S.
二三七
第八章
回想すべき時が来た。我々は拒愛の本質を究めろ見解を探求し、又これに闘する理を誤謬より
區別する處の甲か―或は乙かを明かに探求してゐるのである。然しこれは困難であつて、拒愛は簡單
には説明されないのである。これまでは、それ等の間には偏見なしには何等の撰擇もなし能はなかつ
たといふ矛盾があるばかりで、他に何も得るものはなかつたのである。余は今これを變更して提言し
たい。即ち吾人は拒愛に就いて論じられてゐるあらゆるものを公平に蒐集しようと思ふ。又それに當
つて輕々しく綜合を試みるが如き期待は放棄しようと思ふ。拒愛は先づ第一に何が感じられたものである。吾人はそれを感情狀態と云ふ。然し感情とは何であ
るかは認知しないのである。拒愛は感情として不快性質を持つてゐるが、然し感情に拒愛の性質を附
らない。故に吾人は如何なる不快を拒愛と名づけることは出来ない。それには不快性質(緊張、苦
痛、悲哀)をもつ感覺は他に存するのであつて、而して拒愛はかかる不快性質以外に他の特殊のもの
を持つてゐなくてはならないのである。そこで一つの問題が生ずる。斯かる種々なる不快感情の間の
差別を吾人は理解することが出来るであらうかといふ事である。第八章
S.
三二八
禁制と徴候と杞憂
杞憂の感覚中から吾人は常に何かを抽出する事が出来る、杞憂の不快性質は特殊の記號を持つ
てゐるやうに見える。これは證明することは困難であるが事實らしい。また何も驚くには當らぬ事か
もしれぬ。然しこのむづかしい飛放れた特質の外に、吾人は杞憂に對して一定の肉體的の興奮を受け
る。これは一定の器官に關係するものである。然しこゝでは杞憂についての生理學を述べる事は吾人
に興味がない故、たい。それらの感覚の各代表を、即ち呼吸器及心臓に於て最も屢々起り且つ最も著明
なるものを引用すれば十分である。これに就ては運動性の神經感即ち傳達作用が杞憂の全體に關與
してゐることの證明である。杞憂状態を分析すれば次の如くである。第一に特殊の不快性質、第二に
傳達作用、第三にその知覺。第一第二は直ちに同じ様な状態に對して、例へば悲哀と苦痛に對して或差別を與へて呉れる。こ
れらの場合には運動性の表現は伴はない。が、もしそれが存在する場合には、それは明かに全體の成分
としては區別されないで、むしろ結果若しくは反應として區別される。それ故杞憂は一定の軌道の上
の傳達作用をもつた特殊の不快状態である。吾人の一般的見解によれば、杞憂はその根本に亢奮の増
加があつて、その一方は不快性質を作り、他方は謂ふ處の傳達によつて緩和されると信ずるのであ
る。然しこれを純粋に生理的に統括することはまだ十分満足には爲されてゐない。故に、そこには病S.
一三九
第八章
歴的要素があつて、それが杞憂の感動と神経應態と
相互に固く結合させてゐることを假定しようと
試みたのである。換言すれば杞憂状態は或る経験の再生であり、然かもその経験は、斯かる刺戟増加
と一定の軌道の上への傳道との條件を含んだものであり、それによつて杞憂の不快は特殊の性質をも得
るといへるのである。斯様なるもの、初型的の経験として出産といふ事が人間には存在する。これによ
つて我々は杞憂状態に於て出産外傷の再生を見ることを肯定するのである。杞憂に對して感情状態の例外の場合が認容されるといふ事は我々は少しも主張してゐない。我々の
考ふる處では、他の感情も亦古き、生活に必須なる、時には個人以前の経験の再生したものであり、
而して吾人はこれを一般の典型的の生来のヒステリー性の發作として、將來の且つ個人の後天的のヒ
ステリー發作の襲来と比較する。このヒステリー發作の本體と意味とは分析によつて記憶のシンボル
として闡明されたものである。勿論この解釋を他の種類の感情に就いて證明することは極めて望まし
いことであるが、今日では猶不可可能のことである。杞憂といふものが出産状況に遡つて考へられる事は、異論の襲来に對して好個の辯明となつた。杞
憂は恐らく總ての有機物には蓋然的に、總てのより高等な動物にはあらゆる場合に現はれる反應であ
つて、出産はたゞ哺乳動物にのみ経験されるものである。然し出産は總てこれらのものに對して外傷S.
二四〇
禁制と徴候と祖憂
の意味を持つや否やは疑問である。従つて出産原型の
理學との間の限界を超えた處には存在する。實に、祖憂は、危険狀態の反應として、生物學的に必須
なる機能を滿たすものなるが故に、種々な方法によつて種々なる生物に使用される。然し祖憂は、人
間より緣遠い生物に於ても人間と同様に、感動と傳達にその内容を有するや否やは、吾人はそれは知
らぬことである。だが、人間には於ては祖憂が出産過程を原型として採るといふことは異論のないこと
である。斯くのごとき事によつて祖憂が組立てられ且つ完成するとすれば、次に来る問題は、祖憂の機能は
何か、如何なる機會にそれが再生されるかといふ事である。解答は燦として明白であり且つ痛切であ
る。祖憂は危険の状態への反應として生ずるもので、斯かる狀態へ再び直面した時に、規則的に再生
されるものである。此處に二三の注意すべきことがある。最初の祖憂狀態の神經傳達は、最初のヒステリー發作の筋肉
動作と全く同様に、恐らくまた有感覺であり合目的であつたのである。若し我々がヒステリー發作を
説明せむとするならば、ヒステリー運動のうちで正當の行動であつた部分だけを探求する必要が確か
にある。出産の間には恐らく呼吸器の神經傳達の方針は、肺臟の活動を準備し、血液の中毒に對してS.
二四一
第八章
は心搏の震動をつとめんとすに在つたのである。この合目的的なことは、反復し来るヒステリー發作
の際には失はれて、將來感情として拒憂狀態が再呈される場合に無論消失するのである。故に若し
個人が或る新らしい危険狀態に遭遇する時には、忽ち非合目的的になつて、現在起つてゐる反應を打破
する事が出来ずに、拒憂狀態、即ち以前の危険への反應をもつて答へるのである。合目的性然し危
險狀態の接近せることを知り、拒憂發生によつて信號された時には再び出現する。拒憂は斯かる場合
には直ちに適當なる測量によつて弱められ得るのである。そこで直ちに拒憂の出現に二つの可能性が
分たれる。その一つは非合目的性の、或る新らしき危険狀態の場合であり、他の一つは合目的性の或
然らば『危険』とは何であるか。出産行動に於ては生命保持に向つて客觀的危険があり、これが現實
に如何なる意味を有するかを吾人は知つてゐる。然し心理學的には全くそれに就いて云へない。出産
の危険はいまだ何等の心理的内客をもつてゐない。確かに吾人は胎児の場合には生命絶滅の轉歸の可
能に就ては何等の種類の知識を持たないのである。胎児は自分のナルチス的リビドーの經濟に多大の
障碍を受けることより以外には何事も知らないのである。多大の全亢奮が胎児を襲ひ新しき不快感が
生れ、多くの器官は自身に昂められた經緯を強調する。これは間もなく開始される對象經緯の序曲のS.
二四一
禁制と徴候と杞憂
如きものである。これ等の中から何者が『危険状態』の特徴として應用
されるのであるか。
初生児の精神状態に就いては、遺憾ながら全く僅かより判つてゐないので、吾人は此の問題を速答
することは出来ない。余は前述の説明が有効であるか何かは明瞭でない。然し初生児は出産事件
を思出すやうな場合に遭遇すると杞憂感情を再生するのだと思ふ。が、何によつて、又何に於て
初生児はそれを思出すかといふ決定点が残されてゐる。
吾人の仕事は、初生児又はそれより稍長じた小児が杞憂發生を現はす起因を研究する以外には幾つ
てゐない。ランクは彼の著書『出産の外傷』の中に極めて努力的な研究を為したのである。そして小
児の最初の恐怖症は出産印象に関係してゐると證明してゐるが、余はその論を完璧なものとは思は
ない。これは二方面から非難し得る。第一にランクは、小児は出産時に一定の感覚印象、殊に視覚的
の性質をもつた感覚印象を所有して居り、それが更生されて、出産外傷の回想と共に杞憂反應を喚起
したといふ假定に據つてゐる。然し乍らこの假定は全く證明できないものであり、且つ頗る非現実的
なものである。即ち小児は觸覚以外のものや出産過程の全般的感覚を持つてゐるとは信じられない。
又小児が、穴から出たり這入つたりする小動物に對して将来杞憂を示す場合には、ランクはこの反應
を類似性の認識によつて説明してゐる。これは然し小児にとつては不思議な事にはならないのであ
る。S.
二四三
第八章
る。第二にランクは、将来の杞憂状態の評價をするに當つて、幸福であつた胎内生活の思ひ出や、或
は胎内生活の外傷的障碍の思ひ出を、必要に應じて有効にさせようとして、それによつて勝手に意味
をつけてゐるのである。この小兒杞憂の個々の例は直接にランクの原則に反對してゐる。若し
小兒が闇黒や孤獨の場所に置かれた時には、胎内狀態の再生として滿足感がすることが期待されてよ
い筈である。又若し其場合に杞憂を起すといふ事實が、出産によつて斯かる幸福が障碍されたといふ
記憶に基くならば、吾人は斯かる解釋の強要を永く誤解してはゐられないのである。
余は結論として、最初の小兒恐怖症は出産の印象へ直接に歸還したものとは云はれず、且つ結局そ
の説明は今日まで出來なかつたと云はねばならぬのである。哺乳兒の或る杞憂胚胎は明瞭なものであ
る。これは出産の直後には最強のものではない。それは徐々に減退する爲めである。故にむしろ先
づ其後の精神的發達の進歩と共に出現して、而して小兒時代の一定の時期を過ぎて止むのである。若
し斯かる早期恐怖症がこの時代を超えて續いてゆくのだつたなら、それは神經症的障碍の疑ひを起さ
せる。たとへ其後にあらはるゝ小兒時代の神經症との關係が、我々には全然洞察できなくともである。
小兒の杞憂表現は僅かの例しか吾人には理解されてゐない。吾人は是れを手掛りとしなければな
らぬ。實際、小兒が獨りでゐる時、暗い處に居る時、又は自分の信頼してゐる人(母親)の場所に知らS.
二四四
禁制と徴候と杞憂
ない人を見た時、この三つの場合は、唯だ一個の條件、愛してゐる(慕つてゐる)人の消失といふ事に
還元される。此處から杞憂を理解する途及び杞憂に結合してゐるらしい矛盾を協調する途が開けてゐ
るのである。愛慕する人の記憶象は、ある強さで、恐らく最初は幻覺的に纏綿されてゐる。然しこれは何等の結
果を起さず、又この愛慕が恰も杞憂に融替するかの如き觀を呈するのである。それは恰もこの杞憂
は、いまだ十分發達せざる者が斯かる愛慕的纏綿を持つて、爲す處を知らないといふ、焦燥狀態の表
現のやうであるといふ印象を受けるのである。それ故に杞憂は對象消失の反應として現はれ、而して
去勢杞憂は、亦その内容として最も高く評價した對象から分離することであり、又最も根原的の杞憂
(出産1)の『原杞憂』)は、母との分離の際に成立するといふ類推を爲さざるを得ないのである。次の考察はこの對象消滅の主張を乗り越えて更に進んでゆく。若し初生兒が母を知りたいといふな
らば、それは母が直ちに自分の要求を滿足させて呉れることを經驗によつて知つてゐる故に、その爲
にのみ知りたがるのである。小兒が「危險」と認めたやうな狀態に對して、安全にならむと欲してゐ
る狀態は、不滿足の狀態、慾望緊張の増加の状態であつて、これに對して彼は無力である。余はこの觀
察點から出發して總ての事を分類した。即ち強度の刺戟が精神的の利用や排除によつて征服されずS.
二四五
して高度の不快に到達したといふ不満足状態は、新生児にとつては出産経験の類推や危険状態の反復
でなければならぬ。この兩者の共通性は、解決を要求する刺激強度が増加した爲に起つた経済的障碍
であつて、その要求はそれ故に危険の根本的核子である。兩者の場合に、新生児にも亦合目的として
證明されやうな拒愛反應が現はれる。これは即ち、呼吸筋や横隔筋に傳達するといふ目的が、母を
呼ぶ事になるのである。これは恰かも以前には内部刺激の除去の爲めに肺の活動を起させたやうにで
ある。認識によつて理解され得る外界の対象が、出産時を想起させる危険状態によつて解決され得るとい
ふ経験から推して、今は危険の内容が経済的状態から自分の條件、即ち対象消滅の條件に轉移してゆ
く。故に母を見失ふことは危険になるのであつて、これが起るときに哺乳児はこの怖るべき経験状態
の起る前に拒愛信號を發するのである。斯かる變化は、自己保存に就いての配慮の一つの最初の大な
る進歩を意味し居り、同時にこれは、危険の信號として、自動的に欲しなかつた拒愛の新生から、企
圖したそれの再生までの経過を抱括してゐる。第八章
兩者の觀察に於て、救助信號と同様に、自動的現象として、拒愛は新生児の心理的無救濟の所産と
S.
二四六
禁制と徴候と拒愛
して現はれる。この心理的無救済は彼の生物学的無救済と明かに對比され得るものである。出産拒愛
と哺乳兒拒愛とが相共に母からの分離といふ條件を認めるというふ奇怪なる關係は、何等心理的意味
を要しないことであつて、生物學的には簡單明瞭に次の事實から説明できる。即ち母は、先づ胎兒の
あらゆる要求を母胎の順應といふことで満たしてやり、出産後も亦同じ機能の部分を他の方法を用
ひて繼續させてゐるのである。胎内生活と嬰兒時代とは、出産といふ奇怪なる檢閲官が我々に信じさ
せるよりは遙かに優つて連續性である。心理的の母對象は、嬰兒にとつては生物的の胎兒狀態として
見做されるのである。それ故に胎内生活では母といふものは少しも對象にならなかつたのである。否
胎内では對象などとは決して存在しなかつたといふ事を忘れてはならないのである。これ等の關係の中には、出産外傷などの入り込んで来る餘地は少しも認められないのである。而し
て拒愛の他の機能は、危険状態を防止すべき信號の機能としては認められないといふ事も容易に判る
のである。對象消滅の拒愛條件は今も猶は全部を引繼いで持つてゐる。又拒愛の二次的變化、即ち男
根期に於て發生せる去勢拒愛は即ち離拒愛であつて且つ同一の條件に結付いてゐるのである。危険は此
處では性器との別離である。フ-
レン-
チ、の完全無缺と見られる考へ方は、吾人に此處で、危険狀態
の早期の内容を有する關係の部分を明瞭に承認させる。男根の高さナルチス的評價は、この器官の所S.
二四七
有が、性行為によつて母(母の代償)との再度の合一に向つて保證を得るといふことである。こ
の男根の掠奪は母との新たなる別離にも比すべきもので、それ故に更に不快に満て慾望緊張(出産
時の如き)にょよを以てすして引渡さることを意味してゐる。慾望の昇騰は怖るべきものであるが、こ
れは性器リビドーの特殊のものであつて、最早、哺乳児に於ける如く随意のものではない。余が此處
で附言して置きたい事は、母胎に復歸せむとする空想ファンタジーは、陰萎の代償性行為(去勢脅威による禁壓)
であることである。フ-
ィンチィの意味では、自分が母胎への復歸の為めに、自身の性器をもつて自
分に代理せしめむと欲する人は、退行的に、自身の全身體によつてこの器官を置換へてゐると云ひ得
るのである。小児の發育に於ける進歩、その獨立の増加、多の點に於ける彼の精神装置の文化、新慾望の出現
は、危険状態の内容に影響を與へずには措かぬのである。吾人はその變化を母對象の消失より去勢に
至るまで探究し、第二の進歩が超自我の威力によつて惹起するのを見ようと思ふ。去勢を威嚇してゐ
る兩親の威力の前で人間性が掠奪されると共に、危険は一層一定しないものとなる。去勢杞憂は生長
して良心杞憂となり社會杞憂となる。故に最早こゝでは、杞憂は何を怖れてゐるのかは、餘り容易に
は云ひ得ないのである。『群集からの除外、別離』といふ公式は、社會の原型に依拠することに於て自S.
二四八
禁制と徴候と拒嬰
身に發達したる超自我の、かの後期の部分にのみ當て嵌まり、攝取されたる兩親の威力に一致せる超
自我の中核には嘗て稍まらないのである。更に一般的に云へば、それは憤怒であり、超目的の懲罰で
あり、その側の愛の消失であつて、それ自体が危険として認め、拒嬰徴候をもつて答へたものであ
る。超自我に對しての斯かる拒嬰の終末の變化として、余には死の(生命の)拒嬰、即ち超自我の撥出
作用に對しての拒嬰が、運命の威力のもとに現はれたのである。余は嘗て、抑壓の際に撤回された飜編は、拒嬰傳達として利用されるものであるといふ説明に或る
一定の價値を置いたのである。これは今日では殆んど主要でないやうに思はれる。この差異の生じた
理由は次の事からである。即ち拒嬰は如何なる場合にも經濟的過程によつて自動的に生ずるものであ
ると余は嘗て信じてゐたが、拒嬰を快不快原則の影響の目的のために自我から企圖された信號だとし
てゐる今日の解釋は、前述の經濟的過程といふ説明を無視してゐる故に、其處に差異が存在するので
ある。自我は、抑壓の場合に撤回されて自由になつたエネルギーを、直ちに感情の喚起に利用するも
のであるといふ假定に對しては、無論何等云ふべき事はないが、然しこれが如何なるエネルギーの部
分によつて生ずるかといふ事は無意味なこととなつたのである。余が嘗て述べたことのある他の問題は、吾人の新しい解釋の照明によつて、十分なる試験をされむ
S.
二四九
第六章
こと熱望してゐる。それは自我が本来の
杞憂場所であるといふ主張である。思ふに、
これは適中してゐると證されよう。我々は超
自我に對して杞憂發生を分けてやる様な動
機は少しも持ち合せてゐない。然し、若し
『エスの杞憂』に就いての問題であるならば
決して反對しないで、却つて未熟な表現を
吾人は訂正してやる。杞憂は無論自我から
のみ探索され得る感情状態である。エスは
自我の如く杞憂を持つことは出来ず、何等
編成されたものでない故、危険状態を抑制
することは出来ない。これに反して、エス
に於ては自我に對して杞憂發生の動機を
與へる機制を準備し或は完成するといふ
ことは無論屢々起る現象である。事實に於
て、大抵の最も早期の抑壓は、其後のあら
ゆる抑壓の多數の如くエスに於ける個々の
機制に基いた自我の杞憂によつて確證でき
たのである。吾人は此處で更に、好き好
根柢をもつて二つの場合に區別しよう。そ
の一つは、自我に對して危険状態を活動的
にさせるやうな物がエスの中に生じること
で、これによつてはそれを禁斷すべく杞憂
信號を與へようと運動する。第二は、エス
の中に出産外傷に類似せる状態が起り、
それによつて自動的に杞憂反應を招くので
ある。吾人はこの二つの場合を相互に接近
させることが出来る。それには第二のものは、
最初の然かも根原的な危険状態に相當する
が、第一のものは然し其後それから派生し
た杞憂條件の一つであるといふことを提言
すればいゝのである。これは、或は實際的
に現はれる感情に關係してゐる。即ち、第
一の場S.
二五〇
禁制・徴候・杞憂
合は現實神經症の原因となるこのものである。第一の場合は精神神經症に對して特有なもので
ある。今吾人は、以前の報告を無價値にしようとは思はない。むしろそれを新しき見解に結合せしめむと
試みるに過ぎない。禁慾・性的亢奮の經過中の誤用的障碍、性的亢奮が精神的仕事から轉向すること、
これらの場合には、杞憂は直接にリビドーから生ずるものであることは否定できないことである。即
ち過大の慾望緊張に對する自我のかの焦燥状態が現はれる。これは出産時の如く杞憂發生に移行する
ものでであつて、その際、直ちに利用されないリビドーの過剰がその放射を杞憂發生に見出すことは、
又冷淡であるのが明かなる可能性である。この現實神經症の根底の上特に別個に精神神經症が發生
することと吾人は見てゐる。これは即ち自我が暫時停止して置くことを學んだ處の杞憂を省略すべく、
而してそれを徴候形成によつて拘束すべく試みたることである。恐らく外傷性戰爭神經症の分析は、
その病名があらゆる種々雜多なる感情を含んでゐるのだが、これらの中の或る感情は、現實神經症
の特質へ參興してゐることが明かにされたであらう。吾人が原型的の出産原型の中より種々なる危險状態の發生を示すよりも、將來の各杞憂條件が以前
の條件を簡單に無力にするというて主張するのは、吾人に緣遠い事である。自我發達の進歩はひたすS.
二五一
第八章
ら以前の危険状態の價値を低下せしめ、且つ除去せんことに貢献してゐる。その結果として、或
り發育年齢には、それに相當した或る一定の祖憂條件が參與してゐるらしいと云ひ得る。精神的焦燥
の危険は、自我の未發達の年齢に相當する。それは恰かも對象消滅の危険が初年兒の無獨立性に相當
し、去勢危険は男根期に相當し、超自我憂は潜伏期に相當する如くにである。然し乍らあらゆるこ
の危険状態及び祖憂條件は相共に永續し得て、且つ自我は亦相當する時代よりは非常に遠く祖憂反應
を起させることが出來、或はそれらの多くを同時に活動させることが出來るのである。有力なる危険
状態と、それより生ずる神経症との間の密接なる關係は亦成立する可能性をもつてゐるのである。
註 (一)自我及びエスが區別されて以來、抑壓の問題に就いて、吾人の興味は又新たに復活した。從來吾人は機
制が自我に向けられた方面、意識する事と運動性との阻止、及び代償(徴候)形成を觀察するには十分で
あつた。その抑壓された本能元素そのものに就いて、それが無意識の中に不定に久しく不變に生存する
らしいことを吾人は假定した。今やこの興味は抑壓されたものゝ運命といふ事に向けられた。而して吾
人は斯く變化せずに又に變化し難く永續する事は、自明的なものでなく、恐らく一度も馴染のものでな
かつた事を豫想するのである。根本的な本能活動は抑壓によつて禁制され、その目的を轉向させら
れる。然し乍らその素質は無意識の中に於て保留されてゐるものであるか。又それは生活の變化及び低
下といふ事に對して抵抗を示すものであるか。分析によつて早くからその存在を知られてゐる處の古いS.
二五二一
禁制と徴候と杞憂
願望は未だ持続してゐるのであるか。これらの解答は明瞭であり確實であるらしい。即ち抑壓されたる
古い願望は無意識の中に未だ存續されてゐなければならない。何故なら吾人はその後の徴候を
醫者に認識してゐるからである。然しこの徴候は餘り多いものではなく、それは次の二つの可能の場
合には判定することは出来ない。といふのは、古い願望はその總ての纏綿エネルギーを轉嫁させたその
發育によつてのみ現在効力を現す場合或は又古い願望が自ら存續してゐたといふ場合である。この發育
に纏綿することに疲労するが如き運命に到つた時には、更に第三の可能性として、この願望は神経症の
経過中に退行作用によつて再生され、且つ不定時に出現するかも知れないことになる。これらの省察は
無駄なこととは思へぬ。疾病の多くの現象は正常の精神生活の如くに、斯くの如き問題を必要としてゐ
るやうである。余はエヂポス・コンプレクスの消失に關する研究に於て、露骨なる抑壓と、古い願望を
眞に廢棄する事との間の差異に就いて注目したのである。
吾人が、これらの研究の早期の斷片中に於て、神経症的感情よりも更に多く去勢危険の意義に遭遇
した場合に-
は、この要素を宜しく買被らぬやうに自ら警戒したのである。何故ならば、この要素は神
経症の素質を確かに検討もつてゐる女性には、決定的ではないかもしれないからである。吾人は去勢
杞憂を、神経症に導く防禦作用の唯一の動因として解釋する事は、危険でないことを唯今認めるので
ある。余は他所に於て、小娘の發育が去勢コンプレクスによつて如何に愛撫的対象纏綿に向けられる
かを説明した。婦人にあては明白に對象消失の危険状態が最も有力に残留してゐるやうである。吾人S.
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禁制と徵候と杞憂1926-001/1931.ja
1926-001/1931.ja/8