• S.

    一〇六

    集団心理と自我の分析

    第十一章
    自我の或る段階

    集団心理に関してさまぐゝの學者が互に補ひ合つてゐる種々の學説を心に浮べつゝ、
    我々が今日の個々人の生活を観察するならば、そこに示される錯雑さに面喰つて我々は包括的な解釋を試みる勇氣
    を失ふかも知れない。各個人はそれくゝ數多の集団の一成分である。個人は多くの方面に於いて同一
    化の結合に拘束されてゐる。そして個人は極めて多様のモデルに據つて自己の理想を築きあげてゐ
    る。それ故に、各個人は數多の集団心理を分擔してゐる―即ち、人種的集団心理、階級的集団心理、
    宗教的集団心理、國民的集団心理、及びその他の集団心理を分擔してゐるのだ。が、個人はまた自主
    及び獨創の斷片を少々程度まで自分自身を集団心理以上に高めることが出来るのだ。かゝる鞏固な、
    永續的集団構成は、一定不變の實現のために、觀察者にとつては急に構成された過渡的集団ほどに目
    立たない。ル・ボンはこの過渡的集団に就いて、集団心理に關する立派な心理學的特性を描寫した
    のであつた。しかし、これらの噪がしい一時的集団―これが云はゞ他の―一時的ならぬ集団の上に押

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    第十一章 自我の或る段階

    付けられたのである――に於いて、我々は確に個人的取得物と認められる物が完全に
    一時的にもせよ――消滅するといふ驚異に遭遇するのである。
    我々はこの驚異を、個人が理想我を抛棄して、指導者に依つて體現された集團理想をその代償とす
    るといふ意味に解釋した。しかし我々は訂正するために、この驚異があらゆる場合等しく甚大では
    ないといふことを附け加へなければならない。多数の個人にあつては、自我と理想我との分離は大し
    て甚しくない。この兩者はまた直ぐ符合する。自我は屢々初期のナルチスス的自足を保有してゐる。
    指導者の選擇はこの情勢に依つて非常に容易にされる。指導者はたゞかう云ふ個人の典型的性質を特
    に顯著な純粹の形で所有してゐるさへすればよい。また指導者は屢々個人等よりも偉大なる權力とリビ
    ドーの自由とを保有してゐるといふ印象を與へさへすればよい。で、さう云ふ場合には、權勢ある首
    領としての需要はしば/\彼の方向に向けられ、彼がもしさう云ふ人間でなかつたならばあると思はれ
    さうもない卓越力があると云ふ事になるであらう。もしそのことがなかつたならば、集團の他の成員
    等の理想我は、何等かの訂正なしに指導者の人格に體現されないのだが、それがあるので彼等は『暗示
    示』に依つて、即ち同-
    一化に依つて、自餘の者と共に引きづらされて行くのである。
    集團のリビドー的構成に關する我々の説明は、やがて自我と理想我との區別をたて、またこの區別

  • S.

    一〇八

    集全學析分神精ドイフロ

    集團心理と自我の分析

    に用ひた。しかし、我々が精神症の心理を一層深く洞察する時に、その意義が遙かに偉大なものであ
    ることを發見するやうになるだらうと思ふ。そこで我々は、自我が今や對象と(對象から發達した)
    理想我との關係内に現れるといふことな、また外部對象と一全體としての自我との相互作用の總てが
    ―このことは既に神経症に關する精神分析的研究が明かにしてゐる―恐らくは自我内のこの新ら
    しい場面に於いて繰り返されるらしいといふことを考へて見よう。

    譯(一)『精神分析年報』第六卷、一九二四年にはじめて發表さる。(原書全集第六卷收載)

    ここに於いて、私はこの見地から追求し得るやうに思はれる結果の一つだけを追求しよう。かくし
    て私は他の箇所で餘儀なく未解決のまゝに殘した或る問題一)を再び取上げることになる。我々が熟
    知するやうになつたそれ-
    べの心的分化は、心的機能の障碍が新たに一つ加はつたことを意味し、心
    的機能の不安定を増し、かつ心的機能の破綻、即ち疾病の起點となるのだ。このやうに、我々は生れ

  • S.

    109

    ることに依つてまづ自足的なナルシスムスから離れ、愛護する外界に就いての知覚及び対象愛見の端
    緒へと第一歩を進めるのである。しかもこれと共に、我々が寄らしい事態に長くは堪へ得られないと
    いふ事實が生ずるのである。換言すれば、睡眠中に、我々はこの新らしい事態を避け、以前のやうに
    刺戟のない、對象を回避した狀態へと定期的に復歸するといふ事態が生ずるのだ。しかし、この新ら
    しい事態に於いて、我々は外界の暗示に追從するに相違ないが、外界は日夜の定期的な變化に依つて、
    我々に影響する刺戟の過半を一時撤去するのだ。第二の例證は、病理學的には一層重要であるが、か
    る制限を受けない。我々は生長の間に、我々の心を分割し、一貫せる自我と自我以外の無意識的な抑
    壓された部分とに二分した。しかし、我々はこの新らしく得た自我の安定が、甚だあやふやであるこ
    とを知つてゐる。夢及び神經症にあつては、このやうに閉出されたものが、抵抗と云ふ門番のあるに
    拘はらず、門を叩いて入れろと云ふのである。しかし、我々の目覺めてゐる健康狀態にあつては、我
    は特殊の策略を用ひて抑壓されるものに抵抗をだじぬかせ、抑壓されるものを我々の自我のうちに
    築みつゝ一時受容するのである。機智と諧謔、及び一般に滑稽も幾分は、この見地に於いて注目され
    得る。誰でも神經症の心理に通曉してゐる者は、あまり重要でない類似の例證を思ひ浮べるであらう。
    しかし、私は自分の目的とする適用へ急ぐことにする。

    第十一章 自我の或る段階

  • S.

    110

    集體心理と自我の分析

    理想自我の自我からの分離はまだ長くは保たれ難く、或る瞬時のまゝに返ることのあるのは確に想
    像され得る。自我にはいろんな抑壓や制限が課せられてゐるが、禁止に對しては定期的違反のあるの
    が常規である。事實上、このことは祝祭の行事にみられる。祝祭は元來法律に依つて與へられた無禮
    講に過ぎないもので、祝祭が愉快なのもこのやうな開放があるからなのだ。ローマ人のサターン
    神祭及び近代の謝肉祭は、この本質的特色に於いて原始民の祝祭に一致する。何故かと言ふに、原始
    民の謝肉祭は通例あらゆる種類の不徳操に終り、かつ他の場合には最も神聖な戒律であるものに對する
    違背に終るからである。しかし、理想自我は自我に服從しなければならない總ての制限を包括する、そ
    してそのために、理想の廢棄は必然に自我にとつて立派な祝祭となるのである。その廢棄と共に自我
    はも一度自己の滿足を感ずることが出来るからだ。

    註 (一)„Trauer und Melancholie.“ (精神分析雜誌第四卷、一九二六年)

    註 (二)„Totem und Tabu.“ 參照。
    トロッターは抑壓を群集本能に溯つて尋ねてゐる。だが、それは反撥といふよりは寧ろ同じことを他
    の形に云ひ直したのだ。然るに私は『ナルチスス論』に於いて述べてゐるのである、自我からすれば
    理想の構成は抑壓の状態である、と。

  • S.

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    自我中の何物かゞ理想我と一致する場合には、常に勝利の感情が生じる。そして罪悪感は(劣等感
    と同様に)やはり自我及び理想我間の緊張状態の表現として領解することが出来る。
    周知のことはり、世の中には気分の大個の調子が、過度の沈鬱から何等かの中間状態を経て意気揚々
    たる幸福感にまで定期的に動揺する人々がある。これらの動揺は非常な程度を異にした振幅を現す。
    詳言すれば、僅に目立つものから、気鬱症及び躁狂の形をとつて、當人の生活に最も苦しい、または
    最も不安な侵害を及ぼすやうな極端な場合と及ぶほどの種々の振幅を現すのである。この循環的沈鬱
    の典型的な病例にあつては、外的な刺激的原因は何等決定的の役割を演ずるやうには思はれない。なほ
    内的動因に關しては、これらの患者のうちに他の總ての人々のうちに見いだされる以上の何物も(若
    しくは異なつた何物も)見いだされることはない。それ故に、これらの病例を精神發生的ではないと
    見做すことが習慣になつてゐる。我々は後に至つて他のまさしく同一な循環的沈鬱の病例に就いて述
    べることにするが、しかしその病例は容易に心的外傷に遡つて尋ねることが出来るのである。
    かくの如く気分が自發的に動揺するのは何故か未だ分らない。從つて、我々には気鬱症が躁狂と入
    替る機制を洞察する力はないのである。それ故に、これらの患者は我々の推測が實際的に適用される
    かどうかを見るべき試験材料なのだと考へてもよい。かゝる患者の理想我は、豫ねて特別の嚴重さを

    第十一章 自我の或る段階

  • S.

    一一二

    集團心理と自我の分析
    以て自我を支配した後、定期的に自我へ還元するのである。
    それは兎に角、我々は明白なことについてだけ説明をつけることにし
    て疑ひ得ない事は、躁狂の病状に於いて自我と理想我とが互に融合し、
    冥利及び自己満足の気分を自己批判のために全然殺されないが故に、
    この人は、克己、他人に對する思遣りの感情、自責の念などの廢止
    を樂むことが出来るのである。なほ、さほど明瞭ではないが、しかし
    甚だありさうなことは、メランコリーカー
    氣鬱症患者の不幸が、彼の自我の二つの機能間に於ける烈しい軋轢の
    表現だといふことである。詳言
    すれば、軋轢とは過度の感受性に由つて、理想が自我に對する非難を
    劣等等の安慰及び自己貶下の形に
    於いて假借なく示すことなのだ。そこで唯一の問題は、我々が自我と
    理想我とのこれらの變更された
    關係の原因を新たな掟に對する週期的叛逆(前に擧げた如き)に求め
    るべきか、或は他の事情にその責
    めを歸すべきか、どうかといふことである。
    躁狂への轉變は、氣鬱症的沈鬱の症状の必然的特色ではない。世には
    單純な氣鬱症、一度きりの
    もの、再發するものなどで、而も躁狂への轉變を示さないのがある。
    だが、他方には、遡つて見るこ
    との出来る原因が明かにそこに役割を演じてゐる氣鬱症もある。それ
    は愛する對象を失つた後に起る
    症状で、對象が死んだためか、或は事情のために對象からリビドーを
    撤回しなければならなくなつた

  • S.

    123

    後に起る症状なのだ。この種の精神病生的躁症は躁狂となつて行くもので、そしてこの沈鬱症の周
    期は、原因に遡り得ざる症状と同様に數回繰返され易いのである。かくの如くこの事情は幾分不明瞭
    である。特に氣鬱症の極めて僅の種類及び病例のみが、精神分析から研究されたに過ぎないからであ
    る。1) 今までのところでは、我々の領解してゐるのは、對象が愛するに足らぬことを示したがため
    にこれや抛棄した場合だけである。抛棄の結果、對象は同一化に依つて自我の内部に再び取入れられ
    るが、理想我のために烈しく非難されるのだ。しかし、對象へ向けられる非難攻撃は、氣鬱症的自責
    の形で出て来るのである。2)

    1)
     

    “Klinische Beiträge zur Psychoanalyse”, 1921. 中のアブラハムの論文‘Ansätze
    zur Psychoanalytischen Erforschung und Behandlung des manisch-depressiven Irreseins’,
    1912. 参照。

    2) 一層厳密に言へば、對象への批難は當人自身の自我へ向けられる非難の座に屢れて、剛情、鬱病
    づくなどと云ふ氣鬱症諸特有の性質をそれに貢興するのである。

  • S.

    一二四

    集團心理と自我の分析

    しかし、私は理想我に對して自我が定期的に叛逆すると云ふ要因が、一種の氣鬱症
    (原因に遡り得る)氣鬱症と精神發生的(原因に遡り得る)氣鬱症-に共通してゐることを容易に指
    摘し得るのである。自發的氣鬱症にあつては、理想我が特殊の嚴重さを現す傾向のあることを假定す
    ることが出来るが、その嚴重さは次で自働的に一時的の休止に終るのである。しかし、精神發生的氣
    鬱症にあつては、自我は自己の理想から虐待されるために-即ち、棄てた對象と同-化した場合に
    自我が虐待されるために、叛逆へと驅立てられるのである。