• S.

    55

    第六章 爾餘の諸問題と研究の諸方面

    知つた。これら結合の一つ、即ち指導者に
    對する結合は、他の一つ、即ち集団の成員
    相互間の結合よりも(少くともこれらの
    場合には)一層決定的であるやうに思は
    れる。

    ところで、集団の形態に就いて吟味し、
    かつ記述すべきことが、ほかにまだ澤山
    にまう、これらの結合がその内部に出来
    上らない限り、異なる人々の集合は集団
    ではないといふ事實から説きはじめなけ
    ればならないのであつた。しかも、如何
    なる集合にあつても、心理学的集団を構
    成しようとする傾向が、極めて顕れ易い
    ものだと云ふことを、我々は認めなけれ
    ばならないのであつた。我々はまた、自
    然に發生する、多少とも鞏固な、様々の
    集団に留意し、それらの起源と崩解との
    條件をも研究すべきであつたのだ。就中、
    我々は指導者を有つ集団と、指導者を有
    たない集団との相違を研究すべきである。
    即ち、指導者を有つ集団が一層原始的な、
    完全なものではないのだらうか、

  • S.

    五六

    集団心理と自我の分析
    指導者を持たぬ集団に於いて、観念が、換言すれば、抽象物が、指導者(宗教的集団は目見えぬ首
    長を奉戴してゐる點に於いて、かゝる状態への過渡的段階を構成してゐる)の代償となるのではない
    だらうか、また共通の傾向が、即ち若干の人々の興し得る願望が、同様に代償の役に立つのではない
    いだらうか、といふやうなことを考究すべきである。なほ、この抽象物は、所謂第二次的指導者の形
    に於いて、多少とも完全に具體化されるかも知れない、そして観念と指導者との關係の多種多様さは
    興味あるものであらう。指導者若しくは指導観念は、謂はい、消極的なものであるかも知れない。即
    ち、特殊の人物或は制度に對する憎悪が働いて丁度同様に統一する効果を生ずるかも知れないし、ま
    た積極的に同種類の感情的結合を促すかも知れないのである。それ故に、指導者は集団の本質として
    實際に缺くべからざるものであらうかどうか、といふ問題がやはり生ずるであらう――剰へその他の諸
    問題も……。

    しかし、これらの問題はまた集団心理學の文獻中に幾分かは取扱はれてゐるかも知れないが、これ
    等一切の問題のために、集団の構成に就いて我々の發見する根本的な心理學上の問題に對する興味を
    我々は忘はしないのである。我々はまづ如何にして、リビドー的結合が集団の特性であることな最
    も簡明に證明すべきかを考へるのである。

  • S.

    五七

    我々は、一般人々の間に存する感情的関係の性質を注視することにしよう。Schopenhauer が寒さに凍えてゐる豪猪に喩へて云つた有名な言葉に依れば、何人も隣人があまりに
    親しげに近付いて来るのを我慢し得るものではないのである。1)

    註 (一) 『豪猪の仲間が、或多の寒い日に、凍死を免れんがために互の温みを利用しようとして、ぴたりとくっつ
    きあつてひと塊になつてゐる。が、程なく彼等は互の刺が刺戟し合ふのを感じたので、再びばらばらに
    なつた。ところが、温みの必要から再び密集した時、刺の禍が又も起つた。そのために、彼等は一つの
    頼ひから他の頼ひへと前後を遂ひたゞられなが、遂に大抵我慢してゐることの出来る適度の距離を發見
    したのであつた。』― (Parerga und Paralipomena, II. Teil, XXXI. „Gleichnisse und
    Parabeln“.)

    精神分析の證明するところに依れば、暫くの間持続する二人の人間の間に於ける殆ど總ての親密な
    感情的関係 ― 結婚、友情、親子の関係こゝには、嫌悪及び敵對の感情の滓を留めるものであるが、
    それらの感情の知覺されないのは抑壓の結果である。これがもつと露骨に出るのは、商賣仲間に於け
    る共通の誓ひ、若しくは上長に對する配下の不平などに於いてである。同一のことは、人々が一層大
    なる單位となつて結合する場合にも生ずる。一つの家族が姻に依つて結合される度、それらの諸
    族はそれゞ\自らを相手よりも優れたものと考へ、或は相手よりも一層よい家柄であると考へる。二

    第六章 爾餘の諸問題と研究の諸方面

  • S.

    五八

    集団心理と自我の分析
    つの隣りあつてゐる町は、それぐ-
    相手の最も警戒する競争者であり、またあらゆる小さい縣は他の
    縣を蔑視する。親密な関係を有する民族は互に角突き合ふ、即ち、南ドイツは北ドイツが癪にさは-
    り、イギリス人はスコットランド人に対してあらゆる醜い名を投げ掛けるし、スペイン人はポルトガ
    ル人を軽蔑するのである。しご見れば相違が一層大きい場合、例へば、フランス人とドイツ人、アー
    ルヤ民族とセミト民族(2)、また白人種と有色人種との間には殆ど除去し難い嫌悪を生ずるのを見て
    も最早我々は驚きはしない。

    (1) 恐らく唯一の例外は母と息子との関係であつて、この関係はナルチススムスに基づくのであるから後に蔑
    辱し合ふやうになつて障碍されることなく、しかも性的対象選択上の基準となるので強められるのであ
    る。

    (2) Arier, ヨーロッパの殆ど全部と、ペルシアからインドへかけてアジアの南西部ひろがつてゐる民族
    のこと。Semiten, ヘブライ、アラメア、フェニシア、アラビア、アッシリアの諸民族のこと。(譯者)

    この敵意な他の関係では愛してゐる人々に向けゐる時には、我々はこれを感情のアンビバレンツと稱
    する。我々はこの事実を、恐らくは非常に合理的な方法に依つて、即ち、かゝる親密な関係からまさし
    く生ずる利害の軋轢に関する無数の理由に依つて説明するのである。人々はかゝりそめに接する赤の他

  • S.

    五九

    第六章 爾餘の諸問題と研究の諸方面

    人に對して露骨な反感と嫌惡とを感ずるものであるが、それ等のうちに、我々は自己愛の現れを、即
    ちナルチスムスの現れを認めることが出来るのである。この自己愛あるために、個人は自己主張をな
    すやうになり、また個人自身の特殊な發達の進路から逸せんとするやうなことのある場合には、その
    逸脱に對する批判がそこに伴ひ、またその逸脱を改變せんとする要求が生ずると云ふ風になつて来る
    のだ。何故にこんな、一寸した變化にこれほど敏感になるのか、我々はその理由を知らない。しかし-
     

    かうした關係に於いて、人々が他人を憎悪せんとする、即ち攻撃せんとするものであるこの證跡が
    見られるのだ。この攻撃慾の起源は分らないが、しかしこれは人間の基本的特性であるやうに思はれ
     

    る。1)

    註 (一)最近出版した研究 „Jenseits des Lustprinzips“, (1920) (對馬完治譯
    第六卷 (既刊) に於いて、私は生活本能と死の本能との假定的對立に依つて愛と憎悪との兩極性を結合
    しようと試み、また前者即ち生活本能の最も純粋な例として性的本能を確證しようと試みた。

    しかし、この狭量の全部は、一時的にか或は永久的にか、集團構成の結果として、また集團内に於
    いて消滅するのである。集團構成が存続する限り、若しくは擴がつてゐる限り、各個人はたゞ差別が
    ないかのやうに振舞ひ、他の人々の特性を寛容し、他の人々と平等の水準に身を置き、かつ彼等に對
    しては、自己愛の要求を抑制する。

  • S.

    六〇

    集團心理と自我の分析
    して毫も嫌悪の情を懐かないのである。かゝるナルチスムスの制限は、精神分析的見解に從へば、唯
    一つの契機たる、他の人々とのリビドー的結合に依つて生ずる結果にほかならないのである。自己愛は
    他人に對う愛、換言すれば對象愛だけが障碍である。ここに問題が直に起きる、本來利益社會
    は、リビドーの附加はなくとも、他の人々に對する寛容及び考慮を必然に生ずべきものではないだら
    うかと。この抗言に對しては、かう答へることが出来る―だが、利益のための寛容は他の人々の共
    同の働きから得られる直接の利益が終ると共に終るので、ナルチスムスを永續的に制限しておくこと
    は決して出来ないのであると。しかし、かう云ふ議論は實際上さほど重要ではないのである。何故か
    と云ふに、經驗の示すところに依れば、共同の働きの場合には、リビドー的結合は働く者同士の間に
    常に必ず構成され、そのために彼等同士の關係を、單に利害以上の點にまで延長し、かつ親密にする
    からである。同様のことは、人々の社會的關係に於いても起るが、この事は個人的リビドーの發達過
    程を精神分析的に研究して分つてゐるのである。リビドーは重要な生命的必要物に關する滿足に依拠
    し、かゝる最初の對象として、その必要物に関係深き人々を選ぶのである。それ故に、人類全體として
    の發達に於いても、個人の場合に於けると同じく、ひとり愛のみが利己主義から利他主義への變化を
    生ずる點に於いて、文明的要因としての働きをなすのである。しかもこのことは、女に對する性愛に
     

  • S.

    六一

    就いても(よしんば女の好むものは割愛せねばならぬと云ふ義務がそこに含まれてゐるにせよ)他の男に對する非性的な同性愛(これは共通の仕事から發する)に就いても眞實である。
    註(一)Zur Einführung des Narzissmus, 1914. „Kleine Schriften zur
    Nervenlehre“, Vierte
    Folge, 1918. 參照。

    それ故に、もしも集團に於いて、ナルチス的な自己愛が集團外では起らない制限に服すならば、
    それは集團構成の本質が、集團の成員間に生ずる新たになりビドー的結合に存するといふことの適切な
    證據である。

    しかし、我々の興味はこゝに於いて、集團内に存するこれらの結合が如何なる性質のものかといふ
    緊急の問題に向けられる。神經症に關する精神分析的研究に於いては、これまで殆ど専ら、直接の性
    的目標をなば追求する愛の本能とそれの對象との結合ばかりを調べて来たのであつたが、集團にあ
    つては、明かにその種の性的目的が問題とならばないのだ。我々はこの場合、本來の目的から轉向
    された愛の本能を考察することになるのであるが、それらの本能の作用は、その轉向のためエネル
    ギーを減じてはゐないのである。ところで、我々は既に在來の性的對象線維の範圍内に於いても、本
    能がその性的目的から轉向されてゐる現象を觀察したのである。我々はそのそれらの現象を惚込みの度

    第六章 實驗の諸問題と研究の諸方面

  • S.

    六二

    集團心理と自我の分析

    合と稱し、かつそれらの現象には自我に對する多少の侵蝕が含まれてゐたのであつた、
    そこで、我々はこの惚れ込みの現象へ一層厳密に我々の注意を向けようとするのであるが、それは、
    集團内の結合に轉向しなさな要件をそれら現象のうちに發見し得ると違ひないとの確乎たる期待を
    つからである。しかし、我々がやはり知りたい點は、我々が性的生活に就いて知つてゐる如きこの種
    の對象凝締が、他の人々との感情的結合の唯一の結び付き方かどうか、或はこの種の他機轉をも
    考慮に入れなければならないのではないだろうか、といふことである、實際、我々が精神分析から學
    ぶところに依れば、そこには感情的結合上他の機轉が、換言すれば、所謂同一化といふ十分に知られ
    てゐない、叙述には困難な過程が存するのである。で、我々は、同
    一化に關する研究を試みるために
    暫くの間、集團心理學の問題から遠ざかつてゐなければならない。