S.
163
である。けれども夢の解釋によつて暴露された潜在思想はこの領域に屬するものではない。寧ろそれは吾々が覚醒
時に於いても考へ得たやうなものである。けれどもそれは矢張り無意識的である。この矛盾は如何に解決さるべき
であるか。吾々はこゝで兩者を區別しなくてはならないことを感じ始める。吾々の意識的生活にその起源を有し、
そして特徴を分有してゐるところの或るもの―吾々はこれを前日の殘留物と呼ぶ―と無意識から來るものとは
融合して夢を構成する。さうして夢の作業はこの兩要素に對して行はれるのであらう。無意識的物質とゝある無
意識的影響から吾々は退行作用の條件となつてゐるのである。吾々が更に深く心の領域を探索するまでは、これが
夢の本質に就いて持ち得る最も深い見解である。けれども夢の潜在思想の無意識的特質を、幼稚の領域から來る
る無意識的材料から區別するためには、それに別の名稱を興へる時は間もなく來るであらう。
無意識吾々はなほ次のやうに問ふことが出来る。睡眠中の吾々の心的活動にかゝる退行を必要ならしめるもの何
であるか。何故にその活動は睡眠を侵す心的刺激を退行することなしには處分し得ないのであるか。さうして若し
夢の監視作用のために心的活動は、昔の、今ではその力を失つてゐる心的衝動、欲望、特徴の再生は何の役に立つのであるか。約言すれば、形式
的退行と共實質的退行の效用は何であるか。これに對する唯一の滿足な答は、これが夢を構成し得る唯一のあり
得べき方法である。動的に考へて、夢を起させる刺戟を取り去ることはこれ以外の方法では不可能である、といふ
のであらう。しかしながら、現在のところでは、吾々にかゝる答を興へる十分な論據を有してゐない。第十四講 欲望の充足
私はこゝで吾々が今までに辿つて來た道を今一度諸君に思ひ出していただきたいと思ふ。吾々は精神分析的方法
を用ひて夢の變容を探究した時に曾てそれを避けようと決心し、夢の本質に就いての決定的な知見を得るために限
を幼児の夢の方に轉じた。次に、この研究の結果を武器として、吾々は夢の變容を直接に攻撃した。さうして私は
徐々にそれを征服して來たことゝ思つてゐる。けれども今や吾々はこの二途に於いて發見されたことは十分に合一S.
164
してゐないとと言はざるを得ない。この二つの結果を結合し、相隣せしめることが吾々のこれからの仕事である。
夢の本質的特徴は思想を幻覚的経験に変形することには両方面から明かにされた。これがどういふ風に行は
れるかといふことは中々理解し難いが、これは一般心理學の問題であつて、こゝで取扱はるべきではない。吾々は
子供の夢からして夢の作業の目的は、ある欲望を満足させることによつて、睡眠を擾す心的刺戟を取除くにあるこ
とを知つた。變歪された夢に關しては、如何にそれを解釋すべきかを理解しなかつた間は、これと同じことを言
ふことは出来なかつた。けれども變歪された夢も幼児の夢と同じやうに見ることが出来るであらうと、最初から
豫想してゐた。この豫想は吾々がすべての夢は本質に於いては子供の夢であつて、幼時の材料を使用し、子供の心
的衝動と機構をその特色とすることを知つた時に始めて實現された。夢に於ける變歪作用を理解し盡したと感じた
ならば、吾々は進んで、夢は欲望の充足であるといふ觀念は、變歪された夢にも適用するかどうかを探索しなくて
はならない。
吾々は少し前に一聯の夢を解釋したが、その時には欲望充足の問題を少しも勘定に入れなかつた。私はその解釋
の際に「夢の目的であると考へられてゐる欲望の充足は一體どうなつたのであるか」といふ疑問が、諸君の心のう
ちに幾度も思ひ浮べられたことを確信する。これは重要な疑問である。何故ならば、これは素人批評家が必ず尋ね
る疑問だからである。御承知の通り、人類は知的の新鮮事に對して本能的反應を有してゐる。この新鮮事が現はれた
時には直様それと最小範圍に縮め、出来るならば一標語に壓抑してしまふのはこの反應の一つの現はれである。「欲
望の充足」は夢の新規説の標語となつた。素人は夢は欲望充足であると聞くと、直ぐに「何處に欲望は充足されて
ゐるか」といふ疑問を出して、それに否定的な答を興へる。彼等は時としては恐怖にまで達する不快を伴ふところ
の無數の自分の夢のことを直ぐに思ひ浮べて、精神分析の主張する夢の學説は到底あり得べからざることだと考へ
る。これに對して變歪された夢に於いては、欲望の滿足は明らさまに表現されてゐるものではなくて、探さなくては
ならないものである。從つて夢が解釋された後でなければわかるものでないと答へることは容易である。また變歪さ
れた夢の奥に潜んでゐる欲望は禁止された、監視作用によつて拒まれた欲望であり、その欲望の存在そのことが變S.
165
歪の原因であり、監視作用を受ける理由であることは吾々は知つてゐる。けれども夢を解釈した後でなければ夢に
於ける欲望の満足のことを尋ねてはならないといふことを素人の批評家に理解させることは困難である。彼等はき
つとこれを忘れてしまふ。欲望充足の學説に対する彼の反感的態度そのものが本來夢の監視作用の結果に外ならな
い。彼はそのために隠蔽された夢の欲望を他のものに置き換へ、それに対する嫌悪を示すのである。無論吾々もまた何故苦痛な内容を持つた夢が澤山にあるのであるか、特に、どうして苦悶の夢は存在するのである
かといふことを説明すべき必要を感じる。吾々はこゝで始めて夢に於ける情緒の問題に面接するのである。これ
は特別の研究に値する問題であるが、不幸にして吾々は今それに係つてゐることが出来ない。差し夢が欲望の充足
であるならば、苦痛な感情が夢の中に入つて来ることは不可能である筈である。この點に於いては素人批評家は正
しいやうに見える。けれどもこれには彼等が看過してゐる三つの複雑な事情がある。第一に、夢の作業が欲望を満足させることに十分成功しなかつたがために、潜在思想に於ける苦痛な感情が顯在
夢のうちに取殘されるやうなことが起るかも知れない。その時には夢の思想は、これによつて形成されたその夢よ
りも遙に苦痛なものであることが、分析によつて示されなくてはならないであらう。さうしてこれはあらゆる場合
に證明される。その時には夢の作業は、丁度渇の刺激によつて呼び起された水を飲む夢がその淵を醫しないのと
同じやうに、その目的を達してゐないことを吾々は容認する。その夢を見た後にもなほ咽喉が乾いてゐて、水を飲
むため眼を醒まさなくてはならない。けれどもそれにも拘らずそれは正真正銘の夢である。その夢はその本質を
少しも棄てゝはゐない。(ut desint vires, tamen est laudanda voluntas.) (酒を廢止する目的は稱讃すべきだと
吾々は言はなくてはならない。その志向は少くとも明瞭に認め得られるほどにうまく殘存してゐる。) かゝる失敗
は決して稀なことではない。夢の作業にとつては内容よりも感情を必要通りに變化させる方が、遙に困難であると
いふこともこの失敗の一理由である。從つて夢の作業の際に潜在思想の苦痛な内容は、欲望を充足させるやうに變
形されたが、苦痛な感情は變化化されないで持續すると、いふやうなことが起る。かゝる場合にはその感情はその内容
と全然調和しない。そこで吾々の批評家は、夢に於いては有害でない内容でさへも苦痛な感情を伴ふことがある程S.
166
までに欲望の充足からは遠いものであると言ふ機会を與へられるのである。この譯の分らない批評に對しては、夢
の作業の欲望充足的傾向は正にこの種の夢に於いて最も明瞭である、何故ならば、こゝではそれは孤立して現はれ
てゐるからである。と吾々は答へる。この謬見は精神病に通じてゐない人には内容と感情との關係を餘りに密接なも
のであるやうに想像し、從つて内容はそれに伴ふ感情が變化しないでも、變換することがあるといふことを理解し
得ないところから生じるのである。
第二の遙かに重要深刻な、しかしながら同じく素人には看過されてゐる要素は次のやうなものである。欲望の滿
足はある快楽を齎さなくてはならないであらう。けれども、誰にであるか。無論その欲望を持つてゐる人にである。
けれどもその夢を見た人のその欲望に對する態度に、極めて奇妙なものである事を吾々は知つてゐる。彼はそれを
却ける。監視する、約言すれば、それを欲しない。從つてその滿足は彼に快楽を齎すことが出来ない。寧ろその反
響である。さうしてこの反對―これはなほ説明さるべきものである―が苦悶の形を取ることは經驗の示しゐる
ところである。夢を見た人は從つて、彼の夢の欲望に對する關係に於いては、ある重要な共通物によつて結びつ
けられた二人の別の人のやうなものである。これに就いてはこれ以上に説明する代りに、私は誰も知つてゐるお
伽噺を諸君に語らうと思ふ。諸君はこのお伽噺のうちにこれと同じ關係を再び見るであらう。ある妖精が貧しい夫
婦に三つだけの望みは滿たしてやると約束した。二人は大層喜んで、その望みを十分考へて選ばうと決心した。け
れども妻君は隣りの小屋で料理されてゐる陽詩の匂に誘惑されて、あんな陽詩が二人前欲しいものだと思つた。さ
うすると、見よ、陽詩はそこにたつた。さうして第一の望みは滿たされたのである。これで男はすつかり機嫌を惡
くして、憤慨の餘り、その陽詩が女房の鼻の先につゝくつけばよいと思つた。さうするとこれも望み通りになつて、
陽詩は何としてもその場所から離れなかつた。これで第二の望みは滿たされたのであるが、これは男の方の望みで
あつた。女にとつてはこの欲望の滿足は非常に不快なものであつた。諸君はこれから後の話を知つて居られるであ
らう。彼等は結局夫婦であつたから、その第三の望みは陽詩が女の鼻の先から離れるやうにと、いふのでなくてはな
らなかつた。このお伽噺はこの他のところでも色々利用出来ようが、こゝでは、二人が全然一體でないならば、一S.
167
る。苦悶は、抑圧された欲望は監視作用を受け
てゐる、いゝ、監視から免れてゐる、といふのである。この種の夢は欲求は屢々變歪されずに滿たされてゐる。
さうして、その欲求は言ふまでもなくその本人に受け入れられるものではなく、却けられるものである。監視の
代りに苦悶が現はれてゐるのである。幼児の夢は許される欲求の明らさまな滿足であり、普通の變歪された夢は
抑圧された欲求の變歪された滿足であると言ひ得るに對して、苦悶の夢は抑圧された欲求の明らさまな滿足であ
る。苦悶は、抑圧された欲求は監視作用をうけるに餘りに強いことを證明してゐる印であり、監視作用にも拘らず
その欲望を充足させ、或は將にさせようとしたことの印である。抑圧された欲求の滿足は、それを監視する
方側にある吾々にとつては、單に苦痛な感情と擴斥の機會となり得ると過ぎないことを吾々は理解することが出
來る。その際に現はれる苦悶は、若し諸君が定義したいと思ふならば、他の時ならば抑へつけられてしまふ欲求
の力が強いためめに經驗される苦悶であると言つてもよい。何故にこの擴斥が苦悶の形を取るかといふことは、夢の
研究だけでは明かにすることは出來ない。言ふまでもなく吾々は苦悶を他の場所で研究しなくてはならない。
苦悶の夢に就いて安當な假説は、またある程度の變歪を受けた夢にも、恐らく苦悶に近い不快を伴ふ他の種類の不
快な夢にも假定することが出來よう。苦悶の夢は普通吾々を眼覺めさせる。抑圧された夢の欲求が監視に打勝つて
十分な滿足を得るまでに吾々は急に眼を覺ますのが常である。かゝる場合には夢はその目的を達しないが、しかし
ながら夢の本質はそれによつて少しも變化されない。吾々は前は夢を吾々の睡眠が擾されないやうに保護する夜番
に譬へた。夜番もまた、擾亂や危険を獨力で追拂ふには力が足りないと感じた時には、夢と同じやうに、眠つてゐ
る人を起さざるを得ないやうになる。しかしそれにも拘らず、時としては夢が不安を興へ、苦悶に變じ始めた時に
さへも、吾々は睡眠を續けることに成功するのである。吾々も眠つたまで、「何だ夢か」と言つて、また眠り續け
る。S.
168
夢の欲望が監視作用に打勝つといふやうなことは何時起るのであ
るか。この起る條件は夢の欲望の側からも監視作用の側からも満た
される。ある未知の理由から時には欲望が強くなり過ぎるといふや
うなこともあらう。けれど
も力の比例を變へることに就いては、監視の態度の力一層屢々責任
があるやうに吾々には感じられる。監視の態
度は個々の場合によつて異り、その取扱ひの實踐は個々の要素によ
つて異るといふことは前に聞いた。今や吾
々は監視作用は一般に極めて變じ易いものであつて、同じ不快な要
素に對してもいつも同じ厳しさを示すものでは
ないと附け加へることが出来よう。若し監視作用が自分を倒さうと
してゐる夢の欲望に對して無力であると感
じるやうだとことがあると、その時には監視作用は變歪の代りに自
分に殘された最後の武器を使用する。即ち苦悶が
現はれて睡眠を妨げるのである。こゝで吾々を驚かすことは、何故にこの邪悪な抑圧された欲望は吾
々を睡眠中に煩はす爲に丁度夜間に現はれる
のであるか、といふことに就いてはまだ何も知つてゐないといふ事
であるが、これらの欲望を隠蔽し、普通それの現はれ
ぶーのの假説のうちに見出さるべきであらう。書間は監視作用の重
疊がこれらの欲望を隠匿し、普通それの現はれ
出でることを不可能ならしめる。ところが夜間にはこの監視作用は
、心理生活の他のすべての興味と同じやうに、睡
眠といふたゞ一つの欲望に都合のよいやうに中止される、或は少く
とも非常にその力を弱められるらしいのである。
從つて禁止された欲望が再び活動し得るのは、監視が夜間には緩め
られるからである。不眠症に罹つてゐる精神
病者のあるものは、不眠は最初は有意的なものであると私に告白し
た。彼等は自分の夢を恐れて―換言すれば、
監視作用が緩くなることを恐れて、敢て眠らうとしなかつたのであ
る。けれどもさうであるからとて言つてこの監視
作用の減退が決して非常な輕卒を意味しないことは容易に理解する
ことが出来よう。睡眠は吾々の運動機能を減殺
する。吾々の邪悪な意志は、たとへ動き始めたとしても、實踐的に
は無害な夢を生ぜしめることのよししか出来な
い。さうしてかういふ安心な事情があればこそ、眠つてゐる人は「
何だか夢か」といふ夜間に爲されはするが夢の生
活には屬してゐないところの極めて合理的な註釋をして、また眠り
續けるのである。第三に、若し諸君が自分の夢の欲望に反對してゐる人は別々ではあ
るが、而もどうにかして緊密に結びつけられS.
169
た二人の人に似てゐるといふ吾々の見解を思
ち罰を課し得るかといふことを理解することに
つ。食卓の上の陽話は第一の人、即ち女の欲
望の充足であるが、それは同時に女の馬鹿な欲
る所の第三の動機を、神経病に見出すであらう。
来る。諸君は今やこれでこの有名な欲の充足に就
けれども更に詳しく観察して見ると、諸君の考の
実際にあるところの――多態(このことは後に論
この説明はなはだ極めて狭隘なものである。それ
あり、また、前に言つたやうに、無意識に於ては
る人の欲望の充足である。
従つて全體から見て私は欲求充足説に對する諸
どんな夢にでもそれが存在することを實證する義
い。吾々は既に解釋されてゐるところのあの
した――に戻らうと思ふ。諸君はまだあの夢を覺
達のエリゼが婚約した話を聞いたある婦人が
きである。彼女の夫はエリゼとその許婚も芝居
らなかつたので來ることが出来なかつた彼に言
の思想は餘りに急いで結婚したといふ煩悶と、夫
して欲望の充足に變形されたか、その痕跡は題
S.
170
ぎる」と
いふ要素は、監視作用によつてその夢から除去されたことは、吾々は既に知つてゐ
る。空の捏数はこれを
暗示してゐる。三枚で一フロリン半といふ謎のやうな句は今や前よりも、その後に得
た象徴作用に就いての知識に
よつて、よく理解することが出来る*)。三といふ数は一人の男を意味する。そこで吾々は
この顕在要素を容易に「男
(夫)を持つ参金で買ふ」(私は十倍も立派な夫の持参金を買ふことが出来たらうに)
と飜譯することが出来る。
早く結婚した者が得る喜びと満足である。この夢を見た婦人は自分の早婚のことを、
彼女が友達の婚約
の話を聞いた日ほどに何時も不満に思つてゐたのではなかつた。當時彼女はその結婚
を誇り、彼女の友達よりも幸
福であると思つてゐた。無邪気な娘は、婚約すると間もなく、今まで禁じられてゐ
る芝居を見に行つたり、何でも
彼でも見たりすることが出来るやうになることの喜びを屢々洩らすさうである。こ
こに明瞭に現はれてゐる好觀癖
或は好奇心は確に最初には性的好觀癖であつて、性的生活、特に兩親の性的生活に
向けられたもので、それから娘に
早く結婚したがらせる誘因となつたのである。かゝいふ風にして劇團は結婚してゐ
るといふことの象徴になる。從
つて早婚に就いての彼女の現在の懊惱は、その早婚が好觀癖を満足させたが故に、
欲望の滿足であつた當時への復
歸である。さうしてこの昔の欲望衝動に導かれて劇團を結婚に代用したのである。
*この子供のない婦人の夢に現はれたことはいふ數には今一つの解釋があり得るが、
この分析はそれを例證するや
うな材料を齎さなかつたから、こゝでは語らないことにする。
飜譯された欲求を實證するために選んだこの實例は最も適當なものではないと言へ
ようが、吾々は他へ飜譯された
夢を取扱ふ時にもこれと似た方法を使用せざるを得ないであらう。私は今こゝでそ
れを爲し得ないから、單にかゝ
る方法によれば必ず成功するであらうといふ確信を述べて置くに止めようと思ふ。
けれどもこゝにで欲望充足説
を今少し詳説しようと思ふ。無意識の欲するところによると、これは夢の全學説の
うちで最も危険な一つであつて、多
くの反駁や誤解を受けてゐる。その上、諸君は恐らく夢は満足された欲望であるこ
ともあれその反對、即ち實現
された苦悶或は虚偽である事もあるといふ私の言業によつて、私達は既に一歩譲歩
したものであるとの印象をまだ受S.
171
けてあて、今が私に、これ以上の制限を強要する好機會であると考へて居られることであらう。私はまた私自身に
は明白であるらしい事物を餘りに簡単に、從つて十分に信ぜしめることが出来ないやうな風に表現したと云つて非
難されてゐる。
誰でも夢を解釋してこゝまで進んで来て、この點での吾々の結論を悉く容認した時、々この欲望充足の問題
のところへ立つてゝ尋ねる。夢はどれでも一つの意味を有するものであり、その意味は精神分析法によつて證見さ
れ得るものであることは容認するとしても、何故に夢はあらゆる證據に反して、常に欲望充足といふ公式に押し込
められなくてはならないのであるか。何故にこの夜間の思想の意味は晝間の思想の意味のやうに多様であつて、時
には夢は欲望の充足であり、時には、あなた自身が言はれるやうに、その反對、即ち恐怖の實現であり、また時に
は決心、警戒、賛否を決するための熟慮、或は非難、良心の囁き、成すべき仕事に對する準備、その他の表現であ
つてはならないのか。何故に何時も欲望と、精々のところ、それの反對ばかりを表現するのであるか。」
この點に就いての意見の相異も、他のすべての點で一致しきへすれば、大したことではない、夢の意味とそれを
認識する方法とを發見しただけで十分ではないか、この意味を餘り厳密に定めようとすれば却つて遠回りしてしま
ふであらうと人は思ふかも知れない。けれどもさうではない。この點に就いての誤解は夢に就いての吾々の知識の
本質に關れて、精神病を理解するに當つてこの知識の有する價値を脅かす。その上、商賣上ではその價値を有する
「如才なさ」は、科學的な仕事には適當でないばかりでなく、寧ろ有害である。
夢は何故に多くの意味を持つてゐないのかといふ質問に對する私の第一の答も、かゝいふ場合に普通なされ
るのと同じものである。私は何故さうであつてはならないのかは知らない。私はさうであるとしても少しも反對し
ようとは思はない。私にはさうであつて結構はない。たゞ夢に就いてのこの廣汎な、便利な見解には、寸した障碍
がある―即ち實行にはさうでないのである。第二に夢は多様な思想様式や知的作用に對應するといふ假定は決し
て私自身に珍らしい考へではないといふことを高調したい。嘗て私は三晩續いて現はれたがその後は二度も現はな
かつた或る病人の夢を記録して、この夢は實行されてから後は再び現はれる必要のなくなつた決心を表現してゐるS.
172
と説明したことがある。もっと後には告白を現はしてゐる夢を發表した。それならどうして
私は夢に於てこの吾々の努力の成果を、毫なしにしてしまふか知れないところの馬鹿げた誤解を
と混合して、後者ののみ屬することを前者に就て言はうとするやうな誤解を許して置きたくない
からである。夢は一寸前に列撃したところの思想様式、決心、警戒、反省、行為に關するある問題を
解かうとする準備と試み、その他をすべて表現し、それによつて置き換へられ得ると見るのは無論全然
正しい。けれども若し諸君が正しく注視されるならば、これらはたゞ夢に変形されてゐる潜在思想の
みに適用するものであることを認められるであらう。諸君は夢の解釋によつて人類の無意識思想は、
かゞる決心、準備反省等に關係のあるものであつて、夢はこれを材料として夢の作業によつて構成さ
れるものであると知つて居られる。若し諸君がその解釋の時に夢の作業に興味を持たないで、人類の
無意識的理想過程に非常な興味を持つて居られるならば、夢の作業のことは無視して、夢は警戒、
決心、その他を表現すると、實際的には全然正しいことを、述べられるであらう。精神分析的仕事に
於てもこれと同じことが屢々為される。大抵の場合、吾々は夢の形式を打毀して夢を生ぜしめた
潜在思想をその代りに置かうと努めるものである。かゞして吾々は潜在思想の眞相を探らうとし
て全然偶然に、前に挙げた極めて複雑な心的作用は無意識的に行はれるといふ驚くべき、また途方も
ない結論に達したのである。
けれども少し後戻りして言へば、夢は種々のこれら
の思想様式の表現であるといふ諸君の見解は、若し諸君が省略された表現様式を使用し
てゐるのであると、ふことをはつきりと知つて居られるならば、また諸君の言はれる多
様性が夢の本質の一部分であると信じて居られないならば、全く正當なものである。「夢」といふ語は
顯意識、即ち夢の作業の所産の意味か或は精々のところその作業目録、即ち潜在思想から顯在夢を
構成する過程の意味かに用ひられなくてはならない。この語をこれ以外の意味に用ひるのは觀念の
混亂であつて、たゞ有害なばかりである。若し諸君の主張が夢の背後にある潜在思想に關するもので
ならば、明かにさう言つて、どうでも取れるやうな表現様式S.
173
を用ひて夢の問題を曖昧にしないがよい。潜在思想は夢の作業によつて顔在夢に
変形されるところの材料である。何故に諸君は常に材料とその材料を取扱ふ作業
とはその作業の所産だけを知つてゐる。何處からそれが来るか、どうしてそれが
形成されるかといふことを説明し得ない人々よりも、何處が傷つて居られるので
あるか。
夢に於ける唯一の本質的なものは思想の材料にはたらきかける夢の作業である。
吾々はこの作業を、たとへ或る観察的状態に於いては閑却してもよいとしても、
理論に於いて無碍にする権利は少しも持つてゐない。更に、分析的
観察の示すところによると、夢の作業は単に潜在思想を前に言つた古代的或は退行
的表現様式に飜譯され、この欲求を充足させるために夢の内容は變形される
のである。この不可缺の構成要素もまた無意識的な欲望であつて、これを満足させる
ために夢の内容は變形される
のである。従つて、若し諸君が諸君に理解の出来る思想だけを考察されるならば、
夢は譯の分るもの―警戒、決
心、準備その他であるかも知れない。けれども夢はまた常に或る無意識的欲望の
充足である。若し諸君が夢を夢の
作業の結果として考へられるならば、夢はただこの充足だけである。従つて夢は
単なる決心、警戒の表現ではなく
て、決心その他が無意識的欲望の助けによつて古代的表現様式に飜譯され、この
欲望を充足させるやうな風に變形
されるのである。欲望の充足といふこの一つの特質だけが不變なものであつて、
他の特質は變化することがある。
夢はまたそれ自體がこの欲望であり得る。さればこそ夢は晝間からの潜在的欲望を
無意識的欲望の助けを借りて満足
されたものとして表現するのである。
このことはすべて私自身には極めて明瞭である。けれども私は諸君にも同様に
理解出来るやうになし得たかどうかは知らない。またこれを諸君に證明することも
困難である。何故ならば、一方に於いて、證明するために多
數の夢の周到な分析によつて得られた證據を必要とするし、他方では、夢に就い
ての吾々の見解のうちで最も至難
な、最も重要なこの點を得心の行くやうに表現するには、吾々がまだ慣れてゐない
諸考察に論及しなくてはならな
いからである。一切の現象が密接な關聯を有してゐる場合に、一現象の性質を、
それと類似の性質を持つた他の諸S.
174
現象を研究することなしに、深く究め得ると考へることは出来まい。吾々は夢と同系の現象、精神病的症候に就い
てはまだ何も知らないのであるから、こゝでもまた今までに得ただけのことで辛抱しなくてはならない。私は今一
つの例を説明して、新しい考察に入らうと思ふ。
今度あの三枚一フロリン半の切符の夢を例に取らう。私は最初にこの例を選ぶに當つて何等後のことを考へる
たところの早く結婚し過ぎたといふ懊惱である。夫の價値の輕視と、待つてさへ居ればもつと立派な夫を持たら
うにといふ觀念である。吾々はまたこの思想から夢を造り上げたいといふ昔の好奇心から來てゐるところの欲望と
いふ好親離—恐らくは最後に結婚後に起ることを知りたいといふ昔の好奇心から來てゐるところの欲望であつた
事も既に知つてゐる。子供の時には誰れも知つてゐるやうに、普通兩親の性的生活に向けられるこの好奇心は、從つ
て幼時の衝動であり、それが後年の生活にも存在する時には、その根が幼時に有してゐる。けれども夢を見た前の
日に聞いた話はこの好親離を喚起す原因とはならなかつた。それは懊惱と後悔を喚起しただけである。この欲望衝
動は最初はこの潜在思想とは關聯してゐなかつたのであるから、これを少くも考慮に入れなくても、分析の際に夢
の解釋のこれらの結果を利用する事が出来たであらう。けれどもまた懊惱はそれだけでは夢を生ぜしめる力がなか
つた。「こんなに早く結婚するのは馬鹿げてゐた」といふ思想からは、若しその思想が結婚すれば起る事を、最後に
は見たい、といふ幼時の欲望を眼覺めさせなかつたならば、夢は生じなかつたであらう。從つてこの欲望が觀離を結
婚の代りに用ひてこの夢の内容を形成して、それを幼時の欲望「それでは私は今まで見ることの許されなかつた芝居
に行つたり、あらゆる物を見たりすることが出来るが、あなたは出来ない。私は結婚してゐるが、あなたは待たな
くてはならない」といふ欲望の充足の形式で現はしたのである。かういふ風にして實際の事情はその反對に變形さ
れ、昔の勝利が最近の敗北に代用されてゐる。さうしてその際に好親離の滿足と利己的競爭心の滿足とがうまく混
和されてゐる。さて夢の中では彼女は實際に劇場の内に居るのに、彼女の友達は入場出来ないのであるから、この潛
在夢の内容を決定してゐるものはこの後者の滿足である。背後に潜在思想を今もなほ隠してゐるあの部分の夢の内S.
175
容を修正して、不適當な、理解し難い形式に組
織充足の表現に使用されゐるものを除外して、苦痛な潜在思想を再構成するにある。
私がこゝで述べようとする一考察は、諸君の注意を今明かにされたこれらの潜在思想に向けさせる事を目的とし
てゐる。私が諸君に忘れないやうにお願ひしたい事は、第一に、その思想は夢を見た本人に意識されてないといふ
ことであり、第二に、その思想は全く合理的な統一のあるものであつて、從つて吾々はそれを夢を生ぜしめた刺戟
に對する理解し得べき反應であると考へることが出来るゝといふことである。第三に、それは心理的刺戟としての或は
知的作用としての價値を持つ得るといふことである。私もこの思想を以前より一層厳密に定義して「前日からの
殘留物」と呼ぼうと思ふ。夢を見た人はこれを知つてゐることもあらうし、ゐないこともあらう。そこで私は「殘
留物」と夢の潜在思想とを區別して、今までずつと來たやうに、夢の解釋によつて知り得べきそのものを夢
の潜在思想」と呼び、「前日からの殘留物」はその潜在思想の一部分に過ぎないこととしようと思ふ。從つて吾々の見解
は、前日からの殘留物に何かゞ、それもまた無意識に屬する強い、しかしながら抑壓された欲望が附加されてゐ
る、さうしてこれらのみが夢の形成を可能ならしめるのである、といふのである。「殘留物」にはたらきかける欲
動が、吾々の覺醒生活から見て最も合理的で理解し得るやうには思はれないところの、あの部分の潜在思想を生
ぜしめるのである。
殘留物と無意識的欲望との關係を例證するために私は前に一つの比喩を用ひたが、こゝでもこの比喩を繰返すの
が一番よいと思ふ。あらゆる企業は經費を支出する資本家と、その事業に就いての知識を有し、それを經營し得る
企業家とが必要である。さて夢の構成に於いては資本家の役割を演じるものは常に無意識的欲望のみである。
それは常に必要資本であるところの心的勢力を供給する。企業家はその資本を如何に使用すべきかを決定する前
日からの殘留物である。資本家自身がその事業に就いての觀念と特殊知識を持ち、企業家自身が資本を持つことは
無論可能である。このことは實際の事情を単純にはするがその理論を困難ならしめる。經濟學に於いては吾々は同
一人物をその兩能力に從つて資本家と企業家に區別する。さうしてこの區別によつて吾々はこの比喩をなさしめたS.
176
ところの根本事情に立戻る。即ちこれと同じ區別は夢の構成にも見出されるのである。これ以上のことは諸君自ら
考へていただきたい。吾々はこれ以上進むことは出来ない。何故ならは諸君は多分既に長い間ある意見を述べたいと思つて居
られるであらうし、またそれは聞く価値があるからである。諸君は尋ねられるであらう。「所謂『殘留物』は實際に
夢の形成に不可缺な無意識的欲望と同じ意味に於いて無意識的であるか。」諸君の疑念は正當である。これは全體の
うちで最も注意すべき點なのである。兩者は同じ意味に於いて無意識的ではない。夢の欲望は幼時にその起源を有
し、特殊な機構を興へられてゐる他の型の無意識である。從つて兩型の無意識に別の名興へて區別すれば非常に
便利ではあるが、吾々が精神病の諸現象に通ずるやうになるまでは、それ差控へようと思ふ。若しどちらかの
無意識の存在が既に空想的であると非難されてゐるとするならば、吾々が二種の無意識を假定することによつてこ
の問題は始めて解決されると告げるならば、人々は何と言ふであらうか。第十五講 不確實な諸點と批評
吾々はこれでは止めようと思ふ。こゝでもまた諸君は不完全な説明を聞いたのである。けれどもこの知識は吾々自
身によつて、或は吾々の後に來る人々によつて、更に深められるであらうと考へるのは希望に滿ちたことではなか
らうか。さうして吾々自身が新しい、驚くべきことを十分に學んではゐないか。吾々は夢の領域を立去る前に、吾々が今までに得て來た新しい觀念や見解に關して生じる最も普通な疑問や不確
實な點に就いて、論じて置きたいと思ふ。注意深い諸君はこの種の二三の材料を自ら集められたことであらう。
(一)吾々の夢の解釋の仕事には、その方法を嚴守してもなほ顯在夢を潛在思想に確實に飜譯する事も不可能なら
しめるほどに、多くの不確實な點が存してゐるといふ印象を諸君は受けて居られるかも知れない。第一に、象徴と
して使用された事物には、さういふ風に使用される事によつてそれ自體でなくなるといふ事はないのであるから、人は
夢のある要素をその通りの意味に理解すべきであるか、或は象徴として理解すべきであるかを知らない。若しこれを
You are here
精神分析1917-001/1929.3.ja
1917-001/1929.3.ja/14