S.
二 自 我 の 階 段
成者によりてへられた集團心理に就ての相互に補充する叙述を心中に有しながら、吾人
今日の個人の生活を見渡す時に、 それ等の示す複雑の爲に、包括的解釈を企てる勇氣を失ふか
も知れない。一々の個人は多数の集團の構成分子で、彼は同一視の結合によりて多くの方向に結
合して居り、且つ種々の模範の上に彼の自我理想を建設して居る。従つて個人は多数の集団心を
分指して居る。例へば彼のする民族、階級、信仰、組合、國家等の集心を分擔して居る。 而
して彼は獨立と創意の一小片を有すといふ範圍に於て、それ等のの上に彼自身を高めること
が出来る。上の如く一様であり特徴的である作用を有する安定且つ持久的集團構成は、 ルボンが
集團精神の立派な心理的特質の輪廓を作り上げた所の、迅速に構成された経過的集團よりも観察
者に訴へる點が熱い。他のものの上に加へられたかの如き噪しい一時的集団の中に、吾人が個人
発送と認むべきものが一時的に全く消失するといふ不思議な事が表れる。
S.
184
人はこの不思議なことを説明するのに、個人は彼の自我理想を捨てて、その代りに指導者の
形を取った集團理想を採用する爲であるとした。しかしこの不思議なことは何れの場合にも一様
に大であるとは言へないとの訂正を附加しなければならぬ。多数の個人に於て、自我と自我理想
との間の分離はり遠く進んで居ない。 二つのものは何容易に一致する。 自我はそれの以前の自
己愛的滿足を屢々保存する。指導者の選擇はこの事情の爲に極めて都合がよい。指導者は只特に
純粋な形式に於ける代表的な個人の特質を有することを要し、大なる力とリビドーの自由
との印象を奥へることを要する。而してその場合に強き首領に對する要求が歴々彼を迎へ、その
他の場合ではへられない優勢を彼に附與する。集團の他の人々、即ち幾分の訂正なければ彼等
の自我理想が指揮者に合體しないやうなものは、暗示によりて、換言すれば同一視によりて他の
ものから引裂かれる。
集團のリビドー的組織の説明に人が貢識することの出来たものは、自我と自我理想との間の一
別に導き、且つ對象を自我理想に同一視したり置換へたりすることの二種の結合にまでらし
める。自我分析の第一歩として、自我に分化的階段があるとの假定は、種々の方面の心理から
S.
185
次にその正常を認められなければならぬ。私の「自己愛序説」の論文中に、この區分を支持す
るに先づ利用され得る凡ての病的材料を蒐集した。 しかし精神症の心理に一層深く入り込む時
に吾人の豫期し得ることは、その分化的階段の意義が、遥かに大となることを発見することであ
る。自我はそれから発達した自我理想に対して對象關係に立つこと、神経症の研究によりて知る
に至つた外界の對象と全體自我との間の凡ての相互作用が自我の内部の新しい舞で反復され得
ることを想起して見よ。
この場合に私は、この見地から可能に見ゆる結果の一つを追求し、他の場合に未解決に残した
問題の議論を茲に続けよう。吾人が知るやうになつた心的分化の一々は、心的機能の困難の新な
加重を表し、その機能の不確實を増加し、機能の破壊、即ち疾病の出発となるかも知れない。
かくして吾人は、絕對的自己満足の自己愛から、變化する外界の知、竝に對象發見の發端に至
るまでの階段をその發生の順序によりて作り上げた。而してこれに大の事實が聯合する。即ちそ
の事といふのは、人は事物の新しい狀態に永い間ゆることが出来ないこと、吾人は刺戟が
缺除し、且つ對象の無い以前の状態に、周期的に睡眠中に復帰することである。しかし吾人はこ
S.
983
186
の際外界の例に倣って居ることは真で、その外界はと夜との周期的變化によりて、吾人の被る
刺戟の大部分を一時撤回して居る。的に一層重大なる第二の例は、 かやうな拘束を受けない。
吾人の發達の進みに於て、聯絡ある自我と、それ以外にある無意識の抑された部分とに、吾人
の心的存在は分裂を生じた。而してこの新しく獲得した自我の安定性は、絶えず震盪を被ること
を吾人は知って居る。又一方に抑熈され排除されたものは、夢や神經症に於て、入場を許されよ
うと戸口を叩く。尤もその戸口は、抵抗によりて保護されて居る。吾人の覚醒せる健康時に於て
は、特殊の策略を用ひて、抵抗を欺き、抑されたものを許すやうにし、それを吾人の自我の中
一時引入れることによりて吾人の快感を増加するやうにする。 順智と滑稽、又一般的喜劇の一
部はこの種の快感によりて説明することが出来る。神経症の心理を知れるものは、餘り主要で
ない同様な例を思ひ浮べるであらう。しかし私は計畫せる適用に急ぐことにする。
* Trauer und Melancholie. Internationale Zeitschrift für Psychoanalyse, IV, 1916/18.
Sammlung kleiner Schriften zur Neurosenlehre, 4. Folge. [Ges. Schriften, Bd, V.)
自我理想が自我から分離することは永い間忍ぶことが出来ず、一時破棄されなければならぬこ
S.
187
*Totem und Tabu.
とは全く考へ得ることである。自我に課せられた凡ての地棄と制限とに於て、禁止の周期的破壊
が規則的に行はれる。これはに祭禮の規定に示されて居る。それは最初法律によりて規定され
た放送に外ならないで、祭の愉快な特質は放送によりて生する解放にすべきである。ローマ人
のサツルヌス祭、吾人の近代の謝肉祭はその主要點に於て原始人の祭と一致する。 この祭は通常
各種の放送と、他の時には最も神聖な戒律であつたものを犯すことに終るのである。しかし自我
理想は自我が服従しなければならぬ凡ての制限の總和である。故に自我理想の設止は、自我に對
して今一度滿足を奥へる所の大なる祭であるに相違ない。
**
トロッター は抑歴を群集衝動にまで辿った。私は Einfüührung der Narzissmus の中に、理想が構成
されたことは自我の側から音へば抑麗の條件であると主張して居るが、それはトロッタ の主張と矛盾
するよりも寧ろ表現の他の形式に氏の主張を認したといふべきである。
自我の中に存在する或るものが自我理想と一致する時に、常に勝利の感を生する。 罪悪感 (
に劣等の感)は自我と自我理想との間の緊張の表現として理解することが出来る。
S.
188
氣分の一般的感情が、非常な沈滯から、ある種の中間狀態を通りて健康の高上した感へと周期
的に動揄する人間があることはよく知られて居る。この指は辛うじて認知されるものから極端
な場合に至るまで極めて異った大さの振幅を有する。而してその極端な場合は躁狂と狂の形を
取りて、その人間の生活の上に非常な苦痛と且つ妨害を導き入れる。この周期的憂鬱の代表的の
場合に、外部の興奮する原因は、何等決定的役目を演するやうに見えない。内部の動機に就ては
この患者と他の患者との間に量に於ても質に於ても何等の相違が發見されない。心的外傷を容易
に辿り得る周期的憂鬱の他の全く類似せる場合に就ては後に述べることにする。
かやうな氣分の自發的動搖の根據は知られて居ない。鬱狂が躁狂によりて置換へられる機制に
就て吾人は洞察を缺いて居る。従つてこれ等の患者は次の如き人の推測が真に適用され得る如
人間であると自由に推定することが出来る。即ち彼等の自我理想は、以前に特に厳格に自我を
支配して居たが、後になりて一時自我の中に溶解されるかも知れないと推測することが出来る。
不明瞭な點を避けることを人は維持しよう。人の自我分析の基礎から考へると、躁狂の場
合には自我と自我理想とが融合することを疑ふことは出来ない。その融合のためにその者は勝利
S.
189
と自己滿足の氣分に浸り、自己批判の妨害を受けず、禁止、他人を考慮すること、自己非難等の
撤酸を楽しむことが出来る。狂の不幸は彼の自我に於ける二つの力の間の烈しき軋轢の表現で
あることは、明白ではないが、極めて眞野らしく思はれる。その軋轢に於ては感受性の高くなつ
理想は、殘酷にも、自我に對する非難を劣等の逃想と自己愛とによりて表すものである。 吾
人がよく假定した、新組織に對する周期的反抗に於て、自我と自我理想との間の變化的關係の原
因を人は求めて居るか、或はそれに対し責任ある他の條件を吾人は作らんとして居るかは問題
である。
躁狂への變化は狂的憂鬱の證候の必然的様式でない。 一回又は周期的に反復する單純の憂
症がありて、如上のを示さない。他方に興奮せしむる原因が明かに病源的役目を演する選憂
症がある。それは愛する對象が死んだとか又はある事情のにその對象を失ひ、 その對象からリ
ビドーを撤回するを餘儀なくされるに至つた後に生するものである。この種の心的起原の憂症
は躁狂に怒ることが出来、且つこの循環はある場合には自發的に見ゆるやうに容易に數回反復さ
れることが出来る。かやうにこの病気の状態は不明瞭で、僅かに二三の愛症のみが精神分析
S.
的に考察された位である。人が今日まで理解して居る限りでは、愛情の無償値を示した爲に、
對象が捨てられた場合である。その對象はその後同一視によりて自我の内部に再び建設され、且
つ自我理想によりて厳しく咎められる。對象に向けられた非難と攻撃とが愛症的自己非難の形
を取つて表れてくる。
* Abraham: Ansäitze zur psychoanalytischen Erforschung und Behandlung des manisch-depressiv-
en Irreseins. usw, 1912, in „Klinische Beiträge zur Psychoanalyse" 1921.
**一層精密に言へば、對象にする非難と攻撃とはその人自身の自我に向けられた非難の背後に隠れて
居る。而して固定、頑固、命令的なることを自己非難に附し、傷にそれ等が憂病者の自己非難の特
質になって居る。
この種の鬱憂症は結局躁狂變化するかも知れない。而してこの出来事の可能は、症状の他の
特質とは獨立せる様式を示して居る。
それに拘らず、自我理想に對する自我の周期的叛逆の成分を二種の鬱愛症、即ち心的起原のも
のと自発的のものとの考察に適用することは私に取りて困難でない。自發的憂症に於ては、 自
S.
I
る。
我理想は特殊の厳正を表すやうに傾き、爲に自動的に理想の一時的停止を生ずと假定することが
出来る。心的起原の鬱症に於ては、自我はそれの理想からの虐待によりて、叛逆するやうに設
舞される。而してその虐待は、拒否された對象との同一視を生じた時に、經驗されるものであ
111
追
加
吾人の考察は今やりの終末に達したが、その考察の道程に於て、人は多くの側路を通って
来た。吾人はその側路を最初避けたが、しかしその中には、人に洞察を奥へるものが多くあつ
た。吾人はかやうに側路に入った爲に取残して置いた二三のを茲に取上げようと思ふ。
(A) 自我と對象との同一視と、自我理想を對象によりて置換へることとの間の區別は、吾人
が研究を初めた二つの大なる人爲的集團、即ち軍隊とキリスト教會とによりて興味ある説明を愛
見する。
You are here
集團心理學と自我の分析1921-001/1930.ja
1921-001/1930.ja/11