自我とエス1923-003/1930.ja
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    五
    自我の副次的関係

    この本の各章の表題がその内容と全く相應しないこと、竝に新しい關係を研究しようと
    時に常に吾人は既に取扱つた事項に後戻りするといふことは、吾人の取扱ふ主要事項の複雑なこ
    とから宥されなければならぬ。
    既に度々述べたる如く、自我は抛棄されたエスの充積の代りをする同一視から大部分構成され
    る。この同一視の最も早いものは、常に自我の中の特殊の任務を満たし、超自我の形に於て、残
    りの自我から離れる。所が強くなつた自我は、後にはかやうな同一視の影響に抵抗することが出
    来るやうになるかも知れない。超自我がその特殊の位置を得ることは一の成分に負ふもので、そ
    の成分は次の二つの方面から考察しなければならぬ。一方にそれは最初の同一視であつたこと、
    即ち自我が未だ弱い時に起つた事實であり、他方にそれはエディプス錯綜の後継者で、他のもの
    よりも遙かに重要なる對象を自我に導入した事實である。自我の中に生じたその後の變化に對す

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    る超自我の関係は、大體的に言へば、兒童期の最初の性的段階と青春期以後の十分に發達した性
    的活動との關係である。超自我はその後の影響を受け易いとは言へ、父親から引出した特質、
    即ち自我から離れて、それを支配する能力を一生涯保存する。それは以前の自我の弱いことと類
    つて居ることの記念物であり、成熟した自我はそれの支配を受ける。子供が前に兩親に従ふやう
    に強ひられた如くに、自我はそれの超自我によりて主張された無上命令に従ふものである。超自我がエスの最初の充積、即ちエディプス錯綜から生れて来たことは、超自我に對し一層大
    切である。この子孫は既に述べた如く、エスの系統發生的獲得物と結合し、エスの中に沈澱物を
    残した以前の自我組織の再構成を行ふ。かくして超自我は常にエスと密に接觸し、自我に關して
    は、エスの代表者として働くことが出来る。それはエスの中に深く達し、從つて自我よりも遙か
    に意識から遠ざかつて居る。

    *精神分析的、又は超心理學的自我は、解剖學的自我即ち「腦の小人」と同じく逆さに立つて居ると言へ
    る。

    長い間新奇な點を失ひ、しかも倫理論的討議を待つて居る或臨床的事實に吾人の注意を向ける
    る。

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    と、如上の関係を最もよく理解することが出来る。
    分析作業の際、全く特殊な行動をする人がある。その人に向つて治療が進んだことを満足を以
    て話すと、その人はそれに同意せず、状態は良くならず、悪くなつたと答へる。吾人は最初これ
    を以て反抗と見なし、醫者に對して卓越を示さんとする企てであると解するが、後になると、も
    つと深い眞の見解を得るやうになる。かやうな人間は如何なる賞讃にも堪へることが出来ないば
    かりでなく、治療の進歩に反對な仕方で反應すると考へられた。症状の改良、又は一時的停止を
    生ずる如き一部分の解決は、患者の方に一時病勢の増加を來たす。治療の際に良くなる代りに悪
    くなる。彼等は所謂消極的治療反應を示すものである。

    かやうな人々には、その恢復に反對し、恢復の來るのを今も危険に近よるかの如く恐れしむる
    何物かが存在することは明白である。これは健康を望む以上に病氣を必要とすること、この患
    者に優勢であると普通に言はれて居る。しかしこの抵抗を通常の仕方で分析すると、醫師に對す
    る反抗の態度や病氣に伴ふ種々の利益に固執することを引去つても、尙大部分殘されて居ること
    を發見する。その部分が恢復に對する障碍の中で最も強力なもので、醫膽に對する消極的態度
    を發見する。

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    仮説や病気の利益に執着することよりも遙かに強力である。
    結局吾人は道徳的成分、即ち罪の感と称するものを取扱ひつつあるといふことが分かる。罪の
    感は病気の中に贖罪を発見し、苦痛の罰を捨てることを拒むものである。吾人がこのうろ落堕せ
    しむる如き説明を決定的なものと見なすことは正當である。しかしこの罪の感は患者に對しては
    晦で、彼に罪があるとは告げない。彼は罪を感ぜず、單に病気を感ずる。この罪の感は、恢復に對
    する抵抗として表れ、打勝つに極めて困難である。又病気たることを續けることの背後に、この
    動機が横はることを患者は信ずるに困難で、精神分析療法が正しい療法でないといふ一層明白な
    説明に固執する。*

    *無意識の罪の感の障碍に對する扱ひは分析者に取りて容易でなかつた。直接にそれに反對して何も
    なすことは出来ない。それの無意識の抑壓された根原を表すやうにし、且つそれを漸次に意識的の罪悪
    の感に變ずるやうにする徐々の方法を、間接に行ふより外に方法はない。この無意識の罪悪の感が借り
    て来たものである時に、換言すればそれは嘗てエロスの充満の對象であつた他の人間と同一視すること
    の産物である時に、それに影響を與ふる特殊の機會を吾人は有する。罪悪の感がこの仕方於て採用さ

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    れる時に、それは往々豐富な愛情関係の唯一の痕跡で、且つ認知に困難なもので
    ある。この過程と鬱愛
    症に起る過程との類似は明白である。若し吾人が無意識の罪悪感の背後にあ以前の
    對象充積を發見す
    ることが出来れば、治療上の成功は屢々立派なものであるが、それが出来ないと
    治療上の努力の効果は
    確實でない。治療は罪悪感の強度に主として依存して居るが、屢々治療が罪悪感
    に反對して働き得
    るだけの對抗力を有しないことがある。それは又恐らく分析者の人格が患者をして
    彼の自我理想の代り
    に分析者を置かしむるやうにするか、或は分析者が患者に對して豫言者、救世主の
    役目を演ずるやうに
    試みるかに依存するかも知れない。分析の規則は醫者がかやうな仕方に彼の
    人格を利用することに全く
    反對するから、吾人は分析の効果に次の如き新しい制限を有することを正直に告白
    しなければならぬ。
    即ち分析は病的反應を不可能にするのでなく、患者の自我に何れの方法をも選ぶやうな
    自由を與へるや
    うにするものであると。
    以上の叙述は最も極端な場合に適用されるもので、それより低い程度のものは、
    凡ての神経病
    者の中に發見される。質に神経病の烈しきことを決定するものは、その状態に於ける
    この要素、
    即ち自我理想の態度であるかも知れない。故に罪悪の感が異なる條件の下に表現される
    仕方を一

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    層十分に説明しなければならぬ。
    正常に意識される罪悪の感(良心)の説明は困難でない。それは自我と自我理想との間の緊張
    に基き、批判的機能によりて生じた自我の懲罰の表現である。神経病者に知られた劣等の感は、
    恐らくそれに密接に関係して居る。次に述ぶる二つの極めて知られた病気に於ては、罪悪の感が
    非常に強く意識される。それ等に於ては、自我理想が特殊の厳酷を表し、往々最も残酷を以て自
    我に反対して激怒する。その二つの病気、即ち強迫的神経症と鬱憂症とに於ける自我理想の態度
    は一方には類似して居るが、又他方に重大なる差異がある。
    強迫的神経症のある形式の中には、罪悪の感が明かに表れて、自我に對して釋明することが出
    来ない。その結果、患者の自我は罪悪の非難に對して反抗し、その罪悪の感を拒絶するために醫
    者の補助を求める。自我がその非難に従ふことは、愚かなことになる。蓋しさやうにすることは
    何等の結果を示さないからである。分析の示す所によると、超自我は自我に知られないで残され
    て居る過程によりて影響を被る。又分析によりて罪悪の感の基礎となれる抑壓された衝動を發見
    することが出来る。かやうに超自我は自我よりも遙かに多く無意識のエスに就て知つて居ること

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    が證明される。
    鬱憂症に於ては、超自我が意識を専有するとの印象が一層強い。しかしこの場合に自我は何等
    の反對を敢てしない。それは罪を認め罰に従ふ。この相違の説明は明白である。強迫的神經症に
    於ては、超自我によりて批判される非難すべき衝動が自我の一部を構成しない。所が鬱憂症では
    超自我の怒りの對象が同一視によりて自我の一部をなして居る。
    この罪惡の感が何故にこの二つの神經的疾患に於て非常に烈しくなるか或に就ては明白でない。
    この状態に示された主な問題は他の方面に存する。吾人は他の場合、即ち罪惡の感が無意識に
    止まる場合を述べた後に、そのことを論ずることにしやう。

    この状態は主としてヒステリー竝にヒステリー型の状態に於て發見される。罪惡の感が無意識
    に保たれるといふ機關は發見するに容易である。超自我の批判が、自我の中に苦痛の知覺を生ず
    ることを威嚇するに當りて、ヒステリー型の自我はその苦痛の知覺に對して防禦するが、それは
    恰も堆-
    難を對象充積を抑壓行爲によりて防禦すると同じ手段を用ひる。故に罪惡の感を無意識
    に止めることの責任者は自我である。吾人は通常自我が超自我のために、又その命令によりて抑

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    歴を實行することを知る。しかしこの場合は、自我が同じ武器をその亂
    暴な主人に向けたのである。強迫的神經症に於ては、反應構成の現象が優勢に表れるが、しかしこの場合に、自我は罪惡
    の感に關係する材料を遠距離に置くことで満足して居る。
    荷進んで罪惡の感の大部分は、通常無意識に止まらなければならぬといふ假説を主張すること
    が出来る。蓋し良心の起原は無意識に屬するエディプス錯綜と密接に結合して居るからである。
    正常者は彼が信ずるよりも遙かに不道徳であるばかりでなく、彼の考ふるよりも遙かに道徳的で
    あるといふ矛盾した主張をする者があるとするれば、精神分析は、その前半の主張に對して責任が
    あるが、又後半の主張に對しても反對することは出来ない。
    *この主張は外見上矛盾である。それは單に次のことを示して居る。即ち人間の本質は吾人の信ずるよ
    りも、換言すれば意識的知覺によりて自我に知られるよりも、善竝に惡に對して遙かに大なる能力を有し
    て居ると。
    この無意識の罪惡の感の増進が、人間をして犯罪者に變へ得るといふことの發見は驚くべきこ
    とであつた。しかしそれは疑ひもなく事實である。多くの犯罪者、殊に青年犯罪者に於ては、犯

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    罪の前に極めて力強き罪悪の感の存在を発見することが出来る。従ってその感は犯罪の結果でな
    く却つてそれの動機である。罪悪の無意識の感を現実的且つ直接的のある物に定着することの出
    来るとは、恰も罪悪の感を軽減するものであるかのやうに感ぜられる。

    凡てこれ等の状態に於て、超自我は意識的自我から独立し、無意識的エスと密接なる関係を示
    す。既に述べた自我に於ける前意識的言語残留物の重要なことについて問題を生ずる。即ち若し超
    自我が一部分無意識であれば、如何にしてそれはかやうな言語表象の中に存在し得るか、又若し
    然らすとすれば何の中に存在するか。それに対する決定的な答は次の如くである。即ち超自我が識
    的印象から派生されたものであることを否定することが出来ず、又超自我は自我の一部で、大部分
    言語表象(概念、抽象)の仕方で意識に訴よるものである。しかし、充積的エネルギーは超自我
    の内容を聴的知覚、教育、講義等から引き出す、エスの中の源泉から導き出すものである。

    前に名を延ばして居た疑問、即ち超自我がそれ自身を罪悪の感(或は寧ろ批判として、何とな
    れば罪悪の感はこの批判に相当する自我の中の知覚であるから)として示し、又同時に、自我に
    対して非常な苛酷を發達せしむるのは、どうしてであるかの疑問に歸つて述べる。先づ鬱症に

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    腺を向ける と、非常に強い超自我を發見する。その超自我は意識を専有し、恰もその患者に有利
    なサディズムの凡てを支配するかの如く、無慈悲な狂暴を以て自我に對して激怒を發する。サデ
    ィズムに就ての吾人の見解からいふと、破壊的成分は超自我の中に貯藏されて自我に反對して向
    けられると 言はなければならぬ。今超自我の中に權力を有するものは、死の衝動の純粹文化の如
    きもので、それは遂に自我が喚狂に變ずることに よりて、彼の暴君を防ぐことをしなければ、自
    我を死に逐ひこむだけ十分に暴威を振ふことが屢々である。
    強迫性神経症のある形式に於ける良心の非難は、苦痛であり苛責である が、しかしその狀態は
    餘り明白でない。鬱憂症とは反對に強迫性神経症は、決して自己破壊の段階を取らない。彼は自
    殺の危険に對しては感受しないかの如く、ヒステリーよりも遙かによくそれを防禦する。自我の
    安全を保障するものは、對象が保存されて居ることである。強迫性神経症に於ては、前性組織
    (Prägenitale Organization)に退行することによりて、愛の衝動を事物に對する進撃の衝動に
    變形することが出来た。ここに再び破壊の本能が自由に置かれ、對象の破壊を目的とするか、或
    は少くともその目的を持つやうに見ゆる。この傾向は自我によりて一採用されず、自我はそれに對

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    して反應構成と殘虐的方法とを以て反抗し、爲にその傾向はエスの
    中に止まる。しかし超自我は恰も自我がその傾向に對して責任あるか
    の如く振舞ひ、熱心に破壊本能を打撃すこととよりて、その傾向が單
    に退行によりて生じた假象でなく、愛情が眞に憎悪に置換へられたこ
    とを示すやうにする。自我は何れの方面にも救助がなく、殘虐のエス
    の強求に對し、且つ罰を加へる良心の非難に對して無益にそれ自身を防
    ぐ。辛うじて、二方面の最も殘忍なる行動を抑へて居るに過ぎな
    い。而して最初の結果が無限の自責で、それに次では、なし得る範圍
    内にある對象の系統的苛責が伴ふものである。

    個體に於ける危険なる死の衝動は種々の仕方には取扱はれる。その衝動
    は一部分エス的成分と融合することによりて無害のものとなり、一部分
    は進撃の形式を取りて外界の方へ轉向する。し
    かし大部分は疑ひもなく内部の仕事を自由につづける。然らば鬱病に
    於ては、超自我が死の衝動の制御、即ち道徳性の見地から言へば、エス
    は全く無道徳的(amoralisch)であり、自我は道徳的たることを努め、超自我は過道徳的
    (Hypermoralisch)たることが出来、エスと同じく殘

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    忍のものたり得るものである。若し人が他人に対する攻撃的傾向を抑圧すればする程、自我理想
    に於て暴君的になり攻撃的になる。普通の見解はその状態を反対に考へ、自我理想によりて建て
    られた標準が、攻撃性の抑圧に対する動機であるやうに考へる。しかし何残された事実がある。
    人が彼の攻撃性を統御すればする程、自我に対する自我理想の攻撃的傾向が烈しくなってくる。
    それは転移、即ち自身の力に傾向する如きものである。しかし一般の正常の道徳は烈しく制限的
    の性質を帯び、残酷に禁止する性質を有する。それから實に残忍な刑罰を加ふる高等な本質に就
    ての概念は生ずるものである。
    これ等の問題の考察を進めるには、新しい假定を導入入れなければならぬ。超自我は父の模型
    と同一視することから生ずる。かかる同一視はいづれも去勢又は昇華の性質を有する。この種の
    變形が起る時に、同時に衝動的撒散が生ずるやうに見ゆる。昇華の後、エロス的成分は以前に結
    合して居た全部の破壊的要素と結合する力を有しなくなり、これ等の破壊的要素は攻撃や破壊の
    傾向として解放される。この撒散から理想はそれの厳格と残忍の一般的性質、即ち命令的の営為
    (Sollen)を受取るのである。

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    再び強迫性神経症に就て少し考察しよう。この場合では関係が異
    まで擴散することは、自我の働によりて起るのでなく、エスの中に生
    かしこの過程はエスから超自我の方に擴がり、無辜の自我に対する超自我の厳格は烈しくなつて
    行く。しかしこの場合には鬱憂症の場合と同じく、自我は同一視によりてリビドーを征服し、そ
    のために、以前リビドーと混合して居た進撃の手段によりて、超自我からの刑罰を被るやうにな
    る。

    かくして自我に就ての観念も又それの種々なる関係も明白になりかけ
    た。吾人は自我の強力なことと弱いこととを發見する。而してこれは重なる機能を委ねられて居
    る。知覚系統に対する関係によりて、それは心の過程を時間的順序に配列し、その過程と現実と
    の對應を検査する。思考過程を挿入することによりて、これは筋肉運動的放射の延期を行ひ、動
    力の通路を支配する。この最後の支配は、確かに事實よりも寧ろ形式に関係して居る。行動に関
    して自我の位置は憲法上の王位の如く、その者の裁可なくしては一つも法律となることが出来ず、
    しかし議會にて承認したものを否認するには長い間熟考する。外部から生ずる人生の凡ての経験
    は、自我を豊富にす

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    る。しかしエスは自我に対して
    他の外界であり、その外界を服従せしめんと自我は努力する。
    自我はエスよりリビドーを取り、エスの対象充積を自我構造に
    変形する。超自我の助によりて、
    エスの内容が自我に侵入し得た過去の経験を汲取る。しかし
    その方法は吾人に尚不明である。
    自我は自我理想の道から行く。その
    何れの道を取るかは、多くの精神活動に対して非常に重要である。
    自我は衝動の知覚から衝動の
    統御に發達し。衝動に服従することから衝動の禁止に發達する。
    この仕事の大部分は自我理想に
    よりて分擔されるが、その自我理想は一部はエスの衝動的過程に
    反對する反應構成である。精
    神分析は自我をしてエスの征服を尙遠く進めうるに可能ならしむる
    道具である。
    しかし他の見地から見ると、この同一の自我は三人の主人に仕へ、愛
    ち外界から、エスのリビドーから、超自我の苛酷から、威嚇される
    可憐なものであることが分か
    る。この三種の危険に相應して三種の憂慮がある。憂慮は危険から
    退くことの表現である。恰も
    境界地に住むもの如く、自我は世界とエスとの間を和解せんと試み、
    エスを世界の要求に従は
    しめんとし、筋肉活動によって、世界をエスの欲求に順應せしめんとする。事實上自我は分析的

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    治療に於ける醫者の如く振舞ふ。即ち自我は現實世界に順應する力によ
    りエスに對するリビドー1)的對象となり、エスのリビドーを自身に結びつけるやうにする。しかし自我はエスの同盟者た
    るばかりでなく、彼の主人の愛を求むる服從的奴隷である。出來るならば自我とエスと親密關係
    を維持せんと試み、エスの無意識的要求の上に、前意識的合理化の覆ひをかける。而してエスが
    實際は頑固で不動であるに拘らず、現實の命令に服從して居るかの如く自我は伴る。即ち自我は
    エスと超自我との爭を縫製させ、出來るならばエスと超自我との爭ひをも伴るものである。エスと
    現實との中間にある自我の位置は、自我をして屢々追從者、機會を捕へるもの、虚偽者たらしめ
    る。恰も政治家が一方に眞理を見、他方に一般的人気によりて位置を保たんとするときのものであ
    る。

    一種の衝動に對して自我の態度は公平でない。自我は同胞と昇華とを行ふことによりて、エ
    スに於ける死の本能に、リビドー征服の補助を興へる。しかしそれを行ふことによりて自我自身
    が死の衝動の對象となり、死滅する危険を被る。それを救ふために、自我はリビドーと共にそれ
    自身を實現しなければならぬ。かくして自我はエロスの代表者となり、生活し且つ愛せられるこ
    る。

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    とを欲する。
    自我の昇華の仕事は、衝動の擴散を生じ、超自我に於ける攻撃的衝動の解放を結果するが、リ
    ビドーに對する自我の争は、迫害死の危険にそれ自らを委ねるやうにする。超自我の攻撃の下
    に苦しみ、それに屈従するやうになると、自我はかの原生動物が、自分で造つた分解の産物のた
    めに破壊されると同樣な運命に遭遇する。經濟的見地からいふと、超自我の中に働く道徳性はか
    やうな分解の産物であるやうに見ゆる。
    自我の示す從屬的關係の中で、超自我に對する關係は最も興味あるものである。
    自我は憂慮の眞の住所である。自我は三方面よりの危険に威嚇されて、逃亡反應を發達させ
    る。蓋し、自我は威嚇する知覚から、或はエスに於ける等しく恐ろしき過程から自己充積を撤退
    し、それを憂慮として表現する。この原始的反應は後に保護的充積を導き入れること(恐怖症の
    機制)によりて置換へられる。自我が外部の危険から又はエスのリビドー的危険から何を恐れる
    かを一々記すことは出來ない。吾人はそれが崩壊や絶滅の本質を有し、分析によりて決定されな
    いことを知る。自我は單に快の原理の警戒に從ひつつあるのである。他方に超自我に就ての自我
    いことを知る。

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    281

    の憂慮、即ち良心に就ての自我の憂慮の背後に、
    何が隠れて居るかを吾人は言ふことが出来る。
    後に自我理想となつた高等の本質は去勢を以て自我を威嚇したもので、この去勢の憂慮が中心と
    なつて、その周囲にその後の良心の憂慮が集合する。良心の憂慮として固執するものは、この去
    勢の憂慮である。
    何れの憂慮も結局は死の憂慮であるとの聖句は、何等の意義を有せず、正當な言葉でない。外
    部の対象に就ての憂慮(客観的憂慮)と神経的リビドー的憂慮とから死の憂慮を區別することが
    正しいやうである。それは精神分析學に困難な問題を生ずる。蓋し死は無意識の相應物を發見す
    ることの出来ない消極的內容を有する抽象概念であるからである。死の憂慮の機制は自我がそれ
    の自己愛的リビドー充積を大部分抛棄することであるやうに見ゆる。換言すれば、自我が憂慮を
    感ずる他の場合に外界事物を棄てると同じく、それ自身を抛棄することであるやうに思はれる。
    死の憂慮は自我と超自我との間の作用であると私は信ずる。
    死の憂慮は二つの條件、即ち外部の危険に對する反動と、鬱憂症に於ける如き内部過程との條
    件の下に表れる。(その條件は又憂慮の發達する他の状態に全く類似する)。尙神経病的表現は正

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    282

    常の表現を理解する補助になる。
    鬱憂症に於ける死の憂慮は一の説明を要する。即ち自我は超自我により愛さ
    れ、迫害されると感じるために、それ自らを抛棄するというふことである。故に自我に取
    るといふことは愛せられると同じ意味である。即ちエスの代表者として表れる超自我から愛
    せられることが、生きるというふことである。超自我は早い頃には父親により、後には神意又運命
    によりて行はれると同一の保護及び救助を履行するものである。しかし、自我が自分の力では打
    勝つことの出来ないと信ずる現實の大なる危険に遭遇する時には、自我は同一の結論を引出すや
    うになる。即ち自我は保護の凡ての力から見捨てられたと思つて自己を死に委ねる。これと同一
    の状態が、誕生の最初の大なる憂慮の状態と、幼時の思慕の憂慮(保護する母親から別れること
    の憂慮)との基礎をなして居る。
    これ等の考察からして、死の憂慮は良心の憂慮と同じく、去勢の憂慮の發達したものと考へる
    ことが出来る。罪悪の感が神経病者に對し大なる意義を有することからして、通常の神経病的憂
    慮が超自我と自我との間の憂慮(即ち去勢、良心、死の憂慮)の發達によりて烈しくなることを

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    283

    推定することが出来る。
    エスは自我に愛又は憎を示す手段を有しない。それは欲するものを言ふことが出来ず、又何等
    意志の統一をなし遂げて居ない。エロスと死の衝動とがその中に戦ふ。吾人は如何なる武器を以
    て一方の衝動が他方に対して防禦したかを述べた。静寂なることを欲し、快の原理の警戒に従つ
    て闖入者エロスを休息せしむることを欲する死の衝動は、弱ではあるが力強いもので、エスはそ
    の死の衝動の支配の下に立つかの如く叙述することが出来る。しかしこの場合にエロスによりて
    演ぜられる役目を餘りに軽く評價することは吾人は氣違ふものである。