精神分析1917-001/1929.3.ja
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    第二十講 人類の性的生活

    満足としてのみ考へ得られるやうなものを性的満足のうちに入れると驚くべきことであると諸君は言はれるであ
    らう。實際この最後の點に就いては、人間は性的生活を徹底的に研究して、正當に性的と呼ばれてもよいものは何
    であるかといふことを決定した後でなければ、吾々は決して一致した意見を持つことは出来ないであらう。

    人はきつと「性的なこと」とは何を意味するかといふことについて幾少しの疑問もない、と考へるであらう。それ
    は第一に、言ふまでもなく、「淫猥なこと」話してはならないことを意味する。私はこんな話を聞いたことがある。
    ある有名な精神治療家の學生達がその師にヒステリーの症候は屢々性的なことの表現であることを信じさせようと
    して、彼を一人ヒステリー婦人の襲撃の傍へ連れて行つた。彼女の發作は疑ひもなく出産を模倣であつたが、彼
    は「否、出産には少しも性的なところはない」と反對した。確かに出産は常に「淫猥なこと」であるとは限らない。
    諸君は、私がかかる負面目な事柄に就いて酒落を言ふことをよく思はれないことゝ思ふ。けれども、これは全然
    酒落といふ譯ではない。負面目につて、「性的なこと」といふ概念の内容を確定するのはそんなに容易ではないの
    である。兩性間の差異に關聯する一切のものと考へるのは恐らく唯一の適切な方法ではあらうが、これは餘り一
    般的に漠然としてゐる。若し性的行爲を中心點にすれば、性的なものとは異性の肉體(特に性的器官)から快感を
    得ることに關聯する一切のもの、最狹義に於いては、生殖器の合一と性的行爲の實行に關聯する一切のものを意
    味することにならう。けれどもさうすることは「性的なこと」と「淫猥なこと」とを同一視するのと殆んど同じで
    あつて、出産は性とは何の關係も持たなくなるであらう。若し生殖作用を性の中心とすれば、自慰や接吻のやうに
    生殖には關係がないが、しかも確かに性的なものであるところの全部を除外してなくてはならなくなる。けれども吾
    々は定説としようとすると試みに常に困難に遭遇するものであることを既に知つてゐる。これ以上完全な性の定義
    をすることは斷念しようと思ふ。「性的なこと」の概念の發達に連れて、H・ジルベラーの所謂「包括の誤謬」を生ぜ
    しめるやうなことが起つたのではないかと思はれる。實際、客觀的に見れば、吾々は「性的なこと」の意味をかな

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    體神分分析

    りよく知つてゐる。
    性的なことは性の相異、快感の獲得、生殖作用及び秘密にする必要のある安
    逸な見方で日常生活的の實際的な必要には十分である。けれどもこれは科学
    によつては最早十分ではない。何故ならば吾々は周到な、犠牲的な克己によ
    つて始めてなされたところの研究によつて、その「性的生活」が普通人の
    とは著しく異つてゐる人々の存在する事を知つてゐるからである。この「変
    質者」のあるものは、い-
    異を彼等の生活表から削除してしまつてゐる。彼等と同性の人だけが彼等の
    性慾を刺戟することが出来るのであつて、異性(特に異性の生殖器)は彼等
    にとつては一般に性的対象とならない。極端な例に於ては嫌悪の対象とさ
    へもなることがある。かやうにして彼等は、言ふまでもなく、生殖作用には
    少しも参加しようとしない。かゝる人々は同性愛者或は性慾倒錯者と呼ばれ
    る。彼等は、常にではないまでも、屡々他の點では十分教養のある、知的にも
    徳的にも高い標準に達してゐる男女であるが、たゞこの運命的な特異性に悩
    まされてゐるのである。彼等は彼等の科学的代弁者の口を通じて人類の一
    變種であり、「第三性」であつて、他の両性と同じの権利を有するものである
    と主張してゐる。吾々は後にこの主張を批判的に検討する機会があると思ふ。
    言ふまでもなく彼等は、彼等が好んで主張したがるやうな、「選ばれたる」
    人間ではない。少くとも彼等のうちにも性的に異つた人々のうちにも見出さ
    れると同じほどに、多くの劣等な価値のない人々がゐる。
    この變質者は少くとも大抵は常態人が彼等の性的対象によつてその目的を
    達しようとすると同じやうに彼等の性的対象によつて達しようとする。けれ
    ども彼等に就いて多くの變態型があつて、その性的活動は理性的人々の興
    味を惹くと思はれるものとはます-
    く離れて来る。多態な、奇異なこの變態型は聖アントーニウスの誘惑を表は
    すた
    めにG・ブリュゲルが描いた怪物に、或はG・フラウベルが描いた
    傲慢者の前に長い列をつくつて通り過ぎて行くことを示したところの、衰へ
    た神々や信者達に比較し得るばかりである。吾々は、全く混
    亂されたくないならば、この混亂した群集を整理する必要がある。吾々彼等
    を、同性愛者のやうに、その性的対象の變化してゐる人々
    と、その性的目的が第一に變化してゐる人々と分類する。
    第一類には生殖器によつてメメな、その性的行為の相

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    手の人の生殖器の代わりに身体の他の器官或は部分(陰の代りに口或は肛門)を以てするが、それは生
    際解剖学的困難をも嫌悪の抑壓をも顧慮しない。その次に来る人々は、なほ生殖器を對象とはするが、それは生殖
    器が性的機能を有してゐるからではなくて、それが解剖學的、或は隣接してゐるといふ、理由によつて参加する
    他の機能のためである。子供の教育の際に淫猥なこととして却けられたあの排泄作用は性的興味を十分惹き得る
    ものであることを彼等は實證してゐる。更にその次に来る人々は生殖器を少しも對象としなくなつてゐる。彼等は
    生殖器の代りに身體の他の部分、女の乳房、足或は髮等に興味の對象にする。更に他の人々にとつては身體の部分
    も無意味なものとなり、着物の端、靴、下着の一片が彼等のすべての欲望を満たす。彼等は拜物教徒である。更に
    他の人々は對象全體を要求するけれども、その要求は極めて特殊な、奇妙な、或は恐ろしい性質であつて、それを
    抵抗力のない屍體にしようとまでする。彼等はそれを享受するために犯罪的な強迫觀念に促されてさうするのであ
    る。けれどもこんな恐ろしいことについてはもう十分である。
    第二類には先づ第一にその性的欲望を常態的ではあるが、しかし豫備的な行爲によつて満たさうとする變質者が
    ある。彼等は他人を眺めること、觸れることによつて、或は他人の最も秘密な行爲を見ることに依つて満足を求め
    る。或は彼等自身の肉體の隠すべき部分を曝露して、かすれば他人も同じやうな反應をして報いて呉れるであら
    うと漠然と期待する。次には不可解なサディストが来る。彼等の愛情は彼等の對象を苦しめ惱ますより外の目的を
    知らない。さうしてそれには他を服從する傾向を示すものから重傷を負はすものまである。次には彼等を補足す
    るかやうにマゾヒストが来る。彼等唯一の快感は愛する對象から、象徵的に或は實際、服從と苦痛を受ける
    にある。更に他のものにはこの種の變態的諸徴候が相互に結合し、交錯してゐる。最後に、吾々はこれらの各類に
    屬する人々はまた二つに分類されることを知らなくてはならない。即ち彼等のあるものはその性的満足を現實に求
    め、他のものはそれを想像するだけで満足する。彼等には少しも現實的對象を必要としないで、空想をそれに代用
    することが出来る。
    この狂氣じみた、奇妙な、職擧すべきことが實際にこれらの人々の性的活動を構成してゐることは少しも疑ふ餘

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    地はない。彼等自身がさう考へ、その代用的事情を認めてゐるばかりではない。吾々もまたそれ彼等の生活に於
    いて常態的性的満足が吾々の生活に於て演じてゐると同じ役割を演じてゐるものであり、彼等はそのために吾々
    と同じほどの、屢々それ以上の、犠牲を拂つてゐるものであることを認めざるを得ない。この變態型が常態型と何
    處で分離するかといふことを廣く且つ詳細に跡づけることは可能である。また性的活動には必ずく
    ついてゐるところの淫猥性は、こゝでも再び見出されることゝ諸君は看過されないであらう。けれどもそれらの
    大抵は有害の點にまで達してゐる。

    さて、この異常な種類の性的満足に對して吾々は如何なる態度を執るべきであるか。憤慨や吾々の個人的嫌惡の
    表現や、吾々はいかる情慾を分有してゐないといふ斷言は明かに何の役にも立たない。吾々はそんなことを尋ねて
    ゐるのではないのである。結局これは他のものと同じやうに現象の一領域である。それは稀有な、珍らしい現象に
    過ぎないといふやうな逃げ口は容易に反駁されるであらう。反對に、これは極めて一般的な、廣く擴がつてゐる現
    象である。けれども若しこの現象はすべて性的衝動の脱線したものであるが故に、人の性生活に就いての吾々の
    見解はこのために訂正される必要はない、といふ人があるならば、眞面目な答が必要であらう。若しこの性慾の病的
    類型を理解してそれを常態的性的生活に關聯させること出來ないならば、吾々はまた常態的性慾を理解すること
    も出來ない。約言すれば、前に述べたすべての變質者のあり得ることゝ、それの所謂常態的性慾との關聯を十分理
    論的に説明することは吾々の避け難い義務である。

    一つの見解と二個の新しい觀察とが吾々のこの仕事を助ける。その第一のものはイワン・
    ロツホの見解である。
    彼に従へば、變質はすべて「墮落の標徵」であるといふ見解は誤謬である。何故ならば性的目的からの或る逸脱
    性的對象とのかゝる不定な關係は昔から、吾々に知られてゐるあらゆる時代を通じて、最も原始的なものから最高
    度に發達したあらゆる民族のうちに現はれ、時として眞寫され、一般に行はれたといふ證據が存してゐるからで
    ある。二個の觀察は神經病患者の精神分析的研究の際になされた。これらの觀察は吾々の性質變質に就いての見
    解に決定的影響を及ぼすに相違ない。

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    吾々は神経病的症候は性的満足の代用物であると言ひ、私は症候の分析によつてこの命題を證明するは多の
    困難に出會ふであらうといふことを示して置いた。實際、この命題は所謂「變質的」性的欲求が性的満足のう-
    ちに包括された時に於いてのみ正しいのである。何故ならば吾々は症候を驚くべきほど屢々からいふ風に解釋せざるを
    得ないからである、同性愛者或は性慾倒錯者の人々は人類の選ばれたる階級であるといふ要求は、同性愛的傾向の
    潛在せる倒錯の表現である事を知れば、直
    ちに不當なものであることが分かる。公然自分は同性愛者であるといふ人は單にその倒錯を明かに意識してゐる人に
    過ぎない。彼等の數は潛在的同性愛者の數に較べれば無に等しいほどである。實際、同性を對象として選擇する
    ことは變愛生活の普通の一型式であると考へざるを得ない。さうしてそれが特に重要なものであることをます/\
    知るのである。顯在的同性愛と常態的態度との差異がこれによつて無くなつてしまふことは確にない。それらの實
    際的意義は前と同じであるが、それの理論的價値は甚しく減少する。吾々は、最早轉移神経病のうちには入れられ
    ないある特殊な精神病、即ち偏執病は常に顚倒的同性愛的衝動を認めようとするところから生ずるものであると
    さへも考へるのである。吾々の患者の一人はその強迫觀念的行爲に於いて男性の、彼女自身別の夫の役割を演
    じたことを諸君はまだ記憶して居られるであらう。男性の役目をするかゝる症候は婦人の神経病患者には極めて普
    通のことである。たとへこれが同性愛のうちには入れられないとしても、それの起源とは確に密接な關係を有して
    ゐる。
    諸君も多分御存知であらうが、ヒステリー患者はその症候をあらゆる有機的組織の上に現はし、それによつてあ
    らゆる機能に障碍を興へることが出来る。分析の示すところによると、倒錯的と呼ばれ、生殖器を他の器官で代用
    しようとするところのあらゆる衝動はこれらの症候には現はれる。それらの器官はその時には生殖器の代用物とし
    てはたらくのである。肉體的器官はそれの機能的役目の外に性的意義をも有してゐる。認められなくてはならない
    といふ、また若し後者の要求が餘りに強い時には前者の仕事が障碍されるといふ見解を吾々が達したのは正にヒス
    テリーの症候の研究によつてである。ヒステリー的症候に於ける、一見性慾とは何の關係もない器官の無數の感覺

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    や純粋作用は、従つてその本質に於いては倒錯的性衝動の満足であり、それによつて他の器官が生殖器の機能を
    奪つたのである事が分る。かゝして吾々はまた榮養器官と分泌器官とが如何に色々風な性衝動に關し得るか
    を知るのである。従つてこれは性倒錯症、ヒステリーとは同-
    物である。たゞ異るところは、後者に於いてはそれは容易に、紛ふべくもなく認められるが、ヒステリーに於いては吾々はその症候を解釋するのに迂路を取らなくてはならず、それから問題の倒錯的性衝動をその當人の意識に歸しないで、彼の無意識内に存すると見ることにだけ
    である。

    強迫觀念的神経病の特色を有する症候の多くの型式のうちで最も重要なものは、異常なサディズム的な、従つてそ
    の目的に於いて倒錯的な性衝動の驅迫によつて現はれたものであることが分る。これらの症候は、強迫觀念的
    神経病の構造に應じて、主としてこれらの欲望の防禦に役立つか、或は滿足と防禦との間の闘争を表現する。けれども
    もまた滿足はさう急には現はれない。それは迂路を取つて患者の行動に現はれることを知つてゐる、好んで患者に
    反對し、彼を自責せしめる。この神経病のもう一つの型式は瞑想的なものであつて、これは普通には常態的性欲満
    足の準備となるところの行爲、見たい、觸れたい、調べたい、といふ欲求の過度の性慾化を表現してゐる。羨憎の恐
    怖、潔癖症が重要な意味を持つてゐることはこれによつて説明される。強迫觀念的行爲のうちの思ひもよらぬほど
    多くの部分は自責の變装された反復であり、修正である事が分る。自責は誰に知つてゐるやうにあらゆる種類の
    性的空想を伴ふ唯一の同型の行爲である。

    性慾倒錯と神経病との關係を更に詳細に示すことは困難ではないけれども、吾々の目的のためには今までに述べ
    た事だけで十分であらうと私は思ふ。けれども吾々はこの症候に就いてのこの説明を聞いた後に、人間の倒錯的
    傾向の屢々現はれることゝ強いことをを餘りに高く評價しないやうに心しなくてはならない。常態的性欲滿足が挫
    まれたために人が神経病になることのあることについては既に述べて置いた。現實に於けるこの拒絶の結果として
    その要求は變態的な性的刺激に向はざるを得なくなる。これがどうして起るかといふことについては後に述べるで
    あらう。兎に角かかる「傍系的」壅塞によつて倒錯的衝動が常態的性欲滿足が現實的障碍に出會はない時よりも更

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    難或は候之が、さもなければ現はれないであらう
    に強くなつて現はれるに相違ないことは理解されるであらう。しかしながらこれに似た影響はまた内在的性倒錯
    にも認められる。多くの場1)合類的性倒錯は、性的衝動の常態的満足が一時的事情か或は永久的な社会組織によつて
    非常に困難となつた時に起るのである。無論倒錯傾向が全然2)る事情に基かないこともある。かる場合には、
    倒錯は、いよ3)その常人には常態的な性的生活なのである。
    恐らく諸君は吾々は常態性慾と變態性慾との關係を説明してゐるよりも寧ろ混同してゐるといふ印象を一時持た
    れることであらう。けれども次の考察を忘れないやうにしていただきたい。若し常態的性的満足の現賞に於ける困
    難或は缺乏が、さもなければ現はれないであらうところの人に於ける倒錯的傾向を表面に齎したといふ事が正しい
    とするならば、これらの人々のうちには既にこの倒錯を迎へる何物かがあつたに相違ない。或は、その傾向は潜在
    的な形で彼等のうちに存してゐるに相違ない。かやうにして吾々は私が言つた第二の新しい観察に達するのである。即
    ち精神分析的研究は、症候分析の際には憶起と聯想とは常に幼時まで遡るものであるが故に、子供の性的生活を
    も調べることの必要を見出したのである。吾々がさうして發見したことは爾来一黠4)胎子供の直接観察によつて證
    明されてゐる。かやうして一切の倒錯的傾向は幼時に培はれたものであること、子供はその傾向の一切の性能を具
    へてゐて、年齢相應の程度にそれを實行すること、約言すれば倒錯性慾は幼時の性慾の擴大された、個々の要素に
    分離されたものに外ならないことが明かになつた。
    今も吾々は性慾倒錯を今までとは異つた風に考へられるであらう。さうして最早やいの人間の性的生活に對する
    關係を無視されることはないであらう。けれどもこの驚くべき、怪奇な説明が如何に諸君の心を擾したことであらう
    う! 最初は諸君は一切を「-子供は性的生活と呼ぼるべきものを持つてゐる」といふ事實も、吾々の觀察の正しい
    いことも、子供の行爲には後に倒錯的なものとして非難されるものとの關聯を見出されるといふ吾々の主張の正當
    なこともを否定したく思はれるであらう。されば私は諸君の許しを得て第一に諸君の反對の動機を説明し、それか
    ら吾々の觀察を概説したいと思ふ。子供は少しも性的生活-性的衝動欲求及び一種の満足、を持つてゐない、
    十二から十四歳までの間に突然それを獲得するのであると言ふのは、觀察上の事實ではないとしても、生物學的

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    に見
    て、子供は生殖器なしに生れて来たのであつて、思春期に至つて始めて成長し始めたのであるといふのと同じ
    ほどにはありさうもない。否、不條理なことである。思春期に彼等のうちに成長するものは生殖機能であつて、それ
    はその目的を達するために既に存在してゐる身體的、心的材料を利用するのである。諸君は性慾と生殖を混同す
    るの誤謬を犯し、さうしてそれによつて性慾、倒錯、神経病の理解の道を塞いで居られるのである。けれどもこの
    誤謬は成心的にされてゐる。この誤謬の源泉は、不思議なことだが、諸君が嘗ては皆子供であり、子供の時に教
    育の影響を受けられたところにある。即ち社會は性的衝動が生殖的欲求の形で現はれる時にはそれを拘束し、制限
    し、個人の意志に服従させる。即ちその意志を社會的命令と一體ならしめることを最も重要な教育事業と考へる
    る。社會にとつては子供が或る知的階級に達するまでは子供の完全な發達を襲-
    つけろのが利益なのである。蓋し
    性慾の完全な發現と共に實際上教育は不可能となるからである。若しさうしないならばこの本能はあらゆる堤防を
    破壊して、努力して建設された文化的事業を押し流してしまふことであらう。またこれを拘束するといふ仕事も決
    して容易ではない。少しも成功しないこともあれば、餘りにし過ぎることもある。人間社會の動機はその根柢に於
    いては經濟的なものである。社會はこの成員に彼等が働かないで興へるだけの生活材料を持つてゐないが故に、成
    員の数を制限し、彼等の性的活動に向けられる精力をその仕事の方に轉ぜしめなくてはならない。即ち永久的な、
    昔から現代まで續いてゐる生活難がある。
    次の時代の性的意志を教導する仕事は教育的影響を、青春の風を待たないで、極めて小さい時に興へ始め、子供
    の性的生活に干渉する時にのみ成功することを教育家は経験によつて教へられてゐるに相違ない。この見地からし
    て殆どすべての子供の性的活動は禁止され、不愉快なものとなされた。人は子供の生活を無性的たらしめること
    をその理想とした。さうして時の経過と共に人は子供を實際無性的であると信ずるまでに至り、科學へもさうで
    あると言ひふらした。そこでこの既成の信仰と目的とに矛盾しないやうに人は子供の性的活動-
    これは決して小
    さいことではない-を看過し、科學に於ては他のやうに説明して滿足する。子供は純潔無邪気であると考へら
    れ、さうでないと言ふものは人間の優しい、神聖な感情を汚す冒瀆者として非難される。
     

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    子供のみがこの傳統に囚はれない。彼等は極めて無邪氣に彼の動物的權利を主張し、純潔のことはま
    だ學んでゐないことを不斷に實證する。不思議なことには、子供に於ける性慾を否定する人々はそのために
    教育を怠にしくない。彼等が「子供の無作法」といふ名目でその存在を否定した所のものゝあらゆる顯現を、
    この上もなく嚴しく取締る。更に、理論的に見て極めて興味のあることには、子供は無性であるといふ偏見に
    最も著しく矛盾する時期、即ち五六歳までの少年時代は大抵の人にあつては忘却の帳に覆はれてゐることである。
    この帳は分析的研究によつて始めて完全に切り開かれるのであるが、しかしながら既に夢の形成の際に
    は透見される。
    こゝで私は子供の性的生活のうちで最も明白に認め得られることについて語らうと思ふ。便宜上リビドーの
    概念に就いて少し述べて置きたい。リビドーとは、飢餓と全く同じやうに、それによつて衝動、飢餓の場合
    には食慾であるやうに、こゝでは性慾が自らを顯現するところの力である。性的興奮と滿足のやうな概念に
    就いては最型を要しない。この解釋を最も必要とするのは幼時の性的活動に就いてであることは諸君自身が
    容易に認められるところであらう。或は恐らくはこれを反駁に利用されるかも知れない。この解釋は症候
    を淵源に調べる分析的研究に基いてなされたものである。幼児の最初の性的興奮は他の生活に重要な機能と
    關聯して現はれる。幼児の第一の興味は、諸君の知つて居られるやうに、食物の攝取に向けられる。飲み飽
    いて乳房の傍で眠つてゐる時には、彼は後年性的悦楽の後に再び現はれるやうな幸福さうな滿足の表情をして
    ゐる。しかしこれだけでは結論を引出すには餘りに不十分であらう。けれども幼児は少しも乳が欲しくない
    時にもこの乳を吸ふ行爲を繰返すとする。從つて彼はその時には食慾のためにさうしようとするのではない
    のである。吾々はこれを「吸つてゐる」と言ふ。さうして彼がこの行爲によつて再び幸福さうな表情をして
    眠りに入るといふことは、この吸ふといふ行爲がそれだけで彼に滿足を與へてゐるものであることを示して
    ゐる。間もなく彼はかうして吸はなければ眠らうとしないことは誰も知つてゐるところである。この行爲が
    性的性質を持つてゐると始めて主張したのはブダペストの老小兒醫、リンドナ
    1)博士であつた。子供の世話をする人々は、理論的態度を執らないけれども、この種の吸行爲を同じやうに
    解釋してゐるやうである。彼等はそれがたゞ快感を得るためになされるものであることを疑はないで、それを
    子供の惡

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    習であるとし、幼児自身がそれを止めようとしない時には、厳しい手段を取って無理に止めさせる。従って吾々は
    幼児は快感を得ること以外には何の目的もない行為をすることを認めるのである。思ふに、この快感は最初は乳を飲
    む際に経験するものであるが、幼児は直ぐにその條件から離れてそれを楽しむことを知るに至るのであらう。この満
    足はたゞ口と唇の部分にのみ関係してゐる。従って吾々は身體のこの部分を色情帯と呼び、吸ふ事によつて得られ
    る快感を性的快感と名づける。この命名の正しいことについては後に論じなくてはならない。若し乳児が自分の
    考を表現することが出来たならば、きつと母の乳房を吸ふ行為は生活の最も重要なことであると認めるであら
    う。これは誤つてゐないと思ふ。何故ならば彼はこの行為によつて同時に二つの最大の生活欲求を満してゐるから
    である。吾々は精神分析によつてこの行為の心的意義の如何に多数のものが生涯を通じて保有されてゐるかといふ
    ことを聞いて驚くのである。母の乳房を吸ふといふことはすべての性的生活の出発點であり、後年のあらゆる性的
    満足の遠い雛形であつて、必要な時には空想は屢々これにまで遡る。母の乳房は性的衝動の最初の對象である。
    私はこの第一の對象が、後年の對象の決定にとつて如何に重要なものであるか、その形作1)用代用作用によつて、
    心的生活の最も遠いところまでに如何に深い影響を及ぼしてゐるかといふ事を、どういふ風に諸君に傳へてよいか
    知らない。けれども先づ第一に子供は乳房を吸ふことを止めて、自分の身體の他の部分をそれに代用する。彼は自
    分の親指や舌を吸ふ。かうして彼は快感を得るために自己を外界との一致から獨立させ、その上に、昂奮の領域を
    更に擴げてそれを強くする。色情帯はどれも同じ程度に快感を興へるものではない。從つて、リンドナー博士が述
    べてゐるやうに、乳児が自分の身體を撫で廻して、その生殖器の特に昂奮し易い場所を發見するのは極めて重要な
    經驗である。彼はいかうして乳房から自慰の道を見出すのである。

    吸乳に就いてのこの考察によつて吾々は既に幼児の性慾の二つの決定的特色を知つたのである。その性慾は重大
    な有機的必要に關聯して現はれ、また自己色情的である。換言すればその對象を自分の身體のうちに求め、また見
    出す。食物攝取の際に最も明白に現はれることはまた一部分排泄の際にも現はれる。吾々の見るところによると、
    幼児は大小便の排泄の際に快感を感じ、直ぐにこの行為が粘膜の色情帯を昂奮させて出来るだけ多くの満足を彼に

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    爾やすな風に工夫するやうになる。直覺力に富んだル・アンドレーが指摘したやうに、外界にこゝに於て始め
    て障碍的な、彼の快感の欲求に敵對する力となつて彼の前に現はれ、彼をして後年の内的及び外的闘争を豫想させ
    るのである。即ち彼は排泄を自分の思ふ時にしてはならない、他の定めた時にしてはならない。彼をして
    この快感の源泉に懸念させるために、この機能に關することはすべて尾籠なことであり、隠蔽さるべきであると彼
    に説明される。彼はこゝで始めて快感を社會的品位と交換しなくてはならない。排泄に對する子供自身の態度は最
    初から全然これとは異つてゐる。彼は自分の便を少しも嫌惡しない。彼はそれを自分自身の「部分」であると考へ
    て、容易にそれから離れようとしない。さうして彼が最も愛敏してゐる人を明かにする最初の「贈物」としてそれ
    を使用する。教育が彼をこの傾向から離すことに成功した後へも、彼は便は「贈物」であり、「金」であるとい
    ふ評價を續ける。また放尿中の動作を彼は特に自慢するやうに思はれる。
    私は諸君がもう長い間私の言葉を遮つて、から呼びたがつて居られることを知つてゐるふそんな變なことはもう
    澤山だ。排泄作用が性的快感の源泉であつて、幼児でさへもそれを得る、といふのか!便は價値のあるもので、
    肛門は一種の生殖器だといふのか!吾々はそんなことを信じない。小兒醫と教育家が精神分析とその結論を強く
    拒否する理由は理解出来る。「さうではない、諸君は私が幼時の性的生活の事實と倒錯性の事とをの關聯を示さう
    としてるのであることを一寸忘却されたのである。多くの成人は、同性愛者も異性愛者も、××の時に肛門を實
    際に生殖器の代りにすることをを知られないことはなからう。また生涯を通じて排泄を感じ、その快感は決して何で
    もないものではないと言つてゐる人も多くあることを知つて居られるであらう。諸君は子供自身の口から、彼がも
    う少し大きく、このことが話せるやうになつた時に、排泄の行爲に彼がどんな興味を持つてゐるか、他人の排泄行
    爲を見てどんな快感を感じるかといふことを聞いて覺えることが出来るであらう。但し以前にそんなことを言つては
    ならないと子供を騙して置いたならば、それをよく覺えてゐる。沈黙するのは言ふまでもない。諸君が信じる事を
    欲しない他の事柄に就いては、分析によつて得られた證據と子供の直接觀察によつて考へてもらふことゝし、私
    はこれらすべてのことを見まいとするには、或は別の見方をするには、かなりの技巧を要する事を述べて置く。ま

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    私は諸君子が子供の性慾と倒錯性慾との關係に驚くべきものであると考へられることに少しも反對しない。
    それは本來當然のことである。子供が少しでも性慾を持つてゐるとすれば、それは倒錯的なものでなくてはならな
    い。何故ならば子供には一二の漠然とした徴候の外に性慾を生産作用ならしめるものが缺けてゐるからである。
    ところで一回の倒錯性慾の共通性は、生殖をその目的としないことである。吾々は性的行爲が生殖をその目的とし
    ないで、快感の獲得それから獨立した目的として追究する場合を「倒錯的」と呼ぶのである。從つて性的生活
    の諸般の中斷點と轉向點はそれが生殖の目的に隷屬する點にあることを諸君は理解されたであらう。この轉向前に
    起つたあらゆること、及びそれに從はないで快感の獲得にのみ役立つすべてのことは、「倒錯性慾」といふ不名譽な
    名前を與へられて、蔑視される。
    されば私は幼兒の性慾に就いて今少し簡單に述べようと思ふ。私は二個の器官組織に就いて述べたことを他の器
    官組織を研究することによつて補足した。子供の性的生活は天然一聯の部分的衝動の活動から成り立つてゐて、そ
    の衝動は相互に獨立的に、あるものは自身の身體に、あるものは既に外界の對象に快感を求めるが、これらの器官
    のうちで生殖器が急速に第一位を占めるやうになる。世には快感を他人の生殖器或は對象を借りることなしに自分
    自身の生殖器で滿足させ、乳兒の時の自瀆から思春期の必要な自瀆まで中絶させずに續け、それからずつと何時ま
    でもさうする人々がある。けれども吾々は自瀆の問題をさう簡單に片附ける譯には行かない。それは多方面から考
    察さるべき材料を包含してゐる。
    私はこの問題をもうと制限したいのであるが、それにも拘らず、なほ子供の性的好奇心に就いて二三言を費さゞ
    るを得ない。それは精神病たるに際しては性の性慾的特色を示して居り、また神経病症候形成にとつて餘りに
    重要である。子供の性的好奇心は極めて早くから、時としては三歳以前に始まる。それと性の差異には拘らない。
    子供にとつてはそれには何の意味も持つてゐない。子供は、少くとも男の子は兩性とも男の生殖器を持つてゐると考
    へる。それと若し男の子が小さい妹の、或は遊友達の××を發見すると、最初は彼の眼で見た證據を否定しようと
    する。何故ならば彼は彼と同じやうな人間で彼とはあんなに重要な部分を持つてゐないものがあるとは考へるこ
    と

  • S.

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    が来ないからである。後年になって、彼は彼のなし得べきことを知って吃驚する。彼が余りに烈しく××を×ぶ
    ことに罰せられたと云う幼時の威嚇の響がだんだく感じて来る。彼は去勢複合體に支配されるやうになり、そ
    れが、彼が健康であれば、彼の性格の形成に、病気になれば、彼の精神病に、分析治療を受ける時には、彼の
    抵抗に重要な役割を演ずるやうになる。少女は自分が大きい、眼に見える××を持つてゐないことを損であるやう
    に感じ、男子がそれを持つてゐるのを羨望することが吾々は知つてゐる。男子でありたい、といふ欲望―これは後
    年彼女が女として不幸であつた時に神経病に再び現はれる―は主としてこの源泉から生ずるのである。けれども
    少女の××は子供の間は全然××と同じ役割を演じるものである。それは最も昂奮し易い場所であつて、自己色情
    的満足はそこに於いて達せられる。少女が一人前の女になるのにこの感受性が陰核から膣口に、適當な時に、完全
    に移されるといふ事実に依ることが多い。所謂不感性の女にあつては、この感受性が頑強に陰核に止つてゐるので
    ある。

    子供の性的興味は寧ろ第一に子供は何處から来るかと-
    いふ、テーベのスフインクスの謎の背後に横つてゐるのと
    同じ問題に向けられる。この好奇心は主として子供がもう一人生まれるといふ利己的恐怖から出て来るのである。子
    供は鶴が連れて来るといふ乳母の極り文句は小さい子供へも、吾々が想像してゐるよりも遙に屢々、信用し
    ない。大人に欺かれたといふ感情は子供の孤獨感と孤立感を非常に助長させる。けれども子供は自分の力でこの問
    題を解くことが出来ない。彼の理解力は彼の性的未發達の性質によつて制限されてゐる。最初彼は子供は食物に
    何か特別のものを混合して造られるのだと考へ、女だけが子供を持ち得るといふことも知らない。後になつて子供
    を生むのは女ばかりであることを知ると、彼は子供は食物で造られるといふお伽噺は今も殘つてゐるところの、
    觀念を棄てる。少し大きくなつた子供は父も子供を生むに何か關係があるに違ひないといふことは認めるが、そ
    れが何であるかを見出すことは出来ない。偶然性交を目撃した時には、彼はそれを女の征服であり、喧嘩であると
    考へる。即ち交接をサディズム的に誤解する。最初は彼は性交を子供の生まれることと關聯させない。母の寢床や下
    着に血の着いてゐることを見ても、彼はそれを父から傷を受けた證據であると考へる。更に大きくなる-
    と彼は男の

  • S.

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    第二十一講 リビドーの発達と性的組織

    生殖器は子供の生れるのに重要な役割を演じることは推測だろうが、身体のこの部分が放尿以外の機能を有し
    てゐるとは考へることが出来ない。
    子供は最初から誰でも出産は腸で行はれるものである、換言すれば赤児は大便と同じやうに出て来ると信じる勘
    に於いては一致してゐる。この勘が乗せられ、臍が開くのだとか、二つの乳房の間の部分が子供の生れるところ
    だと想像されるのは、肛門に対する興味がすっかりなくなつてからのことである。かういふ風にして好奇心を持
    つた子供はだん-
    く性的事実について知識を得やうになるか、或は彼の無意識に課されて、大抵は思春期以前に
    不完全な、誰でもない説明を聞くまでは――この説明が外傷的効果を及ぼすことは稀ではない――性について何も
    知らないでゐる。

    諸君は「性的なこと」の概念は精神分析の手によつて、神経病の性的原因と症候の性的意義に関するその主張が
    支持せんがために、不當に拡大されてゐるといふことを多聞で居られるであらう。今や諸君は自らこの拡大が
    不當なものであるかどうかを判断することが出来る。吾々は性慾の概念を變質者及び子供の性的生活をも包括し得
    る限りに於いて拡大したのである。換言すれば、吾々は性慾に再び正常な範圍を與へたのである。精神分析以外で
    性慾と呼ばれてゐるものは生殖機能に隷屬し、常態的と呼ばれてゐるところの制限された性的生活に適合するに過
    ぎない。

    私は吾々の性慾の概念に対する倒錯性慾の重要さを十分諸君に確信させることが出来なかつたやうに感じる。さ
    すれば私は、私のなし得る限り、私の前に言つたことを補正したいと思ふ。
    さて、激烈な反対を惹起したところのあの性慾の概念の變更に倒錯性慾だけが必要であつたのではない。幼児
    の性慾の研究はそれ以上にさへその變更に寄與するところがあつた。さうして両者の合致は決定的なものであつ
    た。けれども幼児の性慾の顯現は、少年時代の後期に於いてはどんなに明瞭であるとしても、その初期に於いては