精神分析1917-001/1929.3.ja
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    解決することが出来る、或は少くともそれらの問題を正観することが出来る。
    私はまだどういう場合に吾々はあの想像的「原始語」に就いて最も深く理解し得るか。それが最も多く保存され
    てゐるのはどの領域であるかといふことを諸君に語らなかった。これを知らない限りはこの問題の全意義を評価
    することは出来ない。さうしてその領域といふのは精神病の領域であり、その材料は精神病者の症候と表現様式で
    ある。然り精神分析法はこれの説明と治療のために案出されたのである。

    私の第四の見地は吾々をその出發點に連れ戻り、吾々が既に發見した方へ導いて行く。吾々はたとへ夢の監
    視作用が少しもないとしても、夢を解釋することはなほ困難である、蓋しその時吾々は夢の象徴語を覺醒時の思想
    に翻譯しなければならないからであると言つた。從つて象徴作用は監視作用と共に存在するところの夢の變歪の第
    一の獨立せる原因である。けれども象徴作用を利用するのは監視作用に適してゐる。何故ならば、兩者とも夢を奇
    妙な、理解し難いものたらしめるといふ同じ目的に役立つからである。

    夢の研究を更に進めることによつて夢の變歪に参加する新しい原因を見出し得ないかどうかいふことを吾々は
    直ちに示さなくてはならない。けれども私は夢の象徴作用の問題から離れるに當つて象徴作用は神話、宗教、藝術、
    言語に混在してゐるにも拘らず教養ある人々の間に強い反對を呼び起すことが出来たといふ謎の事實を指摘して置
    きたい。ここでもまたその理由は象徴作用の性慾に對する關係のうちに見出さるべきではなかろうか。

    第十一講 夢の作業

    夢の監視作用と象徴的表現を十分に解釋しても、それです諸君は夢の變歪を全體征服したとは言へないが、しかし
    ながら大部分の夢を理解することは出来る。さうするといつて諸君は二つの補助的方法を利用する。即ち代用物
    から本當の思想を洞見するに至るまでに夢見た人の聯想を呼び起し、また象徴の意味をそれに就いての知識から引
    き出す。この際に生ずる二三の不確實な點に就いては後に論ずるつもりである。
    吾々は以前夢の要素とその底に横つてゐる本來の思想との間の關係を研究して、四つの主要關係、即ち部分と全

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    總ての置換、暗示或は、象徴的關係及び斷續的言語表現を擧げたが、その時には準備が十分でなかつた。今や
    吾々は全體としての顯在内容を吾々の解釋によつて見出された潛在思想と比較することによつて、この問題をもう
    と大規模に論じて見ようと思ふ。

    私は諸君がこの二つのことを混合しないことを希望する。若し諸君が兩者を識別し得たならば、諸君は夢の理解
    に於いて、恐らくは私の『夢の解釋』の讀者の大部分より數歩進めてゐるのである。こゝで私は潛在夢を顯在夢
    に轉ぜしめる作業は、夢の作業と呼ばれてゐるとを今一度憶ひ出してほしいと思ふ。これと逆の過程、即ち顯在
    夢から潛在夢に還元しようとする過程は、吾々の解釋の作業である。從つて解釋の作業は夢の作業を粉砕しようとす-
    る、明白な欲望の充足と認められる幼稚型の夢に於いてもこの夢の作業はある程度にはたらいてゐる、即ち欲望は
    現實に變形され、大抵の場合、思想は幻覺的印象に置換されてゐる。こゝでは解釋は少しも必要ではない。たゞこ
    の二つのの習慣を元通りにさへすればよいのである。けれどもこれ以外夢に見られるやうな夢の作業のこれ以上の
    はたらきを吾々は夢の變歪と呼ぶ。さうしてこゝでは元の思想は吾々の解釋の作業によつて跡づけられなくてはな
    らない。

    多數の夢の解釋を比較する機會を持つてゐるから、私は夢の作業は潛在的思想の材料をどういふ風に取扱つたか
    といふことについて、包括的な説明を與へることが出来る。けれども諸君はこれによつて餘りに多くのものを理解
    し得るとは期待しないで頂きたい。それは靜か、注意深く聽かるべき叙述の一片である。

    夢の作業の第一に成就することは壓縮である。これは顯在夢の内容は潛在思想の内容より少いといふこと、從つ
    て後者の省略された飜譯であるといふことを意味する。壓縮は時としては缺如してゐるが、通例は存在してゐる。
    さうして屢々極めて高い程度に行はれる。壓縮はこの反對に行はれることは決してない。即ち顯在夢の方が潛在夢
    よりもその範圍が廣く、内容が豊富であるといふやうなことは決して起らない。壓縮は次のやうな風に行はれる。
    (一) ある潛在的要素は全然省略される。(二) 潛在夢の多くの複合體のうち一斷片だけが顯在夢に現はれ出る。
    (三) 何等かの共通性を有する潛在的要素は顯在夢に於いては一緒にされ、一統體に融合される。

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    若し欲するならば、諸君は「壓縮」といふ語をこの最後の過程にだけ使用してもよい。この壓縮は約
    束に立證される。諸君諸君自らの夢からして、種々の人物が一人一の姿に壓縮されてゐる例も苦もなく思ひ出すこ
    とが出来るから。かゝる混合人は、姿はAに似てゐるがBの着物を着てゐる。さうしてCを思ひ出されるやうなこ
    とをしてゐる。しかもその夢の間中、それはDであることが知られてゐる。かゝる複合像に於いては、この四人共
    通なるある特徴が特に顯著であることは言ふまでもない。同様に人物によつてと同じやうに、事物或は場所によつて
    も、若し個々の事物なり場所なりが潛在夢の強調するところのものを共有してゐるといふ條件へ滿たされるなら
    ば、複合像は形成される。それは共通屬性を中核とする新しい刺戟的な概念のやうなものである。互に壓縮された
    個々の部分を重ねると、一枚の乾板の上に撮された數個の寫眞と同じやうに、通例、ぼんやりとした像が生じる。
    何故なら、複合像の形成は夢の作業に於いて極めて重要なものであるに相違ない。何故ならばこの形成に必要な共通
    的性質は一見してはあつさりとは見えぬところも故意に、例へばある考へに就いての言語的表現の選擇によつて、
    作り出されたものであることを證明し得るからである。この種の壓縮、複合形成のことについては吾々は既に知つ
    てゐる。それは多くの言ひ損ひを生ぜしめるのに重要な役割を演じたものである。諸君は一婦人をBeleidigen
    (Beleidigen侮辱する、Beleidiger同伴するの複合語) しようとした青年の事を覚えて居られるであらう。この外に
    もその技巧がこの種の壓縮から來てゐるところの識談がある。けれどもこのことを除けば、この過程は全く異常な
    奇妙なものであると斷言してよからうと思ふ。夢に於ける複合像の形成と同様のことは多くの空想的産物にも見
    出される。そこでは、例へば、古代神話やベックリンの繪の人馬や寓話的動物のやうに、現實に於いては相互に關
    係のない構成部分が、空想に於いては一體に合一されてゐる。實際、「創造的」空想は何等新しいものは發見し得な
    いで、ただ種々の異つた要素を合一し得るだけである。けれども夢の作業の方法に特有なものは次の通りである。
    即ち、その材料は思想であつて、その思想のうちには嫌惡すべきもの、不快なものもあるが、しかしそれらは正し
    く形成され、表現される。これらの思想は夢の作業によつて他の形に變形される。さうしてこの壓縮―いはば他
    の文字或は言語への轉化―の過程に於いて、混合、結合の方法が使用されるのは奇妙なことでもあり、理解し難

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    いことでもある。他の場合には於いては飜譯者は原書に見られる區別を尊重し、類似はしてゐるが同一でないものを
    區別しようと努める。ところが夢の作業は、これと反對に、飜譯と同じ風に、二つの思想を暗示する曖昧な言葉を
    選んで、「二つの異つた思想を凝縮しようとする。吾々は「この特徴を」夢を理解しようと豫期してはならない、けれ
    どもそれは夢の監視作用の理解する上に極めて重要なものと考へる。
    壓縮作用は夢を朦朧ならしめるとけれども、それは夢の監視作用の結果であるといふ印象は異へない。寧ろそれは機械
    的或は經濟的要因から来るものであると考へたい。けれども監視作用はこれによつて利益を得るのである。
    壓縮作用は時として異常な程度に達し、その助けによつて時としては二つの全然異つた潜在的思想の聯鎖が一頭
    在夢に合一され得て、そのために吾々は一見その夢を適當に解釋したと考へて、第二のあり得べき意味を見落すこ
    とがある。
    壓縮作用が潜在夢と顯在夢との間の關係に興へる影響は、兩者の要素間の關聯を決して簡單なまゝであらゆるこち
    らに残して置くことにはないといふことである。その組合せの種類に従つて一顯在的要素は數個の潜在的要素を同時
    に表はし、逆に、潜在的要素は數個の顯在的要素に参加し得る。また夢を解釋するに當つて一の顯在的要素に對す
    る聯想は、必ずしも順序よく現はれて来るとは限らない。夢が全部解釋されてしまふまで待たなくてはならないこ
    とが屢々ある。
    從つて、夢の作業は夢の思想を極めて異常な風に轉寫する。それは逐語的な飜譯ではなく、また、ある語の母音
    を省略して子音だけを再現させるというやうな選擇の過程でもなく、また他の數要素を代表するために一要素だけ
    が摘出されるといふやうな代表過程とも呼ぶべきものでもない。それはそれらとは異つたものであり、遙かに複
    雜なものである。
    夢の作業の第二の作用は置換である。幸ひこれに就いては既に多少の豫備知識を有してゐる。實際、吾々はそれ
    が全然夢の監視作用の結果であることを知つてゐるのである。この置換は二つの形式があつて、第一に、潜在的
    要素はそれ自體の一部分によつてではなく、それとは縁の遠いもの、從つて飜譯によつて置換される。第二に、心

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    的調節は重要な要素から重要でない要素の方へ移される。従って夢の中心點が變つて、元のととは縁のないものゝ
    やうに見える。

    誤示による置換は覺醒時の思想にもよくあることであるが、そこには相異が存する。覺醒時の思想に於いては、
    誤示は容易に理解されるものでなくてはならない。また置換されたものゝ内容も、元のものと關聯してゐなくては
    ならない。誤示はまた戲談にも屢々使用される。こゝでも内容の關聯といふ條件はなくてもよく、同音とか意義
    とかいふやうな餘り用ひられない聯想によつて置き換へられる。けれども、理解し得るといふ條件はこゝでも必要
    である。若し戲談がそれの誤示による本當のこのを何の苦もなく悟らせ得ないやうなものであれば、それは失
    敗である。ところが夢に於いては置換による誤示は、この何れの制限にも束縛されてゐない。それは置換する要素
    と最も外面的に、最も微かに關聯してゐる。從つてそれは理解し難い。さうしてその關聯が見出された時には、そ
    の解釋は失敗した戲談、或は無用な、牽強附會な誤示といふ感じを興へる。誤示から本當の思想に遡ることを不可
    能ならしめることに成功した時、始めて夢の監視作用はその目的を達するのである。
    高調點の置換は思想發表の手段としては珍らしい。但し覺醒生活に於いても喜劇的効果を生ぜしめるために、時
    としてこれが許されることがある。こゝで一寸脫線するやうであるが、私は諸君に次の逸話を憶ひ出していただ
    きたいと思ふ。ある村に一人の鍛冶屋がゐたが、彼は死罪に當る罪を犯した。裁判官は彼を有罪であると判決した。
    けれどもその村では鍛冶屋は彼一人で、從つて無くてはならぬ男であつたに反して、その村には三人の仕立屋がゐ
    たので、その中の一人が彼の代りに死刑になつた。
    夢の作業の第三の作用は心理學的に見て最も興味あるものである。それは思想を視覚的心像に變形することであ
    る。こゝ明かにして置くべきことは、夢の思想に於いてはすべてが元のものゝ變形を受けるのではないといふこ
    とである。多くのものは元の形を保有し、思想或は知識として顯在夢にも現はれる。またその思想は視覚的心像に
    のみ變形されるとは限らない。けれどもそれは、それにも拘らず夢の形成に於ける根本特徴である。夢の作業のこ
    の部分は、もう一つの場合を除けば、吾々の既に知つてゐるやうに最も變化の少いものである。さうして個々の夢

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    精神分析

    神 罰

    この要素にとっては、「可塑的言語表現」は既に吾々が知つてゐるところの
    過程である。この作用が容易なものでないことは明白であろう。この困難に就いての
    概念を得るには、諸君が新聞の政治的註説を閲読しなくてはならないと想像して見る
    のが一番である。諸君は普通の文字の代りに造形文字を用ひなくてはならないであろ
    う。その註説のうちに置かれてゐる人物や真鍮物は、容易に一層よく諸君によつて表
    現する事が出来よう。けれどもあらゆる抽象語や従属詞、接続詞を示す思想関係を
    示す品詞を表現する時には、困難な諸君を待つてゐる。抽象語に對しては諸君はあら
    ゆる工夫を凝らすであろう。例えば、その註説の原文を恐らくは一層具體的な、もので
    はあるが、一層具體的な、従つてかかる表現に都合のよい部分から成り立つてゐる
    他の言葉に作り變へるであろう。そこで諸君は最も抽象的な死來は具體的なもので、
    その褪色したものであることを想像し、出来るときにこれらの語の最初の意味を利用
    するであろう。従つて一物體を「所有する」といふことを、實際には身體をその上に
    置くといふことで表現出来ることを喜ぶであろう。さうしてこれは正に夢の作業の
    爲すところのことである。かゝる事情の下にあつて表現の精確さを要求するのは無理
    である。従つて、若し夢の作業が、例えば、姦通(Celeriped)—夫婦關係の破損—の
    やうな繪に再現し難い要素を、他の破損、例えば、脛骨(Bourgeois)—
    脚の破損—に置き換へられるのは止むを得ないことである。かゝいふ風にして諸君は、
    普通の文字を象形文字に置き換へる時に、幾分かその不手際を避けることが出来よう。

    *本書を校正してゐる間に私は偶然次のような新聞記事を讀んだ。私はこれを今述べた
    ことの思ひ掛けない確證としてこゝに轉載する。

    神 罰

    姦通の報いとしての脛骨

    一豫備兵の妻、アンナ・M夫人は姦通罪でクレメンチン・K夫人を訴へた。彼女の町に
    よればK夫人は彼女の夫が戦線にあつて彼女に毎月七〇クロンを送つてゐる間に、カール・M
    と不義の関係を結んだのである。この外に彼女は既に彼女(M夫人)の夫から多額の金を受
    取つてゐた。しかるに彼の妻子は飢餓のうちに日を

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    要らなくてはならなかつた。彼女の夫の同僚が彼女に告げたところによると、彼とK夫人は二人連で酒屋には
    ひり込んで、夜遅くまで酒を飲んでゐたといふことである。被告は實際數人の兵士達の面前で、原告の夫が早
    速あの「妾」を棄て、自分のところへ来る氣はないかと尋ねた。さうしてK夫人の家の留守番は原告の夫が丸
    裸でKの部屋にゐるのを屢々見た。

    昨日、K夫人は判事の前でMは少しも知らないと言ひ張つた。二人の間親交などは問題外であると彼女は
    言つた。

    けれども證人のアルバーテン・MはK夫人が原告の夫と接吻してゐるのを見て驚いたと證言した。

    證人として呼び出されたMは前の辯論時には被告との親しい關係を否定したのであつたが、昨日判事に一
    通の手紙が手渡されてその中で證人は以前の否定を取消し、この六月までK夫人と不義の關係を續けてゐたこ
    とを告白した。前の辯論の時に被告と被告の關係を否定したのは、單に訴訟が起される前に彼女がやつて來て
    彼女を救ふために何も言はないでほしいと頼んだからであつた。彼がかう書いた「私は裁判官の前に一
    切を告白せざるを得ないやうに感じます。何故ならば私は左の腕を挫いて、これが私には犯罪に對する神罰
    のやうに思はれるからです。」

    裁判官はこの犯罪事件は時效に罹つてゐると判決したので、原告は告訴を撤回し、被告は釋放された。

    思想の關係を表示するところの品詞、例へば、「何故ならば」「從つて」「しかしながら」等を表現しようとする時
    には、かゝいふ補助手段はない。從つて原文のこの部分は、これを繪に飜譯する場合には、喪失される。同様に
    夢の思想の内容は、夢の作業によつて物體と活動とから成り立てゐる粗材に分解される。若しそれ自體では表現
    され得ないある關係はどうかして精巧に繪に現はすことが出来るならば、諸君は満足してよからう。丁度これと
    同じやうに夢の作業は潛在思想の内容の多數を顯在夢の形式の特異性によつて、即ちその明瞭、朦朧によつて、
    夢を數部分に分割すること等によつて表現することに成功する。分割された部分の數は即ちその夢の主要題目、
    潛在夢に於ける思想の列の數に一致する。短い序夢はそれに續く詳細な主夢に對して、序論的或は原因的關係に立

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    つてゐる。また従属的な夢の思想は、顕在夢の場面の變化を抑圧することによつて表現される。従つて夢の形式は
    決して無意味なものではなくて、現実そのものが解釈される必要がある。同じ夜に見た數個の夢は往々同じ意味を
    持つてゐて、まず/-
    烈になつて来る刺戟と、いよく/完全に征服しようとする努力とを表現することがある。
    特に困難な要素は一つの夢の中でそれを「二重にする」即ち一つ以上の象徴によつて表現されることがある。
    若し吾々が夢の思想とその思想を表現する顕在夢との比較を行くならば、吾々は何度でも思ひも設けないな
    かつたことを發見する、例えば、不條理で馬鹿げたことでさへも夢では意味を持つてゐることを見出す。實際の
    見解に從へば、夢に就いての醫學的見解と精神分析的見解の對立は、他の處に於てよりも一層著しくなる。醫學的
    見解に從へば、夢を見てゐる間は吾々の心的活動はその機能を放棄するが故に夢は不條理なのである。この反對に、
    吾々の見解に從へば、夢の思想に包含されてゐるところの批判、「それは不條理である」といふ判斷を表現しなく
    てはならない時に、夢は不條理になるのである。前に話した劇の夢(三シリングの三枚の下等な芝居の切符)はこ
    れの適例である。かうして表現された判斷は「そんなに早く結婚するのは不條理であつた」といふのであつた。
    同様に夢を解釋する時に、吾々は屢々夢見た人が語る處の、ある要素は實際夢に現はれたかどうか、實際かうで
    あつてゐたではなかつたか、といふやうな疑問や不確實の眞の意味は何であるか、といふことを知るのである。通
    例夢は思想のうちには、これらの疑問や不確實に對應するものは一つもない。これらは全然監視作用によつて生じ
    たもので、十分成功しなかつた抹消に比すべきものである。
    吾々の最も驚くべき發見の一つは、夢の作業はどういふ風に潜在夢の中にある反對の事物を取扱つてゐるかとい
    ふことである。吾々は既に潜在的材料に於ける一致點は顕在夢に於いては壓縮によつて置き換へられることを知つ
    てゐる。さて、反對のものは、一致するものと同じやうに、好んで同一の顕在的要素によつて表現される。顕在夢に
    於ける異議のうちで反對を表はし得るものは、従つて自體を意味することもあり、それの反對或はその兩者を意
    味することもある。それが如何に飜譯さるべきかといふことは、ひとりのその意味によつて決定される。夢に於いて
    は「否」といふ表現が見出されない、或は少くとも曖昧でないものではないことは、この事實と關係がある。

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    この夢の作業の奇妙な振舞によく類似したものは言語の發達に見ることが出来る。多くの言語學者は最古の言語
    に於いては強い―弱い、明るい―暗い、大きい―小さいといふやうな反對のことは、同一の語根によつて表
    現されたと主張してゐる。(原始語の對偶的意味。) かうして古代エジプトに於いては keb といふ語は最初「強い」
    と「弱い」の両方を意味してゐた。話をするときには人誤解を避けるために抑揚や身振を併用ひた。書く時には所謂
    「限定符」即ち發音されないところの繪を附加した。從つて keb が「強い」といふ時にはこの字の後に直立してゐ
    る小さな人の繪が附かれ、keb が「弱い」ことを意味した時にはのろ/\して蹲つてゐる小さな人の繪が附け加へ
    られた。後になつて始めてこの同じ原始語の二つの相反する意味は、最初の語を少しばかり修正して二樣に表示さ
    れるやうになつたのである。かうして keb から「強い―弱い」を意味する二語が生じ ken, は「強い」を言
    はし「弱い」を表はすに至つた。最初の發達段階に於ける言語ばかりではなく、もつと近代の、今日も使はれてゐる
    言語さへも、二つの反對の事物を意味し得る初期の言語の面影を保存してゐるものは多數にある。私はO・アベル
    の著作(一八八四年)からこの例證を引用しようと思ふ。

    ラテン語では今でも次のような二義語がある。

    altus (高い、或は深い) sacer (聖なる、或は呪はれる)
    語の修正の例としては、
    clamare (叫ぶ) clam (靜に、黙つて、こつそりと)。succus (乾ける) succus (汁)。

    ドイツ語では、

    Stimme (聲) stumm (黙せる)
    同系語を比較すれば多數の實例を得ることが出来る。
    Loch (英、閉める) Lücke (獨、穴) Cleave (英、裂く) Kleben (獨、附着する)
    英語の with は元來は with (共に) と one (なしに) の二義を有してゐるのであるが、今日では後者の意味
    にのみ用ひられてゐる。けれども air は「加へる」といふ外に「引き去る」といふ意味を有してゐることは with-
     

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    draw (引き込みます)、withhold (差し控へる)」といふ複合語から考へて明かである。ドイツ語の wieder もこれに
    似てゐる。

    夢の作業のも一つの特異性に類似したものも言語の發達に見出される。古代エジプト語に於いても、またそれ以
    後の他の言語に於いても、同じ意味を持つたすために發音の順序が逆にされた。英語とドイツ語との間に於けるこの
    種の例を擧げれば、

    Topf – Pot (壺) – Boat – tub (ボート)、Hurry (急ぐ) – Ruhe (休息)、Balken (梁) – Kloben (丸太)、
    wait – tünwen (待つ)
    ラテン語とドイツ語との間では、
    capere – packen (摑む) rapere – Nize (脅威)

    こゝで單語に起つたやうな轉位は夢の作業によつて種々の風になされる。意味の顛倒、即ち反對の事物による置
    換のことゝに就いては吾々は既に知つてゐる。けれどもこの外に夢に於いては、恰も「あべこべの世界」の出来事で
    あるかのやうに、二人の人物の位置、關係は逆になつてゐることがある。夢では束が鐵師を襲うことは幾度となく
    ある。更に出来事の順序が顛倒して、夢では結果の次に原因が來ることもある。これは下手な芝居では、時々主人
    公が倒れてから彼を殺す彈丸が舞臺側から發射されるのと似てゐる。また要素の順序が全然逆になつてゐて、従つ
    て、少しでも意味を引き出すためには、それを解釋する時には最初のものを最後に、最後のものを最初にしなけれ
    ばならないやうな夢もある。諸君また夢の象徴に就いての吾々の研究からして、水の中に跳び込む或は陥るとい
    ふ行爲は水から出て來る行爲と同じ意味を有する、即ち生或は生まれるといふ意味を有すること、また階段や梯
    子を昇ることは、降りるのと同じ意味を有することを覚えて居られるであらう。かゝる表現の自由によつて夢の變
    容がどんな利益を得てゐるかは言ふまでもないことである。
    夢の作業のこれらの特徴はこれを「古代的」と呼ぶことが出來よう。それは言語或は文字の原始的表現様式に固執し、
    同じ困難を伴つてゐる。この困難に就いては、この問題を批判的に觀察する際に述べることにする。

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    分析精神

    今度は他の二三の點に就いて考察して見よう。夢の作業が、遂行なくしてはならないことは、言ふまでもなく言
    葉に表はされた潜在的の思想を感覺的、主として視覚的性質の、心像に變形するにある。さて吾々の思想にかゝる知
    覺的形式に於いて生じたのである。それの最初の材料と最初の階段は感覺印象、もつと正しく言へば、その印象の
    記憶心像から成り立つてゐた。言語がこの印象に結びつけられ、それから思想と緊密な關係を持つやうになつたの
    はもつと後のことである。從つて、夢の作業はその思想に退行的過程を經驗させ、それの發達の道程を遡らさせる。
    さうして、この退行の際に記憶心像が思想にまで發達する間に得られた新しい獲得物は、必然的に脫落せざるを得
    ない。

    從つて夢の作業とはこのことを言ふのである。吾々が夢の作業の際に知つた過程とは反對に、顯在夢に對する吾
    々の興味は遠く背景のうちに退かなくてはならない。私は、しかしながら、吾々が直接に知り得る唯一の部分たる
    顯在夢に就いて今少し述べて見たいと思ふ。

    顯在夢は吾々から見てその意義を著しく失ふべきは當然である。その夢がうまく組合されてゐるやうが、連絡のな
    い個々の場面に分れてゐるやうが、そんなことは大したことではないと吾々には思はれるに相違ない。また夢が一見
    意味深い外形を有してゐるやうな場合に於いてさへも、これは夢の變容作用によつて生じたものであり、それの夢
    の内容に對する有機的關係は、イタリー風の教曾の前面がその構造や原則に對して有してゐるのと同樣にほど僅か
    であることを吾々は知つてゐる。けれども夢のこの前面もまた時としては、潜在思想の重要な部分を殆ど或は少し
    も變容することなしに再現するが故に、意義を有してゐる。けれども夢を解釋して變容がどの程度に存在するかと
    いふことに就いての判斷を得るまでは、吾々はこれをしることが出来ない。これと同樣の疑問は二つの要素が密接
    に關聯してゐるやうに思はれる場合にも起つて来る。かゝる關聯は、潜在夢に於けるこれに對應する要素も同樣に
    關聯してゐることを暗示してゐることもあらうが、思想に於いては關聯してゐるものが、夢に於いては遠く分離さ
    れてゐることもあることを信ぜざるを得ない。

    一般に吾々は、夢が矛盾なく作られた實用的な表現であるかのやうに、顯在夢の一部分をその他の部分によつて

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    説明することを差し控へなくてはならない。夢は大抵の場合寧ろ、セメントで固められた種々の石の断片から出来
    てゐるがために、その表面に生じた色合は、原初の断片のそれと異つてゐるところの角礫岩に比せるべきであ
    る。事実夢の作業には第二次的加工として知られてゐる一機構があつて、それの目的はその作業の直接の諸結果を
    単一な、かなり統一のある一統にするにある。この際にその材料は屢々全然誤解されるやうな風に配列され、必
    要と思はれる時には挿入も行はれる。
    一方、吾々は夢の作業を高く評価し過ぎたり、價償以上のものをそれに興へたりしてはならない。それの活動は
    こゝに列挙した作用に盡きてゐる。壓縮、置換、可視的表現及び全體の第二次的加工が、それの成し得るすべてで
    ある。夢に現はれるやうな判斷の表現、批判、驚嘆、推理は夢の作業によつて偽されたものではない。極めて稀に
    はその夢に就いての反省の表現であることはあるが、大抵は潜在思想の断片が多少修正され、適合するやうにされ
    て顕在夢に現はれたものである。また夢の作業は夢の中で會話を作ることが出来ない。二三の例外的場合を除け
    ば、夢の會話は夢見た人が前の日に聞いた或は自分で話した會話を模倣したものであり、それから作られたもので
    ある。その會話は材料として即ち夢の刺戟者として潜在思想のうちに入り込んでゐるのである。夢の作業はまた計
    算することも出来ない。顕在夢に現はれる計算らしいものは大抵数の組合せであり、似而非計算であり、計算とし
    ては全く無意味なものである。またそれと夢の潜在思想に於ける計算の複寫に過ぎない。事情かくの如しとすれば、
    夢の作業に向けられてゐた興味が直ちに顕在夢を通じて、多かれ少かれ變歪された形にその姿を現はす潜在思想
    の方に向けられるやうになることは驚くに足らない。けれどもこの問題を理論的に考察してゐる際に、潜在思想を
    夢全體に置換へて、後者のみを妥當する事を前者に就いてと斷言するほどまでに脱線することは正當ではない。精
    神分析の成果がかゝる混同を生ぜしめるやうな風に誤用されるのは不思議である。「夢」といふ語はたゞ夢の作業の
    結果、即ち潜在思想が夢の作業によつて變形されたその形式以外のものに使用されてはならない。
    夢の作業は全く特異な型式の過程であつて、心的生活のうちにこれに類似したものは今までに知られてゐない。
    この種の壓縮、置換、思想を心像への退行的飜譯は新奇なものであつて、それを認識したといふことだけで吾々の

  • S.

    139

    精神分析的努力は既に報いられてゐる。諸君もまた夢の作業の相似物からして、精神分析的研究とそれ以外の
    研究、特に言語と思想の發達の分野との間に現はされた關係を認めるであらう。この見解の更に深い意味は、諸君
    が夢の形成のこの機構が精神病的な徴候の發生様式の雛形であることを知り時、始めて悟り得るのである。
    私はまたこれらの努力によつて心理學に附加された新しい収穫物の全體を見渡すことは、吾々には不可能である
    ことを知つてゐる。吾々はただこれによつて無意識的活動―これは夢の潜在的思想に外ならない―の存在に對
    する新證據が提示されたこと、夢の解釋は無意識的心的生活への認識への、今まで知られなかつた大道を見出しつ
    ゝあることを指摘して置きたい。
    けれども今や諸君の小さな夢の例を一つ一つ諸君に示すべき時來たと私は思ふ。その例は私が既に諸君に講義
    した諸點を例證するであらう。

    十二講 夢の諸例の分析

    諸君は若し私がこゝで再び夢の解釋の断片を示して、面白い長い夢を諸君と共に解釋しないからといつて失望し
    てはならない。諸君はもうこんなに豫備知識を得たのであるから、確にそれを豫期する権利があると言はれるであ
    らう。さうして幾千もの夢を解釋したのだから、夢の作業と夢の思想に就いての吾々の斷定を實證するやうな著し
    い夢の例を澤山蒐集すること、ずつと前に出来た筈であるといふ確信を表白されるであらう。その通りである。
    しかしながら諸君のこの欲求を實現するには吾々には一人もないことを告白しなくてはならない。それならなぜどうし
    て吾々は夢を解釋するやうになるのであるか。時としては吾々もこれといふ譯もなく友人の夢を解釋したり、精
    神分析の仕事に慣れるためと長い間自分の夢をいちくつて見たりする。けれども吾々は主として精神分析的治療を
    受けてゐる精神病者の夢を取扱はなくてはならない。精神病者の夢は立派な材料であつて、健康人とのとはどの點に
    於いても劣つてはゐないが、治療上の必要からして吾々は夢の解釋を治療の目的に従屬させ、その治療に有用なも