精神分析1917-001/1929.3.ja
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    第一篇 誤謬の心理

    第一講 序論

    私 は 皆 さ ん が 精 神 分 析 学 に 就 て 、 こ れ ま で 讀 ん だ り 聞 い た り し て 、 ど れ だ け の 知 識 を 持 つ て 居 ら れ る か は 少 し も
    知 ら な い 。 し か し 私 の 講 義 の 題 目 が 「 精 神 分 析 序 説 」 と い ふ 以 上 は 、 皆 さ ん が 精 神 分 析 学 に 就 て 少 し も 知 ら な い
    者 と し て 講 義 を 進 め な け れ ば な ら ぬ 。
    併 し 皆 さ ん が 恐 ら く 知 つ て 居 ら れ る と 豫 想 し 得 る 點 は 、 精 神 分 析 学 は 神 經 病 患 者 に 苦 し む 人 に 對 す る 醫 治 的 方 法
    で あ る と い ふ こ と で あ る 。 而 し て 直 ち に 皆 様 に 説 明 し よ う と 思 ふ 點 は 、 精 神 分 析 学 は 、 在 來 の 醫 學 に 用 ゐ ら れ た 方
    法 と 相 違 し て 居 る こ と 、 尙 又 種 々 相 反 す る や う な 手 續 を 取 る と い ふ こ と で あ る 。 通 常 吾 々 が 新 し い 療 法 を 患 者 に 試
    み よ う と す る 場 合 に は 、 そ の 困 難 を 乘 り 越 す 丈 け 慘 く し 、 且 つ そ の 結 果 の 確 實 な こ と を 信 ぜ し む る や う に す る 。 そ の
    た め に 成 功 の 確 實 性 を 増 す か ら 、 か や う な 方 法 は 確 か に 正 當 な も の で あ る と 私 は 思 ふ の で あ る 。 し か し 神 經 病 患 者
    に 對 し て 精 神 分 析 的 處 置 を 行 ふ 場 合 に は 、 之 と 全 く 異 つ た 方 法 を 取 る 。 卽 ち 吾 々 は 患 者 に 向 つ て 方 法 の 困 難 な る こ
    と 、 長 い 時 間 を 要 す る こ と 、 患 者 の 努 力 と 犧 牲 と を 要 す る こ と を 告 げ 、 又 そ の 結 果 に 於 て も 確 實 な 保 證 は 出 來 な い
    こ と 、 而 し て そ の 成 功 は 一 に 患 者 自 身 の 努 力 ・ 理 解 ・ 順 應 ・ 固 執 に 基 い て 居 る こ と を 告 げ る 。 か や う に 外 見 上 反 對 し
    た 態 度 を 取 る こ と に は 、 勿 論 相 當 の 理 由 が あ る 。 そ れ は 後 に 至 つ て 皆 さ ん が お 分 り に な る こ と と 思 ふ 。
    私 が 最 初 か ら 神 經 病 患 者 を 取 扱 ふ と 同 じ 風 に 皆 さ ん を 取 扱 ふ や う な こ と が あ れ ば 、 ど う か お 許 し を 願 つ て 置 き た
    い 。 一 度 私 の 講 義 を 聞 き に 來 ら れ な い や う に 忠 告 す る 。 し か し そ の た め に 私 か ら 精 神 分 析 学 に 關 す る 不 完 全 な 知
    識 を 得 る こ と も 必 要 で あ り 、 且 つ こ の 問 題 に 就 て 獨 自 の 判 斷 を 構 成 す る に は 如何 な る 困 難 に 遭 遇 す る か も 知 れ な い
    こ と を 説 明 し よ う と 思 ふ 。 卽 ち 皆 さ ん が 以 前 に 受 け た 教 育 の 方 向 や 、 從 來 馴 れ 來 つ た 思 想 の 樣 式 が 必 ず や 精 神 分 析

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    學に對して敵意を示し、且つこれ等の本能的抗拒を打破するには、どの位皆さんの心に打勝たなければならぬかを
    示さうと思ふ。私の講義から精神分析學に就てどの位の知識を皆さんが獲得し得るかと言ふことは勿論出來ない。
    しかし私の講義からして、精神分析的研究をなす方法や、精神分析的療法を行ふ方法を習得しないことは確實であ
    る。勿論、もし精神分析學に就ては眞に粗雜の知識のみを得たといふことに不滿足を感じ、何時までもこの問題
    から離れないやうに望むならば、私はその人を失望させるのみならず、尙言ふべきことをしないやうに警告しよう
    と思ふ。蓋しかしやうなやり方は醫學的研究の成功に終りを告げしむるばかりであり、實際家として仕事をして行く
    上に、その人の目的や計畫が社會から誤解され、疑惑や敵意を以てその人を見るやうになり、心内に潛在せる凡て
    の惡の衝動をその人に向けるやうにする。今歐洲に行はれて居る戰爭に従事して居るものからして、どの位の群衆
    があるかを皆さんは推定し得るであらう。
    しかし或る人には於ては新知識の附加され得ることが、常に如上の不便に打勝つ程強く心を牽くことがある。故に
    若し皆さんの中で私の警告に拘はらず、私の第二回の講義に出席する人があればそれは大に歡迎する。しかし皆さ
    んは、凡て私が訓示した精神分析學固有の困難は何であるかを知る權利がある。
    先づ第一に精神分析學に於ける教訓や解釋に關する問題である。醫學の研究に於ては眼を使用することに習熟す
    る。即ち解剖の標本や化學的反應の沈澱物や神經を刺激した結果として生ずる筋肉の收縮等を見る。然る後患者と
    接觸し、五官の證據によつて病氣の症候を知り、病理的經過の結果を説明し、且つ往々それ等疾病の獨動すらも
    孤立した形に於て表はすことが出来る。外科の方面に於てもあなたは患者の處置の程度を目撃する者になり、又そ
    度によつて處置をすることを許される。精神病學に於ては患者の種の表情・言語・行動觀察の對象になり、それ
    等があなたの心の深き印象を殘すであらう。かやうに醫學の教師は恰も博物館に於ける如く、あなたを導く説明者
    又は案内の役目をする。その際皆さんは指示された事柄に對して、この方法によつて直接の關係を得るやうにな
    り、自分自身の經驗によつて新事實の存在を確信するやうになる。
    所が不幸にも精神分析學では凡て如上の事項が相違して居る。精神分析に於ては、患者と醫者との間に言語が交

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    換される外何も生じない。患者は過去の経験現在印象を物語り、希望や情緒を訴へたり述べたりする。醫者は
    それと耳を傾け、患者の思想過程を指導するやうに企て、回想させ、一定の方向に注意を向けるやうにし、解釋し
    てやつたり、或はかやうにして引起された了解や否認の反應を觀察する。患者の無學の親類、即ち活動寫眞に於て
    見る如く親的又は嘲的にのみ何事も考へるやうである。是等の人々の推理は勿論非論理的であると共に無定見である。
    蓋し此等の人々は、神經病の症候は彼等自身の想像から構成されて居ると常に確信して居る人々である。言語と魔法とは
    最初同一物であつた。現在でも言語が魔力を有して居るものがある。即ち吾々は言語によつて他人に無上の幸福を興へたり、
    非常の失望を興へ
    たりすることが出来る。教師は言語によつて知識を生徒に傳達し、演説者は言語によつて聽衆を感動させ、自己の
    判斷や決意に同意せしめる。言語は又情緒を引起し、他人に影響を與ふる手段として一般に使用されて居る。故に
    私が精神療法に言語を用いることを輕視してはならぬ。而して分析者と患者との間に行はれる言語を洩れ聞きして
    も、別に不審を懐かないやうにしなければならぬ。
    併しその事すらも不可能である。分析的處置を行ふ際の對話に聽衆は不慣れで、從つてその過程を説明すること
    が不可能である。勿論神經衰弱やヒステリーに罹つた患者を生徒に示して精神病の講義をすることは出来る。その
    病人の容體や症候を述べることは出来るが、それ以上に及ばない。患者は醫者に對し最も親密の關係にある場合に
    於てのみ、分析に必要な話を打明けるが、之に反してその人に全く無關係の者の面前では默つて仕舞ふ。蓋し是等
    の打明け話は患者の最も内密の思想であり感情であるからで、社會的に獨立して行く人々としては他人に秘密にしな
    ければならぬものであるか、或は自己の概念と全く相容れないものであるために、他人は勿論のこと、自分自身
    に對しても秘密にしようと試みるからである。
    故に精神分析的處置の際に實際それを目撃することは不可能である。只その時の處置の有様を後になつて言葉で
    説明を聽いて精神分析の方法を學ぶより外はない。かやうに直接に聞かないで、又聞きの教授の爲に、この事項に
    就ての諸君自身の判斷を構成する上に甚だ不自然に且つ困難な状態に陥らしめる。故にこの場合には教授者の言に

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    信を置くより外に仕方がない。
    今暫らく精神病學の講義でなく歴史の講義を聞いて居ると想像して御覧なさい。講師がアレキサンダー大帝の生
    涯偉業を講義して居るとすれば、その事蹟を何故に吾々は信ずるやうになるのであらうか。歴史の場合は精神分析
    のそれよりも一見不利な點が多いであらう。蓋し歴史の先生は、吾々と同樣にアレキサンダーの闘争に参加
    して居ない。所が精神分析者は自からその事件に闘興したことを少くとも皆さん話すからである。しかし吾々が
    歴史家の言を信ずるに至る理由はどこにあるかを少し考究して見よう。歴史家は現存して居る他の歴史家、そ
    の事件の後餘り時が經過しないで棲息して居た歴史家、例へばディオドール、プルターク、アリアン等の言説を參
    考にする。又その時代の貨幣や王の彫像を、模造品を皆さんの前に示し、イソスの職を示すボンベイの寄木細工の寫
    眞を廻覧したりする。厳密に言へば、是等の文書によつてアレキサンダーの存在や彼の事業の實在が己に以前の世
    紀の人々によつて信じられて居たことを證明する。而して皆さんの批評は全く新しいものであることが分かる。アレ
    キサンダーに就て報告された事が凡そ十分に信用を置くに足るものとは言へないが、しかしその爲めにアレキサンダー
    大帝の實在を疑つて、此の教室を出て行くものは一人も無からうと思ふ。皆さんの確信は主として二つの點から
    決定されて居る。第一は自分が偽りと思つて居るものを皆さん信ぜしめようとする動機が、その講義に無いとい
    ふこと、第二に凡ての権威者が、それの大陸の事柄に就て意見が一致して居るといふことである。以前の著者の言
    説の眞偽を判定する場合にも同様で、著者の動機や、他の學者の意見の一致によつてその眞偽を検査する。かやう
    な検査の精神からしてアレキサンダーの場合の確信は生ずるが、モーゼスやモハメッドの場合にはその確信が減じ
    てくる。精神分析學の説明者に對して皆さんの有する疑問に就ては、後になつて明白になるであらう。
    茲に於て皆さんは次の疑問を發する権利がある。即ち精神分析に對する客観的證據も無く、その過程を説明する
    可能も無いのに、如何にしてそれを研究することが出来たり又はその眞なることを信ずることが出来るか。その研
    究は實に容易のことでない。又それを完全に習得した人士も多く無い。しかしそれを學習し得る何等かの方法があ
    ることは勿論である。精神分析學は先づ第一に自己の人格の解剖によつて、自分自身で學ばれるのである。それは

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    分析精神療法

    自己観察 (Selbstbeobachtung) と全く同意義のものでないが、別に適当の語が無いので、この術語を使用してもよ
    い。若し吾々がこの方法を知らやうになれば、自己分析の材料として、日常の熟知せる精神現象を採用することが
    出来る。この方法によると精神分析で叙述する過程の實在や、又その概念の異なることを確信することが出来る。
    尤もこの方面の進歩にはその限界が無いでも無い。それで熟練した分析者に自身の分析を委ねると、分析者の使用
    する精細の技術を観察する機会を得る事が出来、-
    個人の場合にのみ實行が出来ることで、學級の生徒全體に使用することは出来ない。

    精神分析學を習得する上に第二の困難とする點は精神分析學の者に固有したものでなく、皆さんの醫學の研究
    によって獨りひされて居る點に困難があるので、謂はば皆さん自身に責任があると言はなければならぬ。蓋し皆さん
    が受けられた教育は精神分析學を理解するには餘りにかけ離れた心の態度を養成して居る。即ち有機能の機能や障
    礙を解剖學的基礎の上に建設したり、化學や物理の術語でそれ等を説明したり、又は生物學的見地からそれ等を観
    察したりするやうに教育されて居る。従つて皆さんの興味は極めて複雑なる發達の極度に達して居る人生の精神的
    方面に向つて居ない。故に心に對する心理學的態度は皆さんには全く未知のもので、疑惑を以て之を迎え、科學的
    地位を否定して、只一般の通俗詩人・魔術師・哲學者の仕事のやうに考へて居る。かやうな限界が皆さんの醫學
    的能率の上に害をなして居ることは明白である。蓋し患者に接する際に、先づ第一に接觸するのは精神的方面で、
    最も人間的關係に立つて居る。従つて皆さんの輕蔑する驚嘆者・魔術師・信仰によつて治療をする者に、治療的勢力
    の一部を奪はれるといふやうな罰を皆さんは被つて居ることを私は懸念する。

    上述のやうな缺陥が皆さんの以前の教育の上に存することに對する辨疏があることを私は十分に認める。即ち皆
    さんの職務に役立つやうな哲學的の補助學科が受けられないといふことである。思索的哲學や叙述的心理學や或は
    感官生理學と聯關せる所謂實驗心理學の如きも、身體と精神との間に存する關係に就て必要な事を皆さんに教へる
    ことが出来ないし、又精神機能の混亂に就て理解せしむべき手引をも與へることが出来ない。醫學の中の精神病に
    屬する部門は、認められ得る精神障碍の種々異つた形式を叙述したり、臨床上の疾病圖に分類したりすることのみ

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    に没頭して居る。のみならず精々よい場合ですらも、精神病患者それ自身が、純粋の叙述的排列が科学と稱へられ
    る資格があるかどうかと疑つて居る。臨床上の圖を組立てる症候の起原・機轉・相互關係は發見されないで、それ等
    が臓腑に於ける説明し得べき變化と關係せしめることも出来ないし、又は説明の出来ない、變化と關係せしめるこ
    とが出来ない。これ等の精神障碍は、それが或る有機的疾患の二次的結果と同一視され得る時にのみ治療的影響が
    與へられるやうになる。

    この空隙こそ精神分析學が充たさうと努力して居る所である。精神分析學は精神病學に對して、心理的基礎の缺
    ける所を補つてやることを希望し、身體的並に精神的障碍の相關が理解されるやうになる普通の基礎を發見する
    ことを望んで居る。この目的の爲に解剖學や化學や生理學等に於ける臆説から離れて、純粹に心理學的補助概念に
    よらなければならぬ。この理由からして先づ第一に皆さんに精神分析學が異様にに見えるであらうことを私は懸念し
    たのである。

    次の困難に對しては、皆さんの教育や精神的態度に責を歸さうとは思はない。精神分析學は全世界の人々を怒
    らせ、彼等の嫌厭を引起す二つの教義がある。一は知的偏見と衝突し、他は道徳的並に美的偏見と矛盾する。而し
    て是等の偏見を低く評價してはならない。蓋し是等の偏見は有力のもので、人類に於ける必要且つ價値ある進化の
    沈澱物である。是等は情緒力によつて支持されて居るので、是等に對する職は困難な仕事である。

    精神分析學が世界の人々に喜ばれない主張の第一は次のやうなことである。即ち心的過程は本質上無意識であ
    る。而して意識せる部分は單に孤立した行爲で、全精神生活の一部に過ぎないといふ點である。所が吾々は精神過
    程と意識過程とを同一視する習慣になつて居る。意識は精神生活を定義する特質の一つに思へる。而して心理學は
    意識の内容を研究する學のやうに認めて居る。しかもそれに反對することは全く無意味のことのやうに明白に見え
    る。所が精神分析學ではこの反對を避けることは出来ない。而して意識的と心的とを決して同一視することは出来
    ない。心の精神分析的定義は感情・思考・欲望の本質の過程を包含し、又同時に無意識的思考や無意識的欲望の如き
    ものをも包括する。しかし、かやうにする爲に、精神分析學はその出發點に於て真面目な科學的研究者の同情を失-
    ふ。

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    精神分析

    ひ、底知れぬ暗黒の不可思議を有する空想的崇拝をその襲つた。
    『精神的といふこと』は意識的であるといふことが
    豊かにあつたのに、それを拒むといふのは如何なる進化的過程に
    困難せらるゝに相違ない。又無意識といふことが
    得られるか、皆さんは推測することが出来ない。精神生活は意識と
    共在すると認むべきか、或はその範囲以上に廣がって居ると言ひ得る
    かを論ずることは言語上の空論のやうに見える。無意識的精神過程の
    承認は世界並に科学に於ける新しき方向へ一歩を踏み入れたものと
    私は断言することが出来る。

    この精神分析学への大膽なる第一歩と、これから述
    べようとする第二歩との間に密接なる連絡のあることを皆さ
    んは疑ふことが出来ない。蓋し精神的疾患の原因として吹聴する
    次の命題は、狭義又は廣義の性的としてのみ記
    述し得る衝動が、純粋的並に精神的疾患の原因として特に重大なる
    役目を演じて居るといふ主張で、之は以前に十分認められ
    なかつた所である。尙それ以上に、この性的衝動は人間精神の
    最高の文化的、藝術的、社會的成果に對して評價し得べからざる
    程の貢献をなして居る。

    私の経験によると、この種の精神分析的研究の歸結に對する
    嫌惡が、反對を蒙る最も重大なる原因になつて居る。
    皆さんはそれに對する説明を知りたいか。吾々の信ずる所によれば、
    文明は生存競爭の壓迫の下に原始的衝動の滿足を犧牲にして
    建設され、且つ大部分は常に新に創造されつゝあるもので、
    新に社會に入つてくる個人は、全體の者の善のために自己の
    本能的滿足の犧牲を反復して居る。かやうに利用された本能的
    力の中で性慾は重要なる役目を演じた。この場合に性慾は純化された。
    詳言すればその勢力は性的目標から外れて、他の目的の方へ
    變向し、最も早時的でなく社會的に一層価値のあるものに變つた。
    しかしやうな構成は安固でない。蓋し性慾は抑制すること
    は困難である。又生存事業に興かる人々の中には、性慾がその
    勢力の傾向に對して拒斥するといふ危険がある。性的
    衝動の解放即ちその衝動が最初の目標に復歸することによつて
    生ずるものほど、文化に對し、強力な脅威はないと
    社會は信ずる。故に社會はこれの建設に於ける、この困難なる
    部分に考を向けることを好まない。社會は又性的本
    能の力を認めたり、個人の性的生活の重要を明かにしたりする
    ことに全く興味を有しない。寧ろ訓練の見地からし

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    て、この凡ての方向から注意を轉向せしむるやうにした。
    その爲に社會は精神分析學の研究結果に對して忍ぶこと
    が出来ないで、美的にも嫌忌すべく、道徳的にも非難す
    べきものとせられた。しかしやうな非難は科學的研究の
    確立せる客観的結果に對して何等の價値もない。非難は
    知的術語に飜譯されて後に發表されなければならぬ。自
    分の嫌ひなことには不正であるやうに考へ、容易にそれ
    に反對する議論をするのが人間の特質である。從つて社
    會は好ましくないことを不正となし、情緒的起源を有する
    論理的並に具體的議論を以て精神分析學の眞理を討議し、
    如何にも嫌忌を企てゝも、それは凡て偏見であると固執
    する。しかし吾々は、この異議ある原理を提出するに當
    つて何等の傾向にも從はなかつたことを主張する。吾々
    は只困難なる研究の結果發見したる事實を發表するに過
    ぎない。而して吾々はやうな實際的考察を餘儀なく口に
    したことを無條件に拒否する權利がある。若し、皆さんが
    落膽するやうな印象に打勝つことが出来れば、これから
    尙説明を進めて行かうと思ふ。
    以上述べたことが、皆さんの最初精神分析學に興味を示
    し初める際に遭遇する困難の諸點である。初めるにはこ
    れで恐らく十分過ぎると思ふ。若し、皆さんが落膽する
    やうな印象に打勝つことが出来れば、これから尙説明を
    進めて行かうと思ふ。

    第一講 誤謬の心理

    吾々は假定でなく研究から初めようと思ふ。その爲に先
    づ極めて屢々起り且つ一般が熟知しては居るが、しかし
    看過されゝる居る現象を選んで説明しよう。尤もこの現
    象は病気の際に表はれるのでなく、熟れの健康の者にも
    現はれるものである。それは各人が行ふ誤謬で、例えば
    或ることを話さうとして、誤つて異つたことを言つたり、
    或は書記の誤りをしたり、印刷物や書寫のものを讀む時
    に、實際は書いてあることゝ違つて讀んだり、聽覺器官に
    は別に異狀がないのに、他人の言ふことゝを聞違へたり
    する各種の誤謬行爲に就ての現象である。勿論是等の誤
    謬はそ
    の本人に氣付いて居ることもあり、氣付いて居ないことも
    ある。この他又永久的の忘却でなく、一時的の忘却の爲