自我とエス1923-003/1937.ja
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    二一三

    第二章
    自我と超自我(理想自我)

    若し自我が単に知覚意識の影響によつて改變されたエスの
    一部であり、精神界に於ての實際の外
    の代表者であるなれば、我々が此處で取扱ふべき問題は簡單であらう。然し此處に更に複雑が生じて
    来る。理想自我或は超自我(Ich-Ideal oder Über-Ich)と名づくべきものが自我の裡に存して、これ
    が一の分化した部分を為してゐるといふ假定を為さねばならなくなつた次第は、既に他の箇所に於て
    述べた1)。此の思索は此處でも適用できる2)。此處で説明を要する新事実は、自我のこの部分は他の部分
    に比して意識とは密接に聯絡してゐないといふ事である。

    第三章 自我と超自我

    1)『ナルシシムス序論』及『集
    團心理と自我分析』参照。

    2)唯除外すべき點は、余は事物の現實を試驗する作用(現實試驗)を超自我に歸した事が間違つてゐ
    らしい。この點だけは修正を要する。現實試驗作用は、自我それ自身の役目の一つと見る事が、む
    しろ我々の知つてゐる自我と知覚の世界との關係に適合する。自我の核に關して以前にした提案は

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    二四

    自我とエス

    不適當なものであつてこれも此處で修正する必要がある。それは、知覺意識區劃のみが自我の核と見
    做されるからである。

    この點に於て、我々の見地を少し擴げねばならぬ。鬱憂症に惱める患者の場合では、失はれた愛
    の對象が再び自我の裡に取込まれたといふ假定をして、これの此の症狀の苦惱を説明し得たのである。
    換言すれば、この場合には對象戀緒が同-
    一化によつて置換へられたのである。然しこの説明の始めて
    提議された時には、我々はこの過程の完全なる意義を認知する事は出來なかつた。且つこれが如何に
    典型的なものであるかといふ事をも知らなかつた。其後にたつて此種の置換が自我の恰好を決定する
    上に大きな役目を持ち、自我の性格と稱すべきものを構成する上に多大の貢献をなしてゐるのを理解
    するに至つたのである。(1)

    (1)「哀感と鬱憂症」參照。

    個人の生活中、原型的口唇時代の早期に於ては、對象戀緒と同-
    一化とは相互に區別し難いものであ
    つた。其後にたつて始めて對象戀緒はエスから發し、そして此處に性的傾向が必需として感じられた
    事を想像され得るのである。その發端に於ては未だ軟弱であつた自我は對象戀緒を自覺するやうにな
    り、これを納得するか或はこれに對して抑壓作用によつてそれ自身を防禦しようと試みる。

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    二五

    (一)対象選択を同一化によつて置換へた興味ある例は、原始人の信仰及これに基いたタブーの中に発見
    される。これは饕餮として捕食された動物の性格、之を食した人の性格の一部として残るといふ事
    であつた。周知の如く、この信仰は喰人風習の一つの根元である。その影響としてはトーテム崇拝
    から聖餐までの種々の風俗によつて辿り得る。この信仰によつて、これを対象に對する口唇的支配
    (oral Object-mastering)に歸した結果は其後の性的対象選択の場合にも示されてゐるのである。
    性的対象を失つた人は、屡々その自我の中に変化を来す。これは鬱症に於て起る如く、自我の裡
    に対象を再得したものと見る以外には説明し得ぬのである。この置換の確実なる関係は未だ知られな
    い。恐らくこの攝取作用 (Introjection)をなすことにより自我は対象を放棄する事が出来、その損失に
    堪え得るやうになる。この攝取作用は口唇時代の機制へのまでの退行の一種を見做される。この同化
    は、エスが対象を放棄するに當つて唯一の條件であり得るであらう。兎に角この作用は殊に發達の早
    朝に於ては屡々起ることである。而してこのことは自我の性質が、放棄された対象選択の残渣であり、
    同時に過去に属する対象選択の記録も含むといふ結論が出来る。勿論これには始めより種々なる程度
    の容積の抵抗がある事を容認せねばならない。この抵抗は、或る特種な人の性質は、その人が経験し
    た性的対象の影響を受け、若しくはそれに抗するといふ程度によつて現はされる。深山の戀愛関係
    を持つた婦人に於ては、その人の性格中にその人の対象選択の痕跡を見出すに難くない。我々は又對

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    二六

    自我とエス

    象聯綿と同一化とが同時に起る事を考慮せねばならない。即ち此の場合には対象を放棄するに先立つ
    て性質の變化が起る。この場合に於ける性質の變化は、対象關係を保留し或る意味に於てそれを持續
    する事が出来ると見做されるであろう。
    他の見地からみれば、性的対象選擇が自我改變に置換はるといふこの作用は、自我がエスに對する掠
    奪力を得て、エスとの關係を益々深からしむる方法であると云へよう。而して此れはエスの經驗に對し
    少なからざる程度まで納得するといふ値を辨ふ事に依つてゞある。自我が對象の容狀を帯ぶる時は、そ
    れ自身を愛の對象であるとしてエスに強いて「よく見よ、私は對象によく似てゐるから、お前は私と對
    象と同じやうに愛する事が出来る」と云ふ、それによつて對象の損失を埋合せようと試みるのである。
    斯様に對象リビドーがナルチスリビドーに轉換することは、明かに性的手段の放棄即ち性的意義を
    無くす事 Desexualisierung を意味して(譯者曰、純愛)、從つてこれは醇化作用の一種である。此處に
    於て入念の考慮を要する問題が生ずる。即ちこれは常に醇化作用が執るべき路であるが、又總ての醇
    化作用は、性的對象リビドーを先づナルチスリビドーに變へ、而して後に恐らくはそれに他の手段を
    與へようとする自我の力に據らないのではな1)いだろうか。我々は後章に於て、此の轉換から又他の本能
    的變遷が生ずるに至りはせぬか、例へば結合し合へる本能の分散といふやうな事を考慮しようと思ふ。

    1)譯者註。

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    二七

    註 (一) 此處で自我とエスとの區別を爲したが、余の論文ナルチシズムの序論に述べた如く、エスはリビドー
    の大貯藏庫と見做されねばならぬ。前述の同一化に基いて自我に流れ込むリビドーは、その二次型ナ
    ルチシズムを齎すことになる。

    本論とは少し外れるが、此處で暫く自我の對象同一1)化といふ事に注意を向けねばならぬ。若しこ
    の同一化が横暴となり、且つ多數に重なり、非常に強烈に相互間の矛盾が生ずる時は、病的結果が目
    前に生ずる。それは抵抗によつて個々の同一化が遮斷される結果として自我の分裂が生ずるのである。
    思ふに重復人格の眞相は、種々雜多なる同一化が交替に意識の占有をむさぼるに至るからである。斯
    様な状態に至らないまでも、種々なる同一化の軌轢といふ問題が遺るのである。此れらの各同一
    化間に自我が分裂し、そしてその間の軌轢は純なる病的現象として叙述出來ないものとなるであらう。

    然し乍ら對象織維放棄の影響に對する性格の抵抗能力が、後年に及ぼす影響如何に拘はらず、早期
    の子供時代に於ける最初の同一化は常に深甚にして恒久的である。このことと雖に理想我の起源といふ事
    を我々に考へさせる。何故ならば、この理想我の背後には常に同一化中での最初のもので且つ最も重要
    なるもの即ち總ての人人の有史前に起る父との同一化が潜伏してゐるからである。この最初の同一化は、
    明かに對象織維の結果ではなく、直接にして即時の同一化であつて、對象織維の起る以前に生じたもの

    第三章 自我と超自我

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    二八

    自我とエス

    である。然し乍ら早期の性的時代に属する對象選擇に於て父母に關係してゐるものは、普通前述の同
    一化を齎す基礎となる様に見える。そして此れに依つて最初の同一化が強められる事になるのである。
    註 (一)これは恐らく父といふよりも兩親との同一化と稱する方が適當であらう。何となれば嬰兒は生殖す
    る差別、即ち陰莖を持たないことについて確實な知識を得ない間は、父と母との價値の相違を知らな
    いからである。余は若い既婚婦人の例に出逢つた。彼女の話によると、自身の陰莖のない事に氣が附
    いた時に、これは總ての婦人になのではなくて、劣等と見做される婦人に限つて無いのだと思つ
    た。そして彼女の母は現在も陰莖を所有してゐると想像してゐたと言つた。然し余は説明を簡單にせ
    むが爲めに、父との同一化のみを述べる。

    總ての問題は非常に複雑してゐるので、更に此處で精細にして置く必要がある。この問題の鍵れは
    二つの要素に起因してゐる。即ちエディポス狀態の三角關係と各人の有する素質的兩性感である。
    その最も單純なる恰好で現はれる男兒の場合を叙述すれば次の如く云へる。極め早い歳に於て、男兒
    は母の對象選擇を屬開する。これは元來が母の乳房に關するもので、依賴型 Analytical Typus1)に據
    つた對象選擇の最初の例である。男兒は父に對しては自分を同一化して其態度を示す。暫らくの間のこの
    二つの關係は相互に兩立する。然るに母に對する性的欲望は漸次濃厚となり、而して父はこの欲望に對
    する邪魔者と見做されるやうになる。これがエディポス・コンプレクスの發端となるのである。この時に

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    二九

    至り父との同一化は敵意を帯び、母に対して父の位置を取らむがために、父を取除かむとする願望に
    變ずる。爾來、父に對する關係は双存性 Ambivalenz を帯びるに至る。これは最初から同一化の中
    に存する双存性が露されたかのやうに見えるのである。即ち父に對する双存性の態度と母に對する
    純なる愛情的對象關係とが、男兒に於ける積極的エデポス・コンプレクスの内容を作るに至る。
    註1) 群團心理學及自我分析第七章参照。
    エデポス・コンプレクスの廢顔と共に、母の對象愛戀も亦放棄されねばならない。この場合二者の
    中の何れかが2) 起る。即ち母との同一化か、或は父との同一化の補強である。我々は後者をもつて正常
    の結果と見做して來つた。これは母に對する愛情を或程度まで保留する事である。かくしてエデポス・
    コンプレクスの過ぎ去る事は、男兒の性格に於て男性を鞏固にする事になる。これと同じ仕方で女兒
    に於けるエデポス態度の歸結は、母との同一化を強める(或はこの種の同一化が斯様ににして初めて實
    らせる)ことになり、而して子供の性質を女性的に型どることにになる。
    これらの同一化は放棄し去る對象を自我の裡に吸収する事を意味しないのであるから、前述の事項
    が我々に期待せしめたとは相違したものが生ずる。然しこの結果も亦起り得るもので、それば男兒よ
    りも女兒に於て容易に認められる。分析によつて屢現はれることは、女兒は戀愛の對象として彼女の

    第三章 自我と超自我

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    三〇

    自我とエス
    父を放棄した後は、自身の男性的性質を著しく發揮して、母に同-
    一化するのではなく、父と同-一化するのである。これは明かに彼女の性格中に男性型が過ぎた時に
    起る。――この性格は如何なるものであるとも。

    斯くして男女何れの場合に於ても、男性若くは女性的性的傾向の強さの比率がエデポス状態の結果
    として父と同一化を齎すか又は母と同一化を齎すかを決定する。これは両性感ビセクシアリテートがエデポス・コンプ
    レクスの其後の變遷に及ぼす仕方の一つである。他の仕方は更に重要である。これは単純なるエデポ
    ス・コンプレクスは決して普遍的ではなく、むしろ単純化又は模型化した如きもので、それが實際
    の目的に役立つのであるからである。更に精密なる研究によると、完全なるエデポス・コンプレクス
    が普遍示される。即ちこれには積極的と消極的との二種があつて、子供が持つてゐる本源的の両性感ヴァルトリープ
    に基いてゐることが判る。即ち男児は父に對して双存性態度を有し、母に對して愛情對象關係を有す
    るのみならず、同時に女児の如く振舞つて、父に對しては愛情的・女性的態度を示し、母に對しては
    それに相應する嫉妬的敵意的態度を示すのである。両性感ビセクシアリテートによつて導入されたこの複雑した要素
    は、早期の對象選擇と同一化との關係を明瞭にすることを困難ならしめ、更にそれを明快に叙述する
    ことを困難ならしめる。恐らく両親に對する關係に示される双存性は全然両性感に基くべきものであ

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    三一

    第三章 自我 と 超自我

    つて、余が此処に述べた如く、敵対の結果生じたる同
    一化から轉換したものではないかも知れぬ。
    余は思ふに、完全なるエデポス・コンプレクスの存在を假定することは、一般に好都合であり殊に
    神経症の場合に然うである。斯くして分析の経験では、或場合に於ては其の何れかの構成要素が消失し
    て痕跡が殆んど分らなくなる。その結果、その系列の一端に於ては、正の積極的エデポス・コンプレク
    スが現はれ、他端には錯倒した消極的エデポス・コンプレクスが現はれ、同時にその中間にはあらゆる
    階段が示される。その中間階級はその二つの構成要素中の一つ若くは他の部分と共に完結したる型を
    示すのである。エデポス・コンプレクスが覆顛される時には、こゝに含まれた四つの傾向は一つの父の
    同-
    一化と同時に一つの母の同-
    一化とを生ずるが如き接配に整列される。父の同-
    一化は、積極的コンプ
    レクスに属する母への対象関係を保守し、同時に錯倒的コンプレクスに對する父への対象関係を起す
    に至る。これと同様の結果が母の同-
    一化にも生ずる。如何なる人の場合でも、この二つの同-
    一化の
    的強度は、其の人に於て二つの性的性格の何れかゞ主要部分となつてゐるかゞと云うことを示すに至る。

    斯くしてエデポス・コンプレクスによつて支配される性的階段の一般の結果は、自我の裡に一つの
    沈澱物を形成することゞ見做されるであらう。この沈澱物は或る仕方ゞ基いたこれら二つの同-
    一化の
    結合から成立つてゐる。斯様に改變された自我は、その特別なる地位を保留し、自我としての自我の他

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    三三一

    自我とエ ス

    の構成要素とは分離して理想自我即ち超自我として残つたのである。
    然し超自我はエスの最初の對象選擇によつて殘された沈澱物であるのみならず、又これらの選擇に
    對しての強烈なる反應構成をも代表してゐる。それが自我に對する關係は『汝は斯くの如く(父のや
    うに)あるべし』によつて盡されてはゐないで、猶『汝は斯くの如く(父のやうに)ある勿れ』といふ禁
    制をも含んでゐる。換言すれば『汝は父が爲す總ての事を爲す勿れ』。なぜならば多くの事は父の特權
    になつてゐるから』といふ事である。理想我のこの二重の容狀は、理想我がエデポス・コンプレクス
    抑壓を齎す爲めの仕事を持つてゐるといふ事實から生ずるもので、實に理想我の存在は先づこの革命
    的事件に負ふべきものであつた。エデポス・コンプレクスの抑壓は容易な仕事ではない。兩親殊に父は
    エデポス願望の實現に對して防碍物と認められたのである。それ故に子供の自我は、この障碍物を自身
    の裡に設ける事によつてこの抑壓力をを補強した。この抑壓力は云はゞ父から借りたものである。この
    借財をした事は極めて重大なる行爲であつた。超自我は父の性格を保留し、而してエデポス・コンプ
    レクスが強烈になればなるほど、益々急激に(躾け、宗敎的教訓、學校教育及び讀書の影響のもとに)
    抑壓の下に置された。而して其後に至り、超自我の支配權は自我に對しそれに準じて益々激烈を極める
    のである。この支配權は良心の恰好即ち恐らくは無意識的の罪惡感として示さる。斯かる仕方で潜勢

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    三三三

    第三章 自我と超自我

    力 を 現 す 力 の 源 泉 に 就 い て は 後 章 に 於 て 提 案 し よ う が 、 こ の 源 泉 は 強 迫 性 を 有 し 、 無 上 命 令 の 形 で 示
    さ れ る の で あ る 。

    若 し 我 々 が 既 述 し た 超 自 我 の 起 原 を 一 應 考 究 す る な ら ば 、 そ れ は 二 つ の 重 要 な る 結 果 で あ る こ と
    が 分 る 。 そ の 一 つ は 生 物 學 的 で あ り 、 他 の 一 つ は 歴 史 的 で あ る 。 即 ち 人 類 に 於 て は 小 兒 の 獨 立 不 能 及
    び 依 賴 の 期 間 の 長 い 事 と エ デ ポ ス ・ コ ン プ レ ク ス と い ふ 事 實 と に 存 す る 。 そ の エ デ ポ ス ・ コ ン プ レ ク
    ス の 抑 壓 は 潜 伏 期 に よ る リ ビ ド ー 展 開 中 絶 に 關 聯 し て ゐ る 事 は 既 に 述 べ て 置 い た 。 そ れ 故 人 類 の 性 的
    生 活 に は 二 重 の 活 動 が 到 來 す る の で あ る 。 一 精 神 分 析 者 の 見 地 に よ れ ば 、 最 後 に 述 べ た 現 象 は 人 類 に
    特 有 な る も の で 、 氷 河 時 代 に 餘 儀 な く さ れ た 文 化 發 達 の 遺 物 と 稱 さ れ て ゐ る 。 そ れ 故 自 我 か ら 超 自 我
    が 分 化 す る こ と は 決 し て 偶 然 で な く 、 個 人 的 及 び 種 族 發 達 中 に 於 て 最 も 重 要 な る 出 來 事 を 示 し て ゐ
    る の で あ る 。 即 ち 兩 親 の 感 化 を 恒 久 に 表 現 す る 事 に よ つ て 、 そ の 根 元 と な つ た 要 素 の 存 在 を 不 朽 に す
    る の で あ る 。

    精 神 分 析 は 往 々 人 間 の 性 質 に 崇 高 な る 徳 的 霊 的 方 面 を 無 視 す る と 云 ふ 非 難 を 蒙 つ た 。 こ の 非 難 は 歴
    史 的 及 び 方 式 的 の 兩 方 面 か ら 見 て 誤 つ た も の で あ る 。 何 故 な ら ば 我 々 は 先 づ は 第 一 に 最 初 か ら し て 抑
    壓 を 齎 す 作 用 を 自 我 の 徳 的 美 的 傾 向 に 歸 し て 置 い た 。 第 二 に 精 神 分 析 的 研 究 は 、 哲 學 系 統 の 如 き 説 詢

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    三四

    自我とエス

    きの完結した理論の上に立つて進んでゆくことが不可能であつて、正常及異常の現象を分析解剖し
    つ、一歩々々入り込んだ精神作用を理解する道筋に進んでゆくものである。心の抑壓された部分の研
    究が我々の仕事である間は、精神生活中の高級な部分の存在に就いて考慮する必要はなかつたのであ
    る。然し乍ら今は自我の分析に立つたのであるから、徳義感が驚愕を受け人間に更に高級なる本
    質が確かに存在せねばならぬと云つて非難した總ての人々に対して解答を與へることが出来る。曰く、
    我々は此の本質を持つてをる。我々は兩親に對する關係の代表である理想自我即ち超自我の中にこの
    崇高なる本質を認めるに至つたのである。我々が嬰兒時代に於て、この崇高なる性質を覺知し、これ
    を賞讃し、これを習得れて、其の後に至つて我々自身の裡にこれれを取込んだのであると。

    それ故に理想我はエデポス・コンプレクスの後繼者であり、且つそれが爲めにエスの最も有力なる
    衝動と最も重要なリビドー變遷との表現である。この理想我の設立によつて自我は、エデポスコンプ
    レクスを支配することが出来、同時に自我自身がエスに服従することが出来るのである。自我は本質
    的に外界即ち現實の代表であるから、内界即ちエスの代表としての超自我は自我と反對の地位に立つ
    てゐる。自我と超自我との争闘は、結局現實作用と精神作用、外界と内界との對立を現すものである。
    種族的發達及び人類が経験したる變遷によつてエスに殘されたる痕跡は、理想自我の構成によつて

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    三五

    自我に継承され、各個人によつて再生せられるのである。理想自我はその構成の仕方により各個人の
    種族的賦課即ち太古の遺産と密接な一致点を持つてゐる。各人の心中の最下層に属するものは、理想
    自我の構成によつて、人間の霊の最高のものとして評価する事が出来るものに變ずるのである。然し乍ら
    自我を限1)局したと同じ様な仕方でまた理想自我をも限局することは徒労な企てである。若しくは自
    我とエスとの關係を叙述せむと試みた補助方法を、これらの類推中に當諦める事もまた徒勞である。

    理想自我が人間の崇高なる本質として期待されてゐる總てののものに當諦まることは、容易に證明さ
    れる。理想自我は父に對する憧憬の代償として總ての宗教が發達した萌芽を含む。自我が自身の理想
    に接近し難いと宣言する自己判定は、宗教信者をして或るものに對する彼の憧憬を害はしむる處の劣
    等感を生産する。子供は成長するに従つて父の役目が教師及び其他の權威を持つた人によつて果される。
    彼等の訓戒や禁制の力は理想自我の中に宿り、眞心として道徳的の檢閲を施行する。良心の要求と自
    我の實際の成果との間の差異が、罪惡感として覺へられるのである。社會感情は、社會人に共通なる
    理想自我を有するといふ根柢の下に、他人との同一化によつて生ずる。

    人間に於ける最高性の主要素たる宗教、道徳及び社會感情は、本源的に一つのものであつた。余が
    『トーテムとタブー』に於て述べた假定に從へば、是等のものは父コンプレクスによつて種族的に發
    2)第三章 自我と超自我

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    三六

    自我とエス

    達したものである。宗教及び道徳的の拘束は、エディポス・コンプレックスそのものを操縦しようとする
    実際の過程によって生しだものであり、社會感情はその當時青少年に殘つた敵對心を打破たんが
    爲めの必要から生しだものである。男性は是等總ての道徳的獲得の發達に對して主座を取つてゐたや
    うであり、交叉遺傳によつて婦人に傳へられたのである。今日でさへも社會感情は、兄弟姉妹間に於
    ける嫉妬と敵對心の衝動の上に立てゝられる上部建造として各個人の裡に生じて來る。敵愾心が滿た
    されなかつたが爲めに、同一化は最初の敵對者であつたものとの間に起るに至る。輕度の同性愛の場
    合の研究によつて、同一化はこの場合に於ても敵對的攻擊的態度に代つて生じたる愛情的對象選擇の
    代償であるといふ事が確認された。(1)

    (1)此處では暫く科學と宗教とを除外する。

    (2)群團心理と自我分析 — 嫉妬、妄想、同性愛の三の神經症的機轉を參照。

    然し乍ら種族發達を叙ふるに當つて、茲に新しい問題が起る。この問題に直面するのは御免を蒙り
    度いのである。が我々の骨折つた研究が不完全であることを曝露するやうだ懼れがあつても、この間
    題は避難し難き事である故、此處でその解決を試みねばならぬ。その問題といふのは、曰く、早期時代に
    父コンプレックスから宗教や道徳を獲-
    得した者は、原始人の自我であるか或は彼のエスであるか。若し

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    三七

    それが自我であるならば、何故に簡単に自我によつて遺伝されたと云はないのか。若しそれがエスで
    あるならば、如何にして是等の性能がエスの性能と合致しないのであるか。又自我と超自我とエス
    とが如き分化が、この早期時代に起つたとすることは誤りであらうか。又自我の裡にある過程
    の總ての概念は種族的發生過程を理解するに何等の助けを與へず、從つて此處に應用し難いことを我
    々は何故正直に告白しないのか。

    先づ第一にこの疑問中の最も容易なものを答へよう。自我とエスとの分化は唯に原始人に歸するの
    みならず、猶遠く單純なる生物にも常措めねばならぬ。何故ならばこの分化は外界の影響の免れ難き
    表現だからである。余の假定では超自我は事實トーテミズムに基いた經驗から出發したものである。
    それ故是等の性能を經驗し獲得したものは自我であるかエスであるかといふ問題は何等の意味を齎さ
    ない事になる。即ち、エスにとつては外界の代表である處の自我を經るに非ざれば如何なる外界の變
    遷とも經驗する事は出来ない。これは思索によつて示されてゐる。さうかと云つてそれが自我によ
    つて直接遺傳されたとも云ひ難い。實際の個人と種族の概念との間隔が生ずるのは此處である。のみ
    ならず自我とエスとの相違を明瞭な意味にとつてはならぬ。猶又自我は特に改變されたエスの一部で
    ある事を忘れてはならぬ。自我によつて經驗されたものは、初めは後裔には傳はらなかつたやうに見え

    第三章 自我と超自我

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    三八

    自我とエス

    る。然しその経験は累代の個人によつて屡々強度に且つ十分に反復される時には、それ等を経へて云
    はゞエスの経験として仕舞ひ、その印象は遺傳によつて保存されるのである。かくして遺傳によつて
    継承され得るエスの中には、無数の前世の生存自我の残骸が蓄貯されたのである。そして自我がその
    超自我をエスから造る時に、恐らくは單に過去の自我の面影を再生して復活させたに過ぎないのであら
    う。

    超自我の發生するに至つた仕方をみれば、如何にして自我とエスの對象戀締との間に早期の衝突が
    行はれ、且つ自我とその後繼者である超自我との衝突が持續されるかゞ明かに分る。若しも自我がエ
    デポス・コンプレクスを満足に服従する事が出来なかつた場合には、エスから生ずるエデポス・コ
    ンプレクスのエネルギー纏綿は理想自我としての反應構成に依つてその出口を見出したであらう。理
    想我とこれらの無意識の本能的傾向との間の交通が極めて自由であるといふ事は、如何に理想我それ
    自らが大部分無意識であつて、自我がそれに接近することの困難なるかゞ説明してゐる。心の最低層
    に於て嘗て行はれた爭闘で、迅速なる醇化作用や同-
    化によつて終息しなかつた爭闘は、今では高級
    な個所で續けられてゐる。これは恰もカウルバッハの繪にあるハンの戰爭が天空で行はれ
    てゐるのに類似してゐる。