自我とエス1923-003/1930.ja
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    二 自我とエス

    知りたいと欲する。吾人は自我に就て一層多くを
    知りたいと欲する。吾人はそれが固有の意味に於ける無意識たり得
    吾人の研究をすすむる際に有した唯一の支柱は、意識的たること又は無意識的たることの特徵で
    あつた。而して最後にこの特質は如何に曖昧であるかを發見した。
    吾人の有する知識は常に意識に束縛されて居る。無意識に就ての知識ですら、それを意識的
    となすことによりてのみ得ることが出来た。しかし如何にしてそれは可能であるか。吾人がある
    物を意識的ととらへる時に、それは何を意味するか。如何にしてそれは生じ得るか。
    この點に関しどこから出発しなければならぬかを吾人は既に知つて居る。意識は心的装置の表
    面であると吾人は述べた。換言すれば吾人は外界に最も近く位して居る系統に対し一の機能とし
    てそれを振當てた。この場合に局所的術語は機能の本質を叙述するに役立つのみならず、尙解剖

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    的事實に相當する。*吾人の考察は又この知覺の表面器官を出發點として
    取らなければならぬ。
    *Jenseits des Lustprinzips を見よ。
    外部から受取つた知覺即ち感官知覺と内部からの知覺の凡ては、(吾人が感覺と感情と名づける
    もの)最初から意識的である。しかし曖昧且つ不正確に、思想過程の名の下に總括し得る所の内
    部過程に就ては如何であるか。それ等は心的エネルギーの轉移を示して居る。このエネルギーは
    行爲の方に進む時に、裝置の内部の何處かに轉移を生ずる。その時意識の殘渣を許す處の表面の
    方に思想は進むか。或は意識が思想の方に来るか。これは心的生活の空間的又は局所的槪念を眞
    面目に承認せんとする時に生ずる困難の一である。この二つの可能は、等しく想像し難いもので
    ある。その場合に何か第三の事項が存在しなければならぬ。
    私は他の所で、無意識的竝に前意識的觀念(思想)の間の眞の相違は次の如くであることを暗
    示した。即ち前者は認知されずに殘つて居る或種の材料の上に出来上つたものであるが、後者は
    言語表象との結合が附加されて居る。これと前意識と無意識との二つの系統の特徵を、意識に關
    係せしめないで發見する最初の企である。「如何にして事物か意識的になるか」の問題を一層便利

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    に言へば、「如何にして事物が前意識的になるか」の問題になる。それに
    対する回答は、「その事
    物に相応する言語表象と結合することによりて」となるであらう。
    *Des Unbewusste. Internat. Zschr. f. PsA. III. 1915. [Ges. Schriften, Bd. V.]
    これ等の言語表象は記憶残留物である。それ等は嘗て知覚であり、又凡ての記憶残留物と同じ
    く再び意識的となることが出来る。その本質に就て述ぶる前に、新しい見解の如きものが吾人に
    表れてくる。即ち嘗て意識的知覚であつたもののみが意識的になり得ること、竝に内部から生ず
    る何れのもの(感情でなく)でも意識的たらんと求むるものは、外部的知覚にそれ自身を
    ることを試みなければならぬことである。而してこれは記憶痕跡によりて行ふことが出来る。
    記憶残留物は、知覚―意識系統に直接に隣接せる系統の中に包含されて居るものと吾人は考
    へる。而して記憶残留物に属する充積は内部から容易に知覚―意識系統の方へ擲がり得るやう
    になつて居る。吾人はこの場合直ちに幻覚のことを想起し、又最も明瞭なる記憶は常に幻覚と
    外部の知覚とから區別し得る事を想起する。しかし記憶が再生する時には、記憶系統中の充積
    は保存されるが、知覚と區別し難い幻覚は、充積が知覚要素にまで擲がるるのみなら

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    す、
    言語的残留物は本来聴的知覚から生ずる。恰もそれは前意識系統が特殊の感覚的源泉を有する
    如くである。言語表象の視的成分は二次的に、聴方によりて獲得され、先づ等閑にされるかも知
    れない。同様に言語の運動心像も、聾唖者を除いては補助的役目を演ずるかも知れない。結局言
    語は本質上襲いた語の記憶痕跡である。
    吾人は簡単に述べんとの興味の為に、言語でなく、事物の視的記憶残留物の重要なることを聞
    却してはならない。又視的残留物に復歸することによりて、思想過程が意識的になることが出来
    るし、尚多くの人々に於てはそれが好んで用ひられるやうに見ゆることを否定してはならぬ。ヴ
    ァレンドンク(C. v. Arendonck)の観察による夢及び前意識的空想の研究は、この視的思考の特
    殊の性質に就て一の観念を吾人に興へて居る。意識的となるものは通常思想の具体的資料のみで
    あること、思想を特に顕著とする所の資料の種々の要素間の關係は視的に表現されることが出来
    ないことを吾人は知つて居る。故に視覚像に於て思考することは意識的となることの極めて不完
    全な一形式である。ある仕方於て、それは言語で思考することよりも一層無意識過程に接近す

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    る。而してそれは個體發生的にも亦系統發生的にも後者より一層古いこと
    は疑ひもない。吾人の議論に歸つて述べる。若しこれが無意識であるものが、
    前意識となら得る方法であれば、抑
    壓されるものは如何にして1)意識的となり得るかの問題は次のやうに答へられるであらう。そ
    れは分析的仕事によりて、かやうな前意識的仲介者(Untereid)を供給することによりてなさ
    れる。故に意識はそれが存する場所に止まり、之に反して無意識は意識に上つて来ない。
    外部知覺と自我との關係は全く明白であるが、内部知覺と自我との關係は特殊の研究を要
    する。意識の全部を、知覺–意識の表面的系統に關係せしむることが正當であるか否かの疑ひ
    が今一度生ずる。内部知覺は心的装置の最深の層に於て、種々と確實に生ずる過程の感覺を生ず
    る。この感覺と感情に就ては全く知られない。それに就て吾人の有する最もよい例は、快不快の
    系列に屬するものである。それ等は外部的に生ずる知覺よりも遙かに根本的要素があつて、意識
    が不明瞭になる時ですら尙存在する事が出来る。それ等の大なる經濟的意義と、それの超心理
    學的基礎に就て、私は他の所で意見を述べて置いた。これ等の感覺は外部知覺のやうに多細胞的
    である。それ等は同時に異つた場所からくることもあり、又異なる或は反對せる性質を有するこ
     

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    とも出来る。
    快 的 性 質 の 感 覚 は 先 天 的 に 強 迫 的 性 質 を 有 し な い が 、 不 快 的 性 質 の そ
    帯 び て 居 る 。 後 者 は 隷 化 と 放 出 と を 促 す も の で 、 不 快 は エ ネ ル ギ ー の 充 填 を 高 上 せ し め 、 快 は そ
    れ を 低 下 せ し む る 。 快 及 び 不 快 と し て 意 識 さ れ る も の は 心 的 経 過 の 中 で 質 的 並 に 不 限 定 の
    要 素 で あ る と 仮 定 す れ ば 、 そ の 不 限 定 の も の は 実 際 に 存 在 す る 場 所 に 意 識 さ れ 得 る か 、 或 は そ れ
    は 先 づ 知 覚 系 統 に 伝 達 さ れ な け れ ば な ら ぬ か の 問 題 を 生 ず る 。
    臨 床 的 経 験 が 最 後 の こ と を 決 定 す る 。 そ れ に よ る と 、 こ の 不 限 定 要 素 は 抑 圧 さ れ た 衝 動 の 如 き
    振 舞 を す る 。 そ れ は 自 我 に 強 迫 を 気 付 か し む る こ と な く し て 推 進 力 を 行 ふ こ と が 出 来 る 。 強 迫 に
    對 す る 抵 抗 、 放 出 反 應 の 閉 止 が あ る と 、 こ の 不 限 定 要 素 は 直 ち に 不 快 と し て 意 識 さ れ る 。 身 體 的
    必 要 か ら 生 ず る 緊 張 と 同 じ く 身 體 的 苦 痛 も 無 意 識 に 止 ま る こ と が 出 来 る 。 こ の 外 部 知 覚 と 内 部 知
    覚 と の 中 間 に 位 す る 事 物 は 、 そ の 原 因 が 外 界 に あ る 時 も 内 的 知 覚 の や う に 作 用 す る 。 故 に 感 覚
    も 感 情 も 知 覚 系 統 に 達 す る こ と に よ り て の み 意 識 的 に な る こ と は 眞 で あ る 。 若 し 前 進 の 途 が 妨 げ
    ら れ る と 、 そ れ 等 は 感 覚 と し て 表 れ な い 。 尤 も そ れ 等 に 相 應 す る 所 の 不 限 定 要 素 は 、 興 奮 経 過 に

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    於ては同一である。全く正しくない無意識表象の類推からして、吾人は簡約せる全く不正な仕方
    で無意識感覚のことを話す。しかし両者は相違するもので、無意識表象に於ては意識に上る前に
    結合連鎖が出来上らなければならぬが、感覚に於ては直接に傳達されて、その必要がない。換言
    すれば意識と前意識との間の相違は、感覚に取つては何等の意味を有しない。この場合前意識
    は生ぜず、感覚は意識的か又は無意識的かである。感覚が言語表象と結合する時に於てすら、そ
    れが意識的となるには、前意識となることなく、直接に意識的となるものである。
    言語表象の役目は今や全く明白になつた。それの仲介によりて内部の思想過程が知覚になる。
    これは凡ての知識は外部の知覚にその起源を有すとの原理の説明のやうである。時として思考の
    過程の超充積が起ることがある。その場合に思想は恰も外部から来たかの如く、現実になり、實
    質のものと考へられる。
    外部及び内部知覚と、知覚――意識の表面系統との間の関係を明瞭にした後、吾人は進んで自
    我の概念を建設することが出来る。自我はそれの核たる知覚系統から出立し、記憶殘留物に隣接
    せる前意識を第一に包括する。しかし自我は既に學んだ如くに無意識である。

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    今吾人は一人の著者の暗示に従ふことによりて非常な利益を得るやうである。その著者は厳格
    な純粋科学と関係する何物をもしたいと個人的動機よりして傲然と主張した。それはグロデ
    ック (Georg Groddeck) のことであるが、氏は吾人が自我と称するものは人生を通して主とし
    て受動的に行動すること、竝に氏の言葉を借りると、吾人は未知の統御し難い力によりて「生活
    せしめ」られて居ると常に強調した。*吾人は凡て同様の印象を有し、(尤もその印象によりて凡て
    の他の事をも排除する程に圧倒されないかも知れない) 且つ科学の組織の中にグロデックの見
    解の地位を見出すに失望しない。私は知覚系統から出立し、第一に前意識である所の實體を自我
    と名づけ、この實體が擴がり、無意識のやうに振舞ふ所の、心の他の部分をグロデックの用語
    に従つて、エス (Es) と名づける。**

    *G. Groddeck: Das Buch vom Es. 1923.

    **(訳者) ドイツ語のエスは文字通りに譯すと「それ」である。英語ではItとせず、ラテン語のIdを
    自然法に従ふものに對して、この文法上の語エスを常々使用した。

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    用ひて、普通の文法上の用語と區別して居る。茲では原語を用ひた方が混亂を來たさないと考へてエス
    とした。
    この概念が叙述と理解の上に長所があることを吾人は直ちに知るであらう。個人の心を未知の
    且つ無意識のエスとして見、その表面に自我が存在し、その核から知覺系統が發達したとする。
    これを繪で考へるやうに努めて見ると、自我はエスの全體を包括せず、只知覺系統が自我の表面
    を形成する程度に擴がり、恰も卵の上に胚芽が附着せるやうである。自我はエスより截然と分離
    して居らず、その下の部分はエスと合流して居る。
    抑壓されたものはエスに合流して居るが、單にその一部をなして居る。抑壓されたものは抑壓
    の抵抗によりて自我から截然と分離して居る。それはエスを通してのみ自我と交通することが出
    來る。吾人の病理學の研究によりてその大綱を捕へるに至つた殆ど凡ての區劃は、心的裝置の表
    面層(吾人の知れる唯一のもの)に關係することを吾人は直ちに認知する。これ等の狀態を圖示
    すると次圖の如くにすることが出来る。この形態は特殊の適用をなす爲のものでなく、只説明の
    目的に企てたに過ぎない。只附言すべきは、自我は鏡像帽(Hutkappe)を有することで、腦髓解

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    知覚–意識系統

    前意識

    聴覚帽

    意識

    エス

    知覚–意識

    割の教ゆる所によると、それを
    を一方にのみ所有する。而してそれは斜に
    これによると、自我はエスの-
    して働く外部世界の直接影響によりて
    ことが容易に知られる。ある意味に於て、
    一延長である。尚又自我はエスとエスの
    響を有効にする仕事を有し、且つエスの
    る快の原理の代りに現実の原理を置換へ
    知覚はエスに於ては衝動に轉落する役目
    ふ。自我は理性と冷静と名づくるものを
    エスは激情を包含する。凡てこれは吾人
    別と一致する。しかし、同時にそれは平均
    のみ適用されると見做すべきである
    自我の機能的に重要なることは、動力の進路に對する統御が正常的に
    的に自我の上に運ばれられ
     

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    ろという事實の中に示される。かやうにエスに對する自我の關係は、馬の異常な力を抑へて居る
    馬上の人のやうなものである。只相違するのは、騎者は彼自身の力で統御するが、自我は他から
    借りたり力を用ゆることである。尙この譬喩を用ゆると、若し騎者が馬から離れないやうにするに
    は、往々馬の行かんと欲する所に馬を導くことを餘儀なくされる如くに、自我はエスの欲求を恰
    も自己の欲求の如くに絶えず實行する。
    自我の構成とそれがエスから分化されることに働く條件が知覺系統の影響以外にあるやうに見
    ゆる。身體そのもの及び殊にその表面は外部と内部の知覺を生ずる場所である。それは他の事物
    と同じ仕方に見られ、それに觸れると、一種の感覺を生ずる。その一は内部知覺と同一である。
    身體が知覺世界の他の事物の中に特殊の位置を得る仕方は精神生理的に十分に論議された。痛み
    はその過程に於ける一部の役目を演ずるやうに見ゆる。吾人の器官に就ての新しい知識が、痛み
    を感ずる病氣の時に得られるといふことは、一般に吾人自身の身體の觀念を得る仕方の模範であ
    る。
    自我は最初身體的自我である。それは單に表面的實體たるのみならず、尙表面の投射である。

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    若しそれに對する解剖學的類推を發見せん-
    と求むれば、吾人は容易にこれを解剖學者の
    腦の小人(Gehirnmandel)と同-視することが出来る。それは腦皮質の中に
    逆さに立ち、それの踵を空中に上げ、後方に
    顔を向け、それの言語領域は左側にある。
    自我と意識との關係は既に度々述べたが、何
    この場合に重要なる二三の事實が殘されて居
    る。吾人は行くと所として常に社會的又は論
    理的價値標準を取るべく馴れて居るので、下
    等の情慾の活動が無意識の中にあることを聞
    いて驚かされない。何又心的機能が吾人の價
    値の階段に於て高ければ高いほど、一層容易
    に確實なる意識への進路を發見することを知
    る。しかし茲に於て精神分析的經驗が吾人を
    失望せしむる。一方に吾人は熱心なる注意を
    要する極めて複雜な知的作業が意識に来るこ
    となく、前意識的に行はるることがある。例
    へば前日非常な努力をしても解決の出来なか
    つた數學又はその他の問題の解答が睡眠中又
    は覺醒後直ちに得られることがある。

    しかし尚一層不可思議の現象がある。自己批
    判の能力と良心、即ち非常に高い階段にある
    心的活動が無意識であり、又極めて重大な結
    果を無意識的に生ずる人があることを吾人の
    分析中に發見する。故に分析の際に抵抗が無
    意識に止まることは決してこの種の單獨の場
    合でない。しかし

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    吾人が批判能力を有するに拘らず、無意識の罪悪感を述ぶる必要のある新経験は、他の事実より
    も遙かに吾人を當惑せしめ、新しい問題を提供する。殊に多数の神経病者の中には、この無意識
    の罪悪感が著しく経済的役目をつとめ、回復の途上に最も有力なる障碍を置くことを吾人が漸次
    に知るやうになる時に、新問題に遭遇する。若し吾人の價値階段に今一度歸るならば、自分の最
    低のものと最高のものとは無意識たり得ることを言はなければならぬ。それは恰度意識的自我、
    殊に身體的自我に就て主張したことに、一の證據を供給したかのやうである。