精神分析1917-001/1929.3.ja
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    第二十五講 苦

    悶

    私が前講に於いて一般神経に就いて述べたことは、私の講義の中で最も断片的な、最も不完全なものであった
    と諸君は必ずや考へて居られるであらう。私はさうであつたことを知つてゐる。さうして苦悶に就いて私が一言も
    述べなかつたことは最も諸君を驚かしたことゝ思ふ。苦悶は大抵の神経病者が訴へるものであり、彼等自身が最も
    恐ろしい病苦であるとさへ言ふのであり、また実際最も激烈になり得る。従つて最も気狂ひじみた用心を爲さしめ得
    るものである。この事柄に就いてだけは、少くとも私は省略したくなかった。その反対に、神経病者の苦悶問題
    は、これを出来るだけ明瞭に諸君に示して、詳細に論究することを期してゐたのであつた。

    苦悶そのものを説明する必要はない。この感じは、或はもっと正しく言へば、この感動的状態は誰も何時かに
    経験してゐる。けれども神経病者は他の人々よりも、多くのまた激烈な苦悶に悩むのであるといふ問題は、決して
    十分に考察されてゐないと私は思ふ。恐らく人々はそれを當然のことゝ考へてゐるのであらう。通例、人は「神經質
    的」と「苦悶的」の兩語を、恰も同意語であるかのやうに、互用するが、これは正しくない。他の點では少しも
    「神經質的」ではなくて苦悶的な人々もあれば、多くの症候には恰も「苦悶の傾向のない神経病者」もある。
    それは兎に角として、苦悶問題が種々の重要な疑問の結び合はされてゐる交叉點であり、その解決は吾々の心
    的生活に大光明を投じるに違ひないやうな謎であることだけは確である。私はこれを完全に解決し得るゝとは主張
    しないが、諸君はこの問題を精神分析學は校の醫學とは異つた風に取扱ふであらうと豫期して居られるであらう。
    後者に於いては興味は苦悶状態をまぜしめる解剖學的過程に集中されてゐる。延髄が刺激されるのであると言
    はれ、患者は迷走神経の神経病に罹つてゐるのであると教へられる。延髄は極めて不思議なまた美しい對象である。
    私ら前にこの研究に時間と努力を費したことをよく覚えてゐる。けれども今日に於いては、私は苦悶の心理學的
    理解の為には、その刺戟が通過する神経路の知識より以上に重要でないものは知らないとは言はざるを得ない。
    苦悶に就いては人は大抵長い間神経質のことを考へないでも考察することが出来る。このことはこの苦悶を現實

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    ●●的苦悶として神経的苦悶に對立させれば直ちに理解されるであらう。さて現實的苦悶は吾々には極めて自然な合
    理的なものであるように思われる。吾々にはこれを外界の危険即ち傷害され得る體の知識に對する反應と
    呼ぶことが出來よう。それは逃走反應と結びつけられ居り、自己保存本能の顯現であると見ることが出來る。ど
    ういふ機會に、即ちどんな對象に對して、またどういふ事態に於いて苦悶が現はれるかは、言ふまでもなく大抵は
    外界に就いての吾々の知識狀態と力の感によつて定まるものである。野蠻人は大砲を或は雷鳴に恐怖するに反して、
    その武器を取扱ひその現象を豫知することの出來る白人はこの同じ狀態の下にあつて少しも恐れにゐるが、これ
    は全く當然である。けれどもまた時としては苦悶を呼び起すものは知識である。蓋しそれは危険を一層速かに認
    めさせるからである。かうして野蠻人は、無知の白人には何事をも傳へないが、霹靂の近くにゐることを彼に示して
    ゐるところの森の中の足跡に恐怖し、老船夫は、旅客には何でもないものゝやうに思はれるが、彼には暴風の襲來
    を致へてゐるところの、地平線上の小黒雲を恐怖の眼を以て眺めるであらう。
    現實的苦悶は合理的な目的のものであるといふ見解は、しかしながら、更に深く考察すれば、根本的改訂を必
    要とすると吾々は言はざるを得ない。焦眉の危険に面接した時の唯一の機宜に適した態度は、先づ第一にその危険
    の大きさと自己の力量とを冷静に比較評價し、次に逃走と防禦と出來るならば攻撃との孰れが一層よい結果を齎す
    であらうかを決定することであらう。ところが、苦悶はこゝでは何の役にも立たない。すべてのことは苦悶が現は
    れなくとも同じほどに或は一層よく處理されるであらう。否、苦悶は、過度に烈しくなれば、この上もなく邪魔で
    ある。それはあらゆる行爲を、逃走の行爲をさへも障碍させる。通例危険に對する反應は恐怖感と防禦行爲の混合
    から成り立つてゐる。驚かされた動物は恐怖し且つ逃走するが、このうちで機宜に適したものは「逃走」であつて、
    「恐怖してゐること」ではない。
    從つて苦悶の生起は決して目的に適したものではないと吾々は主張したくなるが、しかし苦悶狀態を更に詳しく
    分解すれば、必ずしもさうでないことが分る。第一に苦悶は危険に對する準備であつて、これは感覚的知覚が鋭敏
    になること、運動的緊張に現はれる。この豫期的準備は明かに利益がある。否、それの缺如は重大な結果を惹起す

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    ることがあるかも知れない。次いでこれから一方では運動的行為が、第一には逃走、より高い段階に於ては防禦
    行為が、他方では吾々の所謂苦悶状態が生じる。苦悶の生起が少く好まれるほど、苦悶的準備から行為
    への轉移は障碍されることが少く、事件の全體は一層滑らかに進んで行く。從つて私には苦悶的準備は有利な要素
    である。吾々が苦悶と呼ぶこのものの、苦悶的變遷は不利な要素であるように思はれる。
    苦悶、恐怖、驚愕という語は、日常の用法に於ては同じ物を意味するか或は異つたものを意味するか、といふ
    問題には私は立入ることを避けようと思ふ。たゞ私には苦悶は状態に關聯して對象を度外視し、恐怖は對象に關聯
    してゐるやうに思はれる。これに對して驚愕は實際に特別の意味を有してゐるやうに思はれる。即ちそれは危険が
    苦悶的準備に迎へられることなしに不意に現はれた時に生じる状態である。されば苦悶は驚愕に對する防禦である
    と言つてもよかろう。

    「苦悶」といふ語の用法は曖昧であり、不定であることを諸君は見逃されないであらう。一般には苦悶といふ語は
    「苦悶の生起」の知覚によつて生じるところの主観的状態の意味に理解されてゐる。而してかかる状態は感動状態と
    呼ばれる。さて、動的な意味に於いて、感動状態とは何であるか、確かにそれは極めて複雑なものである。感動状
    態は第一に或る運動的神経作用或は放出を、第二に或る感覺を、しかも二種、即ち生起した運動的行為の知覚と直
    接的な快不快の感――これが感動状態に所謂主調を興へるのである――とを包含してゐる。無論私はこの列舉によ
    つて感動状態の本質を盡くしたものとは考へてゐない。二三の感動状態に於いては、更に深く観察すれば、その全
    構造を結びつけることのそれらの核心は或は極めて重要な経験の再現であることが認められるやうに思はれる。こ
    の経験は極めて一般的性質を持つた極めて古い時代の、個人ののではなく種族の以前の歴史に見出されるやうな
    印象であつてもよい。更に理解し易く言へば、感動状態はヒステリー的發作と同じ構造を有してゐる、即ち記憶の
    沈澱物である。從つてヒステリー的發作は新しく構造された個人的感動状態に、常態的感情状態は、一般的な、遺産
    となつたヒステリーの顯現に比較され得る。
    私がこゝで感動状態に就いて述べてゐることは常態心理學の定説であると考へないでいただきたい。その反對に、

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    精神分析

    これは精神分析学の土壌から生じた、そこにのみ適応しい見解である。心理学が感動状態に就て語るところのも
    のは―例えば、ジェ・エム・スーラング説―は吾々精神分析学者には余程難解い、また議論する事の出来ない
    ものである。けれども吾々が感動状態に就ての吾々の知識を究極的なものであるとは少しも思はない。それはこ
    の臓腑たる領域を探る最初の試みに過ぎない。さて、前の考察を続けて行かう。苦悶的感動状態に於いて再現され
    るところの以前の苦悶は何であるかと吾々は知つてゐると思ふ。それは出生の経験であると吾々は言ひたい。この
    経験は、不快感、放出衝動、身体的感覚のやうな一群を包含し、生命に危険を及ぼす作用の雛形となり、さうして
    その時以来苦悶状態として吾々のうちに再現されるのである。血液の更新(内的呼吸)の中断による刺激の驚くべ
    き増進がその時の苦悶的経験の原因であつた―従つて最初の苦悶は中毒的苦悶であつた(Angst-Neurose
    Angst-Hysterie―狭い場所、狭路)といふ語は特に呼吸の細くなる性質を表出してゐるのであつて、これは出生の時
    には現実的状態の結果として存在し、今日に於いては感動状態に於いて殆ど定まつて再現される。またあの最
    初の苦悶状態が、母體からの分離の際に生じたといふこともまた極めて意味が深い。この最初の苦悶状態を再現し
    ようとの傾向は無数の時代を通じて深く有機體内に植えつけられ、そのため何人も、傳説のマクダッフのやうに
    「母の胎から切り取られ」従つて自らは出生の経験をしなかつた人でさへも、苦悶的感動状態を免れることが出来
    ないのであるといふ吾々の確信は少しも不自然ではない。哺乳動物以外の動物に於いては、この苦悶状態の原型は
    どうなつてゐるかについては吾々は何も知らない。また彼等に於いてはどういふ感覚複合體が吾々の苦悶に相当す
    るかについても吾々は知るところがない。
    出生の経験が苦悶の源泉であり原型であるといふやうな観念に吾々はどうして到達し得たかを諸君は恐らく聞き
    たく思つて居られるであらう。思辯はこれに何の關するところもない。寧ろ私は嘗て私の素朴な思想から助けを借
    りたずつと以前に私達若い醫者達が料理屋で食卓を圍んでゐた時に、一人の産科臨床醫の助手が近頃行はれた
    帝王切開に就いての面白い話をした。一人の被験者は、出産に際し羊水の中に胎糞があればどうしたのか、と質
    問された時、即座に、「胎兒が苦悶した結果です」と答へた。彼女は笑はれて落第した。けれども私は黙つて彼女に

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    味方し、この可哀さうな婦人の誤りざる知覚は
    極めて重要な關聯を見出したのではないかとか考-
    へ始めた。今度は神経病者の苦悶の方に轉じよう。
    神経病者の苦悶にどんな新しい現象と關係とが見出
    されるであらうか。ここでは云ふべきことが沢山あ
    る。先づ第一に、一般的の不安、所謂自由浮動せる
    苦悶がある。これは少しでも適當などんな観念内容
    にも附庸し、判断に影響を與へ、豫期を選擇し、自
    分の正しいことを證明するあらゆる機会に待ち構へ
    てゐるものである。吾々は常にあり得べき最悪の結
    果を豫期し、あらゆる偶然事を凶兆であると解釋し、
    あらゆる不確実なことを最悪の意味に利用する。この
    種の不幸を豫期する傾向は、他の點では決して病人
    とは言へない多くの人々にも見出される特性であつ
    て、吾々は彼等を「心配性」或は「悲観性」と言つ
    て笑ふ。けれども酷い豫期的苦悶は何時でも吾々が
    苦悶神経病と呼んで、現実的神経病のうちに入れた
    ところの神経病的疾患に随伴してゐる。
    苦悶の第二の型式は今述べた型式に對立するもので
    あり、或る定つた対象と状況に結びついてゐる。これ
    は非常に多様な、さうして屢々奇妙な「恐怖症」の
    苦悶である。有名なアメリカの心理學者、スタン
    レイ-ホールは最近始めてこれらの恐怖症の全系列
    に素晴らしいギリシャ語の名称を與へた。それはまる
    でエデプトの疾病の列挙のやうで、異る點は十以上
    あるといふことだけである。恐怖症の対象或は内容
    となり得る事物を一寸擧げて見よう。暗黒、戸外、
    廣い場所、猫、蜘蛛、毛蟲、蛇、二十日鼠、雷、尖
    端、血、閉ざされた場所、群集、獨居、橋を渡るこ
    と、陸或は船で旅すること、その他。この混沌のう
    ちにあつて先づ第一着手として吾々はこれを三群に
    分たうと思ふ。恐怖される対象と状況の多くは吾々
    常人にとつても何か気味の悪いものであり、危険と
    關聯を有してゐる。従つてこれらの恐怖症は、その
    強度はやはり過度のやうには思はれるが、吾々にと
    つて全然理解し難いものではない。例へば、大抵の
    人は蛇に出會へば嫌悪を感じる。蛇恐怖症は人類
    に普遍的なものであると言ふことが出來る。チャ
    ールス-ダーウィンは蛇が彼に向つて来る時には、
    彼は厚いガラス板で保護されてゐると知つてゐるに
    も拘らず、恐怖の感を抑へることが出來なかつた
    ことを極めて印象的に書いてゐる。第二群は矢張り
    危険には關聯してゐるが、その危険は常に軽視され
    て念頭に置かれないやうな状況か
     

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    ら成つてゐるもので、この群には大部分の場所恐怖症が属してゐる。吾々は家の中にゐても汽車に乗つてゐる
    方が災厄―即ち衝突に遭ふ機会の多いことを知つてゐる。吾々はまた船が沈没すれば人は大抵溺死することを
    つてゐる。けれども吾々はこの危険のことは考へないで、平気で汽車や汽船によつて旅行する。また渡つてゐる最
    中に橋が折れゝば吾々が河の中に墜落することは否定されないが、そんなことは危険と考へなくてもよいほどに稀
    しか起らない。獨居もまた危険を有してゐて、吾々は或場合にはこれを避ける。けれどもどんな條件に於いても
    一瞬閒もそれゝば獲得しないといふやうなことは決してない。このことは群集、閉ざゝれた場所、雷、その他に就
    いても言へる。精神病者のこの恐怖症に於いて、吾々に不思議に思はれるものはその内容でなくて、その強度で
    ある。恐怖症に伴ふ苦悶は全く筆紙を絶してゐる。神経病者は、或る條件の下に於いては吾々にも苦悶を起させる
    ことの出来る、さうして彼等が同じ名で呼んでゐるところの事物と状況を、實際には少しも恐怖してゐるのではな
    いと考へざるを得ないやうな場合も稀ではない。
    この外に恐怖症の第三の群があるが、これは吾々には全然理解し難いものである。頑丈な大男が彼の住んでゐ
    る町の街路或は廣場を通ることを恐れたり、十分發達した婦人が着物の裾に猫が觸れたとか二十日鼠が部屋を走つ
    たとかのために氣絶するほど恐怖したりするとすれば、吾々は彼等には明かに存在するところの危険を一寸何個
    聯せよとすべきであらうか。この種の動物恐怖症は一般的な人間の反應の増加によつては説明され得ない。何故なら
    ば猫を見れば叫んだり撫でたりしなくては居れない人が多數にゐるといふことが、その反對を證明してゐるからで
    ある。婦人からあんなに恐れられる二十日鼠は同時に最も親愛な呼名の一つである。多くの少女達は愛人から二十
    日鼠と呼ばれることを喜んでゐるから、この名前の可愛い小動物を見ると恐怖の叫聲をあげる。街路や廣場を恐れ
    るに至つては、彼等はまるです小さな子供のやうに振舞ふと言ひ得るばかりである。子供はかゝる場所は危険なも
    のとして避けるやうに直接に教へられる。さうしてかゝいふ場所恐怖症者もまた、誰かにこの場所に連れて行つて
    貰へば、その苦悶を和げられるのである。
    今述べた苦悶の二型式、自由に浮動する豫期的苦悶と恐怖症に結びつけられてゐるものとは相互に無關係である。

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    一方が他方のより高い段階ではない。両者は稀にしか結合せず、結合しても偶然的である。最も烈しい、一般的憂
    慮が必ず恐怖症になるとは限らない。その生涯を通じて臨場苦悶に悩まされ人が、悲観的、豫期的な恐怖を全然知
    らない事もある。多くの恐怖症、例へば、場所苦悶、鉄道苦悶は明かに後年に至つて始めて現はれる他の苦悶、例
    へば、暗黒、動物に對する苦悶は最初から存在してゐるやうに思はれる。前者は重症的意義を有し、後者は寧
    ろ軽症的、性情であるやうに思はれる。この後者の一つを顕はす人は、それに類似した他の苦悶を有してゐると
    考へて通例間違つてはゐない。吾々はこれらの恐怖症をすべて苦悶とヒステリーのうちに入れることを、換言すれば
    吾々はこれらのものも誰か知つてゐる轉化ヒステリーと密接に結びつけられてゐると考へることを、私は附言して
    置かなくてはならない。

    神経病的苦悶の第三形式は吾々を謎の前に連れて行く。苦悶と恐怖されてゐる危険との間の關聯は全然吾々の眼
    から隠されてゐる。この苦悶は、例へば、ヒステリーに於いてはヒステリー的症候の随伴物として、或は、感動状
    態の生じることは豫期されるが苦悶的感動状態は少しも豫期されないやうな種々の興奮状態の下に於いて、或は何
    等の状態にも關係なく、吾々にも患者にも理解されないで、獨立した苦悶發作として現はれる。而して誇張すれば
    これら最初し得るやうな一つの危険、一つの原因さへも何處にも見出されない。さればこの自發的發作によつて吾
    々が苦悶状態と呼ぶところの複合體はその構成分子に分割され得ることを吾々は知るのである。その發作の全體は
    一個の著しく發達した症候―戰慄、失神、動悸、呼吸困難―によつて代表されることが出來、さうして吾々が
    苦悶と認めるどころの一般的感情はその際缺如すること、或は認められないやうになることが出来る。しかも吾々
    が「苦悶等價物」と名づけるこの状態は苦悶そのものと同じ臨床的及び病原的価値を有してゐるのである。
    さて、ここで二個の疑問が生じる。危険が何等の或は殆ど何等の役割を演じないこの神経病的苦悶を、全然危険
    に對する反應であるところの現實的苦悶と關聯させることは可能であるか。また、神経病的苦悶は何に理解さる
    べきか。吾々は先づ最初に、苦悶の存するところには人が恐怖する何物かと存在するには相違ない、といふ期待を固
    執したいと思ふ。

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    臨床的観察はこの神経病的苦悶の理解に種々の手掛かりを興へる。さればその意義を私は諸君に語らうと思ふ。
    (イ) 豫期苦悶或は一般的憂慮が性生活に於ける或る過程―即ちリビドーの或る利用と密接な関係を有して
    ゐることを確めることは困難でない。この種の最も単純な、而して最も数へるところの多い例は所謂満たされざる
    興奮を経験する人々に、換言すれば、その強力な性的興奮が十分に放散されず、満足な完了し得ないやうな人
    々へ、例へば、婚約中の男や、十分な精力を持つてゐない、或は目的のために性交を徐りに急いで或は不完全に
    行ふ夫を持つた婦人に起る。かゝいふ場合にはリビドー的興奮は消失して、その代りに苦悶が、豫期苦悶の形式
    ででもまた發作と苦悶等價物の形式ででも、現はれる。この用心深い性交の中断は、それ自体規則的して行はれ
    られる時には、極めて男に於いては、婦人に於いては尚更、苦悶神経病の原因となるものであるから、醫者はかゝ
    る場合には先づ第一にこの病原を探すよい。無数の實例は性的誤用が止めば苦悶神経病も消失することを示して
    ゐる。

    性的抑制と苦悶状態の間には、一の關聯が存するといふ事實は、私の知つてゐる限りでは、精神分析學に親しくな
    い醫者でさへも最早否認しない。しかしながら、この關聯を逆にして、かゝる人々は心配性の素質を有してゐるが
    故に、性的事柄にも用心するのであるとの見解を、それに代へようとする試みが爲されず、婦人の性的作用は本來
    想像するに難くない。けれどもこの見解に對しては婦人行動が決定的な反證を提供する。婦人の性的な作用は
    受動的なものである、即ち男の方からの取扱によつてその作用は規定されるが、性交の嗜好とそれを満足させる能
    力が多ければ多いほど、その婦人は夫の陰莖或は性交の中断に對していよく確實に苦悶の顯現によつて反應する
    であらう。これに反してかゝる愚遇は、不感性の或は性的飢餓がそれほど烈しくない婦人に於いては遙かに小さな
    役割しか演じない。

    今日醫者が熱心に勸めてゐるところの性的節制が苦悶状態の發生に對してこれと同じ意義を有するのは、言ふま
    でもなくその満足な放散を拒否されたリビドーが同じ強さを持續し、昇華作用によつてその大部分が消費されない
    時於いてのみである。病氣になるかならないかを決定するものは常にその量的因子である。病氣から離れて性格

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    構成の方に眼を向けても、性的抑制をする人が心配性的であり、大膽な人が性的要求の自由勝手を許容する
    ことは容易に認められる。この關係が多樣な文化の影響によつて如何に變化され複雑にされても、普通人にとつて
    は苦悶は性的制限と密接に關係してゐるといふことは動かすべからざる事實である。
    私はまだリビドーと苦悶との間のこの發生的關係を裏書するすべての觀察を諸君に語つた譯ではない。例えば、
    苦悶狀態に對する或る年齢期–思春期や月經閉止期のやうな、リビドーの産出が増加する時期の影響がそれであ
    る。多くの興奮狀態に於いても吾々はリビドーと苦悶が混合すること、最後にリビドーが苦悶によつて取つて代ら
    れることを明かに觀察することが出来る。これらすべての事實からは二重の印象が得られる。即ち第一、それは常
    態的消費を拒まれたリビドーの累積の事柄であり、第二、それは全然身體的過程の問題であるやうに思はれる。リ
    ビドーから苦悶がどうして生じるかに現在では不明である。吾々はたゞリビドーが消失してその代りに苦悶が出見
    されると確言し得るに過ぎない。
    (ロ)第二の手掛りは精神神經病、特にヒステリーの分析から得られる。この病氣に於いては苦悶は屢々症候に隨
    伴するが、また孤立的苦悶も發作として或は慢性的な狀態として現はれることについては既に述べて置いた。患者は
    自分が何を恐怖してゐるかを言ふことが出來ず、明かに第二次的推理によつて、それを最も都合のよい恐怖、死の、
    狂氣になることの、打たれることの恐怖と結びつける。この苦悶、或は苦悶を伴ふ症候を生ぜしめたところの狀態
    を分析して見ると、吾々は通例どんな常態的心的身過が阻止され、苦悶の顯現によつて取つて代られたかを發見す
    ることが出來る。言葉を換へて言へば、吾々は無意識的過程を、それが抑壓を受けないで、意識内に眞直に入つて
    来たかのやうに解釋する。この過程は或る感動狀態を伴つてゐたのであらうが、今や吾々は、驚いたことには、こ
    の常態的過程に隨伴する感動狀態は抑壓後にに孰れの場合に於いても、それがどんな性質のものであるかを問はず、
    苦悶によつて取つて代られることを吾々は知るのである。さればヒステリー的苦悶狀態の無意識的相應物は苦悶と同
    性質の興奮、即ち苦悶、羞耻、困惑のやうなものであることもあらうし、積極的なリビドー的興奮、或は憤怒のや
    うな敵對的、攻撃的な興奮であることもあらう。かうして苦悶は一切の感情狀態が、それに屬する觀念内容が抑壓

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    されてゐる時には、それと交換される或はされ得るゝところの通貨である。
    (ハ) 第三のものは殆ど苦悶を経験しないやうに見えるところの、強迫観念的行為をなす患者に於いて、観察され
    る。若し吾々が彼等の強迫観念的行為、彼等の洗浄や形式的行為其他の實行を妨げるならば、或は彼等自身がそれ
    を止めようとするならば、彼等は恐ろしい苦悶に捉へられ、その行為をせざるを得なくなる。吾々は苦悶は強迫観
    念的行為によつて隠蔽されてゐるのであると、その行為は苦悶を免れるために爲されたのである事を理解する。
    從つて強迫観念的神経病に於いては苦悶は症候形成によつて置き換へられたのであつて、さもなければ現はれたに
    相違ない。さうしてヒステリーは限を轉ずる、と吾々はこれと同じ關係の存する事を見出すのである。即ち、抑
    壓作用の結果として、純粋な苦悶か、症候形成を伴ふ苦悶か、或は苦悶を伴はない完全な症候形成かゝ現はれる。
    從つて、抽象的意味に於いては症候は一般にたゞ、さもなければ避け難い症候の出現を免れるためにのみ形成され
    るのである、と言つても間違つてゐないやうに思はれる。かうして苦悶は神経病の問題に對する吾々の興味の、い
    はゞ中心點となるのである。
    苦悶神経病の観察によつて吾々は、苦悶を生ぜしめるところのリビドーの變態的併用は、身體的過程の基底から
    結果する、と結論した。而してヒステリーと強迫観念的神経病の分析によつて、これと同じ結果を伴ふ同じ變態的
    使用は、心理的裁判所の拒絶によつても行はれ得るといふ追加的結論を得た。されば神経病的苦悶の起原に就いて
    は吾々はこれだけのことを知つてゐるのである。だがこれだけでは甚だ漠然としてゐる。けれども今のところでは
    私はこれ以上どう進むべきかを知らない。變態的に使用されたリビドーであるところの神経病的苦悶と、危険に對
    する反應に對照するところの現實的苦悶とを關係づけようとする吾々の第二の仕事は更に困難であるやうに思はれ
    る。この兩者の間に關聯はないと人は考へるかも知れないが、吾々は現實的苦悶と神経病的苦悶とをその感じに於
    いて區別すべき手段を少しも有してゐないのである。
    この求められた關聯は、若し吾々が屢々主張されたところの自我とリビドーの對立を假定するならば、見出され
    るであらう。吾々が知つてゐるやうに、苦悶の現は危険に對する自我の反應であり、逃走を開始しようとする信

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    號である。されば、神経病的苦悶に於いても自我はそのリビドーの要求から逃避しようと試みるのであり、こ
    の内的危険を外的危険であるかやうに取扱つてゐるのであると考へることは不當ではあるまい。さうすれば、苦
    悶のあるところには人が恐怖するところの或物があるに相違ない、と、吾々の期待は満たされるであらう。けれ
    ども類はこれに止まらない。丁度外的危険から逃走しようとする緊張が抵抗と適当な防禦手段に變ずるやうに、
    神経病的苦悶の現れは、また容易に苦悶を壓迫しようとする症候形成に變化するのである。

    吾々の理解の困難は今や他のところに存する。即ち、自我のかのリビドーからの逃避を意味するところの苦悶は
    それにも拘らずこのリビドーそのものから出て来てゐるらしいのである。このことは明瞭ではない。さうしてある
    人のリビドーは根柢に於いてはその人の一部分であつて何か外的なものゝやうに彼と対立し得るものではないこと
    を吾々は忘れてはならない。吾々にまだ明瞭になつてゐないのは苦悶表現の局所的力學である。どんな種類の心的
    努力がその際消費されるか、どの心理的體系にそれは属するかといふことである。私はこの問題にも答へることが
    出来ない。けれども吾々はもう二つの他の手掛りを辿つて、吾々の思索を助けるために、再び直接観察と分析的調
    査を行ふことを怠つてはならない。吾々は子供に於ける苦悶の發生と、恐怖症に附随する神経病的苦悶の淵源限
    を轉じようと思ふ。

    子供の恐怖は極めてありふれた事柄であり、それが現實的苦悶であるか神経病的苦悶であるかを決定するのはか
    なり困難である。否、この區別の價値そのものが子供の態度によつて疑はしいものになる。蓋し、一方に於いては
    吾々は子供からゆるぎない知の人、新しい状況、対象を恐れることを不思議に思はず、その反應を極めて容易に彼等
    の弱さと無知によつて説明する。従つて吾々は子供には現實的苦悶の強い傾向があると考え、若しこの恐怖が遺
    傳によつて齎されたものであれば非常に都合がよいと思ふ。無知と無力のためにあらゆる新奇なものや、今日吾々
    には最も恐怖を起させないやうな見慣れぬ物の多数を恐れる原始人や、今日の野蠻人の行動を子供は繰返してゐる
    に過ぎないと考えへる。また若し子供の恐怖症が少くとも一部分人類發達の原始期にあると思はれるやうなもので

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    あるならば、それは吾々の期待に合致するであろう。
    他方、吾々はすべての子供が同じ程度に恐怖的ではないこと、あらゆる種類の対象や状況に對して異常に敏感な
    子供が後に神経病者になることを看過することは出来ない。神経病的素質は従つて現實的苦悶への顕著な傾向と露
    はれ、神経質よりも恐怖が第一次的であるやうに思はれる。かゝりして、子供が、後には大人がリビドーの強いこと
    を恐れるのに彼等があらゆる物を恐れるからに外ならない、といふ結論に吾々は達する。苦悶はリビドーから生ず
    るといふ考へはこれによつて却けられるであろう。さうして若し現實的苦悶の諸條件を調べるならば、吾々は當然次
    の見解に達するであろう。即ち、自己の無知と無力の意識―アドラーの言葉を借りて言へば、劣等であるとの意
    識が、若しそれが少年時代から成年時代まで持続し得るならば、神経病の究極的原因である。
    これは吾々の注意を要求し得るほどに眞純でもあり、尤もらしくも聞える。確かにこれは神経質についての吾々
    の見解の變化を意味するであろう。かゝる劣等感が、苦悶的素質や症候の形成と共に、後年まで持続するといふこ
    とは、吾々の所謂健康が例外的に生じた時に寧ろ説明が必要であるほどまでに、確實であるやうに見える。けれど
    も子供の恐怖に就いての周到な觀察は吾々に何に數へるであろうか。子供は先づ第一に未知の人を恐れる。状況は
    人々と關係あるためにのみ異常なものになるのである。さうして對象が恐れられるのは一般に更に遅い。けれども子
    供が未知の人々を恐れるのは、彼等が惡意を持つてゐると思ふからでもなく、彼に無力を彼等の力と比較し、彼
    等は彼の存在、安全、無苦痛に對して危険であると認めるからでもない。子供をかゝる不信的な、世界の顚倒的な
    攻撃衝動を恐れるものであると考へるのは、實に貧弱な理論的解釋である。その反對に、子供が未知の姿を恐れる
    のは、彼が親しい愛する人―主として母親―の姿に慣れてゐるからである。恐怖に變化されたものは彼の絶望
    と熱望である。従つて消費され得なくなつたリビドーである。それが支へられなくなつて、苦悶として放出された
    のである。またこの子供の苦悶の原型であるところの状態が出生の際の最初の苦悶状態、即ち母との分離の反覆で
    あることは少しも偶然ではない。
    子供の最初の状況恐怖は暗黒と孤獨に關するものである。前者は屢々一生涯續き、兩者共に愛する附添人、即ち

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    母親の居なくなったことを恐怖するのである。闇を恐れや子供が隣の部屋へ呼んでゐるのを私は嘗て聞いたことが
    ある。「伯母ちゃん、話してよ、怖いんだもの。」「話したって私は見えませんよ。」さうすると子供が答へた「誰かが
    呼んでゐると明るくなります。」闇の中に於ける熱望はかうして闇の恐怖に變化されるのである。神経病的苦悶は現
    實的苦悶の第二次的な、特殊な場合に過ぎないといふことを見出すよりも、吾々は寧ろ小さい子供に於いては現
    實的苦悶のやうにはたらき、神経病的苦悶と共通の根本的特徴―即ち使用されなかつたリビドーから生ずるといふ
    特徴を持った或物を認めるのである。本當の現実的苦悶と子供は殆ど持つて来なかつたやうである。高い所、川
    の上の狭い橋の上、汽車やボートの中のやうな後年恐怖症の條件となり得る状況を子供は少しも恐れない。無知で
    あればあるほど子供は恐れることが少い。子供が生命保存の本能を多く遺傳されるのは望ましいことで、さうすれ
    ば子供がそれからそれへと危険なことをやるのを看視し妨げる世話が大いに助かるであらう。けれども實際於い
    ては子供は先づ第一に、自分の力を恃み過ぎて、少しも恐怖せずに行動する。何故ならば彼は危険を知らないから
    である。彼は水の端へ走つて行くであらう。窓枠へ攀ぢ上るであらう。先の尖つた物や火を弄ぶであらう。一言に
    して言へば、彼を傷け、附添人をはらく-
    させないから、現実的苦悶が終に彼のうちに現はれるのは全然教育の影響によつてゞある。
    若し或る子供があつてこの恐怖の教育よりも少しづゝ以上に進んで、誰も警告しなかつた危険を自分で見出すとす
    るならば、彼はリビドー的欲求をその體質のうちに普通以上に持つてゐるか、或は以前にリビドー的満足に耽つて
    ゐたからである。後に神経病になる人々もまたこの種の子供に屬してゐるとしても少しも驚くには足らない。神経
    病は發生に最も好都合な條件は閉ぢ込められたリビドーのかたりの量を長い間持つて得ないことである。吾々は
    今は知つてゐる。こゝに於いてもまた體質的要素はその力を揮つてゐることを諸君は認められるであらう。吾々
    この要素の力を否定しようとしたことは決してしない。吾々はたゞ誰かがこの力を高調して他のあらゆる力を無視し、
    體質的要素を、観察と分析との一致した結果によれば、それの屬してゐない、或は最小の役割しか演じないところ
    にまで導入する時にのみ、それに反對するのである。

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    子供の苦悶に就いての観察によつて得られた結果を概括すれば、幼児の苦悶は現實的苦悶とは殆ど異るところ
    がない、その反對に、大人の神経病の苦悶と密接に結びついてゐる。それは後者と同じく使用されるリビドーか
    ら生じるものであるので、その失はれた愛の對象に外的對象或は情況を代用する。
    諸君は恐怖症の分析が別に新しいことを教へなかつた聞くことを喜ばれるであらう。恐怖症に於いても子供の
    苦悶に於けると同じことが起るのである。放出され得ないリビドーが絶えず内向して一見現實的苦悶らしいものと
    なり、さうして典型的な外的危険がリビドーの要求の代表者となされるのである。この合致は少しも不思議ではない。
    何故ならば幼時の恐怖は後に苦悶ヒステリーに現はれるものゝ原型であるばかりではない、またその直接の
    條件であり序曲であるからである。あらゆるヒステリー性恐怖症は子供の恐怖にその起原を有してゐる。それの
    總てである。それが他の内容を有して居り、從つて異つた名前で呼ばれなくてはならない時に於いてさへもさうであ
    る。兩状態の差異はその機構に存してゐる。大人に於いてはリビドーが苦悶に内向されるためには、リビドーが
    一時的に使用され得なくなるだけでは最早十分ではない。大人には既に長い間かゝるリビドーを支へることを、或は他
    の方面に使用することを學んでゐる。けれどもリビドーが抑壓を受けた心的衝動に固着した時には、まだ意識と無
    意識とが少しも分れてない子供の時に於けると同じ状態が再び造られ、さうして幼時の恐怖への退行によつて、い
    は、リビドーの苦悶への傾向が容易に行はれ得るやうな道が開かれる。吾々は、諸君も記憶して居られるであら
    うやうに、抑壓作用をかなり考察して來た。けれどもその際には吾々はたゞ抑壓された觀念の運命だけに関心して
    來た。無論、これに認めることも表現することも容易であつたからである。この抑壓された觀念に附隨する感動狀
    態に起ることについては吾々は今まで全然看過して來たさうし今始めて内向して苦悶になることが感動状態の、
    常識的過程に於いてはどんな性質を以て現はれるにしても、直接の運命であることを知つたのである。而してこの
    感動状態の變形は抑壓過程の遙かに重要な結果である。けれどもこのことを語るのは容易でない。何故ならば吾々
    は無意識的感動状態の存在と無意識的觀念の存在と同じやうな意味に於いては主張し得ないからである。觀念は、
    意識的であつても無意識的であつても、或る點までは變化しない。吾々は無意識的觀念に對應したものを擧げるこ

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    とが出来る。けれども感動は一つの放出過程であつて、観念は全然異つたものとして考へられなく
    てはならない。徹底的な探究と心的過程に就いての吾々の假説の明瞭な理解がなければ、吾々は無
    意識に於いて感動に對するものが何であるかを語ることが出来ない。而してそれには吾がこゝに於
    いて爲し得ないところのものである。けれども吾々、苦悶の發見は無意識聯系と密接な關聯を有し
    てゐる。といふ今得たところの印象を十分記憶して置きたいと思ふ。

    苦悶への内向、もつと適切に言へば、苦悶の形に於ける放出は抑壓を受けたりリビドーの直接的運
    命である、と私は言つた。私は、これが唯一のものでも究極的のものでもないと附言しなくてはな
    らない。神經病に於いては苦悶の發現を妨げようとする過程が行はれ、また種々の方法に於いてそ
    の過程はさうすることに成功する。例へば、恐怖症に於いては、吾々は神經病的過程の二形相を明
    かに區別することが出来る。第一のものは抑壓を行つてリビドーを苦悶に内向せしめる、そこで苦
    悶は外的危險に結びつけられる。第二のものはあらゆる用心と警戒によつてこ
    の外界のやうに取扱はれた危險を避けようとする。抑壓は自我が危險と感じるところのリビドーか
    ら逃避しようとする一つの試みである。恐怖症は恐れられてゐるリビドーに味方するところの外的
    危險に對する防禦に譬へられることが出来る。恐怖症に於けるこの防禦體系の弱點は言ふまでもなく、
    外部に對しては實に堅固なこの城塞が内部からの攻撃には堪へ得ないといふことである。リビドー
    の危險を外部に放射することは決してよい方法ではない。從つて、他の神經病に於いては苦悶の發
    現の可能に對して他の防禦體系が使用される。これは精神病理學の極めて興味ある部分であるが、
    遺憾ながらこれを語れば餘りに本題から離れるであらうし、また根本的な専門知識が
    必要となるであらう。私はたゞもう一事だけを附言して置きたい。私は前に「反對攻擊」に就いて
    述べたが、それは自我が抑壓の際に使用するものであり、抑壓を持續するためには爲し續けられな
    くてはならないものである。抑壓後の苦悶の發現に對し種々の形式で防禦するのがこの反對攻擊の
    仕事である。
    再び恐怖症に戻らう。單に恐怖症の内容だけを説明しようとすること、それが何處から来たか、こ
    れらの對象或は狀況が恐怖の對象になつたといふこと、それ以外に何等の興味を持たないことが、
    如何に不十分なものである

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    第二十六講 リビドーの原理とナーシズム

    かを諸君は悟られたことゝ私は思ふ。恐怖症の内容は夢に於ける顕在夢と殆ど同意味を有してゐる。それは眼に
    見える部分である。恐怖症のこの内容のうちには、スタンレー・ホールが言つたやうに、系統発生的遺伝によつて
    恐怖の對象となるに適したものが多數にあるとゝ、ふことは、必要な制限を加えて、容認されなくてはならない。
    これらの多くの恐怖される事物がたゞい象徴的關係に於いてのみ危険と隣接してゐることは、これと合致しさへす
    る。

    かうして吾々は苦悶の問題が神経病心理學に全く中心的な地位を占めてゐることを確信する。吾々は苦悶の發現
    がリビドーの運命と無意識體系に結びつけられてゐることから強い印象を受けた。たゞ一點だけがそれに結びつけ
    られてゐない、吾々の見解に於ける曖昧であるやうに思はれる。けれどもそれは、現實的苦悶は自我の自己保存衝
    動の顯現と考へられなくてはならない、といふ殆ど異論を許さないところの事實である。

    吾々は幾度も、一寸前にも繰返して、自我衝動と性的衝動の區別に就いて言及した。抑壓はこの兩者が互に對立
    し得ることで、その時には性的衝動がきつと屈從し、退行的迂路によつて滿足を手に入れざるを得ないこと、そこで
    それは非常な頑強さでその敗北に對する補償を見出すことを吾々に示した。その時吾々は、この兩者は最初から「必
    要」に對して異る關係を有してゐることを、從つて兩者は同じやうには發達せず、現實原則に對して同じ態度を執ら
    ないことを知つた。最後に、吾々は性的衝動は苦悶といふ感動狀態に對して、自我衝動よりも密接に結びついてゐ
    ることを認め得ると信じてゐる。この結論は重要な一點に於いてのみまだ完全でないやうに見える。さればこの結
    論を支持するためには吾々は次の注目すべき事實を擧げて置きたいと思ふ。即ち、最も根本的な自己保存衝動なる飢
    渇は満足されなくとも内向して苦悶にならないのに反して、滿たされざるリビドーが苦悶に變化することは、吾々
    が既に知つてゐるやうに、最もよく知られた、また屢々觀察されるとゝろの現象である。
    性的衝動と自我衝動とを區別することの正當であることには問題はない。否、それは性的衝動が個人のうちに一特