自我とエス1923-003/1937.ja
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    第四章

    二種の
    本能

    よつて精神作用をエスと自我と超自我に分類したことが我々の知識に進歩を齎したとするならば、これに
    よつて精神作用中に於ける動的見地を益々完全に理解し、一層明かに記述することが出来るであろう
    とは既に述べた。我々は又既に自我は知覚によつて特殊の影響を受けることを明かにして置いた。廣
    義に云へば知覚は自我に対しては恰も本能がエスに對すると同一の意義を持つてゐると云へる。同時
    に又自我はエスと同じく本能の影響を受け、そして自我は事實エスの特に改變された部分に外ならぬ
    と云へるのである。

    余は最近本能に關する一見地(快不快原則を越えて)を展開したが、それを茲に取上げて更に進め
    ようとする思索の基礎としたい。この見地によれば、本能を二種に分つてゐる。その一は性本能即
    ちエロスセクスアルトリーベで、これに顯るる顯著なるもので且つ研究し易いものである。これは禁制される固有
    の性本能及びそれから轉來した處の醇化された即ち手段を禁制された本能を含むのみならず、又自己

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    四〇

    自我とエス

    保存本能をも含んでゐる。この自己保存本能は自我に隷属せざるを得ざるものとなし、又我々の分析
    の當初に於て性的對象本能とは別個のものとして見做したものである。その二つの本能は定義するには
    困難で、要するにその代表として虚ヴアイデイスムス待性を認めることになつた。生物學によつて支持された理論的思
    索の結果として、我々は死しの本能ほんのうの存在そんざいを假定かていした。この本能ほんのうの役割やくわりは有機體ゆうきたいをして無機體むきたいに戻もどらせ
    る事ことである。これに反はんしてエロスは四し分ぶん五ご裂れつした生物體せいぶつたいの分子ぶんしを常つねに緊密きんみつな結合けつごうを爲なすことによつ
    て、生せいの現象げんしょうを複雑ふくざつにせむことを目的もくてきとし、斯かくして生命せいめいの維持いじを目的もくてきとしてゐると假定かていした。斯かく様よう
    な働はたらきを示しめすことより考かんがへて、この二ふたつの本能ほんのうは厳格げんかくなる意味いみで保守的ほしゅてきのものと云いへる。何なにとなれば
    兩者りょうしゃ共ともに生せいの發現はつげんによつて攪亂かくらんされた状態じょうたいの再建設さいけんせつをしようと努つとめるからである。斯かくして生せいの發生はっせい
    は、生せいの持続じぞくの原因げんいんであり同時どうじに死しへの努力どりょくの原因げんいんであろう。従したがつて生せいそれ自身じしんは是等これらの傾向けいこうの衝コンプロミス
    突とつであり、又また互たがひに譲ゆずり合あふであろう。故ゆえに生せいの根原こんげんに就ついてこの問題もんだいは宇宙論うちゅうろんとなり、生せいの目的もくてきと終着點しゅうちゃくてんとの
    問題もんだいは二に元げん的てきに答こたへられるであろう。
    この見地けんちによれば、獨得どくとくの生理作用せいりさよう(建設けんせつと破壊はかい)はこの二ふた種しゅの本能ほんのうの各々結合けつごうしてゐるらしく、
    二ふた種しゅの本能ほんのうは不ふ平等びょうどうな比例ひれいではあるが、生物體せいぶつたいの總そうての分子ぶんし中ちゅうに働はたらいてゐるらしい。そしてこれはエロ
    スの結果けっか或る物質ぶっしつはエロスの主おもなる代表だいひょうになり得えるであろう。

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    四一

    この假定は、この二種の本能が相互に融合し結合し混合する仕方につ
    いては何等の光明をも與へて呉れない。然しこの作用が正規的に且つ非
    常に廣汎に起ることは、我々の概念に缺くべからざる假定である。單細
    胞有機體が複細胞的生物に結合された結果として、各個の細胞の死の
    本能は中和されることが出来る。そして破壊衝動は特別なる機官を經
    て外界に向けらるるに至る。この特別なる機官は筋肉であるらしい。斯
    様にして死の本能は自身を――それは唯だ一部であるかも知れぬが――
    外界及び他の生物に向けられる破壊本能として表現されるやうに思は
    れる。

    二種の本能が相互に融合するといふ概念を我々は一度容認するなら
    ば、この本能の分離といふ事の可能――或程度まで完全に――が餘儀
    なくされる。性本能の虐待性要素は、有用なる目的に役立つ本能融合
    の適例かも知れぬ。虐待性が自身獨立して現はれてゐる變態性は、絶
    對の完全なものではないが前述の分離の適例である。この點よりして
    從來この光明から考慮されなかつた多くの事實から新見地が得られる。
    破壊本能は解放の目的の爲めに常にエロスに奉仕してゐることを我々
    は認める。死の本能の分離と著しき表現と
    顯禍發作は本能分離の生産であり徴候であると疑はざるを得ない。
    は、多くの重篤なる神經症、例へば強迫神經症の最も注目すべき影響
    の一つであることを理解した。

    果斷的に總括するならば、リビドーの退行例へば生殖器層から虐待
    性肛門層までの退行の本質は本能

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    四一

    自我とエス

    分離に基き、これに反して早期層より確たる生殖器官に進歩する事は性的要素の昇騰によつて条件づ
    けられてゐると云ふ事を假定し得る。神経症の素質的傾向中に屡々非常に強烈に示される普通の鬱存
    態は分離の生産物と見做され得るや否やと云ふ問題が生ずる。然し變存性は、恐らくその不完全なる
    融合状態を現してゐると考へねばならぬ根本現象であるらしい。

    我々の興味は此處に於て自然に次の問題に向けられる。それは精神界に存在すると假定した構成物
    即ち自我、超自我、エスと二種の本能との間にたどられる有益なる聯絡が存するや否や。又精神界を
    支配する快不快原則はこれら二種の本能と及び精神界に定められたこれらの分化されたものとの両者
    に對して何等かの不變的關係が示されるや否やと云ふ事である。然しこれを論議するに先立つて、我
    我は問題そのものの意味に關する疑念を晴らさねばならぬ。快不快原則に就ては疑念の餘地はなく、
    自我の中に存在する分化に就ては確實なる臨床的基礎を十分に持つてゐる。然し二種の本能の差に就
    いては未だ十分に究められて居らず、從つて或は臨床的分析の事實と衝突するに至るかも知れない。
    斯やうな一事實が存在してゐるやうに見える。こゝで前述の二種の本能の對立の代りに、愛と憎と
    の兩極を考へて見よう。此處にはエロスの代表を發見するのは難くない。が、しかし若し憎によつて
    その道が示されてゐる破壊本能の中に捉へ難き死の本能の代表を發見することが出來なければ、我々

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    四三

    は感謝せねばならぬ。さて臨床的観察によれば、
    妄想外に正規的に愛が憎を伴つて居り(變存性、の
    みならず人間の相互關係に於て憎が愛の先驅であり、
    更に又多くの場合に憎が愛に、愛が憎に代るこ
    とを示してゐる。若しこの變遷が單に時の順序に
    示されるのみであつたならば、相互に反する生理的
    過程の存在を認める虚の根本的基礎である愛の本能
    と死の本能との差別を明かにする事が出来る。
    或人が先づ他人を愛し、後にその人を憎む(又は
    その逆のときに)、それには相當な理由があつての
    場合ならば、此れはこの問題には何等の關係がない。
    猶又未明かに愛が表現されないうちに憎みと
    敵愾心とが先行するといふ場合も問題外である。何
    となれば此の場合には對象纒綿に於ける破壊的要
    素がエロスの要素より優越し、後に至つて愛の要素
    と結合して強盛されたと解し得るからである。然
    しこの變化の起ることを主張するに十分なる理由と
    なるものが、神経症の心理學の例に多數存してゐ
    る。例へば被害妄想に於ては患者が或人に向つて
    有する非常に強い同性的愛着に對して自己を防禦す
    べき特殊の手段を取る。その結果、嘗て最も愛した
    人は迫害者と變じ、患者の攻撃的態度を挑發させ
    て屢々危険なる衝動の對象となる。此處には愛が
    憎に推移する中間期を挿入するに就いての理由が十
    分存在する。分析的研究によれば、同性愛と並びに
    性感を脱した社會感情との源泉には、攻撃心を挑
    發する如き強き敵愾心の含まれてあることを最近に
    發見した。2)この敵愾心が鎮められた後、初めて以

    第四章 二種の本能

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    四四

    自我とエス

    前憎んでゐた對象が愛の對象となり、又は對象を同一化するのである。そこで問題となるのは、此の
    場合は憎みが愛に直接變化したと假定し得るかといふ事である。この變化は單に内界のもので、對象
    の態度の變化は何等その起因にあづかつてゐないのは明かである。
    然し乍ら其處にはまだ一つ可能なる機制がある。それは我々が妄想症に於て、變化に關する過程を
    分析研究して知り得たのである。それによれば、變存性態度は當初より存在して居り、變化は錯綜の
    反動的推移によつて齎らされる。その結果、性的衝動から力が撤回され、敵愾心の爲めに使用される
    のである。
    これと恰度同一ではないが、これと類似したことで敵對的態度が鎮められそしてそれが同性愛に導
    かれるのである。敵對的態度は滿足を得るといふ見込が毫もない。それが爲めに―經濟的手段として
    ―滿足を將來す希望即ち解放の可能の一層多い愛の態度で置き換へられるのである。斯くして我々
    は是等の合の何れに於ても憎が愛に推移する直接の道の存在を假定する必要はなくなつたのである。
    この事は、是等の二種の本能間に於ける質的差異とは矛盾するからである。
    然し乍ら愛を憎みに變ら占める他の機制を計算に入れた事は、更に一つの假定を作ることとなる。
    この假定は此處に明瞭にして置かねばならぬ。我々は精神界に於て―自我の裡か或はエスの裡かで

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    四五

    第四章 二種の本能

    —轉位し易き力の存在を考へた。この力はそれ自身は中性であるが、性的衝動にも破壊的衝動にも
    結合する。且つこの二種の衝動は質に於ては相違してゐるが、總體の縺縺を補強することになる。轉
    位し易き此種の力の存在を假定せずしては論を進めることは出来ない。唯一の問題は、この力は何處
    から來り、何に屬し、且つ何を意味するかである。本能的衝動の質及びそれが經由する種々な變遷
    中それが如何なる容狀で持續されるかと云ふ問題は未だ不明であつて、現在に至るもその解決は殆ん
    ど試みられなかつた。が特に觀察の容易なる性的部分本能の中には、此處に論ぜると同じ部類にある
    過程を認めることが出来る。即ち部分本能の間には或程度の交渉が行はれる事、且つ或る特殊の性
    地帶より生ずる本能は、その力を、他の性的地帶より生ずる部分本能に與へてこれを補強せしむるこ
    とが出来る、而して一本能の滿足は他の本能の滿足の代りとなり得ると等の如き、是等に類似する多
    くの事實を認める。これらの總ては、我々をして更に或種の提案を敢行せしむる獎勵を與へる。

    余はこの論に於て提出し得るものは、唯だ一つの假定のみであつて、證據は持たない。自我の中に
    ヌエスの中に恐くは活動せる轉位し易きこの中性的エネルギーはナルチスのリビドー貯藏庫から發し
    てをり、そしてそれは無性化されたエロスであるといふ見地は確實に近い。性的本能は破壊的本能に
    比して一層多くの粘性を有し、容易に方向轉換され、轉移され易い。これが爲めに此の轉移され易き

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    四六

    リビドーは蓄積を防ぎ解放を容易ならしめる為めに快感原則に役立つ事が想像される。猶その
    解放は、何処にても解放さ-
    れれば如何なる道筋を経るかは、全然頓着しない。我々はこの特質
    をよく知つてゐる。それはエスに於ける轉嫁過程の特質である。これは對象に對して奇異なる無關心
    を示す性的纏綿に於て發見される。又これが分析中に生ずる轉嫁作用にも著しく示される。この轉嫁
    作用は分析者の何人たるを問はず必然的に生ずる。ランクは最近神経症患者の復讐行為が人達をひし
    てなされた好例を發表した。斯かる無意識の態度次は如き喜劇的な話を思出させる。三人の田舎裁
    縫師があつた。その一人は、その村に一人しかいない鍛冶屋が死刑に値する犯行をなしたが爲めに、絞
    罪に處せられねばならなかつた。(譯者曰、鍛冶屋は村に唯一人だから處刑すると悉無になつて都合が
    惡い。)裁縫師は三人ゐるから、その一人が處刑されゝばよいといふ意)處刑は眞犯人に向けられる事
    は出來なくとも行はれねばならない。原型的(即ち無意識的)過程によつて齎らされる轉位作用に此種
    の不得要領さの示されることは、夢の仕事の研究の場合に初めて達着したのである。この場合に於て
    第二の地位に隧されたものは對象であつた。それは恰も今論じてゐる解放の道筋である。これに反し
    て自我の特質は對象の選び方と道筋の選び方との兩者に就て一層厳酷であるらしい。
    若しこの轉位し易き力が無性化されたるリビドーであつたならば、これは又昇華化されたる力として

  • S.

    四七

    を所選す叙述しても宜しい。何となれば自我の特質たる統一を設定し、或は統一の傾向を援助すると
    いふ範囲に於て、エロスの主なる目的即ち結合し拘束することを羇常に保留してゐるからである。若
    し知能的過程が廣義に於て是等の轉位の中に容れられるとせば、考慮それ自身に要せらるる力は醇化
    されたる性的源泉から供給されるものと見做さねばならぬ。

    醇化作用は自我の仲介により正規的に起るといふ事によつて、既に述べた我々の論の可能性を此處
    に再び認めるのである。他の場合は、自我が最初對象纒綿よりそれ自身へリビドーを取込み、それを
    拘束しそして同一化によつて生ずる自我の修正にそれを結合し、これによつてエロスの最初の對象纒綿
    (及び憶に其後のものをも)を所置するといふ記述を想起することが出来る。性的リビドーを自我リビ
    ドーに變化する事は勿論性的手段の放棄即ちデセクシリング無性化を意味する。兎に角この見地は、自我がエロ
    スに對する重要なる作用に光明を興へてゐる。

    斯く對象からリビドーを奪ひ、自身を唯一の愛の對象
    と名乗ることにによつて及びエスのリビドーを無性化即ち醇化する事によつて、自我はエロスの目的に
    反對なる仕事を爲し、而して相反する本能的傾向の役目に奉仕するのである。斯くして自我はエスの
    對象纒綿の他の部分との意向を迎へ、云はゞそれと一致共同するのである。自我のこの活動の他の可
    能なる結果に就いては後に再び論じよう。

    第四章 二種の本能

  • S.

    四八

    自我とエス
    これはナルチシスム論の重要な擴大を意味するやうに思はれる。發端に於ては總てのリビドーは
    エスの裡に蓄積されてあつたものである。其時に自我は猶未だ構成の過程中にあり且つ薄弱なので
    あつた。エスはこのリビドーの一部を性的對象聯綿として送り出した。此處に於て今は強健となつた
    自我は、この對象リビドーを奪ひ、それ自からを愛の對象としてエスに強ひむと試みた。斯くして自
    我のナルチシスムは對象からリビドーを撤回して生じたる二次型のものである。

    本能的衝動を追つてみるならば、これらの衝動それ自身がエロスの轉來であることが三再四發見
    されてゐる。若し「快不快原則を超えて」に於て主張せる考察、及び終局にはエロスに附着したる虐
    待的要素が存在せぬとするならば、我々は根本的二原論を支持することが困難となつたであらう。然
    し我々はこの見地を必要としてゐるから、死の本能はその本質として沈黙であり、而して生の叫びは
    大部分エロスから生ずるものと結論せざるを得ないのである。1)

    1)事實我々の見地に從へば、外界に向けられてゐる破壊本能はエロスの仲介力に依つて自己から轉換さ
    れたものだといふのである。

    次にエロスに對する争闘から何が生ずるであらうか。快不快原則は、生の過程に障碍を導く處のリ
    ビドーに對する争闘の羅針盤として、エスの爲めに役立つことは明白である。若し人生がフエネルの

  • S.

    四九

    第四章・二種の本能

    不變均衡原則によつて支配されてをるものとすれば、それは絶えず死の道を下向せねばならぬのであ
    る。が死の道への下向はエロス即ち性的本能に據り遲延されそれに據り本能的需要として示される新
    らしき緊張めが導入されるのである。エロスは快不快原則即ち不快の知覺によつて導かれ、種々な仕
    方ををもつてこの緊張に對して防禦する、その防禦は第一に、無性化されないリビドーの要求をなるべ
    く速かに容れること、即ち直接性的傾向を満足させようと邁進することで示される。エスは更に進ん
    で、一層徹底せる仕方ををもつて、總ての構成要素の要求に從ふ或る一つのものに闘した満足、即ち云
    はい性的張詰の飽和狀態である處の性的物質を解放する事になる。性的行為に於ける性的物質の射出
    は或程度までゾマと生殖細胞との分離に相當する。これは完全なる性的満足を來す狀態と死との間の
    類似を説明し、同時に下等動物の或種類に於て、交尾と死とが一致すると云ふ事實をも説明してゐる。
    是等の動物は繁殖行爲に於て死ぬのである。何となればエロスが満足の過程に依つて除去された後は、
    死の本能がその目的を果す爲め自由行動を取るからである。最後に自我は、それ自身としその目的と
    の爲めに、リビドーの一部を醇化する事によつて、張詰を支配せしめんが爲めエスの仕事を助けるので
    ある。