• S.

    191
     

    三    追    加


     

    吾人の考察は今やりの終末に達したが、その考察の道程に於て、人は多くの側路を通って
    来た。吾人はその側路を最初避けたが、しかしその中には、人に洞察を奥へるものが多くあつ
    た。吾人はかやうに側路に入った爲に取残して置いた二三のを茲に取上げようと思ふ。
     

    (A) 自我と對象との同一視と、自我理想を對象によりて置換へることとの間の區別は、吾人
    が研究を初めた二つの大なる人爲的集團、即ち軍隊とキリスト教會とによりて興味ある説明を愛
    見する。
     

  • S.

    192
     

    兵士は彼の首領、即ち軍隊の指揮者を理想とするが、他方に彼は彼自身を彼の同僚と同一視し
     

    この自我の配會から、相互補助をふること、姉に仲間の所有を分配することの義務を引出す。
     

    しかし若し兵士が彼自身を大將と同一視することを試みるならば滑稽になる。ワルレンシュタイ
    ンの兵に於ける兵士はこの理由で曹長を笑った。
     

    彼が嘆拂ひをし、唾液を吐く通りに、
    汝は巧みに彼の真似をした!
     

    それがカソリック教會では異つて居る。一々の基督教徒は、彼の理想としてキリストを愛し、
    同一視の結合によりて凡ての他の基督教徒と結合して居ると感する。しかし會は彼にそれ以上
    を要求する。彼は又彼自身をキリストと同一視し、凡ての他の基督教徒を、キリストが愛する如
    くに愛しなければならぬ。故に敬合は、集團構成によりて生ずるリビドーの位置が二つのに於
    て補充されなければならぬことを要求する。即ち同一視が對象選擇を生じた所に附加され、對象
    は同一視の存する所に附加されなければならぬ。この附加は明かに集團の構成以上に行く。人は
    善良な基督教徒たり得るが、しかし自分をキリストの位置に置き、キリストのやうに凡ての人類
     

  • S.

    193
     

    を愛を以て抱擁すとの観念から離れて居ることが出来る。人は弱い生物であるので、救世主の精
    神の偉大と愛の力とを示し得ると考ふる要はない。しかしこの集閣に於けるリビドー分配の一層
    大なる發達は、恐らく基督教が一層高等な倫理的水準に達して居ると主張し得る成分になつて居
    る。
     

    (B) 吾人は人間の精神発達に於ける一定の場所を明記することが出来、且つその場所に於て
    は集團心理學から個人心理學への進歩が、集團の一々の部員によりて完成されたことを述べた。
    * この處以下に述ぶる所は、オットー ・ランクとの意見の交換の結果書かれたものである。 (,,Die Don
    Juan-Gestal“. Imago, VIII. 1922 を見よ。 1924年に一冊の本となった。)
     

    この目的のために、人は暫く原始群衆の父に就ての科學的神話に帰らなければならぬ。その
    父は、後に世界の創造主に高められた。蓋し彼は最初の集團を構成した凡ての息子を生産したか
    ら正常に創造主になったのである。彼はそれ等の一々の者の理想であり、同時に恐れられ、崇拝
    された。その事は後にタブーの観念に導いた。 これ等の多数の個人は結局共に結合し、彼を殺
     

    し、寸断した。勝利者の集團の誰もが彼の位置を取ることが出来ない。或は彼等の一人がそれを
     

  • S.

    194
     

    行ふと、戦争が新に初まり、彼等の父の遺産を見て棄てなければならぬと理解するに至るまで戰
     

    争はつづく。その時彼等は凡て同等の権利を以て兄弟のトーテムを構成し、殺戮者の記憶を
    保存し補償するトーテム禁止によりて結合する。しかし成就したことに対する不満足は残り、
    それが新しいの源泉になる。この兄弟の集團に結合した人々は、新しい水準に於てき狀態
    を復活せしめんとする方に漑に向つて行つた。男子はも一度家族の主長となり、父なき時期に
    建設された婦人政治の特権を破壊した。これに対する補償として彼はその時母の神性を認めたか
    も知れない。その神に奉仕する僧侶は母を保護するために去勢された。それは原始群衆の父によ
    りて興へられた例に倣ったのである。しかし新しい家族は古い家族の陰影に過ぎなかつた。そこ
    には多数の父があり、一々の者は他人の権利によりて制限されて居た。
     

    その際ある個人は思慕の急迫のために集團から離れて、父の役目を取らんと動かされたかも知
    れない。これを行つた者は最初の叙事詩人であつた。而してその進歩が彼の想像の中に完成され
    た。この詩人は彼の眞情を詐つて思慕の意味に代へて言ひ表した。即ち、彼は英雄神話を創作し
    た。その英雄は自分で父を殺した男子であつた。而してその父はトーテム時代の怪物として神
     

  • S.

    195
    55
     

    話の中に表れて居る。 父が男兒の最初の理想であつた如くに、詩人は父の代理たる英雄を創作し
    て最初の自我理想とした。英雄になつた者は母の最愛者である最年少の息子であつた。それを母
    は父親の嫉妬から保護したもので、その者が原始群衆の時代には父の承者であつた。 戦争の賞
    品であり、殺戮者の誘惑であつた婦人は、歴史以前の虚の詩人的空想に於ては、恐らく犯罪へ
    の誘惑者、且つ煽動者に幾つたのである。
     

    英雄は群衆全が企てんとした仕事をで成就げんと要求する。しかしランク (Rank)が
    観察した通りに、お伽噺の中には承認されなかった事實の痕跡が明白に保存されてある。何とな
    れば吾人はその中に々次のやうな事を発見する。即ちある困難な仕事を實行しなければならぬ
    英雄は、や蟻の如き小動物の群の助けによりてのみその仕事を成し遂げることが出来るのを發
    見する。而してその英雄は通常最年少の息子で、且つ父の代表者の面前には歴々馬鹿で謂はば無
    害のものとして表示される。これ等の動物は原始群衆に於ては兄弟で、それは恰も昆蟲が夢の象
     

    では兄弟や姉妹 (輕蔑的に嬰兒として考へられる)を意味すと同様である。神話やお伽噺中
    の仕事は、いづれも英雄的事業の代用物と容易に認めることが出来る。
     

  • S.

    196
     

    神話は一の階段で、その階段をりて個人は集團心理から出現して来たのである。 最初の神話
    は慥かに心理的のもので、英雄神話である。説明的自然神話は、可なり後になって表れたに相違
    ない。詩人はこの階段を取り、且つこの仕方に於て想像的に集團から自己を解放したが、ランク
    の観察によると、詩人は現實中に集團に復帰する道を見することが出来るといふことである。
    何となれば彼は集團の方に出かけて行つて彼の創作した英雄の事業を集團に物語るからである。
    この英雄は根柢に於て彼自身に外ならない。かくして彼は自身を現實の水準に下げ、彼の話を聴
    くものを想像の水準に高める。しかしその者はその詩人を理解し、原始的父を慕ふことの同一
    關係を有することによりて、聽者は彼等自身をその英雄と同一視することが出来る。
     

    * Hanns Sachs: Gemeinsame Tagträume 参照。 これは千九百二十年ハーグで開かれた第六回精神分
    析堅合に於て牘んだ論文を氏自身が収約したるもの。 Internationale Zeitschrift für Psychoanalyse,
    VI, (1920) その後木の形で公にされた。 (Imago-Büicher, Bd. 3).
     

    英雄神話の虚言は英雄の神格化に於て頂上に達する。恐らく神格化せる英雄は父祚(Vatergott)
    よりも早いかも知れない。而して、神としてこの原始的父への復師の先駆者であつたかも知れな
     

  • S.

    197
    10
     

    い。神の系列を年代的にいふと母神 (Muttergöttin) 英雄―父神である。 しかし今日吾人が
    認むる所の神の様式は、決して忘れることの出来ない原始的父の高上したものに過ぎない。
     

    * この簡単な叙述に於て、私は古譚、神話、お伽噺、風俗史等にある材料を持つて来て、この解の支
    持にすることを断念する。
     

    (C)私はこの論文に於て、直接の性的衝動とその目的を禁止された性的衝動に就て多くを述
    べた。この區別が餘り多くの反動を被らないことを希望する。しかしこの問題に就ての詳細な議
    論は、假令既に大部分述べたことを單に反復することですらも歓迎されないことはなからうと思
     

    子供に於けるリビドーのは、彼等の目的に於て禁止された性的衝動の第一且つ最上の例で
    あることを苦人は知った。 子供が雨親や面倒を見る者に対して有する凡ての感情は、子供の性的
    傾向を登露せしむる欲求に容易に移行する。 子供は彼の愛する人間から、彼の知る温情の凡ての
    表號を要求する。彼は愛する對象を接吻し、れ、眺めることを欲し、それ等の性器を見んとの
    好奇心があり、それ等が内密の排泄機能を行ふ時に一所に居らんとの欲求がある。結婚を何と解
     

  • S.

    198
     

    釋して居るかは不明であるが、母や乳母と結婚することを約束し、父親に子供を生むやうに要求
     

    する。子供時代の直接の観察にその時代の記憶の分析的研究は、溫情及び嫉妬の感情と性的
    意向との完全なる融合を明かにし、且つ子供が不完全に集注した性的傾向の對象として彼の愛す
     

    る人間を取る根本的方法が如何なるものかを示して居る。
     

    * Drei Abbandlungen zur Sexualtheorie. 参照。
    *
     

    人の知る所によると、 子供の愛情の最初の形態はそれの代表的のものはエデイブス錯綜と
    同一であるが) 潜在期の最初から、抑作用を被るものである。抑墜された後に残るものは、純
    粋に溫情的結合として表れ、その結合は同一人間に關係し、最早、性的のものとして叙述されな
    いものである。心的生活の奥祕を明かにする精神分析學は、子供時代の極く初期の性的結合が假
    令抑壓され、無意識になっても固執することを示すに困難ではない。如何なる温情を見ても、
    それは對象となれる人間か、又はその人間の原型(Imago)との感覺的對象結合の後綴者たるこ
    とを主張する勇氣を精神分析は吾人に興へる。ある場合に於て、以前の完全なる性的流が抑壓
    の下に存在するか、或は已にきてしまって居るかは、特殊の考察をしなければ明かにするこ
     

  • S.

    199
    *
    とである。
     

    とは出来ない。尚一層精密に言へば、性的流は一の形式及び可能として存在し、常に退行によ
    りて充積され、且つ活動せしめられ得ることは確である。唯一の問題は如何なる程度の充積と
    實行力とをそれが現在有するかといふことで、これは常に答へることの出来ないものである。こ
    れと聯闘して二つの誤謬の源泉を除くために、 愛方に対し一様な注意を必要とする。即ち抑さ
    れた無意識の意義を低く評価する Seylla と病的標準によりて凡ての正常を判断する Clarybdis
     

    *シラとカリプディスとはホーマーのオデッシーにある海の怪物、後にはこの怪物はイ リアのメッ
    シナ海峡に在る岩と渦とであると解せられた。(者)
     

    抑されたものの奥秘に徹底しようともしないし、又徹底出来ない心理は、淵情的結合を以
    て、性の目的を有しない傾向の表現であると見做し、假令それがかやうな目的を有する傾向から
    導き出された場合でも、性に無關係であるとする。
     

    * 組織が少しく複雑である敵窟のもこの規則に反しない。
     

    これ等のものが性の目的から博向したことをいふことは正常である。尤も超心理の要求を確
     

  • S.

    200
     

    めるやうな目的轉向の叙述には多少の困難が伴つて居る。その目的を禁止された衝動は、常に
     

    それの最初の性的目的を幾分保存する。 温情ある者、朋友、又は崇拝者ですら身體的接近を
    欲し、使徒ボー的意味に於て愛される人の容貌を求める。 若し吾人が欲するならば、 目的轉向
    の中に性衝動の昇華作用 (Sublimierung) の登端を見とめることが出来る。或は他方に向遙か遠
    い所に昇華作用の極限を定めることが出来る。目的を禁止された此等の性衝動は禁止されない
    のよりも遙か大なる機能的長所を有する。禁止された性的衝動は實際に完全な満足を得ることが
    出来ない爲に、永久的結合を創造することに特に傾く。これに反して直接に性的である衝動は、
    滿足する度にエネルギーを失ひ、性的リビドーの新な蓄積によりて再び新にされることを待た
    なければならぬ。而してその場合に時々は變化することが出来る。 禁止された衝動は禁止さ
    れない衝動とある程度に混合することが出来る。而して前者が後者から生じた如くに、前者は退
    行して後者に變形することが出来る。 先生と生徒 演奏者と聽者、 その間に、特にそれが婦人の
    場合には、尊敬と崇拝とに基く友情的性質の情緒關係から、色情的欲求が如何に客易に達する
    かはよく知られて居る。(モリエ ルの Embrassez moi pour l'amour du Grec. 参照)この種の
     

  • S.

    201
     

    無目的の端を有する情緒的結合の発送は、に性的對象選擇に対し、 歴々往来した道を提供す
    *
     

    る。フイスターは「ツイツェンドルフ伯の敬神」の著書中に、烈しき宗教的結合が熱烈な性的興
    奮に如何に容易に變化し得るかの極めて明白であり、且つ關聯せる例を興した。他方に持久的の
    純粋の温情的結合に變化することは、短命な直接的の性的傾向に取りて極めて普通である。而し
    て激情的愛情から生じた結婚が鞏固な結合になることは大部分の過程に基いて居る。
     

    * Pfister, Frömmigkeit der Grafen von Zinzendorf. 1910.
     

    目的を禁止された性的傾向は、内外の障碍が性の目的をせしめないやうにする時の直接の性
    的衝動より生すると吾人は聞いて驚かされないであらう。 滞在期の抑はこの種の内的障碍であ
    り、或は寧ろ内的になった障碍である。原始群衆の父は彼の性的頑の爲に、凡ての彼の息子を
    節度あるやうに強ひ、目的の禁止された結合に逐ひやつたが、彼自身は性的快楽の自由を保存し
    爲にこの種の結合なくして止まったと吾人は假定した。集團の基礎となれる凡ての結合は目的を
     

    禁止された衝動の特質を有する。しかし茲に於て、直接の性的衝動と集団構成との間の關係を取
    扱新しい問題の解明に吾人は近づいた。
     

  • S.

    202
     

    (D) 最後に述べた二つの事項は、直接の性的衝動が集團の構成に不利益であることの発見に
     

    對し準備を興へて居る。家族の發達史の中に性愛の集團關係 (集團結婚)のあつたことは真であ
    る。しかし性愛が自我に對して尚一層大切になり、且つそれが戀愛の特質を一層高く發達せしむ
    るに従って、性愛は益々強く男と女の二人に制限されるやうに要求された。一夫多妻的傾向は連
    して化する對象の中に滿足を発見するやうになつて居る。
     

    性的滿足の目的のために結合する二人は、彼等が集團から離れることを求める限りに於て、群
    居衝動、集團感情に反することを證明しつつあるやうである。彼等が一層多く愛するやうになる
    に従つて、盆々二人だけで満足する。集團の影響の拒否は羞恥の感の形で示される。極度に熱し
    い嫉妬の情は、性的對象選擇を、集團結合によりて侵害されることを防ぐために生ずるものであ
    る。愛情關係の澀情的、即ち個人的成分が感覺的成分の背後に全く隠れる時に、他人の面前で二
    人が性交をなすことが出来、又遊興の時の如く集團で同時的性行爲を行ふことが出来る。しかし
    それと共に性的關係の早い階段への退行が生じて居る。この階段に於ては愛することは未だ何等
    の役目をなさず、凡ての性的對象は同一慣値であるやうに判断された。この同一價値といふのは
     

  • S.

    203
     

    幾分バーナード・ショウ(Bernard Shaw) の警句、即ち愛することは一人の婦人と他の婦人との
    相違を非常に誇張することであるとの意味に取ったのである。
     

    愛することは後になつて男子と婦人との間の性的關係にその出口を發見したこと、従つて性的
    愛情と集團結合との間の対立は後の愛であることの多の徴候がある。この假定は初期の家族
    に就ての人の神話と矛盾して居るやうに見ゆるかも知れない。何となれば吾人の推定によると
    兄弟の軍勢が父親殺しに逐ひやられたことは結局母や姉妹に對する彼等の愛情であつたからであ
    る。而してこの愛情はへない原始的の結合、換言すれば温情と感覚的のものとの密接な結合以
    外のものであると假定することは困難である。深く考察すると、この反対は却って確證になつ
    でしまふ。父親殺しの反動の一は結局トーテム時代の異族結婚の制度であつた。即ちそれは子供
    時代から愛されて居た家族の婦人と性的關係を作ることの禁止であつた。この仕方に於てが男
    子の温情と感覺的感情との間に打込まれ、それは今日向彼の愛情生活に確乎と固定して居る。こ
    の異族結婚の結果として、男子の感的必要は未知の且つ愛しない婦人で満足されなければなら
    なくなったのである。
     

  • S.

    204
     

    * Ueber die allgemeinste Erniedrigung des Liebeslebens. 1912. を見よ。
     

    大なる人爲的集團たる教と軍隊とには婦人を性的對象とする餘地がない。 男子と婦人との間
    の愛情關係はこれ等の組織以外に留まる。 男子竝に婦人から構成される集団が形成される場合で
    も性別は何等の役目をなさない。この場合の集団を結合するリビドーは同性愛的のものか父
    は異性愛的のものかを尋ねることは殆ど何等の意味がない。何となれば、それは性に従つて分化
    されてないからで、特にリビドーの生殖組織の目的を全く無視して居るからである。
     

    他の點に於ては集團中に吸収された個人に於てすら、 直接の性的傾向によりて、幾分の個人的
    活動をする。 若しその傾向がりに強くなると、各の集團構成を分裂せしむる。これはカソリッ
     

    何に於てその信仰者に結婚しないで居るやうにすすめ、牧師には獨身を命ずる事の最上の動
    機となつて居る。愛に陥った爲に、致を離れるやうになることは牧師に於てすら屢々見られる
    所である。同様に婦人に対する愛は種族、国民的區劃、會的階段組織の集結合を破壊し、且
    つそれは文化的に重大な結果を生する。 同性愛はそれが目的を禁止された性的傾向の形を取る時
    ですら、集圏結合と遙かによく適合することは確質である。而してこの著しき事を説明するに
     

  • S.

    205
    は多くのことを言はなければならぬ。
     

    精神々經症の精神分析的研究の致ゆる所によると、その疾患の症状は抑壓されては居るが、尚
    活動して居る直接の性的傾向に基いて居る。しかもこの症状を完全に言ひ表すには、目的禁止の
    傾向が、それの禁止に於て全く成功せず、或は抑壓された性的目的に復帰する地のあることを
    附言しなければならぬ。このことは神経症患者が非合的になり、普通の集團構成から離れるこ
    とと一致する。神經症患者は愛する場合と同様な分裂的作用を集團の上に行ふと言はれる。他方
    に有力なる動力が集團構成に奥へられる所では、神経症は減少し、或は少くとも一時的に消失す
    るやうに見ゆる。この神経症と集團構成との間の對立を治療に應用せんと企てられたことは正當
    である。今日の文化の世界に於て宗教的錯覺が消失したことを後悔しない人々でも、錯覺が結
    合を有する限り、神経症の危険に對する最も有力なる保障として、錯によりて結合せる人々に
    その錯覚を奥へるといふことを許すであらう。 神秘宗教的又は哲學宗教的宗派や組合に於ける凡
    ての結合の中に、凡ての種類の神經症の片寄った治療法が表現されて居ることを容易に認めるこ
    とが出来る。この治療法の凡ては直接の性的傾向と、目的を禁止された性的傾向との間の對立に
     

  • S.

    206
    關係して居る。
     

    若し神経症患者が獨りで残されると、彼の排斥された大なる集團構成を、彼自身の症候構成に
    置換へることを餘儀なくされる。彼は自身の爲に彼自身の想像の世界、彼自身の宗教、彼自身の
    幻想の系統を創造し、片寄った仕方に博愛主義の制度を復活する。而してその博愛主義は直接の
    性的傾向によりて演ぜられる優勢なる部分であることを明白に證明して居る。
     

    * Totem und Tabu. の第二節 Das Tabu und die Ambivalenz の終りの方を見よ。
    *
     

    (E) 結論に於て、リビドー説の見地から、吾人が取扱った所の、愛すること、催眠、集團構
    成、神經症の狀態の比較評價を附加しよう。
     

    愛することは、直接の性的傾向と目的を禁止された性的傾向との同時的存在にく。而してこ
    の場合には對象は自己愛的自我リビドーの一部を自身の方に取込んで居る。故に愛することは自
    我と對象とにし唯一の空間を有する状態である。
     

    催眠は二つの人間に限られて居るで愛することに似て居る。しかしそれは目的を禁止され、
    對象を自我理想の代りにする所の性的傾向に全く悪いて居る。
     

  • S.

    207
     

    集團は催眠過程を複雑にしたものである。 集團はそれを結合せしむる衝動の性質に於て、又自
    我理想を對象に置換へることに於て催眠と一致する。しかしその上に他の個人との同一視が附加
    されて居る。而してその同一視は恐らく最初對象に對し同一關係を有したことによりて可能とな
    つたものである。
     

    催眠と集圏構成との二つの状態は、人間リビドーの系統發生からの遺傳的貯蓄である。尤もそ
    のリビドーは催眠に於ては豫備傾向の形式の中に示され、集団に於てはこの外に又直接の遺物と
    して示される。直接の性的傾向が目的禁止の性的傾向によりて置換へられることは、二つの状態
    に於て、自我と自我理想との分離を促進する。而してその分離の端は既に愛することの状態の
    中に存在して居る。
     

    神経症はこの系列の外に位する。それは人間リビドーの礎の特異性に基いて居る。即ち直接
    の性的機能が潜在期によりて中断され、その機能の開始を再びしたことに基いて居る。催眠と楽
    構成とは、退行の性質を有する點に相似て居るが、愛することには、この退行が存在しない。
    神經症は直接の性的衝動から目的禁止の性的衝動への進歩が、完全に成就されて居ない場合に表
    *
     

  • S.

    208
     

    れる。神經症はかかる發達を經過した後に自我に取入れられた衝動と同一衙動の他の部分との間
     

    の机に過ぎない。 その他の部分といふのは、全く抑墜された他の衝動的欲求の如く、直接の滿
    足を得んとして、抑されて居る無意識から努力する衝動である。神経症は内容的に極めて豊富
    である。蓋しそれは自我と對象との間にありとあらゆる關係、即ち對象が保存され、或は棄てら
    又は自我の中に建設されるといふやうな凡ての關係を包含し、且つ自我と自我理想との間の軋
    關係をも包括して居るからである。
     

    * Drei Abhandlungen zur Sexualtheoric. 第五版 1922.96 頁を見よ。