• S.

    七四

    集團心理と自我の分析

    第八章

    隠れ込みと催眠状態

    言語の用法は極めて気まぐれであるとは言へ、或種の現実には依然として適切である。かく
    て、精神分析で-
    もやはり理論上愛として類集する種々の感情的関係を、言語の用法でもやはり『愛』と名
    付けてゐる。しかしやがてまた言語の用法は、この愛が正真正銘の實際の愛であるかどうかを疑ひ、
    それにも拘らず愛の現象に含まれてゐる内から愛と云ひ得る一切の段階を指示するのである。我々に
    とつてはまだこの事實を觀察に依つて發見する事は困難でない。

    ところで、かうした種々の愛の内、隠れ込みと云ふことは直接に性的滿足を目的とする性本能の對
    象戀緒にほかならぬものであり、且又この目的が達せられた時にはなくなつてしまふ戀緒にほかなら
    ぬものである。これが普通に謂ふ性愛である。しかし、誰しも知るとほり、リビドー戀緒の状態はそ
    んなに單純に納まる事は滅多にない。只今絶滅した要求が復活する事は、確に期待することが出来た。
    この確かさが、疑ひもなく永續的戀緒を性的對象へ向ける第一の動機であり、また情慾のない期間に

  • S.

    75

    も性的対象を『愛する』第一の動機であったに相違ないのだ。
    なほこの上に、人間の性的生活の驚くべき発達史から引きいだされるも一つの契機を附け加へなけ
    ればならない。一體人間の生殖の性的発達期は、五歳を以て終るのを常とするのであるが、この発達期
    にあつては、子供は愛の最初の対象を父か母かに見いだすのである。そして満足を要求する性的本能
    の總ては、この対象に結合されるのである。やがて起る抑壓は、彼にこれら多數の嬰兒的な性目的を
    抛棄することを強い、かつ兩親との關係に深甚の變化を遺留するのである。この場合、子供はやはり
    兩親に結びつけられたまゝであるが、それは(もし正常に記述するならば)『目的の禁制された』本能に
    依つて結びつけられてゐるのである。これより後、子供がこれらの愛の対象に對して抱く感情は、『優
    しさ(感傷性)』“Zärtlichkeit”として特性を表すのである。なほよく知られてゐることは、幼時の『官
    能的』活動は無意識のうちに多少とも強く持續されるので、或意味に於いて、總ての起源的な潮流は
    存續するのである。)
    註1)『性説に關する三論文』“Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie.”(本全集第五卷)参照。
    誰も知つてゐるとほり、思春期に入ると共に直接的な性目的を伴ふ新たな、極めて強い傾向が生
    じる。恵まれない場合にあつては、それらの傾向は、存續してゐる『優しさ』の感情的傾向から分離
    第八章 惚れ込みと催眠状態

  • S.

    七六

    「龜國心理と自我の分析
    し、官能的流れとなつて殘存するのである。我々がそこに見る人生圖の二つの様相は交愛上の或運動
    が喜んで理想化せるものである。この種の男子は尊敬する女に對して感傷的情熱を示すが、しかし性
    的活動を刺戟されることはない。さうして『愛』さへないばかりか、殆ど重要視せず、若しくは輕蔑さ
    へするやうな婦人等にのみ性衝動能力を持つのである。」とは言へ、青年は寧ろしばく-
    非官能的な
    神聖な愛と、官能的な肉慾愛との或程度の合成を肯良くなくし遂げる。そして彼と性的對象との關係
    の特徴は、目的を禁制されね本能と、禁制された本能との相互作用に存するのである。それ故に惚れ
    てゐる者の純粹に官能的な慾望と對比しての愛の高さは、禁制された『優しさ』の本能がどれほど多
    分に含まれてゐるかに依つて量ることが出来る。
    註 (一)

    (一)„Über die allgemeine Erniedrigung des Liebeslebens.“ Kleine
    Schriften zur Neurosenlehre.

    この惚れ込みの問題に關して、我々は常に性的買被りの現象に注意を惹かれてゐる、即ち、愛せら
    れてゐる對象に批判を幾分免れると云ふ事、愛されてゐる對象の總ての特質が、愛されてゐない人々
    の特質以上に高く評價され、若しくは愛されてゐる對象に價が愛されてゐなかつた時の特質以上に、
    高く評價されるといふ事實に注意を惹かれるのである。もしも官能的傾向が多少有効に抑壓されるか、

  • S.

    七七

    或は除去されるならば、その対象は精神的実態によって官能的にも愛されるやうになったのだといふ
    錯覚が生ずるが、實はそれと反對に、これらの精神的美點は、その対象の有する官能的魅力に依って
    對象に貸與されたものであるに過ぎないかも知れないのだ。

    この點に就いて判斷を誤らしむる傾向は、理想化の傾向である。しかしこの事のために、我々とし
    ては誠に都合がよくなるのである。我々の知る通り、對象は我々自身の自我と同様に取扱はれるので
    我々が惚れてゐる場合には、かなりのナルチスス的リビドーが對象に注がれるのであらう。戀愛選擇の
    多くの形に於いて、對象が我々自身の達し得られざる理想我の代償となることも明白である。我々は
    自分の自我をして到達せしめようと努力して來た完成のために、また自分達のナルチススムを満足せ
    しむる手段として(今この方法こそ迂遠なれ)完成を得たさに、對象を愛するのである。

    もしも性的買被りと惚れ込みとが更に増進するならば、この人生圖に就いての解釋は更に一層誤り
    のないものとなる。さうした場合には、直接的な性的滿足へ向ふ傾向は、全然推し戻される。例へば
    青年の感傷的な熱情の場合などが大抵さうである。即ち、自我はますく/高ぶらない、謙遜なものと
    なると共に、對象はつひに自我の自己愛を完全に占有するまでに、いよく/崇高な、貴重なものとな
    り、かくて自我の自己犠牲が當然の結果として生ずゐのである。謂はゞ、對象が自我を蔽隠してしま
    第八章 魅れ込みと催眠状態

  • S.

    七八

    集團心裡と自我の分析
    つたのだ。謙遜と云ふ特色、ナルチス-
    スムスの制限と云ふ特色、及び自己毀損の特色は、惚れ込みのあ
    らゆる場合に生ずるものなのだ。極端な場合にあつては、それらの特色はたゞ強められるのみで、そ
    して官能的要求が撤回される結果、その特色だけが崇高な存在として孤立的に残るのである。

    このことは不幸な、満たされない愛の場合に、時に容易に起るのである。性的満足を得た場合には
    何としても性的裏切りのなくなるのが常だからだ。對象に對して自我がこのやうに『打ち込む』
    これは抽象的觀念に對する昇華された歸依と最も變りはない――と同時に、理想我へ割當てられてゐ
    た機能は全然その働きを休止するのである。從つて、その能力が振つてゐる批判は沈黙する。對象の
    なすことや求むることは悉く正しく、そこには非難の餘地がないのである。良心は、如何なることで
    も對象のためににされることには、口を出さない。戀の盲目のために、無良心無悔恨の極は犯罪にま
    で至る。そこで、以上の總ての状態を完全な公式に要約することが出来る。即ち、對象は理想我の代
    りとなつた。

    こゝに於いて同一化と、魅惑または惑溺とも稱し得るやうな惚れ込みの極端なものとの差異を確定
    することは容易である。同一化の場合には、自我は對象の所有物を以て自己を豊富にした、換言して
    フレンチ Foreneni の言葉を用ふれば、自我は對象を自己の内容へ『投入』したのである。

  • S.

    七九

    第八章 飽れ込みと催眠状態

    ある。然るに、飽れ込みの場合には、自我は對象のために貧窮になつてゐ
    る。自我は對象に屈服し、
    對象を自己の最も重要な成分の代償としたのである。しかし、更に仔細に考慮を廻らして見れば、
    やうな解釋は、實際には存在してゐない對比が存在してゐるとの錯覚を生みだすものだといふこと
    が明らかになる。經濟的(數量的)には少しもそこに貧窮だとか、豊富だとかいふ問題はないので
    ある。斷言すれば、飽れ込みの極端な場合を、自我が對象を自己の内容へ攝取した状態として記述す
    ることも出来るのだ。ところで、も一つの差異があるが、その差異は恐らく前のもの以上に問題の本
    質に觸れさうである。即ち、同化の場合には、對象は失はれるか、さもなければ抛棄された。そこ
    で對象が再び自我の内部に作り上げられると共に、自我は失はれた對象に依つて、自己の内容の一部
    分を變更するのである。然るに飽れ込みの場合には、對象はそのまゝになつてゐて、自己の内部で
    自我に依つて、また自我の犠牲で、過剰絲綿が生ずるのである。だが、ここに再び困難な問題が現れ
    る。即ち、同化の場合に對象纖綿が抛棄されてゐると假定するのは全く確實か。また放棄されない
    でそのまゝになつてゐる對象に對しては同化は起り得ないか。然るに我々がこのデリケートな問題
    の議論に入る前に、我々は既に、これと對立する唯一の命題、即ち、對象は自我の代りとなるか、理
    想の代りとなるかの何れかであるといふことを、明かに知りはじめることが出来るのである。

  • S.

    八〇

    集団心理と自我の分析
    惚れ込みと催眠状態との差は明かに僅か一步の距りに過ぎない。この両者が如何なる諸點で一致す
    るかは明白である。そこには愛されてゐる對象に對すると同様に催眠術者に對しても、同一の謙虚な
    服従があり、同一の素直さがあり、同一の批判缺乏がある。また両者は相手に對して自己意志を先取
    的に發動させない點も同じである。催眠術者が理想我の地位につて代つたことは何人も疑ふことは
    出来ない。たゞ催眠状態にあつては總てが惚れ込みよりも寧ろ明瞭であり、かつ強度であるので、惚
    れ込みを催眠術で説明する方が、その反對に催眠を惚れ込みで説明するよりも寧ろ要領を得る譯であ
    る。催眠術者は唯一の對象であつて、總ての注意は彼のみに排はれる。そこで、自我が如何なること
    でも催眠術者の要求し、または斷言することを夢のやうな状態で経験するといふ事実に依つて想ひ起
    すことは、理想我の機能のうちに、事物の現實性を吟味する職分のあるのを言ひ漏らした點である。こ
    しかし、もしも知覚の現實性が、平素事物の現實性を吟味する職分とする心的能力に依つて保證さ
    れるならば、自我がその知覚を眞實と思ふことは少しも不思議ではない。性的目的を禁制されてゐるな
    い傾向が完全に缺乏してゐると、更に一層この現象極めて純粋なものとなる。つまり、催眠術的關
    係は、性的滿足ぬきの無制限な惚れ込み的傾倒なのだ。これに反して、惚れ込みの場合には、性的滿
    足は一時抑制されるだけで、何時か後に至つて果される目的として潜伏するのである。

  • S.

    八一

    しかし、他方に於いて我々はまた、催眠術的關係は(もしもこんな云ひ方が許されるならば)二人の
    成員からなる集團構成であると言ふことが出来る。尤も、催眠状態は集團構成と比較するには好箇
    の對象ではない。何故かと言ふに、催眠状態は集團構成と同一物と言ふはうが一層適切だからである。
    が、催眠状態は集團の複雑な組織から一つの要素を遊離させて示すものである。即ち、指導者に對す
    る個人の行動である。從つて、催眠状態は直接的な性的傾向のない點が惚れ込みと違ふ點であると同
    様に、二人といふ数の制限ある點が集團構成と違つてゐる。この限りには於いて、催眠状態は惚れ込み
    と集團構成との中間に位するのである。

    かく永續的結合を人々の間に成就するものは、確かに目的の禁制されてゐる性的傾向だといふことを
    知るのは興味あることだ。しかしこのことは、目的の禁制されてゐる性的傾向は十分な満足をなし得
    ないが、目的の抑制されてゐない性的傾向は、性的目的を達する度に、エネルギーの放出のために非
    常な減殺を見る(一)といふ事實に依つて、容易に領解することが出来る。性的目的を達すれば消滅すると
    いふことは、性愛の辿る運命なのだ。それ故に永續し得るためには、性愛は最初から純粋に「優しさ」

    第八章 融れ込みと催眠状態

    (一)「Metapsychologische Ergänzung zur Traumlehre」, 「Kleine Schriften zur Neurosenlehre」 Vierte Folge, 1918, 對照。

  • S.

    八二

    集団心理と自我の分析
    の成分を――換言すれば目的の禁制されてゐる成分を――混和してゐなければならぬ。さもなければ
    自らこの種の趨化を受けなければならない。

    我々は催眠状態を直接的な性的傾向を含まない惚れ込みの状態として、これまで合理的に説いて来
    たが、さう云ふ説明と一致しない多少の趣をも示すことがないならば、催眠状態は集団のリビドー的
    構成の謎を直に解くであらう。しかし、催眠状態には説明されてゐないもの、不可思議なものと認め
    なければならないことががぶ非常に澤山あるのだ。もと-
    く催眠状態には有力者と、無力者との関係か
    ら来る麻痺といふ要素も附加的に含まれてゐるのである。このことは動物に起る催眠的畏怖への過
    渡状態を示すものであらう。なほ催眠状態の生ずる工合、並びに催眠状態と睡眠との関係は明瞭では
    ない。しかし、或人が催眠に掛かるのに、他の人は全然拒ね返すといふ解し難い過程は、催眠状態に
    實現される何か未だ不明の要因があつて、恐らくはこれのみが催眠の現すリビドー状態を純粋になし
    得るものであることを示してゐるのである。また他の點に於いては暗示に十分掛かつてゐる場合にさ
    へ、被術者の道徳的良心が反抗を示すことのあるのは注目すべきことだ。だが、このことは實際見ら
    れる通り、催眠状態に於いても多少の知識が保留されてゐる、これは慰み事に過ぎないのだ、遙かに
    生活に重要な或る境遇の虚妄の再現に過ぎないのだと云ふ事を承知してゐるためであるかも知れない

  • S.

    八三

    第八章 惚れ込みと催眠状態

    のである。
    しかし、前述の論議を進めて来たのであるから、我々は集団のリビドー的構成に就いて公式を
    興へてもいゝわけになつてゐるのである。が、それが過言であれば、少くとも、我々がこれまで考究
    して来たやうな集団、即ち指導者を有してはゐるが『組織』多のために二次的に個人が特性を得るこ
    との出来ないやうになつてゐる集団のリビドー的構成に就いて公式を興へてもいゝわけになつてゐる
    のである。即ち、この種の、一次的集団は、同一の対象を各自の理想我と代へ、またその結果、各自の自我
    に於いて互に同一化した若干個人の集りである、と。この関係は次の図を以て表はすことが出来る。

    理想我

    自我

    盟象

    外部対象