• S.

    六

    集團心理と自我の分析

    第一章

    ル・ボン の集団心理説

    定義から説きはじめずに、現象の範囲の指示からはじめ、また我々の探究の目的からして特に牽付
    けられる顕著な特質的な二、三の事實をそれらの現象中から選び出すことのほうが、遙に適當のやうで
    ある。我々はル・ボン の當然有名な著書『集團心理學』 Psychology des foules1) を引用することに
    依つて、これらの目的を一つながら達することが出来る。

    1)邦譯としては、文學士葛西又次郎譯『群衆心理』上下二卷、アカギ叢書第二十編(大正三年六月發行)が
    ある。英譯も獨譯もある。

    問題をもう一度明瞭にすることにしよう。心理學は個人の性癖、本能、動機、意圖などからその行
    動に至るまで、また最も近しい人々に對する彼の關係までも調べるものとして、もし心理學がその問
    題を殘らず解決し、それら總ての關係を明白にしたとせば、心理學はその時忽ち未解決のまゝ眼前に
    横たはる新しい問題に直面するであらう。即ち心理學は、既に理解してしまつてゐる筈の個人が、

  • S.

    七

    第二章 ル・ボンの集團心理説

    或る條件の下に於いては豫期したところとは全く異なつた風に思想し、感じ、かつ振舞ふといふ驚く
    べき事實を説明しなければならないであろう。そしてこの條件は、個人が『心理學的に云ふ集團』
    の特質を持つやうになつた人々の集りに列することなのである。然らば『集團』とは如何なるものか。
    如何にして集團はかかる決定的影響を個人の心的生活に及ぼす力を持つやうになるのか。また集團が
    個人に及ぼす心的變化の性質は如何なるものか。

    これらの三問題に答へるのは、理論的な集團心理學の仕事である。それらの問題を解かんとする最
    上の方法は、明かに第二の問題から説きはじめることである。集團心理學に材料を奥へるのは個人
    の反應の變化を觀察することである。何故かと言ふに、如何なる説明をするにしても、説明せらるべ
    き事柄を先づ記述してからいねばならないからである。

    そこで、私はル・ボン自身をして語らしめることにする。彼はかう説く。―『心理學的集團の示す
    最も顕著な特質は次のやうである。即ち、心理學的集團を構成する個人等が誰であろうとも、彼等の
    生活様式、職業、性格、智能などが如何に似てゐるにせよ似てゐないにせよ、彼等が一個集團に化成さ
    れたといふ事實は、一種の集合的心理を彼等に奥へ、その心理のために各個人は孤立の狀態に於ける
    場合とは全く異なつた感じ方をし、考へ方をし、かつ振舞ひ方をするものなのだ。その心理には、個

  • S.

    八

    集団心理と自我の分析
    人等が一個集団を構成する場合のほかは、現れもしなければ、行為ともなりもしない観念や感情が存
    する。心理学的集団は、異質の諸要素が一時的に結合し成る假りの存在なのだ。丁度有機體を構成す
    る細胞が複合に依つて、それくの細胞の單獨に有する特質とは非常に異つた特質を示す新たな存
    在物を構成するのと似てゐる。」

    我々は無作法ながら自分達の解説を以つてル-
    ボン1)の解説を遮らせて貰ふことにして、こゝに次の
    観察を挿むであらう。もしも集団中の各個人等が或統一に結合されてゐるとするならば、そこには何
    か彼等が結合するものが確になければならない。さうしてその結合するものはこゝではまさしくその集団
    の特質となるものである筈だ。しかし、ル-ボンはこの問題には答へない。彼は個人が一個集団に結合
    される時に示す變化を考究しつけ、かつ精神分析の深部心理學の基礎的要件と串分なく一致する言
    葉でその變化を記述するのである。

    「一個集団の成分としての個人が孤立してゐる個人とがどれほど異なつてゐるかを證明するのは容易で
    あるが、この差異の原因を窺見するのはそれほど容易ではない。」

    「兎も角、その原因を窺知するためには、近世の心理學に依つて確證された眞理、即ち無意識的現象
    が體的生活に於いてばかりではなく、智能作用に於いても優勢な役割を演ずるいふことを想起する

    1)LeBon

  • S.

    9

    ことが第一に必要である。意識的の精神生活は、無意識的精神生活に比べ、大して重要 なもので
    はない。最も巧妙な分析者も、最も鋭敏な観察者も、その行為を決定する意識的動機としては極めて
    少数しか發見することが出来なかつた。我々の意識的行為は、大體に於て遺傳的勢力に依つて心内
    に創造された無意識層から出たものである。この層は代々傳へられた無数の人類共有の特質から成立
    つてゐるもので、それらの特質は、民族の特徵を構成するものなのだ。我々の行為の明かな原因の背
    後には、我々の認めない秘密な原因が存在することは疑ひないことだ。しかし、これらの秘密な原因
    の背後には、我々自身は知らずにゐるが、更に一層隠密な幾多の原因が存在してゐるのである。我々
    の日常行為の大部分は、我々の觀察を免かれてゐる隠れた動機の結果なのである。」

    ルボンは云ふ、個人等の特殊な収得物が集團に於いて消滅に歸し、かくして彼等の特質が消失する。
    こゝに種族的無意識が擡頭する。即ち異質のものも同質のものゝうちに埋沒すると。我々は云はう、
    個人に於ける心的な上部結構の發達はあれほど不同なものを示してゐるが、その上部結構が除去されて
    各人に於いて不同ならざる無意識的根據が露出するのだと。
    このやうにして集團をなす個人等のかゝいなでの特性が現はれるのであらう。しかしル-
    ボンはやはり
    彼等が以前には所有してゐなかつた新たな特質を現すことゝ信じてゐる、そして彼はこのことに對す

    第二章 ル-ボン の集團心理説

  • S.

    10

    集團心理と自我の分析

    る理由を、三つの異なつた契機に求めて
    である。
    「第一の原因は、集團の一要素をなす個人が、數と云ふ事實のために打克ち難い感情を持つや
    ものであるといふことである。即ち、集團は匿名であり、從つて無責任である故に、常々個人を抑
    制する責任感は全然消滅するといふ理由に依つて、彼はま-
    すく自己を抑制しようとはしなくなるの
    である。」

    我々の見地からすれば、新たな特質の出現をそんなに重要視する必要はない。我々としては、集團
    に於いて個人は自己の無意識的本能の抑壓を除去することを得しむる條件の下に齎されるのだと云へ
    ば足りるであらう。その時個人の明かに示す新たな特質は、實はこの無意識の表明であつて、人間の
    精神内にある惡は性慾として一切この無意識のうちに包含されるのである。我々は良心の消失、即ち
    これらの状態に於ける責任感の消失を領解することは少しも困難でない。1)「社會的危惧」が所謂良心
    の本質であるといふことは、既に我々の論じたところであつた。2)

    1)註 (一) ル-
    ボン1)の見解と我々の見解との相違は、彼の云ふ無意識の概念が精神分析で云ふそれと内容が全然同
    じではないと云ふ點にある。ル-
    ボン2)の無意識は寧ろ種族的心理の最も深い特色を包含してゐるが、事

  • S.

    11

    實上、それは個人的精神分析の範囲外にあるものである。如何にも我々は、自我の核心(吾人は後にこ
    れをエスと名付けた)は人間の精神の古代的遺傳を包含し無意識的であることを認識し損うことはない
    が、これに加ふる、我々は『無意識的に抑壓されたもの』をも別認める。何となれば、それらはその
    遺傳の一部から生じたからである。抑壓されたものに關聯する云う云う考へは、ル・ボンにはない。

    『第二の原因は傳染であるが、やはり集團に於ける彼等獨得の特質の發現を決定し、同時に彼等のと
    るべき傾向を決定するに力を致すものである。傳染の現象は、その存在を確認することは容易である
    が、それを説明することは容易でない。それは催眠狀態の現象のうちへ分類すべきであるが、我々は
    簡潔にそれを研究しよう。集團にあつては、如何なる感情行為も悉く傳染的である。しかも個人は
    集團的利益のためには、私的利益を快く犧牲にするほどに傳染的なのである。これは個人の本性と
    は全然相容れないものであつて、集團の一要素となる時のほか、個人には殆ど不可能の傾向である。』

    我々は後に至つて、この終りの言葉を基礎として重要な推察をなすであらう。

    『第三の原因は、更に最も重要なもので、集團内の個人に對して、孤立した個人の示す特質とはし
    ばらく相容れない獨特な特質を決定するものである。私の云ふのは被暗示性のことで、前に述べた
    傳染はこの被暗示性の結果に過ぎないのである。』

    第二章 ル・ボンの集團心理説

  • S.

    111

    集團心理と自我の分析
     

    「この現象を領解するためには、最近の生理學上の發見に留意することが必要である。我々は今日、
    個人が意識的の個性を全く失つて、彼の個性を奪ふ施術者のあらゆる暗示に服從し、かつ彼の人格や
    習慣とは全然矛盾する行爲をなすやうな狀態に、種々の過程に依つて個人を導き得ることを知つてゐ
    る。最も行屆いた研究をして見ると次の事が證明されるやうである。個人が暫くの間實際-
    集團のう
    ちに浸つてゐると集團から授けられた魅力ある感化のためにか、または我々の知らぬ何か他の原因の
    ためにか、或特殊の狀態にやがて入るのである。さうしてその狀態は、催眠術を施された個人が施術
    者の手に自由にされる感應狀態とよほどよく似てゐる。即ち、意識的の個人は全く消滅し、意志と識
    別力は失はれ、總ての感情及び思想は催眠術者に依つて決定された方向へ向けられるのである。
     

    『心理學的集團の一要素をなす個人の狀態もまたこれに近いものである。彼は最早自己の行爲を意識
    しない。彼の場合にも、被催眠術者の場合と同様に、幾分かの能力が減退されると同時に、他の能力
    は著しく増強せしめられるのである。或る暗示に影響されると、彼は抑へ難い性急さを以て一定の行
    爲を實行しはじめる。この性急さは被催眠術者の場合よりも集團の場合のほうが一層抑へ難いのであ
    るが、それは集團内の總ての個人に對して暗示が同一であるために、相互作用に依つてその力を増す
    からである。
     

  • S.

    一三

    第二章
    ル・ボンンの集団心理説

    『それ故に、意識的個性の消滅、無意識的個性の優勢、暗示及び傳染に依る感情並びに思想の同一
    向への轉向、暗示された觀念を直に行爲に移さうとする傾向――これらは集団の一要素をなす個人の
    主要な特質であることが分る。彼は最早彼自身ではなく、自己の意志に依つて指導されることのない
    自動人形となつてしまつたのである。』

    私がこの一節をかほど十分に引用したのは、ル・ボンが集団に於ける個人の状態を實際に催眠的状
    態であると説明しながら、その二つの状態を少しも比較しないことを事實上明かにするためであつた。
    その點に就いては異議を唱へる者は少しもないが、催眠に變ずる個人に就いての後の二つの原因(傳
    染及び高潮した被暗示性)は、傳染が實際には被暗示性の表現であるやうに思はれるので、明かに同
    質のものではないといふ事實をたい力説したいのである。かつまた二つの契機の効果は、ル・ボンの
    許言の本文中には厳しく區別されてゐないやうに思はれるのである。もしも我々が傳染を、集団の個
    人的成員等が相互に對する効果と結びつけて考へ、催眠的影響の現象と同一水準に置かざるべき集団
    に於けるかの暗示の顯現はまた別の原因から来ると云ふならば、恐らく我々はル・ボンの論述を最も
    よく解釋したことになるだろう。では、如何なる原因から?この比較の重なる要素の一つ、即ち集
    団の場合に催眠術者の代りなる筈の人間のことが、ル・ボンの解説中には述べられてゐないことに氣附

  • S.

    14

    集団心理と自我の分析
    く時に、我々がこれは不完全だと感ぜざるを得ないのである。しかし、それにもとにか
    く、彼は朦朧
    のまゝにしてはゐるが、この魅惑的な影響力と、個人等が互に興へあふ傳染の効果(これなくとも生
    ずるが併しこのためには暗示は一層強められる)とを區別してはゐるのである。
    ここにまだ一つ集団に於ける個人を領解するの助けとなる重要な見地がある。『かつまた、人間は
    組織的集団の要素となるといふ卑な事實のために、文明の階梯を數段落ちるのである。孤立して
    ゐれば、彼は教養ある個人であるかも知れないが、群衆に入つては、野蠻人となる–即ち、本能に
    依つて振舞ふ生物となる。彼は原始人のやうな自然性、兇猛性、かつまた熱情及びヘロイスムスをも
    有つやうになる。』彼はそれから特に、個人が集団に浸入する時に経験する智的能力の低下を詳論し
    てゐる。)

    註 (一)シレル Schiller の聯句對照。
    Jeder, sieh man ihn einzeln, ist leidlich klug, und verständi-
    ger; sind sie in corpore, gleich wird euch ein Dummkopf daraus.
    (誰でも、ひとり離して見ると、かなり賢い分がよい。
    彼等が集団に入ると、その時にはたちどころに
    彼の阿呆であることが分らう。)

  • S.

    一五

    個人心理は手をつけずにおいて、集団心理をル・ボンは如何に説いたかそれを見よう。集団心理は
    精神分析から見れば、それの源泉を知るに何等かの困難を感ぜしめるような特色はたゞの一つも示さ
    ない。ル・ボンは自ら、原始人や子供等の心的生活と集団心理との類似を指摘することに依つてその道を
    道を示してゐる。

    集団といふものは衝動的であり、移り気であり、敏感であり、殆ど専ら無意識に依つて誘惑される。集
    団を動かす種々の衝動は、事情に依つて、高尚であつたり残忍であつたり、また勇敢であつたり怯
    懦であつたりするであらうが、それらの衝動は、個人の利益も、また自己保存の念さへも、何等の効
    もない程に猛烈である。衝動に於いては何ら豫想されない。集団の欲望はたゞとひ熱狂的であつても、
    それを持続することが出来ない。ので、決して永続しないのである。集団は自らの欲求とその充足との
    間に延滞のあることを少しも我慢出来ない。集団は全能の自覚を有してゐる。即ち集団内の個人には
    不可能といふ考は消失するのである。1)

    註

    1)「無意識」といふ言葉を、記述的の意味に於いて、ル・ボンはこゝでは正しく使つてゐる。尤も、この場
    合「抑壓」といふ意味だけではないが。

    (二)„Totem und Tabu,“ 頁, „Animismus, Magie, und Allmacht der Gedanken.“ 参照。

    第二章 ル・ボンノ集団心理説

  • S.

    16

    集團心理と自我の分析

    集團といふものは非常に信じ易く、感化され易く、凌批判的で、考へ直して見たりするやうなこと
    は決してない。集團は偶像で物を考へる、そしてそれらの假象は聯想に依つて互に喚起しあふが(丁
    度それらが自由な想像の状態に於て個人に生ずるやうにしがもそれらの假象と現實との契合は決
    して理性的牽制のために妨げられることはない。集團の感情は常に單純であり、また頗る誇張される。
    それ故に、集團は遲疑も知らなければ不確實も知らないのである。)

    註 (一) 夢の註釋こそは無意識的な心的生活を知る最善の途であるが、そのやうに夢の解釋をするに當つて我々
    は、夢の話をする時の疑はしさ及び不確實さを無視し、かつ顯在的な夢の如何なる要素をみな全く確
    實なものと見做す技法に從つてゐる。我々は疑はしさ及び不確實さをば、夢の仕事が受ける檢閲の効果
    であるとし、そして最初の夢の思想は、批判的過程としての疑はしさや不確實さを知らないものである
    と云ふのである。それは勿論、他の總てのものと同様に、夢に誘導する聯想の露浮の内容の一部として
    存在するかも知れない。––1)
    註釋」第六章の最初の部分) 參照。

    集團は直ちに極端へ走る。よしんば疑念を示してゐても、それが直に疑ふことの出來ぬ確實さに變
    ずる。反感の一寸した核があつても、それが烈しい憎惡に轉ずるのである。)

    註 (二) あらゆる感情集積をこれと同樣極端に、無限に強むることは、やはり子供等の感情生活にも見られる事

    1)Die Traumdeutung, 6 Auflage, 1921, S. 358 (大體意譯「夢の

  • S.

    一七

    集全學析分精ドイロフ

    であつて、それは同様に夢の生活に於いても現はれる。無意識内では個々の感情は主として孤立してゐ
    るために、晝間僅かばかり脳に障碍があるとその人間が死ねばよいとの願望となつて夢に現れる。ま
    た一寸でも犯罪行為をしたい誘惑を感じてゐると、夢に於いてさう云ふ行動が現れて来る。ハンス・ザ
    ックスはこの點に就いて朗なすを云つてゐる。即ち『夢が現在(現實)への關係に就いて我々に示した
    ものを我々はもはやまた意識の中に捉へてとする。さうして我々は、分析の擴大鏡の下に見た怪物を再
    び微生物として見たとそんなに仰天するほどのこともなからう。』Dr. Traumdeutung, S. 467.

    ―大槻憲二譯『夢の註釋』二九三頁)

    集團はそれ自身極端へと兎角走りたがるので、集團は過度の刺戟に依つてのみ興奮させられる。何
    人でも集團を動かさうと望む者は、彼の論説を論理的に整理する必要は更にない、彼は最も強い形で
    描き、誇張し、かつ同一のことを幾度も繰り返すべきである。

    集團は眞理か謬論かに関して疑ひを持たないし、またその上に自己の強大な力を意識してゐるので
    權威に對して頑迷でもあり、從順でもある。集團は力を尊重する、從つて、善良さにはあまり動かさ
    れない。何となれば、集團は善良を弱小の一種と見做すに過ぎないからである。集團がそれの英雄達
    に要求するものは力であり、或は暴行でさへある。集團はそれの支配者達に支配され、壓制されるこ
    とを望むと共に、それらの人々を畏敬することをも望むのである。元來集團は全然保守的である。そ

    第二章 ル・ボンの集團心理説

  • S.

    一八

    集団心理と自我的分析

    れ故に、あらゆる革新及び進歩に対し
    ては無限の脅威を懐く
    のである。

    集団の道徳を正しく判断するためには、個人等が集団として集合する時、彼等の個人的禁制は悉
    く衰へ、残忍な本能、無情な本能、破壊的な本能などの一切が――それらの本能は原始時代の遺物と
    して個人のうちに眠つてゐる――自由な本能満足を求めて目覚め来るといふ事実を、吾人は斟酌しな
    ければならない。しかし、暗示の影響を受けると、集団はまた克己、没我、理想に対する献身といふ、
    高尚な仕事をもなし得るのである。孤立した個人にあつては、利己心が殆ど唯一の原動力であるのに、
    集団にあつては、それは甚だ稀にしか目立たない。個人が彼の道徳的標準を集団に依つて向上させら
    れたとと言ふことは出来る。集団の智的能力は常に個人の智的能力よりも遙に劣つてゐるが、集団の道
    徳的行為は、個人の道徳的行為よりも遙かに低くなることもあろが、またそれに勝つて大いに高まる
    こともあるのである。

    ル・ボン説の中の幾つかの他の特徴は、集団心理と原始人の心理との同一が的確に証明されること
    を明かにしてゐる。集団にあつては、最も顕露してゐる諸観念でさへも、それら観念間の論理的矛盾
    から何等の牴触を生ずることなしに、相並んで存在することも出来るし、互に寛容しあふことも出来
    るのである。

  • S.

    19

    第二章 ル・ボンノ集団心理説

    るのだ。しかしこのことはまた、精神分析が長い間指摘して来たやうに、個人の無意識的な心的生
    活、即ち子供等及び神経症患者等の無意識的な心的生活の場合にも存することである。)
    経 (一) 例へば、子供等にあつては、彼等の最も身近にゐる人々に對するアンビヴァレンツ的感情態度は、その一
    つの態度の何れかが正反対な態度の表現に振替へるとともに、長い間相並んで存在するのである。
    しかし、もしも最後にそれら二つの態度の間に軋轢が突發するならばその軋轢は子供が鬱を襲へて、
    アンビヴァレンツ的感情の一つを代償し、轉位することに依つて往々解決されるのである。成人における
    神経症の發達の歴史もまた、暴露された感情が長く間しばらく無意識的なファンタジー中に、或は意識
    的なファンタジー「本全集第一巻未発表論文参照」のうちにさへ存續することを示すであらう。さうしてその
    ファンタジーの内容は目下努力してゐる傾向には直に背馳するものであるが、さりとしてこの矛盾からし
    て、自我が自分の否認した物に對して何かの態度に出るやうな事にはならないのである。ファンタジー
    は確に長い間間寛容されるが、遂に他日突然に、大抵はファンタジーの感情的編輯「二〇頁の註を参照」
    が増加する結果として、ファンタジーと自我との間に全く當然の聯結に依つて軋轢が勃發するのだ。子
    供が成人に成熟する發達の過程には、子供の個性の更に/廣大な経験が、即ち互に獨立して子供の胸
    裡に發達した一個の本能的感情及び慾望の共同作用が存するのである。性的生活の範圍にも相似の過程
    がある事は、すでに發達した生理的組織に就ての性本能が集中するとして、既に我々に知られてゐる。
    (Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie.) 1905. 本全集第五巻参照」かつまた、自我の統一は
    リビドーの統一と同じ障碍を受け易いものであるといふことは、例へば精神病のせに顕著に付着してゐ

  • S.

    二〇

    集団心理と自我の分析

    るなどのやうな、夥しい卑近な例に依つて示される。
    更に、集団といふものは言葉の真に魔法的な力に支配されるものである。言葉は集団心理に恐ろし
    い暴風を捲き起すことも出来れば、またそれを鎮めることも出来るのである。

    『道理も議論も、言葉
    や標語と戦ふことは出来ない。言葉や標語は集団の面前於いて厳かに宣べられる。しかも一度宣べ
    られると、誰の顔にも尊敬の表情が現れて、総ての者の頭は下がるのである。』それ故に、多くの人人
    はそれらをば自然力、超自然力と見做してゐる。』

    これに就いてたい必要なことは、原始人間の名前
    のタブウと、彼等が名前及び言葉に歸する魔力とを想起することである。
    註 (一) : Totem und Tabu. (本全集第七巻)参照。
    次に最後にして云ふ、集団は決して眞理を渇望したことはなかつた。集団は錯覚を要求し、かつそ
    れを必要とするのである。集団は絶えず眞實よりも非眞實に優先権を與へる。集団は現實に依つて強
    く影響されると殆ど同様に、非現實に依つても強く影響される。集団はそれら二つを區別しようとし
    ない傾向を明らかにしてゐるのである。
    充足されない願望から生じた錯覚とファンタジーの生活とがこのやうに優勢であることが、神経症患
    者の心理に於ける決定的要因であることは、既に我々の指摘したところである。我々は神経症患者を

  • S.

    111

    動かすものは通常の客観的現実ではなくて、心理的現実であることも既に知つてゐる。ヒステリーの
    徴候は實際の経験の反覆に基づくものではなく、ファンタジーに基づくものであるが、強迫神経症に於
    ける罪悪感は、一度も履行はしないが邪悪な意図を持つたといふ事實に基づくものである。實際、丁
    度夢や催眠状態に於けるやうに、集団の心理的作用に於いても、事物の現実性を吟味する機能は、感情
    の凝縮した願望の力に比べれば、目につかぬやうになる。

    註 (一) 一五〇頁の註を参照。

    ル・ボンが集団の指導者に關する題目について述べてゐることは更に不十分で、我々は根本的の原
    則をあまり明瞭に領解することは出来ない。彼の考に從へば、幾何かの生物が一度寄り集ると、それ
    が動物の群であると人間の集団であることか問はず、彼等は本能的に指導者の權威に服従するもので
    ある。集団は従順な群であつて支配者なしには嘗て生活することが出来なかつた。集団は服従の熱望
    を否し、彼等の支配者と名乗る者には誰にでも本能的に服従するほどである。

    かやうに集団は既に自分等の必要から半ば支配者に服従してしまつてゐるが、しかし支配者の個人
    的特質も集団の必要に適合するものでなければならない。彼は集団の(或る観念に對する)信仰を喚
    起するために、その確乎たる信仰を自ら身に具へてゐなければならない。しかも彼は鞏固な、そして

    第二章 ル・ボン の集団心理説

  • S.

    三三

    集團心理と自我の分析
    壓倒的な意志を所有しなければならないのだ。それ自身の意志を有たぬ集團は彼の意志を受容れるのである。ル-
    ボンは次に種々の指導者達を論じ、かつ彼等が集團を動かす手段を論じてゐる。要する
    に、指導者達は、彼等自身がその熱狂的信仰者である觀念に依つて、自己の力を振ふものであると、
    彼は信じてゐるのである。

    その上にまた彼は、觀念と指導者との魅力に、不可思議な、抵抗し難い力があると考へてゐる。そ
    してその力を『勢威』Prestigeと呼んでゐる。勢威は個人が、仕事が、或は觀念が、我々に及ぼ
    す一種の支配力である。それは我々の批判力を全く無能にし、驚嘆と尊敬とを以て我々の心を滿たす
    のである。またそれは催眠狀態に於ける感應のそれのやうな感情を目覺めさせるやうである。彼は附
    加的勢威即ち人為的勢威と、個人的勢威とを識別してゐる。前者は彼等の名聲、財産及び聲望などの
    力に依つて人々に歸するものであり、また傳統の力に依つて意見、藝術作品、その他のものに歸する
    のである。人為的勢威は、あらゆる場合、過去へ逆戻りするので、この輝き難い效力を我々が領解
    するためには大して役に立たないのである。個人的勢威は少數の人々に歸するものであるが、その力
    に依つてその人々は指導者となるのだ。しかも個人的勢威は、何か魅力ある魔術の作用に依るかのや
    うに、如何なるものを指導者達に服從せしむる效力を有してゐるのである。しかし、あらゆる勢威

  • S.

    111

    集全學析分神個イロフ

    第二章 ル・ボン の集團心理説

    もまた、成功の如何に依るものであつて、もし失敗すれば效力を失ふのである。
    ル・ボンが説く指導者の機能並びに勢威の重要さは、彼が見事に取出して見せた集團心理の歸と十
    分に調和してゐるとは思へない。