• S.

    127


    五  二つの人爲的集團、教會と軍隊
     

    人が集團の形態に就ての知識よりして同想し得ることは、集團の種々の種類、逆にその撥
    達に於ける反對せる方向を人が區別し得ることである。集團には極めて經過的のものあり、又
    非常に持続的のものもある。又同種の個人からなる同質的集團と異質的集團とがあり、自然的集
    と外部の力によりて結合を維持する人爲的集團とがあり、原始的集團と一定の構造を有する高
    等の集閣とがある。しかし未だ研究が届いて居ないといふ理由よりして、吾人はこれまで権威者
    が注意を拂つて居ない別の方を特に強調しようと思ふ。而して私は指導者のない集團と、指導
    者を有するそれとの別を述べることにする。普通に行はれる仕方と反して、吾人は比較的
    簡單な集團構成から出發しないで、高く組織された持久的人爲的集團から初めよう。かかる構造
    の中で最も興味ある例は、信仰者の團體たる教会と軍隊とである。
     

    教會と軍隊とは入爲的集團で、或外部の力によりて不統一を防ぎ、組織の變化を抑へて居る。
     

  • S.

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    一般に人はかかる集團に入らんと欲するか否かに就て相談も受けず、 又選擇をも興へられない。
     

    それを去らうとすると、通常迫害や厳罰を被り、或は全く一定の件に束縛される。 これ等の組
    合が何故にかかる特殊の防禦手段を要するかを吟味することは吾人の目下の興味に外れて居る。
    人は唯一の事情、印ち他の場合には遙かに隠れて居る一の事が、上記の仕方で分裂を防ぐ
    高度の組織を有する集團の中に明白に観察され得るといふに興味を有する。
     

    教會(吾人は便利上カトリック教会を代表として取ろうと思ふ)と軍隊とは他の點では相違す
    るが、何れも首領があるといふに同一の錯覚を有する。即ち教會ではキリスト、軍隊に於ては
    大元帥がありて、集團中の個人は凡て一様にその首領を愛する。凡ての事がこの錯覺に依存し、
    その錯覚が無くなると、教会も軍隊も外部の力が許す範圍に於て分裂する。この同等の愛はキリ
    ストによりて明言されて居る。即ち私の最も賤しき同胞の一人に汝が行つたものを、汝は私に行
    つたと。彼は信仰者の集闇の一々の者に對し親切な長兄の關係に立ち、 又彼等の父の代表者であ
    る。個人の上になされる凡ての要求は凡てこのキリストの愛から引出される。 デモクラチックな
    性質が教を通じて流れる。蓋しキリストの前では何れの者も平等であり、何れの者も彼の愛を
     

  • S.

    129
     

    平等に受けることが出来るからである。 キリスト教と家族との間の類似が求されること、竝
    に信仰者はキリストに於ける兄弟、換言すればキリストから被る愛を通じての兄弟であると相互
    に呼ぶことには深い理由がある。各個人がキリストに結びつく所の結合が相互を結合する原因で
    あることは疑ひもない。 同様なことが軍隊にも言へる。大元帥は凡て彼の兵士を一様に愛する父
    であり、その爲に兵士は互に戰友になる。 軍隊は階段ある集團を構成するに於て組織上教會か
    ら異つて居る。一々の隊長は謂はば彼等の大元帥であり彼等の同僚の父である。 同様なことは
    彼等の部隊の一々の下士官に就ても言へる。軍隊と類似の組織が又にも組織されたことは真
    である。しかしそれは経済的に同一の役目を演じない。何となれば吾人は個人に就ての知識と心
    配とを人間の大元帥よりもキリストに対し、一層多く要求するからである。
     

    軍隊がリビドー的構造を有すとの概念、即ち軍隊を結合せしむるに必要な自身の図、図民の名
    譽等の観念は軍隊中に發見されないとの概念に對して反對があることは無理もないことである。
    しかしそれに對する回答としては、その種の軍隊は異った種類の結合で、最早單純な結合でない
    と言へる。何となればシーザー、ワアーレンスタイン、ナポレオンの如き大将軍の例を見ると、
     

  • S.

    130
     

    かかる自園とか國民の名器とかの観念が軍隊の存在に不可缺のものでないやうである。吾人は指
     

    導観念が指導者に置換へることの可能と両者の間の関係とを茲に少しく述べて見よう。リビドー
    的成分が軍隊の唯一の成分として働かないにしても、その成分を看過することは、理論上缺點を
    有するばかりでなく、尚實際的に危険であるやうに見ゆる。 獨逸の科と同じく非心理的であ
    つた西の軍國主義は、大戦争に於て、このリビドー的成分を無視した結果に悩まされたと言
    ふことが出来る。獨逸の軍隊を荒らした戦争神經症は、大部分個人が軍除中に行はんと豫期した
    役割を満たすことの出来なかったことにして個人を保護する爲に生じたものと認められる。ジ
    ンメル(E. Simmel) の通信によると、上官によりて酷く取扱はれることが、この疾病の動機中
    最高のものと考ふることが出来る。この場合にリビドー的要求の重大なことが何よく認められて
    居たならば、米國大統領の十四箇條の空想的約束が、それほど容易に信じられなかったであらう
    立派な武器が獨逸指揮者の手で破壊されなかったであらう。
     

    この二つの人爲的集団に於て、各個人は一方にリビドー的結合によりて指導者たるキリスト又
    は大元帥に結びつき、他方に集團中の他の部員に結びつくことは注意すべきことである。この二
     

  • S.

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    つの結合が如何にして相互に關係するか、それ等は同種類であり同價値であるか、それ等を心理
     

    的に叙述し得るか等の問題は次の研究に残さなければならぬ。しかし多くの権威者が集団心理
    奥の中に指導者の大切なことを十分に認めなかったことを吾人は少しく非難しようと思ふ。然る
    に人が研究の第一目的として指導者を選んだことは、一層有利な状態に吾人を導いた。集團心
    理の主要なる現象、即ち集圏に於て個人が自由を失現象を説明するに借りて人は正しい道
    を辿りて居るかのやうに見ゆる。 若し各個人がかかる強烈なる情緒的結合によりて二つの方向に
    束縛されるならば、彼の人格中に観察された變化と制限とを、その關係から説明するに困難を感
    じないであらう。
     

    集團の主要素が集團中にあるリビドー的結合に存すといふ如き結果の暗示を、人は軍隊で最
    よく研究された恐慌(Panik)の現象の中に發見する。この種の集團が統制を失った時に恐慌は
    生する。上官の命令が少しも聞き入れられず、各人が自分のことのみ心配して、他人のことを少
    しも考へないといふことが、恐慌の特質である。相互の結合は破れ、異常な無意味の憂慮が生ず
     

    る。この主張に対して、それは却つて反封であるとの非難が生するであらう。即ち憂慮が非常に
     

  • S.

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    大なる爲に、他人との結合や他人を省みるやうなことが凡て無くなるのであると非難するであら
     

    う。マクデューガルは氏が最も強調した傅染(原始的感應)によりて情緒の高上する代表的の例
    としてこの恐慌(軍隊の恐慌ではないが)を繋げて居る。しかしこの合理的な説明の方法はこの
    場合に全く不適営である。説明を要する眞の問題は、何故にその憂慮がそんなに烈しくなったか
    といふことである。この場合に危険の大なることには責任がない。何となれは将に恐慌を来たさ
    んとする軍隊が、以前にはそれと同じ、又はそれ以上の危険に遭遇しても立派な振舞をして居る
    からである。危険の威嚇的なことが恐慌の主要素でなく、恐慌は極く些細な出来事から屢々爆發
    する。恐慌による憂慮を感する個人が、自身のことのみ心配するやうになった時に、彼はこれま
    で危険をして小さく見えしめた情緒的結合が存在しなくなったといふ事の證據を得るであら
    う。彼はその危険に彼一人で當面するといふことが、危険を一層大にするに相違ない。故に恐慌
    による憂慮は集團のリビドー的組織の弛緩を豫想するもので、その弛に対し適営な仕方に反應
    したことが憂慮である。而してそれと反對な説明、即ち危険に當面する際の憂慮の爲に集団のリ
    ビドー的結合が破壊されるといふことは否定されることが出来る。
     

  • S.

    **
     

    集中の憂慮が感應 (傅染)の爲に非常な程度に増加するとの主張は、如上の解釋と決して矛
    盾しない。 マクヂューガルの見解は、危険が非常に大であり、集團が強き情緒的結合を有しない
    場合に正常である。例へば劇場や娯楽場に於て火事が起ったやうな時にその傑作は具備される。
    しかし眞に恐慌を理解するに都合よき場合、印吾人の目的に最もよく用ひられ得る場合は上に
    述べた如きもので、危険が通常の程度又は以前に度々遭遇した程度以上に増加しなくても軍隊は
    恐慌を惹起すものである。恐慌といふ語の慣用が的確に決定されなければならぬとは豫期されな
    い。時としてそれは集合的憂慮を示し、時としては凡ての制限を超ゆる時の個人の憂慮に用ひら
    れ、父屢を憂慮の爆が場合によりて保證されて居ない時にその名を用ひる。若し恐慌の語を
    集合的憂慮の意味に取れば、吾人は汎な類推をなすことが出来る。個人に於ける憂慮は危険
    の大なることによりても、或は情緒的結合(リビドー)の弛緩によりても生するもので、後
    の場合が神経症的憂慮である。 それと全く同じ仕方に於て恐慌は一般的危険の増加によりて、或
    は集酬を結合する情緒的結合の消失によりて生する。而して後の場合が神経症的憂慮と類似して
    居る。
     

  • S.

    134
    フェルツェギ
     

    * Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse, XXV.
    -
     

    (Bel V. Felszeghy) の興味ある、しかし空想的論文 Panik und Pankomplex.
     

    Imago, 1920, Bd VI. を比較せよ。
     

    マクデューガルのやうに恐慌を集團精神の最も明白なる機能の一として記述するものは、集團
    精神がそれの最も著しき一表現たる恐慌の中には消失するといふ矛盾に到達する。恐慌が集圏の
    分裂を意味することは疑能はざることで、恐慌は集圏の人々が恐慌以外の場合には相互に示し
    願慮を見て失った結果である。
     

    恐慌の爆發の代表的の例はューヂット及びホロフエルン (Judith und Holofern)にするヘッ
    ベル(Hebbel)の劇のネストロイ (Nestroy) の狂句の中に示されて居る。一人の兵士は、「将軍が
    首を失った」と叫んだ。それで凡てのアッシリヤ人は逃走した。ある意味に於て指導者を失ふと
    と、彼に就て疑惑を生することは假令危険が同一であつても、恐慌の爆裂を生する。集圏の人々
    相互間の結合は、彼等の指導者に對する結合が無くなると同時に通常失はれる。集圏は恰もボロ
    ダナの瓶の如く、それの頭部が破れると全部が破壊する。
     

  • S.

    135
     

    宗教の分解は観察するに容易でない。 少し以前に、私はロンドンの正によりて推され
     

    た、カトリック方面から出た英語小説「暗黒であつた時」を手にした。その本には、かやりた分
    の可能とそれの結果とが巧みに且つ明確に描寫されて居た。この小説は現代に關係するやうに
    推定されるが、その中には、人間キリスト及びキリストの信仰に敵意を示す徒が如何にしてエ
    ルサレムに於ける墓を發見するに成功したかを物語つて居る。この墓には、アリマテープのョ
    セフが述べた言葉が刻まれてある。即ち彼は敬虔の餘りキリストの身麗を埋葬の後三日目に秘密
    その墓から移して、この地に埋めたと。この手段によりてキリストの復活と彼の神性に就ての
    信仰は取除かれる。而してこの考古準的發見の結果が歐洲文化の動であり、且つ凡ての犯罪と
    非行の非常な増加である。而して偽造者の計が発覚した後初めてこれ等の犯罪や非行は止むも
    のである。
     

    この場合宗教團礎に起ると想像される分裂の際に表れる現象は憂慮でない。この場合には憂慮
     

    を生ずる理由はなく、その代りに他の人民に對する残忍な敵對的衝動が現れる。而してそれは以
     

    前にはキリストの平等愛の為に現れることが出来なかつたものである。しかしキリスト王國の間
     

  • S.

    136
    96
    らう。
     

    でも信仰者の殻にしないもの、キリストを愛しないもの、キリストが愛しなかつたものは、
    この結合の外に立つて居る。故に宗教はそれ自身愛の宗教であると言つて居ても、それに属しな
    いものには残酷であり、愛が無いに相違ない。根本的に何れの宗教も同様に、それが包括する凡
    てのものに対しては愛の宗教であるが、しかしそれに属しないものに対しては、 残忍であり頑
    である。しかし個人的には如上の事實を見することが困難であるから、その断に就て信仰者を
    り厳しく非難すべきでない。 不信又は無頓着のものは、そのに於て、心理的に更都合がよ
    い。今日異説を容れない頑迷が以前の世紀ほど烈しく且つ殘酷で無くなったとしても、人間の風
    習が柔弱になつたと結論することは出来ない。その原因は寧ろ宗教感情及びそれに基くリビドー
    的結合が弱くなったことに求めらるべきである。若し他の集結合が宗教的結合の代りをするな
    らば、(社會主義的結合がこの代りをなすことに成功して居るやうに見ゆる)、宗教戦争の時代に
    於けると等しき頑迷をその集團以外の人に示すであらう。若し科學的意見の相違が集團に對し、
    宗教と同様な意義を興ふることが出来れば、再び同一の結果がこの新動力の爲に反復されるであ
     

  • S.

    137
     

    ★ 君主の父が消滅した後に、これと類似の現象の生じたことを説明せる P. Federn : Die vater lose
    Gesellschaft. 1919 を比較せよ。