自我とエス1923-003/1930.ja
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    四一種の衝動

    精神を、エス、自我、超自我、とに分類したことが吾人の知識に何等かの利益を興へたとす
    れば、尚一層完全に心の中の動的関係を理解し、一層明白にその関係を叙述することが出来なけ
    ればならぬ。吾人は既に自我は知覚によりて特に影響され、知覚は廣義に言へば自我に対して意
    義を有すること、恰も衝動がエスに対して意義を有すると同一であるとを結論した。同時に自
    我は又エスの如くに衝動の影響を受くること、而して自我はエスの特に變化した部分たることを
    述べた。

    私は前の著書「快の原理を越えて」の中に、衝動に就ての見地を發達させたが、茲にそれを固
    持し、且つ尚多くの議論の基礎としようと思ふ。その考へによると、衝動を二種類に區別して居
    るが、その一は性的衝動、即ちエロス(Eros)で、最も著しく且つ研究され易いものである。そ
    れは禁止されない固有の性的衝動と、それから派生された所の昇華された衝動、即ち目的禁止の

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    性質を有する衝動とを含むばかりでなく、
    に反対せる如き自己保存の衝動をも含んで居る。衝動の第二の種類は定義するに困難で、結局そ
    れの代表としてサディズムを認むるに至るものである。生物學によりて支持された理論的考察の
    結果として、死の衝動の存在を假定した。この衝動の仕事は有機的物質をして無機状態に歸へら
    しむることである。他方に性的衝動は生命を維持するために、生活物質から分散した分子の遙か
    に遠い結合を持來たすことによりて、人生を複雑にせんと狙つて居る。かやうな仕方に働くこと
    によりて、二種の衝動は嚴密の意味に於ける保存的のものになる。蓋し兩者は人生の出来事によ
    り攪亂された事物の状態を再建設せん努めて居るからである。かくして生命の出現は、生命
    の持続の原因として認められ、又死の方への努力の原因として認められる。從つて人生そのもの
    は、これ等二種の傾向の間の争闘と妥協とである。人生の起原の問題は、宇宙論の問題になり、
    人生の目的と意向の問題に二元的に答へられるやうになる。
    この見地に於ては、同化や變質の特殊の生理的過程は、二種類の衝動の何れかに聯合し、二つ
    の衝動は生活物質の各の分子の中に働く。但し二つの割合は同一でなく、ある物質はエロスの主

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    この仮説は二種の衝動が相互に結合し混合し融合する仕方に何等の光明を興へない。しかしそ
    れが規則正しく且つ廣汎的に起ることは、吾人の感歎べくからざる仮定である。単細胞有機
    體が複細胞有機體に結合する結果として、単一細胞の死の衝動が連続的に中性化され、破壊的衝
    動が特殊器官の媒介によりて外界の方へ轉向するやうに見ゆる。而してこの特殊器官は筋肉組織
    であるやうである。死の衝動は外界及び他の生命ある有機體の方へ向けられた破壊の衝動として
    恐らくその一部を表現するやうに思はれる。

    吾人は二種の衝動が相互に融合することを一度假定したが、又それ等の多少完全な拡散(miselung)の可能性をも吾人に強ひる。性的衝動のサディズム的成分は、有用なる目的に役立つ衝
    動的融合の一例であるかも知れない。サディズムが獨立的となつた倒錯は、全く完全ではないが
    擴散の例である。この點から従来考察されなかつた多くの事實に對して、新見地を興へるやうに
    なる。放出の目的のために、破壊の衝動は習慣的にエロスに奉仕して居る。癲癇的發作は衝動擴
    散の産物並に症候のやうである。衝動擴散と死の衝動の著しき出現とは、多くの烈しき神経病、

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    例へば強迫神経症の著しき結果の中にあることが分かる。苟も一般的に言へば、リビドーの退行、
    例へば性器の段階よりサディズム的肛門段階へ退行することは、衝動の撥散に基き、これに反し、
    て初期の性器の位相から一定の性器の位相への進歩は、エロスの成分の添加によりて律げづけら
    れると考へてよい。神経病の組織的傾向の中に強く表はる所の通常の竝存性は、撥散の産物とし
    て認められるか否かの問題を生ずる。しかし、竝存性は寧ろ不完全の衝動融合の状態を示すと考
    へなければならぬ程根本的現象である。

    茲に於て吾人の興味は次の問題に移つて行く。即ち心の中に存在すと假定される構造、即ち自
    我、超自我、及びエスと、一種の衝動との間の結合を認め得るか否か。苟心的過程を支配する快
    の原理が二種の衝動と、それ等の心の分化したものとに對して、不變的關係を有することを示し
    得るか。しかしこれ等の問題を論ずるに先だち、問題そのものの術語に關して生ずる疑惑を一掃
    しなければならぬ。快の原理に就ては疑ひの餘地はなく、又自我の内の分化も臨床的證明を有す
    る。しかし二種の衝動間の區別は十分確實のやうに見えず、臨床的分析の事實がそれと矛盾する
    かも知れない。

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    次の如き二つの事実が存在するやうに見える。二種の間の對立の代りに、愛と憎との兩極性を考
    へて見よ。エロスの代表者を發見するには困難がない。しかし憎が道をなして居る破壊の衝動の
    中に、捕へるに困難な死の衝動に對する代表者を發見し得ることを吾人は喜ばなければならぬ。
    臨床的觀察によると、愛は豫期しない規則性を以て憎を伴ふこと(竝存性)を示し、且つ人間の
    關係に於ては、憎は屢々愛の先行者たることを示すのみならず、尙多くの場合は憎は愛に變り、
    愛は憎に變る。若しこの變化が單なる時間的連續以上の何かであるとすれば、エロス的衝動と
    死の衝動との間の根本的區別の如く、相互に反對する生理的過程の存在を豫想する根本的別の
    根據がなければならぬ。

    ある人が最初ある他人を愛し、その後にその人を憎む場合に、その變化を惹起すやうな原因が
    あるとすれば、吾人の問題とするに足らないことは明白である。又破壊的成分が對象充積の際に、
    エロス的衝動を通り越し、後にたつてエロス的衝動と結びつくといふやうに、愛することが未だ
    表れないのに、敵意と進撃的傾向が初まる場合も亦問題とならない。しかし變形の起ることを假
    定するには一層よき根據となるものが、神經病者の心理學の例の中に數多ある。迫害妄想を有する

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    偏執狂者は、
    一定の人に非常に
    法を取る。その結果最も多く愛した人が迫害者に変化し、その患者の進撃的且危険的
    衝動の対象になる。茲に於て愛が憎に変形する中間の位相を挿入する根拠を吾人は有する。同性
    愛竝に異性愛的社會感情が、進撃的欲求を惹起す敵対の烈しき感情を含むこと、竝に敵意の感情
    が打勝たれると、以前憎んで居た対象を愛し、それを同一視の対象とするに到るいふ事実が分
    析的研究によりて明かにされた。それて問題になるのは、これ等の場合に憎が愛に直接変形した
    と假定してよいかといふことである。この変化は純粋に内部的であり、対象の行動の変化が、そ
    の變化を惹起したものでないといふことは明白である。
    偏執狂に於ける變化に関する過程の分析的研究によりて知らるるに至つた他の機関がある。茲
    存的態度は最初から存在して居り、變形は充積の反應的移動によりて生ずる。その移動のために
    エネルギーは色情的衝動から離れて、敵対的エネルギーに用ひられる。
    これと同一ではないが、これと相似たものが、敵対的態度がなくなつて同性愛を生ずる時にも
    表れる。敵対的態度は満足を持ち来たす望がない。これが経済的動機よりして愛の態度に置換つ

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    て一層多くの満足の希望、即ち放出の可能性がある。従つてこれ等の場合に於て、情
    動間の質的相違と一致し難い所の愛に直接に變形することを假定する必要がない。
    しかし愛が憎に變り得るといふことの他の機關を吾人の考察の中に取り入れたことは、明白に構
    成される価値のある他の假定を暗黙の中になしとげたことになる。吾人は心的生活の中、即ち自我の
    中か、又はエスのの中に置換へられるエネルギーが存在するかの如く考へた。それは中性である
    が、質的に分化して居る性的衝動か或は破壊的衝動へ結合することが出来、それの全體の充積を
    増加する。この種の置換はるべきエネルギーの存在を假定することなくして、説明は少しも進む
    ことが出来ない。唯一の疑問はそのエネルギーがどこから来るか、何に屬するか、それは何を意
    味するかいふことである。
    本能的衝動の質の問題、竝にそれの變化を通じて固執することの問題は尙曖昧で、今日まで全
    く研究されなかつた。特に觀察し易い性的の部分衝動の中に今論じて居ると同じ範疇に屬する過
    程を認識することが出来る。即ち部分衝動の間に或程度の交通が存すること、一の特殊の性的源
    泉から派生した衝動が、他の源泉から生ずる部分衝動を強力にするやうに、その強度を譲り渡す

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    ことが出來ること、一の衝動の滿足が他の本能の滿足の代りをなし得ることを吾人は發見する。
    それ等と同じ種類の荷多の事實があるが、それ等は凡て必然的に一定の假定を吾人は敢てする
    やうに激勵する。
    尙目下の議論には、推測以上のことは何もなく、又別に證據もない。しかしこの置換へられ得
    る中性的エネルギーは、自我の中にも、又エスの中にも著しく活動して居り、リビドーの自己愛
    的貯水池より流れ出た去勢的エロスであるといふことは信頼し得べき見地のやうである。エロス
    的衝動は破壊的衝動よりも遙かに可塑的、轉向的、置換的であるやうに見ゆる。このことから容
    易に假定し得ることとは、この置換へられるリビドーが蓄積を防ぎ、放出を容易にするために、快
    の原理に奉仕して働くことである。又放出が行はれる際に、その行はるる道に就ては無頓着であ
    ることも亦明白である。この特質はエスの中に於ける充積過程の特質である。その特質は對象に
    就て特殊の無頓着を示す所の、エロス的充積の場合にも發見される。而してそれは特に分析者が
    誰であつても、分析の中に生ずる轉移の場合に明かである。神經病者の復仇行爲が、異つた人に
    向けられ得ることの好例を、近時ランクが公にして居る。無意識の方面に於けるこの種の行動は

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    26r

    次のやうな滑稽な物語を想起せしむる。即ち三人の田舎の仕立屋があつたが、その一人はその田
    舎の唯一人の銀治屋が重罪を犯した為に絞罪に處せられなければならなかつた。刑罰は犯行に適
    常しなくても公平でなければならないのである。又夢の研究に於て、一次的過程によりて生じた
    置換へにこの種の不緊密が發見された。その場合に於て、對象が二次的重要の位置にまで引下げ
    られたが、それは今述べて居る放出の路に於ても同様である。對象の選擇に就ても、又放出の路
    に於ても、特にやかましく正確であることは自我の特性であるやうに見ゆる。
    若しこの置換へられるエネルギーが去勢的リビドー1であれば、それは昇華されたエネルギーと
    して叙述してよい。蓋しそれは自我の特質たる統一一又は統一への傾向を作る方へ補助を興へると
    いふ限りに於て、エロスの主なる目的たる結合や合併を支持して居るからである。若し廣義に於
    ける知的過程が、この置換への下に包括されるとすれば、思考作業に對するエネルギーは昇華さ
    れたエロス的衝動の源泉から供給されなければならぬ。又自我がエスの第一の對象充積を取扱ふ
    に當りて(その後の對象充積を取扱ふに當つても)、リビドーを自我の中に取入れ、同一視により
    て生じた自我の變形を自我に結付けることををする場合を吾人は想起する。エロスのリビドーが自

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    我のリビドーに
    変形することは、勿論性的目的の放棄、即ち去勢化を意味する。何れの場合にし
    ても、このことはエロスに對する關係に於ける自我の重要なる機能に光明を與へて居
    る。かやうな仕方に對象充積のリビドーを所有し、それ自身を唯一の愛情對象とし、
    エスのリビドーを去勢化、又は昇華することに
    より、自我はエロスの目的と反對に働き、反對の衝動的傾向に奉任す
    る。自我はエスの他の對象充積に服従し、謂はばそれ等と手をつらぬいて行かなけれ
    ばならぬ。こ
    の自我活動の他の結果のことは後で再び述べる。

    このことは自己愛の原理の重要なる擴大を意味する。發端に於て、凡てのリビドーはエスの中
    に蓄積され、その場合に自我は尚構成の過程にありて、その力も弱い。エスはこのリビドーの部
    分をエロス的對象充積に送り、漸次に強くなった自己愛はその對象リビドーの所有を得んと企て、
    エスを愛の對象とせんと努める。自我の自己愛はかやうにリビドーが對象から撤退することに
    より二次的に得られたものである。

    衝動傾向を跡づけることによりて、その衝動が、エロスの派生物たることを吾人は再び發見す
    る。若し「快の原理を越えて」の著書中に考察したこと、又最後にエロスに結合したサディズム

  • S.

    263

    的成分が存在しないとすれば、吾人は三元的の根本的見解を支持することが出来なくなる。しか
    し吾人はこの見解から離れることが出来ないから、死の本能は本質上晒であり、人生の臨機は大
    部分エロスから生ずることを結論しなければならなくなる。

    *實に吾人の見解によると、外界へ向けられた破壊衝動は、エロスの仲介によりて自己から轉向したも
    のである。

    次にエロスに對する争闘である。快の原理は、人生の過程に妨碍を引入れる力、即ちリビド
    ーに對する争闘の羅針盤として、エスに役立つことは明白である。人生がフエヒネルの不變的平
    衡論によりて支配されるとすれば、人生は死の方へ絶えず下つて行くことになる。しかし水準の
    下ることは遅延されて、新しい緊張がエロス即ち性衝動の要求によりて生ずる。エスは快の原理
    即ち不快の知覚によりて指導され、種々の仕方にかけるこの緊張に對して自己を保護する。第一
    に去勢化されないリビドーの要求に出来るだけ速く従ひ、直接の性的傾向の満足に努力する。し
    かしそれは尚進んで、一層包括的の仕方で、満足するやうになり、凡ての成分的要求を含む所の
    特殊の形式の満足、例へば性的緊張を支持する性的物質の排出にまで進んで行く。性的行為に於

  • S.

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    ける性的物質の排出は、或程度に於て身体細胞と生殖細胞との分離に相
    応する。これは完全な性
    的満足に從ふ條件と、死との間の類似を説明し、又死は下等動物のあるものに於ける交尾と一致
    することと説明する。これ等の動物は生殖行為の中に死んでしまふ。蓋しエロスが満足の過程を
    通りて解放された後は、死の衝動がその目的を達するに全く自由であるからである。最後に自我
    はそれ自ら、竝にその目的の爲にリビドーの一部を昇華することに1)よりて、緊張を支配するエ
    スの仕事を助けて行くものである。