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    三

    第一章 緒言

    個人心理學と社會心理學若しくは集團心理學との相違は、ちょっと見ると重大であるやうに思はれ
    るが、更に厳密に吟味するならば、それほどではないのである。如何にも個人心理學は個人を扱ふも
    のであり、個人が本能の満足を見いださうとする経路を研究するものである。しかしたゞ稀に、例外
    的條件のもとに於いてのみ、個人心理學は他の人々に對する個人の關係を無視する事が出来るのだ。
    個人の心的生活には、模範として、對象として、助力者として、反對者として、何人かが常に必ず包
    含されてゐる。それ故に最初から、この廣義な、しかし全く正常な言葉の意味に於いて、個人心理學
    は同時にまた社會心理學なのだ。

    兩親及び兄弟姉妹、愛の對象、醫師などに対-
    する個人の關係-
    一貫に、これら一切の關係はこれま
    で精神分析的研究の主たる題目であつた-
    は、當然社會現象と見做さるべきものである。この點に
    於いて、それらの關係は一定の他の過程、即ち我々の所謂「ナルチステイッシュ」
    な過程と

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    集團心理と自我の分析
    比較することが出来る、何となれば、その過程に於いて、本能の満足は他の人の影響から幾分か、
    又は全部獨立するからである。從つて、社會的な心的作用とナルチスチッシュ–これをブロイレル
    Bleuler は恐らく「アウティスチッシュ」 autistisch と稱するであろう–な心的作用との相違は、一切
    個人心理學の範圍に屬するもので、これを社會心理學若しくは集團心理學と區別するは安當でない。
    前述の關係–即ち、兩親及び兄弟姉妹、戀人、友人、醫師などにする關係に於いて個人は、彼
    にとつて非常に重要になつてをる只一人の人か、若しくは極めて僅の人々の影響を蒙るのである。そ
    こで、社會心理學若しくは集團心理學を云々する場合には、これらの關係を無視して了ひ、多數の人
    人が同時に個人に與へる影響だけを特にその方面の研究問題とする習はしになつたのである。即ち個
    人には何らかの點で關係を有するが、その他の點ではその個人には縁もゆかりもない人々の影響を問
    題とするやうになつたのである。それ故に集團心理學は、民族、國家、社會階級、職業、制度などの
    一成員としての個人を取扱ふか、或は一定の時に、一定の目的のために、一集團に組織された群衆の
    一成分としての個人を取扱ふのである。かくして自然的には結合してをるものを一度引離してしまつ
    た曉には、これらの特殊な條件のもとに現はるる現象を、これ以上還元し得べからざる特殊な本能、即
    ち社會的本能(「群集集本能」、集團心理)の表現と見做すことは容易である。何故特殊かと云へば、こ

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    五

    の本能は他の状態に於いては現れないからだ。しかし、恐らく我々が敢へて反対しても差支あるまい
    と思ふことは、多数寄り合ふ場合以外には現れない新しい本能が多数の場合には我々の心的生活に
    ひとりで目覚めると云ふほど、そんなに重要な意義は多数と云ふ要素に歸するのは困難らしいと云
    ふ點である。それ故に、我々は次の二つの事をまづ可能として期待かけねばならぬ。―その一つ
    は社會的本能が原始的のものではなく、またそれだけを引離すことの出来るものではないかも知れぬ
    と云ふこと。他の一つは、例へば家庭のやうな、もつと狭い範圍に於いて社會本能の發達の起源を發
    見し得るかも知れないと云ふこと。

    集団心理学はまだ揺籃時代にあるとは言へ、無数の問題を抱蔵し、從來互の適當な區別さへつかな
    かつた無数の問題を研究者に提出してゐるのである。集団構成の種々なる形態に關する分類だけで
    も、またそれら形態の生み出した心的現象に關する記述は多大の觀察と説明とを要するものである
    が、既にそれらに關する夥しい文献が現れてゐる。この小著の限られた紙面と集団心理学の範圍とを
    比較するならば誰しも、問題の全分野中から僅かに二三を選んでこゝに取扱ひ得るに過ぎないことな
    直に察することが出来よう。しかもそれらの二三の問題は、實に精神分析的深層心理学が特に關心を
    有つ問題のみであるのだ。