• S.

    四三

    第五章

    人為的集団—教会と軍隊

    我々は集団の形態に關する知識を持つてゐるが、思へば集団には様々の
    方向に發達するものである。世の中には、實に束の間の集団と非常に永續
    同じやうな個人を集合せた同質の集団と、異質の集団。自然的集団と、人々を合同させて置くために
    外的勢力を要する人為的集団。原始的集団と、一定の組織を有するよく構成された集団。しかし、こ
    のほかになほ、理由は何か云ふが、我々は或る特異點に力瘤を入れたい。その特異點には從來の諸學
    者は、いづれかと言へばあまり注意を拂はなかつたのである。つまり私は指導者のない集団と、指導
    の有る集団との間の特異點を調べたいのである。それ故に、在來の習慣とは全く反對に、我々は出發
    點として比較的簡單な集団構成を選ばずに、却つてよく構成された、持續してゐる人為的集団から始
    めることとする。かゝる組織のうちで最も興味ある例は、教會—信者達の團體—及び軍隊である。
    教會及び軍隊は人為的集団である。即ち、或外的勢力が、人々の分散を防ぐために利用され、かつ

  • S.

    四四

    集團心理と自我の分析
    それらの組織の變更を喰止めるために利
    用されるのである。一體個人は、かかる集團に入りたいか
    どうかといふことに就いては、意見を聞かれないのだ、即ち決して選擇を許されないのである。しか
    も、集團を離れようとする目論見は如何なるものでも、常に迫害に逢ふか、峻厳な罰を受けるのであ
    る。即ち、さうした目論見には、實に確定的な條件が附隨してゐるのである。これらの團體がとる
    特殊な防備を必要とする理由を探究することは、確に我々の現在の興味外のことである。我々は一つ
    の事情のために牽付けられたに過ぎないのだ。詳言すれば、既に述べたやうな風に、分離しないやう
    によく組織されてゐる集團のうちに、若干の事實―それらは他の場合にはもつと分りにくくなつて
    ゐる―が極めて明瞭に觀察されるといふ事情のために牽付けられるに過ぎないのだ。

    教會(我々は便宜上典型として天主教の教會を探ることとする)に於いては、軍隊に於ける如く、
    如何にそれら二集團が他の點に於いて異つてゐようとも、その首長―天主教教會にあつてはキリスト、
    軍隊にあつては司令長官―が集團の各自が平等に愛してゐると云ふ錯覺のある點では同じである。
    一切がこの錯覺を基にしてゐる。もしもこの錯覺が抛棄されるとするならば、その時、外的勢力が許
    す限り、教會も軍隊も共に解體するであらう。この平等の愛は、キリストに依つて明かに宣言された
    ―「わがが兄弟なるいと小さき者の一人になしたるは、即ち我に爲したるなり。」
    彼は信者の集團

  • S.

    四五

    の個々の成員に對して、親切な兄の関係に立つてゐる。彼は彼等の父の代償なのだ。個人になされな要
    求の總ては、キリストのこの愛に由来するのである。キリストの前に於いて、總ての者は平等であり、
    かつ總ての者は平等に彼の愛にあづかるゝといふ理由のために、民主々義的特性は教會に普及する。キ
    リスト教社會と家庭との類似を宣誓し、また信者等がキリストに依つて、即ちキリストが彼等に對し
    て懐く愛に依つて、自分達を兄弟と呼ぶことには、深い理由がなくもないのである。各個人とキリス
    トとの結合が、やはり彼等相互の結合の原因になるといふことは疑ふ餘地がない。同様のことが軍隊
    にもあてはまる。即ち、司令長官は總ての部下を平等に愛する父である。從つて、部下同士は仲間で
    ある。軍隊はかかる集団の連鎖に依つて築きあげられてゐる點に於いて、組織上教會と異なるのだ。
    總ての中隊長は、謂はゞその中隊の司令官であり、父である、そして小隊に於ける下士もまた同様で
    ある。如何にも教會に於いても同様の階級制度が構成されたが、その制度は經濟的に同じ役割を演じ
    ないのである。何故かと言ふに、各個人の事ををよく知りよく注意してくれるのは、人間である司令長
    官よりはキリストの方であるとなつてゐるからである。

    註

    (一) マタイ傳第二十五章。(譯者)

    第五章 人格的集団—教會と軍隊

    軍隊をリビドー的組織として見るこのやうな考へ方に対し、國家、國民の榮譽などいふやうな觀念

  • S.

    四六

    集団心理と自我の分析
    の所在が一同その考へ方の中に見ていだされないといふ理由で非難する人もあるであらうが、それは尤
    である。何となれば、それらの観念は、軍隊を團結させるためには非常に重要なものであるからだ。
    その非難に對する答はかうだ、即ち、それは集団結合帯として他實例であつて、かかる單純な羈絆
    は最早存しないのだ。何故かと言へば、シーザー、ワルレンシュタイン、或はナポレオンなどといふ
    やうな偉大なる武将の先例は、かかる観念が軍隊の存立に是非とも必要なものでないことを示すから
    である。我々はやがて指導観念が指導者と換へられることの可能性に言及し、まだその兩者の関係に
    言及するであらう。軍隊に於いてのこのリビドー的要因を無視することは、それがそこに働いてゐる唯
    一の原因でない場合でさへ、理論上でも片手落ちであるしが實際上で最も危険であるらしい。プロシヤの
    軍國主義は、ドイツの科學と同様に非心理学的であつたが、果して世界大戦に於いてその苦杯をなめ
    なければならなかつた。ドイツの軍隊に猖獗した戦争神経症は、各個人が軍隊中に於いて勤めさせら
    れた役目に對する抗議であると認められたことを、我々は知つてゐる。しかも、ジ-
    ムメルの報告(E. Simmel: „Kriegsneurosen und psychisches
    Trauma.“ München 1918.)に従へば、上官等の士卒に對す
    る苛酷な取扱ひが、この病症に對する原動力中の主要な原動力であると見做すことが出来るのである。
    もし這般の事情に於けるリビドー的要求の重要さが一層よく洞察されてゐるたならば、アメリカ大統領

  • S.


     

    の十四箇條の空想的な規約は恐らくさう容易に信じられなかつたであらうし、また素晴らしい手段は


     

    ドイツの指導者達の掌中に於いて挫折しなかつたであらう。


     

    これら二つの人為的集團に於いて、各個人が一方では指導(キリスト、司令長官)に、他方では集


     

    團の他の成員等に、それ-
     

    心理學的に如何に記述さるべきであるか――これらの問題は後章の研究のために留保しておかなけれ


     

    ばならない。しかし、我々はまづここで、集團に關する心理學に於いて指導者の重要さを十分に洞察


     

    しなかつたことに對して、敢て諸家達を適度に非難しておかう。しかし、幸にして我々は最初の研究


     

    對象の選擇を誤らなかつたので、非常に有利な立場に立つことになつたのである。集團心理の主要な


     

    現象――即ち、個人が集團に於いては自由を缺くやうになること――を説明するに就いて、我々は正


     

    しい道を蹈んでゐたのだと云ふ氣がする。もしも各個人が、かゝる激しい感情的紐帯に依つて二つの


     

    方向に拘束されてゐるならば、個人が集團に入ると共に個性のうちに變化と限定とを呈示すのは、右の


     

    やうな事情に依るのだと云ふことを我々は容易に知りうるであらう。


     

    右に論じて來たやうに、集團の本質が集團内に存在するリビドー的結合にあることを示すものは、ま


     

    第五章 人為的集團――教會と軍隊


     

    四七

  • S.

    四八

    集団心理と自我の分析
    た恐怖の現象である。さうして恐怖と云ふ現象は軍隊的集団に就いて最もよく研究することが出来る。
    もしもその種の集団が崩解するならば、恐怖が生ずるのだ。その恐怖の特質は、上官達に依つて興へ
    られる命令が最少も聴従されないといふことであり、また各個人がたゞ自分のために配慮するだ
    けで、他の人々のためには何等の考慮も拂はないといふことである。相互の結合は消滅して、絶大な
    不合理な危惧が擴がる。この點に就いて、再び非難が勿論なされるであらう、それは寧ろ反對である、
    それは他の人々に對する考慮と云ふあらゆる羈絆と感情とを無視せしめるほどに危惧が強大なものに
    なつたのだと。マクドゥカルは恐慌(軍隊の恐慌ではないが)の場合を、彼の強調する傳染(直接的導
    入)に依る感情激化の典型的例證として、利用さへした。しかし、それにも拘らず、この合理的な説
    明法は、この場合には全然不適當である。説明を要する問題そのものは、何故に危惧がそれほど絶大
    になつたかにあるのだ。危険の重大さには責任のある筈がない、何故かと言ふに、今や恐慌の犠牲と
    なる同一の軍隊が、以前に同樣に重大な、或は一層重大な危険に對抗して十分成功し得たからである。
    脅す危険とは毫も關係ない、と云ふのが恐慌の本質であつて、最も些細な機會にさへしぱ-
    つて、感情的結合––そのためにこれまでに彼は危険を危険と思はないで來た––が消滅したといふ事

  • S.

    四九

    實の證人となるものである。今や彼は獨力で危険に對抗することになつたので、
    なものと考へるわけである。それ故に事實は、恐怖的危惧は集團のリビドー構成の弛緩したことを豫
    想し、それに對して當然な方法で反應してゐるといふことになる。從つて、反對の見解―即ち、集
    團のリビドー的結合は危険に直面して破壊されるといふこと―は成立たぬ筈である。
    集團に於ける危惧は導入(傳染)のために甚だしい割合で増進するのだといふ主張は、以上の言と
    少しも矛盾しない。マクドガルの見解は、危険が實際に重大なものであり、かつ集團が毫も確乎たる
    感情的結合を有つてゐない場合に、全く實情と一致する―例へば劇場若しくは娯樂の場所に突然出
    火する場合にはこの條件に協つてゐる。しかし、實際に參考になる、しかも我々の目的のために最も適
    當なのは、右に述べた場合である。何となれば、その場合に一隊の軍勢は、たとひ危険が普通の程度以
    上に増進しなくとも、また以前にしば-
    らく對抗した程度以上に増進しなくとも、恐怖に變ずるからで
    ある。『恐慌』Panic、といふ言葉の用法が明瞭に、曖昧でなく限定されてあらうことは、あまり期待
    出来ない。時として、この言葉は如何なる集合的危惧を記述するにも用ゐられ、また時として、個人
    の危惧さへ、それが總ての限界を越える時に用ゐられ、かつしば-
    らくこの名稱は、危惧の發生が原因
    に依つて當然と思われない場合のために留保されてゐるやうである。我々が『恐慌』といふ言葉を集

    第五章 人為的集團―教會と軍隊

  • S.

    50

    (二)「Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse」XXV. 3. Auflage. 1920. 参照。

    集團心理と自我の分析

    圍的危惧の意味に懈する場合には、我々は廣い類似がそこにあることを主張することが出来る。個人
    のこの斷裂に依つて惹起されるのである。即ち、後者は神経症的危惧の場合であろう。丁度同様に
    恐怖は普通の危険が増進するためか、または集團を固める感情的結合が消滅するためか、何れかに依
    つて發生するのである。そして後者の場合は、神経症的危惧の場合に類似してゐる。1)

    註 1)「纏綿」の説明に就いての英譯者 James Strachey 氏の註釋を引用することにする。(譯者)

    2)「Cathexis」は、ギリシア語の κατεχω からでた言葉で、原意は「Be
    setzung」は精神分析學説には根本的に重要なものとなつた。短く定義し若しくは記述しようとするな
    らば、大抵間違いは易い。しかし、ごく自由に述べるならば、「纏綿」といふ言葉は、充填と類似の意味
    に用いられ、かつ何か特殊の方面に於ける心的エネルギーの集中若しくは集積を意味するものであると
    言つて差支えない。されば、何人かに或る對象にするリビドー纏綿、又は、一層簡潔に言へば、對象纏綿
    が存すると言ふ場合には、彼のリビドー的エネルギーが、外見にある何等かの對象の觀念に向けられると
    言ふよりは寧ろその觀念に注入されることを我々は意味するのである。なほ、一層精密にこの言葉を知ら
    うと望む讀者は「超心理學に関する論」(二)「Triebe Schicksal
    und Triebschicksale」、「Jenseits des Lustprinzips」
    und Verdrängung」を参照されるがよい。

  • S.

    51

    (二) Bela v. Felszeghy の種々空想で造り上げた嘘ひはあるが興味ある論文 „Panik
    und Panikkomplex“, Imago, 1920, Bd. VI, 参照。

    マクドガル (前掲引用文参照) のやうに、恐怖を『集団心理』 group mind の最も平明な機能の
    一つであると説く者は誰でも、この集団心理がそれの最も顕著な表明の一つに於いて集団心理でなく
    なるという逆説的立場に到達する。恐怖が集団の崩壊を意味することは疑ふことが出来ない。そのた
    めに集団の成員等が恐怖の起きない内に互に示しあつてゐるあらゆる介意が断絶するのである。

    恐怖襲生の典型的誘因は、ユーディットとホロフェルネスを取扱つたヘッベルの戯曲1)に依るネストロ
    イNestroy のパロディ (戯劇) に描出されたるものと全く同様である。『大将が首をとられた。』と
    兵卒が叫ぶと、即座にアッシリア人は悉く逃走する。何等かの意味に於ける指導者の喪失は、又は指
    導者に就いての懸念の発生は、危険が元のやうであつても、恐怖を突発せしめる。集団の成員間に於
    ける相互の結合は、大抵の場合、指導者との結合が消失すると同時に消失する。集団は、首が砕かれ
    たボロウニャのふらすごとのやうに、壊滅する。

    1)註 (一) Friedrich Hebbel (1813–63) ドイツの有名な劇詩家。„Judith“ (1840) は彼の処女作。ユーディット
    は自分の生れた町を救ふために、アッシリア軍の総大将ホロフェルネスの陣営へ赴き、自己の貞操を犠
    牲にして、つひにホロフェルネスの首をとつた――といふのが、この戯曲の荒筋である。(譯者)

  • S.

    五一

    集團心理と自我の分析

    宗教的集團の分解は、それほど容易に觀察する譯にゆかない。つい先頃私は、
    つて推奨された、H. Rider Haggard (「暗黒時代」) といふ表題の、天主教方面から出たイギリスの
    小説を手に入れた。これを讀んで見ると、宗教的集團に軍隊のやうな恐怖のあり得べき事が、また
    恐怖の結果が、如何にも巧妙に、さうして私の見るところでは適確に、描かれてゐるのである。その
    小説は、現代に時代をとつてゐるやうに思はれるが、キリストといふ人物とキリスト教徒の信仰とに
    反對する敵が陰謀を企て、エルサレムに一つの墓を見いださせるやうに仕向けて成功した話である。
    この墓の中に碑銘があつて、それにアリマテアのヨセフが、信仰の故に、キリストの遺骸を埋葬の後
    三日目にその墓穴から取去つて、現在の場所へ埋葬したと告白してゐる。キリストの復活と彼の神性
    とは、かやうにして取除かれる。そしてこの考學的發見の結果は、ヨーロッパ文明の激動となり、
    あらゆる犯罪及び狂暴な行爲の途方もない増殖となる。さうしてそれは、捏造者の陰謀が暴露される
    時にやうやく止むのである。
    この場合、宗教的集團を襲ふとされてゐる解體に伴つて起る現象は、危惧ではない。それの起るだ
    けの誘因が缺けてゐる。その代りに、他の人々にする無慈悲な、敵意ある衝動が現れる。それらの衝
    動は、キリストの平等な愛のために以前には現れ得なかつたものである。こゝ併し、キリストの統治

  • S.

    五三

    の間でさへ、信者の社會に屬しもせず、彼を愛しませず、また彼に愛されもしない人々は、この結合
    外の存在である。それ故に宗教は、たとひ愛の宗教と自稱しても、それに屬しない人々に對しては苛
    酷であり、無情であるに相違ないのだ。元來、確にあらゆる宗教は、これと同様に、それに歸依する
    總ての人々にとつて愛の宗教である。これに反して、それに歸依しない人々に對して無慈悲であり、
    苛酷であることは、あらゆる宗教にとつて當然のことである。我々はこのために信者達をあまり苛酷
    に非難すべきではない、よしんば個人としてそれなすことは困難であるにしても。この點に於いて
    不信仰な若しくは無頓着な人々のほうが、心理學的にはそれだけ具合がよいのである。もしも今日そ
    の狹量が、最早過去幾世紀に於けるほどに狂暴なものとして現れないにしても、人間の習性が
    軟化したとは推斷出来ない。苛酷でなくなつた原因はいづれかと言へば、宗教的感情とそれに頼るリ
    ビドー的結合とが何としても薄弱になつたに存するのである。もしも他の集團的結合が、宗教的
    結合と代るならば――そして社會主義風の結合がさうすることに成功しつゝあるやうだ――、そのた
    めに宗教戰爭時代と同様な、仲間外の人々に對する狹量さが生ずるであらう。かつまた科學的見解の
    相違が、集團に對して類似の意義を持つことがあるならば、同一の結果がこの新しい動因に依つて再
    び繰返されるであらう。

    第五章 人為的集団――教會と軍隊

  • S.

    54

    (1)集團心理と自我の分析
    フェデルン P. Federn の著書『父なき社會』
    „Die vaterlose Gesellschaft“ (Wien, Anzengru-
    ber-Verlag, 1919) 中に述べられた、主権者の有る父としての権威が無効になった後に生ずる類似の
    現象に就いての説明を対照されたい。