• S.

    119
     


    四  暗示とリビドー
     

    吾人は根本的事實、即ち集團中の個人が、その集團の爲に々彼の心的活動の奥底からの變化
    を被むる事から出立した。 彼の情緒は非常に強くなるが、知的活動は著しく減退する。而して
    情緒も知的活動も共に集團中の他の個人に明かに類似して行き、その結果として各個人に特有な
    衝動の禁止が無くなり、各個人獨得の傾向の表現が失はれるやうになる。 これ等の好ましからま
     

    結果は少くともある程度まで集團の高等な組織によりて防がれると言はれた。これは集團心理
     

  • S.

    120
     

    壁の根本的事實、即ち原始的集團に於ける情緒の高上と知力の禁止に就ての二つの主張に矛盾し
     

    ない。吾人の興味は、集團中の個人によりて經驗される如上の心的變化を 心理的に説明せん
    とするに向って居る。
     

    既に述べた個人の威嚇、換言すれば自己保存の衝動の行爲の如き合理的成分は、観察し難い現
    象であることは明白である。その他配合や集團心理の権威者の説明として吾人に興へられた
    ものは、假令その名稱こそ暗示とか、タルド(Tarde) の所謂模倣とか異つて居るが、内容は全
    く同一である。而して吾人は模倣が暗示の概念に着せられ、暗示の結果の一つであると主張す
    る著者に、同意せざるを得ないのである。 ルボンは社會現象の不可解の凡てのものを、二つの成
    分、即ち、個人の相互暗示と指導者の幻術に帰した。しかしこの幻術は暗示を引起す作用の中に
    認められる。マクデューガルは情緒の原始的感應の原理が暗示の假定なくして行はれ得るとの印
    象を吾人に暫く興へた。しかし深く考察すると、この原理は模倣や傅染の在来の主張と少しも
    變らないで、只情緒の成分を特に強調しただけの相違であることに気が付く。吾人が他人に於
    ける情緒の表號を認知する時に、それと同一の情緒を引起さんとの傾向を有することは明白であ
     

  • S.

    I2I
     

    る。しかし吾人は何故にそれに反封し、抵抗し、全く反對な仕方に反することに成功しな
    いか。人が集圏の中にあれば、何故にこの傅染に常に服従するか。 この傾向に従ふやうに吾人
    を強いるものは模倣であり、情緒を感せしむるものは集團の暗示作用であると、吾人は再び言
    はなければならぬ。何その上マクデューガルは暗示から全くれることは出来ない。何となれば
    吾人は氏竝に他の著者から、集図はそれの特殊の暗示性によりて他から區別されるといふことを
    聞いて居る。
     

    * Brugeilles; L'essence du phénomêne social ; la suggestion. Revue philosophique, XXV. 1913.
     

    従つて暗示(尚正確に言へば暗示性)は他のものにすることの出来ない原始的現象であり、
    人間の精神生活の根本的事實であると容易に主張されるであらう。 ベルンハイム (Bernheimn)
    同様の見解を有して居た。氏の驚くべき技術を私は千八百八十九年に見たことがある。しかし
    私は氏の暗示の厳格なことに敬意を感じたことを今尚記憶する。 一患者が氏に従順を示さなかつ
    た時に「何をしてるのです、暗示に反しようとするのか」と患者に吹鳴った。私はこれは明かに
    不正であり、乱暴な行爲であると話した。蓋し人間は暗示に従ふやうに試みんとして居ても、
     

  • S.

    122
    *
     

    私は古い謎を反復する。
    することを控へなければならぬといふ見解に對し、私は反對するやうになった。それに開して
    對暗示を生する権利を確かに有するからである。その後暗示によりて凡てのものを説明せんと
     

    クリストフがクリストを生んだ。
    クリストが全世界を生んだ。
     

    言って御覧。
    そんならクリストフは何歳に足を置いたか
     

    * Konrad Richter. Der deutsche St. Christoph. Berlin 1896. Acta Germanica, V, I.
     

    居る。而してその努力は決して餘計なことでない。蓋しその語の使用が漸次に擴大され、意味は
    んとの努力、即ちその名称の便宜的使用を確定せんとの特殊の企てが行はれたことを私は知って
    ない。蓋しそれは精神分析の作用を證明するものであるからである。暗示の概念を正しく構成せ
    いことを見する。 この主張に対し、只一つの例外を見することが出来るが、弦にいる必要が
    私は約三十年間暗示から離れて居た後に再びその謎に近寄っても、その状態に少しの變化もな
     

  • S.

    123
     

    漸次に任意的になりて、それが如何なる種類の影響にも適用されるやうになるかも知れないから
    である。例へば英語の to suggest と suggestion とが獨語の nalelegen と Anregung とに相
    臆するやうになるかも知れない。しかしこれまで暗示の本質に就て、即ち適営の論理的根據なく
    して影響を生する件に就ては全く説明されなかった。最近三十年間の文献を分析して、如上の
    主張を支持するやうに企てたいが、しかし玆ではそれを中止する。蓋しこの問題に關する夥しい
    研究が私の手近に準備されて居ることを知るからである。
     

    * Me Dougall ; A Note on Suggestion, Journal of Neurology and Psychopathology. Vol. I. No.
    I, 1920.
     

    その代りに私は集團心理學に光明を興へるために、リビドーの概念を用ひることの企てをしよ
    う。その概念は精神神経症の研究に非常に役立つたものである。
     

    リビドーは情緒の原理から得た一表現である。愛情の語の下に包括さるべき凡てのものに關係
    する衝動のエネルギーをリビドーと名づける。而してそのエネルギーは今日の測定し難いとは
     

    言へ、量的大さを有するものと考へられる。吾人が愛情を意味するものの中核(これが一般に愛
     

  • S.

    124
     

    情と言はれ、詩人が歌ふ所のもの)は性的結合を目的とせる性愛から出来て居る。しかし吾人は
     

    何れの場合にも愛情の名稱を分擔して居る所のものから一方に自己愛を分離せず、 又他方に雨親
    や子供に對する愛、友情、 一般的の人間愛、具體的事物や抽象的観念に専心することをも分離し
    ない。以上の主張の正常なことは精神分析的研究が人に教へた事質に基いて居るので、その研
    究によると、凡てこれ等の傾向は同一の衝動活動の表現であることを示して居る。雨性間の關係
    に於ては、これ等の衝動は性的結合の方に推進されるが、他の状態では、これ等の衝動はこの目
    的から離れ、或はその目的にすることを妨げられる。 尤もその場合にはそれの同一を保つこと
    を知らせるやうにするだけ十分な最初の性質を保存する。例へば自己犠牲とか、接近せんとの努
    力とかの様式に表れてくる。
     

    人のふる所によれば、このリビドーの語は種々の用法を有する愛情なる語を全く正常に總
    括したものであり、又吾人の科理的解明や叙述の基礎として用ひるにはその話より以上によい語
    を見出すことが出来ない。かやうに決定することによりて精神分析學は世間から憤怒を被ること
    を免れた。尤も憤怒を引起したことは亂暴な革新行爲の罪であつた。 しかし精神分析學は愛情を
     

  • S.

    125
     

    このい意味に解した最初のものでない。それの起原、機能、 性愛に對する閣係に於て、哲學者
    プラトーンのエロス (Eros) が精神分析學の愛の力即ちリビドーと全く一致する。それは既にナ
    ツハマンゾーン (Nachmansoku)及びフイスター (Pfister) によりて詳細に示されて居る。 使徒
    ポールがコリント人への有名な書簡の中に、愛情をその他凡てのもの以上に評價した時に、彼は
    同じく廣い意味に愛情を解して居る。しかし世人がそれに気づかないといふことは彼等がこ
    の大思想家を推稱すと言ひながら、真面目に思想家の言を受取らないことのである。
    * 私が假合、人間や天使の言葉で話しても愛がなければ、私は愛する黄銅の器か又は鳴りひびく
    故と同じである。
     

    精神分析學はこれ等の愛の衝動に、それの一層有力なる理由、即ちそれの起原に基いて、性的
    衝動の名を興へる。教育を受けた大多数の人はこの術語を侮辱であるとし、それの復仇として彼
    等は汎性慾説の非難を精神分析學に呉へた。性を以て人間本質を辱かしむるものと考へる人は
     

    一層上品な表現であるエロス (Eros) 及びエロティック (Erotik) の話を自由に利用してよい。
     

    私も最初からそのやうに使用したならば、多くの非難を免れ得たかも知れない。しかし私はそれ
     

  • S.

    126
     

    を欲しなかつた。蓋し意志が弱いと言はれることを避けたいからである。人はこの道を通りて何
     

    虚に落込むかを言ふことは出来ない。人は先づ言葉に従ひ、然る後少しづつ事物に従ふ。私は性
    を言ふ爲に恥辱を感ずることが何等かの慣値があると考へることは出来ない。恥辱を緩和する希
    職語のエロスは結局吾人の獨逸話の(Liebe) (愛情)の鄱譯に過ぎない。而して待つことを知る人
    は何等の譲歩をなす必要がない。
     

    愛情關係(一層中性的表現を用ひると、情緒的結合)が集團精神の主要素をなすことの假定を
    以て人は研究を初めよう。而してこれまで威者がかかる關係に就て少しも述べなかったこと
    を回想せよ。その關係に相営する事質は明かに暗示の遮障の後方に隠蔽されて居る。吾人の假定
    は先づ次の二つの思想を基礎として居る。第一に集圏は明かにある種の力によりて結合されて居
    ることである。而して世界の凡てのものを結合する所のエロスにこの仕事をせしめないで、他
    の如何なる力にこの仕事をすることが出来るか。第二にし個人が集團に於て彼の特異性を失
    ひ、他の部員の暗示によりて影響を被るとすれば、彼が他の者に反對するよりも、寧ろ彼等と
    調和を保つことの必要を感じて、彼等自身の爲にそれを爲すのであると人は考へる。