禁制と徵候と杞憂1926-001/1931.ja
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    一八九

    第三章

    自我の問題に瞑らむが為めに一言したい。我々が抽象論を強調し、且つ複雑なる関係から或は一側
    をのみ或は他側をのみ抽出せる事に就いて反對論を受けたやうである。自我をエスから分離すること
    は正しいことに見えるが、これは一定の関係から餘儀なくされた事である。然し一面から見れば、自
    我はエスと同一物であつて、單にエスの特に分化された部分である。我々はこの考への部分を全部に
    對立せしめぬか、或は又この二つの實際の分裂が行はれたとするならば、この自我の薄弱さは明瞭に
    わかるのである。これに反して自我がエスと結合して、分離されずにあるならば、自我は強力とな
    る。自我が超自我に對する關係も亦これと同様である。多くの場合この兩者は合流してゐるが、たゞ
    兩者間の緊張、即ち葛藤の起つた場合には區別することが出来るのである。抑壓の場合に於ては、自
    我は一篇成を作るがエスは何も作らないといふ事實は決定されてゐる。即ち自我は恰もエスの編成
    化された部分である。自我とエスとは、二つの異つた陣營のやうであるといふ比喩は、當らないかも
    知れない。即ち抑壓によつて自我はエスの一部を禁壓せんとするや、エスの殘部は被壓者を援助し
    又自分の強度を自我の強度に比肩せむとするであらう。これは屢々起り得ることであるが、然し抑壓

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    禁制と徴候と犯憂

    抑壓の作用が我々に自
    の出發點が確かでなく、通常抑壓される本能活動は孤立して殘るものである。抑壓の作用が我々に自
    我の強さの現した時には、抑壓は自身の無力といふこと及びエスの各本能活動に對して無影響である
    といふ證據を示すのである。何となれば抑壓によつて徴候の生ずる機關が、自我編成以外に又それと
    は無關係に、その存在を主張するからである。又獨り彼のみならず彼の後裔の總ては同じ特權を享け
    てゐる。故に次の如く云ひたいのである。それは特別統治區域である。然し其處で此の作用が自我編
    成の一部と聯盟を結んだ場合には、此の作用は自我編成を自身に誘引しないかは疑問であり、又自我
    を犠牲に供してこれを占領するかは疑問である。從來より知られてゐる比喩は、徴候を異物として
    見做すことで、この異物は組織内に潜居し間斷なく刺戟及反應の現象を取扱つてゐるとしてるる。
    好ましからぬ本能活動に對して起つた防禦爭闘は徴候構成といふ事で終結をつけろことはあり得る。
    我々の知れる範圍では、これは最初ヒステリー的肉體轉換の場合に見るが、然し通常はこの經過は違
    つてゐる。即ち最初の抑壓作用に次いで永續的の或は無限の發發事件が起り、本能活動に對する爭闘
    は持續されて、徴候に對する爭闘の中に入込んで行く。
    この二次的の防禦爭闘は二つの容貌―反抗的な表情をした―を我々に示してゐる。一方には自
    我は自身の性質に從つて、革新とか調和計畫と考へられるやうな事を企てねばならぬやうに餘儀なく

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    一九一

    第三章

    される。
    自我は一つの編成されたものであつて、その各の編成要素の中自由なる交通及び相互影響の
    可能の上に建立されてゐる。彼の非性的エネルギは之の成立を獨一致及均勢へ向つて努力せむこ
    とを示し、かく綜合しようとする力は自我が強大に發達すればするほど益増加して来る。斯くて自我
    も亦奇怪な又飛び離れた徴候を廢棄し、同時にあらゆる方法をもつて自分に結合させようとし、又
    結合によつて彼の編成を成就せしむべく試みることは明かなることである。かくの如き努力は現に既
    に徴候構成の仕事に影響を與へてゐる事は認められるのである。それに就いての古い例としては、か
    のヒステリ徴候で、それは明かに満足要求と懲罰要求との互譲によつて出来たものとされてゐる。
    斯様に超自我の要求が満たされて出来た徴候は、最初に出來た自我の一部分を所有してゐると同時
    に、一方に於ては自我編成に於ける抑壓されたものゝ状態とその侵入部位とを意味してゐる。故に云
    はゞ混合編成をもつた境界停留所である。總べて最初のヒステリ徴候を斯様にして作られたものか
    否かは精細なる研究を俟たねばならない。自我は永い経験の間に、恰かも熟慮の末なされたかの如き
    態度を示して来る。それは何かといふとに、一度そこに出来た徴候は決して除去することは出来ないとい
    ふことで、云はゞこの状態に満足して且つ出来るだけ大なる利益ををそれから抽出するのである。現實
    の外界に對して自我が最も普遍な仕方で適合させてゐるやうに、徴候によつて代表される處の内部の

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    禁制と徴候と杞憂

    自我以外の部分に對しても適合作用が起る。これに就いての原因は決して缺けてはゐない。徴候が成
    立されるには、行動が禁制されるといふ事が必要である。この禁制が超自我の要求を和解し、又外界
    の要求を拒否する。故に徴候は次第に必要なる興味の代表とせられ、自己主張に價値を持つことが出
    來、自我と共に親密に發達することが出來、自我にとつては缺くべからざるものとなるのである。た
    だ極めて稀なる場合にある異物が治癒してゆく場合に、稍これと同じやうなことが繰返されることが
    ある。吾人は徴候に對して斯かる二次的に適應させる意味をも誇張することが出來ると同時に、自我
    は徴候より生ずる利益が單に享けんとして徴候を自ら創つたと切言することが出來る。恰も勞働せず
    して養老金にて生活せんが爲めに、戰傷者が故意に脚を射たせたのだと強ひて考へるならば、それは
    正しくもあり、又不正でもある。

    其他、強迫神経症及び偏執狂の徴候形式は自我に向つて重要なる價値を有してゐる。それは彼に利
    益を與ふる故ではなく、却つて不要なナルシスの滿足を與ふる爲めである。強迫神経症者の系統構成
    は眩惑によつて自分の自己愛に媚びてゐるのである。彼等は他人よりは特別に純潔なる或は正直なる
    人間であるかもしれぬと思ふことである。偏執狂の妄想形成は、仕事の區域は容易に變へ難いものだ
    といふことを、この患者の判別力や空想に知らしめてゐるのである。斯く述べて來た總ての關係に基

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    一九三

    いて、我々に神経症の罹病1)(第二次的)として知られてゐるものが、惹起されるのである。それはその
    徴候が自身に合併せうとして自我の努力を援助し、然かして徴候の固着が強めるものである。若
    し我々が徴候に對して争闘してゐる自我に、分析的輔佐を爲さうと試みるならば、我々は抵抗の部
    分に於て、自我と徴候との間の和解的條件が働いてゐることを發見するのである。然しこれを解説す
    るは容易な事ではない。自我が徴候に對して行つてゐるこの二つの仕事は、實は互に相反してゐる仕
    事なのである。
    その他の仕事は、親和な性質を餘り持たずに、抑壓の進路を持續させてゐるのである。然しながら我
    は自我は矛盾を以つて非難せらるべきものでないと考へてゐる。自我は平和的で爲めに徴候を自身
    に合併し、それを吸収して合併せうとしてゐる。處がその障碍は徴候から出てくるのである。即ち
    徴候は抑壓された亢奮の正しい代表者及び後継者としてその役目を果し、そのものゝ満足要求を常に
    新たにしてゐる。それが爲めに自我は更に不快信号を與へて自身を防御せんとする努力なのである。
    徴候に對する二次的防御争闘は多様であつて、種々な舞臺の上で演ぜられ且つ多数の方法が用ひ
    られる。我々は徴候形成の個々の場合を研究の根本としなければ、徴候に就いて多くを斷言すること
    は出来ない。こゝに於て我々は杞憂の問題に辿り、き機會を發見する。それに入くく我々が心底に於

    第三章

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    強制と徴候と不安

    て待遠しく感じてゐた問題であつた。それにはヒステリー性神経症を惹起させる虚の徴候から出発し
    て行かうと思ふ。然し強迫神経症、偏執狂及び其他の神経症の徴候形成に就いては、我々は未だ猶説
    明を與ふる準備はとゝのつてゐないのである。