S.
六三
第七章
同 一 化
同一化は、精神分析では、他の人々の感情的結合の最も初期の表現として知られてゐる。同一化
はエディポス・コンプレクス*)の初期の歴史に於いて或役割を演ずるものである。小さい男の児は父
に就いて特殊の興味を示すものである。彼は父のやうに大きくなりたいし、父の存在のやうな存在で
ありたいし、また到る所へ父の代りとなりたいのである。一言にして言へば、彼は父を自分の理想と
するのである。この行動は父に対する(また一般に男性に対する)受動的、即ち女性的態度とは何の
関係もないばかりか、却つて典型的に男性的なのである。それはエディポス・コンプレクスに非常に
よく適合するもので、それの發達の準備となるものである。註 *)エディポス・コンプレクスに就いて本全集第一巻「夢の詮釋」巻末の「精神分析學辭彙」を参照ありた
し。父とこのの同一化と同時に、若しくはは少し
く前、男の児はアナクリティック型に依つて、母にS.
64
集団心理と自我の分析
対する真正の対象愛縮をはじめるのである。それ故に、彼は次いで心理学的に明瞭な二つの結合
をなす、即ち、母に対する直截明白な性的対象愛縮と、父に対する典型的な同一化とがそれである。
この両者は、暫くの間は、少しも互に影響も妨害もすることなしに、相並んで存続する。が、心的生
活が統一に向つて進むことは抵抗し難いものであるから、それらはつひに一に歸する、そして常態の
エディポス・コンプレクスはその両者の合流に胚胎するのである。即ち、男の兒は母に就いて父が邪
魔になることに氣附くのである。そこで父に對する彼の同一化は敵意ある色彩を帯び、しかもその上
に、母に就いて父と代ろうとする願望と同一のものとなるのである。つまり、同一化は實に最初から
アンビヴァレンツ的である。それは何人かを除去しようとする願望にも容易に變じ、また優しさの表現
にも容易に變じ得るのである。同一化はリビドー組織化の最初の口唇時期の派生物のやうに振舞ふが、
その時期に於いては、我々が喜び貴ぶ対象は、食べることによつて同化され、かくしてそのものとし
ては滅ぼされるのである。食人者は、明かに、この見地に於いては存續してゐるのである。彼は自分
の敵を食り食はんとする感情を懐くが、但し自分の好まない人々は食り食はないのである。2)2)Anlehnungstypus (英) ―文字通りにとれば「靠れかかる型」の意で、ギリシア
語の ἀνακλιτικός 「私は靠れかかる」からでた言葉。性的本能はその發達の最初の時期にあつては、獨立S.
六五
的に満足を見いだす手段を有してゐない。そこで、それらの本能は、自己保存の本能に基づいて自らを
支持することに依り、或は自己保存の本能に「奪れかゝる」ことに依って満足を見いださうとする。個
人の最初の性的対象選択は、この段階を辿る時に、「アナリティック型」であると呼ばれる、即ち、最
初の性的経験として、幼時の性的必要を満足させたと同じ人を選ぶ時に、さう呼ばれるのである。ア
ナクリティック及びナルチッスス型の対象選択に関する十分な論議に就いては『Zur Einführung des
Narzissmus』を参照されたい。(英訳者)(1) Freud: 『Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie』(本全集第五巻)及び Abraham の論文『Unter
suchungen über die früheste prägenitale Entwicklungsstufe der Libido』, “Internationale
Zeitschrift für Psychoanalyse,” 1916, Bd. IV. 及び Abraham の著『Klinische Beiträge zur
Psychoanalyse』所載。参照。第七章 同一化
父とのこの同一化のその後の歴史は容易に見落され勝ちになる。エディポス・コンプレクスは内に
取込まれ、父は女性的立場からの対象、即ち直接的な性本能が満足を求むる対象と見做されるやうに
なる。さうしてその場合には、父との同一化は父との対象結合の前駆となるのである。これと同一の
ことは、勿論男女の別に依つて事情は反対になるが、小さい女の子にも同様にあてはまるのである。
父との同一化と対象として父を選択することゝの相違は、これを明白簡潔に云ひ表はすことは容易
である。同一化の場合にあつては、父は男児がなりたつてゐるものであり、対象としての場合にあS.
六六
集團心理と自我の分析
つては、父は男児が有ちたいと思ふものである。即ち、その相違は、結合が自我の主體に結びつくか、
容體(對象)に結びつくかのいづれかに依つて定るのである。それ故に前者は、何等かの性的對象選
擇が示される以前に既に可能である。この相違を明瞭に超心理學から説明することは遙かに困難であ
る。我々はたい、同化が『手本』と見做したものに倣つて、個人自身の自我を摸擬しようと努力す
ることを知るだけである。
神經症的徴候構成の中に見られる同化を、我々は複雑ならぬ關係に就いて説明しよう。小さい女
の子(我々は嘗て少女に依つて説明をつけけることにする)が、母と同じ苦しい徴候、例へば、同様
の苦しい咳嗽を示すとしよう。ところで、このことは種々の力途で生ずるのである。同化はエディ
ポス・コンプレクスから生ずることもある。その場合には、同化は母の位置を乗取らうとする少
女の敵意ある慾望を意味するのである。そしてその徴候は父に對する彼女の對象愛を現し、かつ罪
惡感の影響を受けながら、母の位置を乗取らうとする慾望を實現するものである。即ち「お前はお母
さんになりたがつてゐたが、今お前さんはお母さんなのだよ。―見も角もその苦痛がつゞく限りは
ね。」これがヒステリーの徴候構成の完全な機制である。また他方にかゞいて、この徴候は愛されてゐ
る者の徴候と同じであることもある。―(例へば、『ヒステリー分析の一斷面』1)中に於ける父の咳S.
六七
第七章 同一化
を模倣したドラのやうに)。その場合には、我々はその状態を次のやうに記述し得るに過ぎない、
即ち、同一化が対象選択の代りに現われ、そして対象選択が同一化へと退行したのである、と。我々の
開知してゐるところでは、同一化は感情的結合の最も初期の起源的形態である。徴候が構成される條
件のもとに、換言すれば、抑圧があり、無意識の機制が優勢である場合、対象選択が同一化へ退行
させられることは―即ち、自我が対象の特質を取込むことは、往々あることである。なほ注目すべ
きことは、これらの同一化に於いて、時として自我は愛してゐない人に倣び、また時として愛してゐ
る人に倣ぶことである。その二つの場合に、同一化が部分的であり、非常に制限されたものであり、
かつその対象である人の特性の一つだけに倣ぶに過ぎないといふことも、やはり我々の気付かざるを
得ないことである。(一)註 Brückstück einer Hysterieanalyse. „Kleine Schriften zur Neurosenlehre.“ Zweite Folge.
S.
六八
集團心理と自我の分析
請心的傳染に依つて發作に罹るであらう。この機制は己れもまた同一の立場に立つかも知れないぞと
云ふ恐れ、若しくは立ちたいとの慾望に基づいた同一化の機制である。他の少女等も秘密な戀愛事件
を同様に守りたいのである。そして罪惡意識の影響の下に彼女等もやはり、その意識に伴うてゐる苦
痛を受け容れるのである。彼女等が同情からその徴候を呈するのだと考へるのは誤謬である。却つて
同情こそ同一化から生ずるのである。このことは次の事實に依つて證明される、即ち、この種の傳染
即ち徴候は、豫め存する同情が、女學生同志間に通例存在する同情よりも少しと想像される場合にさ
へ生ずるのやである。一つの自我は、或點に於いて(右に擧げた實例に於いては、感情が同様に起る下
準備の整うてゐる點に於いて)他の自我の重要な類似を認めたのである。そこで同一化はこの點に
於いて構成され、發病させる立場の影響がそこに加はるので、一つの自我が生じた徴候の方に轉位
されて行くのだ。徴候に因る同一化は、かくして、抑壓しておかなければならぬ一つの自我の符合點
が奈邊に存するかを示すこととなつたのである。これら三つの源泉から我々が學んだことは、次のやうに要約することが出来る。第一、同一化は對
象との感情的結合の起原的形態である。第二、退行的方法として見る時は、同一化は謂はゞ自我中に
對象を攝取する事に依つて、リビドーに依る對象との結合の代償となるものである。第三同一化は、S.
六九
性本能の對象ではない或る他人と共通性を前提してゐることを新たに知覺する度
この共通性が重要であればあるほど、この部分的の同一化は一層うまく行くのだ。かくして同一化は
新しい結合の端緒を表すのである。
集團の成員間に於ける相互的結合が、重要な感情的共通性に基づいた、この種の同一化に性質が似
てゐること-
てゐることを我々は既に察してゐる。さうして、我々はこの共通性が指導者との結合に似てゐるの
はないかと考へることが出来る。次に疑はれる事は、我々が同一化の問題をまだ十分に討究してな
いのではなからうかといふことであり、また心理學で云ふ『感情移入』1)なる過程があつ
て、我々の自我には先天的の縁遠いものゝ他の人々の内にあるのを理解するに當つて最大の役割を演
ずるのではなかろうかといふことである。しかし、我々はこの場合、同一化の直接的な感情的効果を
述べるに留めて、我々の智的生活に對する同一化の意義は不問に附しておくことにしやう。
精神分析的研究は、既に折々精神症の一層困難な問題を取扱つて来たが、我々に直に理解されない
が、精神症以外の場合にもやはり同一化のあることが精神分析に依つて分つたのである。私は今後の
考究に資する材料として、さうした二つの場合を詳細に論述することにする。
大抵の場合に於ける男性的同性愛の成因は次のとほりである。或青年はエディポス・コンプレクスのS.
七〇
集團心理と自我の分析
ため
に、殊のほか長くかつ強く母に定着を
性的対象と取扱へる時が来る。その時、事情は忽ち一變する。即ち、青年は母を見離さずして、自ら
を母と同-
化する。彼は自分自身を母へ變形し、そこで自己のために自らの自律に代り得る対象を探
求し、かつ母から受けたやうな愛と保護とを與へ得る対象を探求するのである。このことはしば-
く
起る過程で、その證據はお望み通りいくらでも興へることが出来るし、また榮變化への有機的進化力
や動機に就いてなされる如何なる假説にも本來全く關係のない過程である。この同-
一化に就いて顯著
なことは、その儘多なることである。一同一化に依つて、自我はこれまで對象であつたものをモデルと
して改造せられ、重要な特色の一つ、即ち性的特性を帯びるやうになる。この過程に於いて、對象自
體は抛棄されるのだ-
尤も、全然抛棄されるのか、或は單に無意識内に保存されるといふ意味に於
いて抛棄されるのか、それは現在の論議には關係のない問題である。抛棄されたる、或は失はれたる
對象の代償となつて自我がこれと同-
一化すること、換言すれば、自我が對象を攝取することは、實は
我々には最早始めてのことではないのだ。この種の過程はしば-
く、幼い子供等に於いて直接觀察
することが出来る。暫く前に、この種の觀察が『國際精神分析學會々報』に發表された。仔猫を失つ
たために快々としてゐた子供は、今や自分か仔猫になつたと率直に言明した、そして言明とほり四つS.
七一
ん違ひになつて遊び廻り、食卓で物を食べようとしなかつた、云々。1)
1)Marcusewicz: „Beitrag zum autistischen Denken bei Kindern“, „Internationale Zeitschrift für Psychoanalyse“, 1920, Bd. VI.
鬱病摂取に關する他のさうした例は氣鬱症の分析に依つて得られた。この病氣の最も強い原因の一つは本人が非常に愛してゐる對象を現實的又は感情上で、失ふことである。この病氣の主な特質は
自我に對する殘酷な自己叱責に加ふるに、假借なき自己批判及び手ひどい自責を以てすることである。この
分析の結果に依れば、この輕蔑と譴責とは、根本に於いては對象に向けられてゐるのであつて、對象
に對する自我の復讐を表すのである。私が他の箇所で述べたやうに、對象の影は自我にふりかゝつて
ゐるのである。2) 對象摂取はこの場合に紛れもなく明瞭である。2)Freud: „Trauer und Melancholie“, „Kleine Schriften zur Neurosenlehre“, Vierte Folge, 1908.
しかし、これらの氣鬱症からまた、我々は他に何事かを學ぶのであるが、それは後の論證のために
重要になるであらう。氣鬱症は自我が分裂して二つの部分となり、その一つが他の部分に對して狂暴
になるのである。この第二の部分は、摂取に依つて變へられた部分であり、またそこには失つた對象
も含まれてゐるのである。だが、それほど殘酷に振舞ふ部分も、我々にはやはり未知のものではな第七章、同一化
S.
七二
鬱屈心理と自我の分析
い。そこには良心と云ふ、自我内の批判的機能1)も含まれてゐるのである。この機能能力は常態の場合に
あつても、自我に對して批判的態度をとるが、決してさほど殘忍でもなければ無理でもないのである。
既に前の機會に我々は、さう云つた機能が自我のうちに發達したために、自我が自餘の部分から自ら
を切離し、さうしてそれと軋轢を生ずるに至る假説2)を立てざるを得なくなつたのである。我々は
それを『理想我』3)Ichideal、と名付けた、そして機能としては自己觀察、道徳的良心、夢の檢閲、抑
壓の主要勢力等はそれに由づるものとしたのであつた。既に述べたとほり、理想我は子供の自我が自
己滿足を見いだし-
た、起源としてのナルチスムスの後嗣である。理想我は環境の影響中から、その環
境が、自我に對してかけるが自我の方では常に協-
得ない要求を、徐々に掻き集めるのだ。それ故に
人は、自分の自我そのものには滿足しない時にもなほ、自我から分化した理想我のうちに滿足を見い
だし得るのだ。なほその上我々が明かにしておいた通り、この機能の崩解は監視の狂ひとなつて露は
れ、かくて權威者の感化、就中兩親の感化に依つてこの機能が生じ來つたことは明かになるのであ
る4)。しかし、我々はそのやうに附言することを忘なかつた、即ち、この理想我と現實の自我との
距離は結局個人々々に依つて頗る不定であり、また多くの人々に於いて、自我内のこの分化は、子供
等に於ける以上には進んではゐないと。S.
73
註 (1) 『Zur Einführung des Narzissmus』, 『Trauer und Melancholie』.
(2) 我々は集団のリビドー的組織を理解するためにこの材料を使用し
得るに先立って、我々は対象と自我との相互関係をなほ一二三考察し
なければならない。)しかし、我々が集団のリビドー的組織を理解するためにこの材料を使用し得るに先立って、我々は
対象と自我との相互関係をなほ一二三考察しなければならない。)
(註 1) 我々は病理学からとつたこれらの例を以て同一化の性質を十分に説き盡したとは思つてゐないし、
従つてまた集団構成の謎の部分を論ぜずに残した事を我々はよく承知してゐる。更に一層根本的な根
的な心理的分析が、この點に就いてなされるべきであつたのだ。一つの道は同一化から模倣を経て感情移
入へと導かれる。つまり相手の心的機制の理解へと導かれるのである。この理論によつて我々は他人の
心的生活に對して兎も角何等かの態度をとり得るやうになるのである。その上また、實際存在してゐる
同一化の顯はれに就いて説明すべきことがまだ澤山にある。これらの同一化の結果は、就中同一化に相
手にする本人の攻撃慾を制限し、かつ寛恕と援助を供するやうになる。かかる同一化(例へば、民
族感情の根底にある同一化)に関する研究からして、ロバートソン・スミス (Robertson Smith) は、
それの實質が共通であると云ふことの認識から同一化が生ずるといふ驚くべき結論を得た。(『Kinship
and Marriage』, 1885) それ故にまた同じ釜の飯を喫へば同一化が得られると云ふことにもなるので
ある。しと見ればこの種の同一化は、私が『トーテムとタブウ』中で述べた、家族の初期歴史と関係
のあることになるのである。
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集團心理と自我の分析1921-001/1931.ja
1921-001/1931.ja/7