一)Freud, Gesammelte Schriften, Bd. VI, S. 103. Internationale Zeitschrift für Psychoanalyse, Bd. XI, 1925, S. 177.

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    一三

    みならず、更にその全部がそこに侵入してしまうと云ふ事から起る事を考慮するのである。
    言語の残渣は、元来聴覚的の知覚力から轉來するものである。即ち前意識區劃は恰も一の特別感覺
    の淵源の如きものである。言語の心象中の視覚的要素は二次型であつて、それは讀書から生ずるので
    ある。故に此處では除外して置く。その結果、言葉が辨的の心象となつて、聾啞者以外は總て補助役
    割をなしてゐる。故に言語の本質は、嘗て耳にした言語の痕跡に外ならぬのである。
    我々は恐くは問題を簡略にせむとして、視覚的記憶残渣の主要さを等閑にしてはならぬ。(視覚的残
    渣とは言葉ではなく實物(形)の残渣である。)又は視覚的残渣に逆戻りする事によつて、考慮の過程が
    意識になり得るといふ事及び多くの人の此の方法を好都合の方法としてゐる事を否定してはならぬ。

    ファンタジ

    ブィレンドゥンクス (G. Varendonek) の研究による「夢及び前意識の瞑1)想の研究」は、この視覚的
    考慮の特質に関する觀念を我々に興へて呉れる。意識的になし得るものは、一般に考慮の具體的題
    目に限るといふ事を我々は知つた。そして此の具體化による題目中の種々なる要素間の関係は、特に
    考慮の性質を帯びてゐるもので、視覚に表現されることが不可能である。それ故に、圖畫によつて考
    慮する事は、意識的になる事の頗る不完全な方法である。

    斯かる方法は、言語に於て考慮するよりも、寧ろ無意識の過程に近いもので、個人發達竝びに種族

    第二章 自我とエス

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    一四

    自我とエス

    發達の過程に於て更に一層原始的で
    るのである。

    我々の本論に歸つて述べよう。若し斯くの如く言葉による考慮は、無意識であるものを前意識にす
    る方法であるとするならば、如何にして抑壓されてあるものが(前)意識的にされるかといふ問題は大
    の如くに答へられるであらう。曰く、それは我々が前述した種類(即ち言語)の前意識的連鎖が分析
    的仕事によつて供給されることによつて爲されると。斯くして意識はその箇所に移るのである。然し
    無意識は意識の方に上つて來るかと云ふと、それは然らずである。

    外界の知覺と自我との間の關係は極めて明瞭であるが、内側の知覺と自我との關係は特別の研究を
    要する。此處に我々は再び疑念を生ずるに至るのである。それは、果して意識の全體を單に表在的知
    覺意識區劃に限られたものと見做して正當であるか否かである。

    内部よりの知覺は種々雜多にして、且つ精神作用の最深層より生ずる過程の感覺を與へる。これら
    の感覺情緒に就いては未だ精細は知られてゐない。これに就いて我々が持つてゐる好適例は快不快
    感に屬するものである。この感覺は外界より生ずる知覺に比して更に基礎的であり原始的であつて、
    これは意識が混沌せる時にあつても知覺を生じ得るものである。余は此種の知覺は非常なる經濟的意
    義と超心理學的基礎を有する事に就いて余の意見を既に發表した。これ等の感覺は外界の知覺の如く

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    一五

    に多方面より生じ、且つ異つた方面から同時に來襲し、そして異つた或は反對した性質を帯び得る場
    合もある。
    快感の感覺は、その中に何等の固有の強迫的性質を帯びてゐないが、苦感はこれに反して高度にそ
    の性質を帯びてゐる。即ち苦感は變化を要求し、解放を要求してゐる。我々がこの事をもつて、苦感
    はエネルギーの綿縮の亢進であり、快感はその低下であると解釋した所以である。快感苦感の形に於
    て意識になり得るものは、心的作用に於ての未決定の量的及び質的の意味を帯びてゐることとするな
    らば、この要素は直接その箇所で意識的になり得るものであるか、若しくはこれに先立ち知覺區劃に
    送達された時に意識になり得るものであるかといふ問題が生じて來る。
    臨床的經驗では後者に傾く。この示す處によると、この未決定要素は恰も抑壓された衝動の如
    く振舞ふのである。それは自我にこの強迫性を覺られずに驅逐力を示してゐるのである。この強迫性
    に對して抵抗が生じ、解放反應に對する閉鎖が示された時、始めてこの未知の要素は苦痛として意識
    になるのである。これと同様に肉體的必要より生ずる張詰も亦無意識になり得る。尙外界知覺と内部
    知覺との中間物である肉體的苦痛は、その源泉が外界より生じても恰も内部の知覺の如くに作用する
    のである。それ故に感覺や感情も亦知覺區劃に達する事によつてのみ初めて意識になり得るといふ事

    第二章 自我とエス

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    一六

    自我とエス

    は争はれぬ事實である。若しその途中に於てその進路が閉塞された時には感覚としては現れない。
    とへそれに相當する未知の要素は、感覚となつたと同様な形に於て存在する場合でも然うである。斯く
    して我々は簡略的で又全然正しい仕方ではないかも知れぬが、所謂無意識フォルシュテルングとふ言葉を用ひて
    ゐる。これは等しく正確ではないが無意識エムピンドゥング、念とふ語と一致せしめが爲めである。實際にと
    の二つの差はこれである。即ち無意識觀念はこれを意識的にせが爲めには連鎖を作らねばならぬ。
    然るに感情の場合にはこれが直接に傳達されるが爲めに、仲介を要しない。換言すれば意識と前意識
    との區別は感情の場合には全く無意味である。即ち前意識の過程は此の場合不必要である。感情が言
    語の心象と結合されてゐる場合と雖も、之が意識になるというふ事は此の結合の結果ではなくて、直
    接に意識になり得る性質を有するものである。
    言語心象の役目はこの此處で初めて明白となる。即ちこの心象の仲介によつて、内部の考慮の過程が、
    初めて知覺となり得るものである。それは恰かも總ての知識は、その本源が外界の知覺に基くといふ
    解説の證明の如くである。時とすると考慮の過程のエネルギーの超過縺綿が起る。この場合には考慮
    が文字通り知覺され、恰かも外界から生じたかの如くである。その結果これば真實であるやうに認め
    られる事がある。

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    一七

    内外の知覚と表面的な知覚意識劃との間の関係を明かにした後、我々は更に自我の概念を作ることが出来る。自我は明かに知覚意識劃を核として其處から出發し、記憶の殘渣に隣接せる前意識を包含し
    てゐる。然し前述の如く自我も亦無意識たり得るものである。

    余はある著者が個人的動機からして「純科学の峻厳に全然無関心である」と徒労なる言ひ張りをし
    たその提案に従ふときは、非常に有利であらうと考へる。それはグロッテック氏(G. Groddeck)のこと
    であつて、氏は、我々が自我と稱する處のものによつて示しつゝある行動は本質的に受動的であるこ
    と、及び我々は未知の操從し得ぬ力によつて「活動させられてゐる」と屢々繰返して強調してゐる。(1)

    我々はこれと同じ様な印象を受け(但し他の總ての印象を除外する程この印象に打負かされはしない
    が)、又グロッテックの見解に對して科學としての領分の中にその他處を見出すことに就いて躊躇しない
    のである。余は知覚意識劃から出發して、前意識を包含する一つのものを自我と呼ぶことによつて、こ
    れを説明しようと思ふ。そしてグロッテックの用語に從つて、これが延長闊入してをる、恰も無意識の
    如き觀を呈する處の、區劃の他の領分を指して、これをエス(Es)と名づけたい。

    註

    (一) G. Groddeck, Das Buch vom Es. Internationaler Psychoanalytischer Verlag. 1923.

    (二) グロッテックは確かにニーチェの例に従つてゐる。ニーチェはこの文法的用語を、我々の天性の中の非

    第二章 自我とエス

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    一八

    自我とエス

    人格的のもの、云はゞ自然の法則に従つて働きを示すものに使用してゐる。
    この考へ方からして我々が叙述と理解とのためい利益を得るか何うかといふ事は、直ちに知る事が
    出来よう。今や我々にとつては、個人は未知なる無意識の心理的エスであるといふ事になつた。この
    エスの表面に自我が位置を占め、この自我は知覚區劃から
    その核として發達したものと認められるのである。この概
    念を図解的にして見れば、自我は、エスの全體を被覆せず
    して、却つて知覚區劃がその表面を構成してゐる程度まで
    被覆してゐるのである。恰も卵子に於ける胚板の如きで
    ある。故に自我はエスから明確には分かれてゐないで、そ
    の下部はエスと共に併流してゐるのである。

    圖 (一) 解

    然し抑壓されたものも亦エスと併流して、その一部を構
    成してゐる。但し抑壓されたものの抑壓の抵抗によつて自
    我とは截然遮斷されて居るが、エスを經て初めて自我に通
    ずる事が出来る。こゝに於て我々は、病理學の研究によつ

  • S.

    一九

    て定められた區別の殆んど總ては、心的装置の表面の層(我々にはこれだけしか分つてゐないのだ)
    に關したもののみに限られてゐることを直ちに認めるのである。この關係を圖解的に示すことが出來
    る(圖解一)。但しこの圖解の恰好は特別な解釋に用ゐられる様に出來てはをらない。唯單に説明の目
    的に供するに過ぎない、附言したい事は自我は更に恐らく「耳殻」(Hörlappe)を有してゐる事で、
    これは腦解剖で分つてゐる通り一側のみに斜に附いてゐる。

    自我は、知覺意識の仲介の下に外界の直接影響によつて改變されたエスの部分であることは、容易
    に認められる。云はば表面分化作用の延長である。自我はまた、外界の影響をエスの上に及ぼし、エ
    スの意圖を實現すべく努めるのである。即ちエスを無制限に支配してゐる快感原則の代りに、現實原
    則をもつて置代へようと努めるものである。エスに於いて本能に委ねられる役目は自我に於ては知覺
    に委ねられる。即ち自我は、情熱を含んでゐるエスとは反對に、理性及び正氣と稱するものを代表し
    てゐる。總てこれらは我々が熟知してゐる普通の區別と同じである。然しまた平均には或は理想的に正
    しいものとして理解せられるのである。

    自我の機能の重要さは、正常者の場合には行動への關門の支配權が自我に委任されてゐるといふ
    事實の中に現はれてゐる。斯くしてエスに對する自我の關係は、恰も自分以上の力を有する馬を操縱

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    二〇

    自我とエス

    せねばならない騎士の如きもので、たゞ両者の差異を云ふならば、騎士は馬を自力で操縦するが、
    我は他より力を借らねばならぬことである。この比喩を更に進めるならば、騎士はその御する馬か
    ら振落されまいとするには、馬の欲するままにせねばならぬ場合が少なからずあるのと同じに、自我
    はエスの願望を自我自身の願望であるかの如くに實行するのが常だと云ふことになる。
    自我が構成されること、及び自我がエスより分化されることについては、知覺圖劃の影響の外に、
    猶一つの要素が働いてゐるやうに見える。自分の身體そのもの、殊にその表面は、外界及び内部の知
    覺が発生する箇所である。身體は他のものと同様に見られるが、接觸に對しては二つの感覺を生ずる。
    その一つは内部の知覺と同一である。心理生理學は、自分の身體を知覺世界から如何にして特別の地
    位におくかに就いて、精細に研究した。苦痛はこの仕方に於ける一つの役目を果してゐるやうである。
    而して苦痛を感ずる病中には、我々が自分の器官に就いて新知識を得るに至つたといふ事は、恐らく
    我々が自身の身體に就いての觀念を得るに至つた原型であらう。

    我々は最初に且つ第一には身體的自我である。それは單に表面的實體たるばかりでなく、又そ
    れ自身がこの表面の精神界に於ける投出 Projection である。若しこれに對する解剖學的類推を
    うとするならば、我々はそれを解剖學者の「腦の小人」 Gehirn-männchen と同一視し得るならん。

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    111

    その小人は脳皮質に頭を突込み脚を空中に突き出し、後方に面を向け、我々が知つてゐる通り左側に
    言語面を有してゐる。(1)

    自我と意識との関係に就いては再三述べたが、これに関して猶未だ此処に叙述せねばならぬ或重要
    なる事実が残つてゐる。我々は如何なる箇所に赴くも、我々は社会的的にまた倫理的に評価した基準を
    提携してゆくに慣れてゐる為に、低卑なる情の活動が(意識面でなく寧ろ)無意識にある事を聞い
    ても驚かぬだらう。のみならず我々は心的作用が高き価値を有すれば有するほど、より容易に意識的
    に許さるることを期待するであらう。然るにこの期待は此処に精神分析的経験によつて破られるので
    ある。即ち反対に最も微機なる複雑なる知的作業が、普通では非常なる努力を要するものでさへも、
    全く意識に上ることなしに、前意識的に行はれるといふ證據を持つてゐる。この實例は疑ふ餘地なき
    證明である。例へば前日その解決に困り抜いた數學又はその他の問題が、睡眠中又は覺醒後直ちに解
    決されてゐた事に気がつくであらう。(2)

    (1)註即ち自我は要するに身體の感覚から生じたもので、この感覚は身體の表面から生じたものである。故
    に自我は、身體表面の精神界に於ける投出と見做されるだらう。同時に我々が既に認めた如く、
    心的装置の表面を示してゐる。(著者の承認を得たる英譯者の註)

    第二章 自我とエス

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    三二一

    自我とエス

    註 (一)

    余は最近この實例を他人から語られた。この人は余の「夢の仕事」の
    對論として報告した。
    然しながら此處に猶これ以上珍らしき現象がある。我々は分析中に、自己批判能力及ぴ良心 (非常
    に崇高な部類に屬する心的活動) が無意識的であつて、然かも無意識的に最大なる重要なる影響を生
    ずる人々のあろことを學んでゐる。それ故に分析中に抵抗が無意識にたつてゐるといふ例は決して珍
    しいことではない。然し乍らこの新發見は我々が批判能力を有するにも拘はらず無意識の罪惡感と云
    ふ事を述べるべく餘儀なくされるに至つて、此れは何よりも深く我々を惑はし、新問題を提供せしむ
    るのである。殊に多數の神經症患者に於て、この無意識の罪惡感が決定的なる經濟的割目を果して、
    治癒に對して最も強烈なる防碍を與へてゐる事を我々が漸次知るやうになる時に於ては然りである。
    然し我々の道德的價値を再考するならば次の如く云へるであらう。曰く、自我の中に於て最も低級な
    るもののみならず最も高級なるものも無意識たり得ると云はざるを得ない。斯くして我々は意識的自
    我に關して、自我は最初に且つ先づ第一に身體的自我であると主張した事に、恰かも證據を得るに至
    つたかの如くである。