• S.

    八四

    集團心理と自我の分析

    第九章
    群集本能

    しかし、我々は前述の公式に依つて集團の謎を解いてしまつたといふ錯覺を長く享受することは出
    来ない。と云ふのは、我々が實際に説いて来た總べてのことが、まだ明かにされてゐない多くの點を
    有する催眠術の謎に問題を移すのではないかとの不安が直ちに生ぜざるを得ないからだ。ところで今
    一つの異論が我々の更に進むべき路を示すのである。

    我々が集團のうちに認める強い感情的結合は、その成員等の自主的行動の缺乏、全成員に於ける反
    應の類似、謂はゞ集團的個人の水準にまで各成員が低下することなども、これ等集團的特性の一つを
    説明するに十分足るものだと言へる。だが、もしも全體として見るならば、集團はこれ以上のことを
    しないこと、感情の表現に於いてあらゆる限度を超えんとし、また行爲となつてあらゆる制限を除去し
    ようとする傾向など、ル・ボンの著書に感銘深く述べられてゐるこれらの特色並びにこれらと類似の

  • S.

    八五

    特色は、野蠻人や子供の間に普通見いだされるやうに、心的活動が初期の殘
    段階に退行することゝそつくり同じである。この種の退行は特に一般集團の
    本質的特性であるが、我々が開知してゐるとは、組織化されたる集團及び人
    為的集團にあつて、かゝる退行はかなりの程度まで阻止され得るのでである。
    かくて我々は集團にはかう云つた状態があるのだとの印象を與へられる。即
    ち個人の各別の感情及び個人的な知的行為が獨りで何とかなるには薄弱過ぎ
    ると共に、それらの感情や知的行為が、集團の他の成員間にも同様の方法で
    繰返されて、勢力を得るやうになるまでは待つことゝを絕對的に強いられて
    ゐる状態である。そこで我々の氣付く事は、これら隷屬の現象が人間社會の
    常態的構成の部分を占めることの如何に多いか、獨創及び個人的勇氣が人間
    社會の常態的構成のうちに見いだされることの如何に少ないか、またあら
    ゆる個人が人種的特性、階級的偏見、輿論、その他かゝる形で現れる集團心
    理の状態に依つて支配されることの如何に多いか、などといふことである。
    暗示の影響力が單に指導者に依つてのみ與へられるのではなく、あらゆる個
    人に依つても他の總ての個人に與へられると云ふこととを容認するならば、
    暗示の力は愈々大きな謎となるのである。從つて、我々は指導者に對する關
    字不當に強調したこと、並びに相互暗示といふ他の要因をあまりに蔑へ押
    し遣り過ぎたことを自責し

    第九章 群集本能

  • S.

    八六

    集團心理と自我の分析
    なければならないのだ。
    さう云ふ次第で我々も謙遜にならざるを得ないので、他の意見に耳を傾ける気になるが、その意見
    は一層単純な論據に基いた説明をなさうとしてゐる。かかる意見は群集本能に關するトロッターの
    好著に見いだされる2)。しかし、その著書に就いて私がたゞ一つ遺憾を感じる點は、世界大戦に因
    る反感を全然脱してゐないことである。
    註 (一) W. Trotter: „Instinct of the Herd in Peace and War.“ Fisher Unwin, 1916.
    トロッターは集團に發生する心的現象を群集本能 (gregariousness) から来ると説いてゐるが、群集
    本能は動物の先天的本能であると同様に人間の先天的本能でもある。生物學上、この群集は多細胞質
    と相似のものであつて、謂はゞ多細胞質の繼續なのだ。これをリビドー説の見地から言へば、群集は
    ま-
    ますく、包括的な單位に於いて結合しようとする傾向の一層進んだ現れなのだ、そしてこの傾向はリ
    ビドーから生ずるものであつて、同-
    一種の總ての生物が感じる傾向なのだ2)。個人はたゞ一人でゐ
    ると『不完全』incomplete のやうな感じのするものである。子供の示す危惧は既にこの群集本能の現
    れであるやうに思はれる。群集に對する反抗は、事實上群集からの脱退である。それ故に、この反抗
    は熱心に避けられる。しかし、群集は何か新たなもの、または馴れないものに背くのである。從つて

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    八七

    群集本能は何か一次的のもの、分割し得ないもの(which can not be split up)のやうに思はれる。
    註(一)余の論文„快不快原則を超えて“„Jenseits des Lustprinzips.“参照。
    トロッターは彼が一次的のものと見做す本能の表として、自己保存本能、榮養本能、群集
    本能などを掲げてゐる。それらのうち、群集本能はしば-
    く他の本能の立場を冒すのである。罪悪感
    情及び義務感は群居的動物の獨特な所有である。トロッターはまた、精神分析が自我のうちに存在
    すると立證した抑壓力を群集本能から由来したものとし、従つてまた醫師が精神分析的治療に於いて
    患者からされる抵抗も同じ源泉から来るとしてゐるのである。言語は群集の相互的理解を助ける點に
    於いて重要なものであつて、各個人相互の同一化は多く言語に基いてゐるのである。
    ル・ボンは専ら典型的的な推移的集團構成を論じ、マクドガルは定着的集團を取扱つたが、トロッタ
    ーは自己の興味の核心として群集の最も一般化された形態を選んだ。その形態に於いてMcDOUGALL
    なる人間がそこで生活を送り、かつその生活の心理學的根據を示す如き、さう云ふ集團を取扱つた。
    しかしトロッターは群集本能の起原を尋ねる必要を感じてゐない。何故ならば、彼は群集本能の性質
    を一次的な、それ以上に還元されぬものとして説いてゐるからである。ボリス・シディスBoris Sidis
    が群集本能を被暗示性にまで遡つて尋ねんとしたことを彼は引證してゐるが、その企ては彼に関係あ

    第九章 群集本能

  • S.

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    集團心理と自我の分析
    る限りでは幸に蛇足である。要するに、その企ては分りきつた、不十分な典型を説明したものである。
    それよりも逆の提案、即ち、被暗示性は群集本能に由来するものだといふ提案のほうが、私には遙か
    に問題を明瞭にするやうに思はれる。
    しかし、トロツターの解説は、集團に於ける指導者の役割をあまりに無視してゐると云ふ抗議を受
    ける餘地があるが、その抗議は他人に向けりるよりも彼に向ける方が正當である。我々は寧ろ反對の判
    斷をしたいのだ。指導者を無視するならば集團の性質を摑むことは不可能だ。しかし、群集本能は指
    導者を容れる餘地を全然残してゐない。指導者は單に群集と共に投げ-
    従つてまた、この本能から神を必要とする道へ導くことはないのだ。つまり、群集は指導者を有して
    ゐないのである。しかし、これ以外に、トロツターの解説は、心理學的に掘下げる事が出来る。換
    言すれば、群集本能が還元し難いものではないといふこと、また群集本能は自己保存本能及び性的本
    能と同じ意味で一次的のものではないのが事實らしいこと、心理學的研究に依つて説明出来るので
    ある。
    固より群集本能を個體發生に辿ることは決して容易な事柄ではない。しかし、子供が一人で放つて
    おかれる場合に示ず危惧は、これ既に群集本能の現れだとトロツターは主張するが、これは併しなほ
    ある。

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    別の解釋を下す方がよさうに思はれる。ところで、その危惧は子供の母と關係を有するもので、後
    には他の親しい人々とも關係を有するに至るものなのだが、結局それは充足されない慾望の現れの
    だ。だが、その慾望に就いては、子供はとにかくそれを危惧に變ずるよりほかにはまだ取扱ひ方を知
    つてゐないのである。こゝまた、子供が一人でゐる場合には、『群集の内の』誰かを偶然見たからとて
    彼の危惧は鎮められはしないのだ。寧ろ反對に、危惧はこの種の『他人』の接近に依つて生ずるのみ
    だ。それから長い間、群集本能若しくは集團感情に類似したものは、子供のうちに認められないので
    ある。群集本能に類似したものはまづ第一に、多くの子供を容れてゐる保育室に於いて、兩親に對す
    る子供の關係から發生する、そしてそれは最初の慾望に對する反動としてかく發生するのであるが、
    その慾望は年長の子供が年少者を迎へる時に起すものなのだ。年長の子供は確に年少者を妬んで取除
    けようとし、兩親から遠ざけようとし、また年少者の特權を奪はうとしたがるものである。しかし、
    年少の子供が(總てあとから生れて来る者も同じく)全く同様に兩親から愛されるといふ事實に面し
    また自己の敵意ある態度を毀損されることなく保持することが不可能であると知る結果、年長の子
    供は餘儀なく自己を他の子供等と同一化するものである。この反動構成に依つてされる最初の要求は
    公平といふことである。總ての者に對する平等の取扱ひといふことである。我々はみな如何に聲高くま

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    九〇

    た執念深く、この要求が學校に於いて主張されるかを知つてゐる。もしも一人の者が自ら寵兒となる
    ことが出来ないならば、とにかく他の者は誰でも寵兒となつてはならないのだ。この變形、即ち、保
    育室や教室に於いて嫉妬が集團感情に置換へることは、信じ難く思はれるかも知れないが、同一の過
    程は後に至つて他の事情のもとに再び認められ得るのだ。我々は演奏後の聲樂家或はピアニストの
    周圍に群がる婦人と少女との群に就いて御覽なさい。彼女等の總てが熱心な感傷的態度で戀慕してる
    ることを考へて御覽なさい。確かに彼女等の銘々にとつては、自餘の者を嫉妬することは容易である。

    しかし、多數の手前、またその結果、愛の目的に達することの不可能であることの手前、彼女等はそ
    の目的を抛棄する、そして互の毛髮を引抜き合ふ代りに、彼女等は融合した集團として行動し、その
    場合のヒーローに對し共通の行動を以て敬意を表し、その上恐らくは、彼の流れるやうな頭髪の分前
    に與ることを喜ぶであらう。

    元來競爭者ではあるが彼女等は、同一對象に對する類似の愛に依つて互
    に同一化することが出來たのである、或る本能的立場がさまゞくの歸結を果し得る場合は常々あるが
    さう云ふ場合にもし一方の歸結には最高の滿足が伴ひ得ることになつてゐるので、他方の歸結に於い
    ては、本來は滿足を得る可能性が一層明白であるのに、確實の事情がこの目的を達することを否むた
    めに滿足が伴はぬことがあつても驚くには及ばないでゐる。

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    謎 (一) „Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse“ XXV.
    後に至つて、公共心 Gemeingeist, 社
    會精神 esprit de corps, 『集團精神』
    現れる物は、元來羨望から由來した物であることを欺かないのである。何人も自分自身を抑出さうと
    してはならない。總ての者は同様でなければならないし、かつ同様の物を所持しなければならないのだ。社會的正義といふ意味は、我々が多くの物を自制するために、他の人々もまた多くの物を用ひずに
    濟まさなければならず、またその上同様に、多くの物を求めることも出來ないといふことなのだ。
    實に、平等に對するこの要求は、公徳心及び義務心の根元である。ところが、この要求は癩病患者の
    危惧のうちに、即ち、病毒を他の人々に感染させるといふ危惧のうちに現れることがある。しかし、
    それは既に精神分析が我々に領解せしめてゐることなのだ。つまり、かかる羨ましい人々が示す危惧
    は、他の人々に病毒を傳播させようとする無意識的願望に對する彼等の激しい苦鬪に相當するものな
    のである。何故に彼等だけが病毒に感染し、かつそれほどに他から遮斷されなければならないのか。
    また何故に他の人々も同然ではないのか。これと同一の願芽はソロモンの審判に關する美しい逸事の
    うちに見いだされる筈だ。1) 自分の子供が死んだのに、あの婦人の子供が生きてゐるのは不都合だ
    と云ふわけだ。子供を失つた婦人には、この願望が認められる。

  • S.

    九二

    集團心理と自我の分析

    註

    (一) 一人の子供をそれくゞ自分の子供であると主張してソロモンの許に訴へて
    來た二人の婦人があつた。ソロモンはその子供の両腕を二婦人にとらせて左右からひかしめ、力づくで奪取つた者がその子の實の母
    であると云ひ渡した。二人は子供を左右から引張つた。遂に實母は子供の腕のぬける事を畏れて手を離
    した。これに依つて何れが實母であるか分つたといふ話。(譯者)

    かやうに社會的感情は、最初敵愾心であつたものが、同一化の性質を帯びた、積極的な調子の結合
    に變ずる、その逆轉に基くのである。我々がこれまでさまざまウェルトリヒな事の成行を見通し得た限りでは、こ
    の逆轉は集團外の者に對する共通の優しい(感傷的)結合の影響で生ずるものゝやうである。我々は
    自分でも同一化に關する分析を遺漏のないものとは考へない。しかし、畢竟の一つの特色を―集
    團の各員に平等化を正確に行はせよといふ要求を―又しても問題にしようとする現在の目的には
    それで十分足りるのだ。我々は既に二箇の人為的集團―教會と軍隊―に關する論議をした時に、
    人為的集團は、その全成員が一人の人間から、つまり指導者から同様に愛さるべきだといふことを豫
    想することを知つた。だが、我々の忘れてはならない點は、集團に於ける平等要求はたい成人に適用
    されるだけで、指導者には適用されないといふことである。成員はみな互に平等でなければならない
    が、彼等はみな一人の人間に依つて支配されなければならないのだ。多数の同等の人々、即ち互に同

  • S.

    九三

    第九章 群集本能

    一化し得る人々
    と、彼等の總てよりも優れてゐる唯一人者
    ―その状態こそ、我々が存續の能力ある
    集團に實現されてゐるのを見いだす状態である。それ故に我々は敢て、人間は群集動物 Herdentier
    であるといふトロッター説を訂正して、人間は寧ろ團體動物 Hordentier である、換言すれば、人間
    は首領に依つて牽ゐられた團體中の箇々の生物であると主張することにしよう。