禁制と徵候と杞憂1926-001/1931.ja
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    三二七

    第七章

    小児の動物恐怖症を顧るならば、これらの例は他の總ての例よりも一層よく誤解できる。自我は又
    此處に於てもエスのリビドー對象纏綿(積極性或は消極性エヂポス・コンプレクス)に對して干渉せね
    ばならないのである。何となれば、それによつては去勢の危険を招來することを知つてゐるからであ
    る。吾人は既にこれを研究して、この最初の論に殘つてゐる疑惑を明かにする原因を發見してゐる。

    ハンス少年の場合(積極性エヂポス・コンプレクスの場-
    合)には、母への愛撫的活動、或は父への進撃
    的活動は自我の防禦作用によつて生じたと假定せねばならぬであらうか。これは實際的には無關係に
    見える。殊にこの二つの活動は互に理由をもつたものだからである。然し理論的の興味はこの問題に
    結びついてゐる。何となれば母への愛撫の流れが純なる性的なものになり得るからである。進撃的
    活動は本來破壊本能に關係をもつたものであり、神経症の場合に於ては自我はリビドー要求に對して
    は防禦し、他の本能に對しては防禦しないことを吾人は信じてゐる。通常、恐怖症が構成された
    後は、母との愛撫的結合が消失したかの觀を吾人は見るのである。これは抑壓によつて基本的に抑込
    まれたもので、その進撃的活動は然し乍ら徴候(代償)形成が行はれたものである。狼男の場合では

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    二三八

    禁制、徴候、杞憂

    集全學析分神精ドイロフ

    それが一層簡単にわかり、抑壓
    された活動は真に性的で、父への女性的態度であり、これも亦徴
    候形成が行はれる。
    斯く永々しき研究にも拘らず、根本的關係を解釋するにいまだ困難を感ずることは恥辱の至りで
    ある。然し吾人は何事をか簡略にし、又何事をか隠匿することを欲しないのである。斯くとも不明瞭
    なるものは鋭くこれを觀察せねばならぬ。此處に於て障碍となつてゐるものは、明かに吾人の本能學
    の發達が不平坦なることである。吾人は先づ口唇期より肛門虐待期を超えて性器期までのリビドー編
    成を探索したのであつた。且つ其際性本能の全要素を悉く同列に置いて取扱つたのであつた。其後に
    至り虐待性がエロスとは反對の他の本能の代理として現はれたのである。この二本能間に就いての新
    らしき解釋は、リビドー編成の繼承時期に出来た早期編成を粉砕するやうに思はれる。然し乍ら吾人
    は斯かる難事の中より助力に富んだ教示を新たに發見する必要はない。それは久しい間吾人の研究に
    供されてをり、且つ次の事を明かにしてゐる。即ち吾人は常にそれを純なる本能活動とは殆んど關係
    せしめず、却つて全く種々なる量的關係に於ける兩本能の支配に關係させてゐることを明かにしてゐ
    る。故に虐待性對象愛戀は亦リビドー性對象愛戀として取扱はれる権利を有して居り、リビドーの編
    成は検査を受くる必要ないのであり、父への進撃的活動は同一權利をもつて母への愛撫的活動の如く

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    第 七 章

    抑鬱の對象となり得るのであ
    るないのである。即ち抑鬱は、リビドーの性器編成に對して特殊の關係をもつた過程であること、及
    び自我は、他の編成階梯に於てリビドーを防ぐ必要のある場合には、自我は他の方法をもつて防禦す
    るといふことは、材料に入れてゐないのである。斯くして吾人は論を進めよう。少年ハンスの如き場
    合は、何等の判定を要さない。即ち其處には進撃的活動が抑鬱によつて完成されたとは云へ、然し其
    時には既に性器編成は成就されてゐたのである。

    次ぎに吾人は拒愛に對する關係を觀察したい。自我が去勢の危険を認めた時には拒愛信號を興へて
    快不快原則を以つて一層簡単な方法によつて、エスに於ける強迫的纒綿作用を禁斷することは既に述
    べた。同時に恐怖症の形成が成就する。去勢拒愛は他の對象及び歪められた表現物を採る。即ち父か
    ら去勢される代りに馬から噛まれる(狼から喰はれる)のである。この代償形成には一つの明らかな利
    益がある。第一、代償形成はアンビバレント葛藤を避けることであつて、これは同時に父が愛の對象
    だからである。第二、代償形成は自我に對して拒愛發生を止めようとすることを許容するのである。
    恐怖症の拒愛は隨意的に、拒愛の對象が知覺の實體となつた時にのみ起る。このことは全く正確であ
    つて、單に危険の場面が出現したことなのである。不在の父から去勢されることは恐れる必要はな

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    三三〇

    禁制、徴候と杞憂

    い。父を除去する事は出来ない。出ようと思へばいつでも父は出て来る。處が若し父が動物に代つた
    としたならば、その動物に對する危険や杞憂から逃れようとしてゐる計畫即ちその動物の實在を避け
    ようとする計畫を作り出す。それ故に少年ハンスは自分の自我に制限を加へ、馬と出逢はな-
    い爲めに
    外出せぬといふ禁制が生じたのである。露西亞少年は更に都合よく行はれて、彼は最もある種の繪本
    を手にするなどといふ事は、彼に取つては殆んど出来ない事であつた。狼が前脚を上げて立つてゐる
    その本の繪を、悪い妹が又々眼の前に持ち出しでもしない限りは、彼は常に自分の杞憂に對して安心
    してゐることが出来た。

    余は嘗て恐怖症に投出作用の性質を負はせたことがあつたが、それは内部の本能の危険を外部の知
    覺の危険に置換へたものである。この事は、内部の危険に對しては避ける事は出来ないが、外部の危
    險に對しては、避けたり知覺を避けたりして自身を防衛し得るといふ利益を齎すのである。余のこの
    考へは不當ではないが、然し淺薄である。本能の要求は確かに自身に取つては危険ではないが、正し
    い外部の危険、即ち去勢といふものを伴つて来るが爲めに、それだけが危険である。故に根本的には
    恐怖症の場合には外部の危険は他のものによつて置換はつてゐるのである。自我が、恐怖症の際には
    忌避によつて或は禁制徴候によつて杞憂から逃れ得るといふ事は、この杞憂が單に感情の信號であら

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    二三一

    第七章

    うといふ解釋, 及び經濟的の立場に何等變化されなかつたと云ふ解釋に, 極めてよく合致するのであ
    る。

    動物恐怖症の祖愛は, 又危険に對して自我が感情の反應を起した事である。こゝで信號される危険
    は去勢の危険である。自我が危険の場合に正常に示す處の現實の祖愛と, 其の他の祖愛との區別は, 祖
    愛の内容が無意識に殘留し, それがたい變装に於て意識される事以外には何等區別される處はないの
    である。

    斯様な解釋は, 思ふに, 成人の恐怖症に就いても亦價値をもつてゐる。たとへ, それには神經症を
    起さざる材料が頗る豊富であり, 且つ徴候形成に對して二三の因子が附加すると雖もそれは介はぬの
    である。根本的にそれには同一のことである。外出恐怖症は, 本能の危険から逃れる爲めに自我に對し
    て或る制限を加へてゐるものである。本能の危険は, 性的快感を追求する誘惑であつて, それによつ
    て再び小兒時代に於ける如く, 去勢の危険或はこれに類似したものが喚起されるのであらう。余はその
    例として或る青年の外出恐怖症を擧げる。これは寡婦の誘惑を追求し, 且つその懲罰としての悔毒
    感染を怖れて, 外出恐怖症になつたものである。

    多くの例は複雜な構成を示して居り, 又多くの他の抑壓された本能活動は恐怖症の中に合流され得

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    禁制と徴候と杞憂

    るといふことを余はよく知つてゐる。然し是等のものは只だ援助的であつて、且つ大部分は補充的に
    神経症の中核と結合してゐるといふこととをよく知つてゐる。外出恐怖症の徴候が複雑となつてゐる理
    由は、自我が何事かを放棄したといふだけでは満足しないからである。自我は更に現場からその危険
    を除去せんとして何事かを附加へて爲さうとしてゐるのである。この仕事の取合せは、通常一時的に
    小児時代への退行であつて(極端な場合では母胎まで、現在の脅威的危険に對して保護されてゐたと
    いふ時代まで)、且つ放棄が止み得るといふ條件として現はれたものである。故に外出恐怖症者は小
    児の如く彼の信頼してゐる人々と一緒ならば外出得るのである。又、自分の家から或程度まで遠くな
    い處ならば、そして自分の知らない處でもなく、知人も居ない處でないならば、前述の如き考へで外
    出が出来るかも知れない。こんな規定を選ぶといふ譯は、神経症に依つて支配してゐる小児時代の原
    因が影響してゐる。またそれと全く同意味で、斯やうな小児期退行ではないし、根本的に秘かなる手
    淫の誘惑を避けむと欲する孤獨の恐怖症がある。小児期退行の條件は総小児期より一時的に離れる
    ことである。

    恐怖症は通常、一定の條件の下に—街上で、鉄道で、孤獨で—最初の杞憂發作の経験を受けた
    後に生ずる。その杞憂は拘束されてゐるが、防禦の條件が保たれなくなく時には何時でも再生する。

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    二三三

    第 七 章

    恐怖症の機制メカニズムは防禦手段として好く役立つもので、安定スピリツトといふ事に偉大な作用をあらはす。現に徴候
    に對して向けられてゐる防禦闘争の持続は必要ではないが屢々生ずるものである。

    吾人が恐怖症の杞憂に就いて経験した事は、更に強迫神経症に對しても認め得る事が出来る。強迫
    神経症の状況を恐怖症のそれに還元する事は困難なことではない。將來起るべき總ての徴候形式の動
    機は、此處で明かに超自我に對する自我の杞憂である。超自我の敵愾心は、自我が避けねばならぬ危
    險状態である。此處に於て、外側には何處にも投出作用が無くなく、危険は完全に強まるのである。
    然し乍ら若し我々は超自我の側に對して自我の怖るゝものは何であるかと考へる時に、超自我の懲罰
    は去勢懲罰の完成であるといふ解釋を餘儀なくされるのである。超自我は非人間になつた父である如
    く、父から脅威された去勢の杞憂は自ら不明なる社會的杞憂に或は良心の杞憂に變化して行つたので
    ある。然しこの杞憂は隠蔽され、自我はこれに遠ざかり、これと同時に自我は課せられたる禁斷、防
    衛及び贖罪行為を従順に行ふのである。これについて自我が防禦を受けた時には、直ちに著しき苦痛
    なる不愉快を生成する。その不愉快を我々は杞憂と同價値のものと認め、患者自身はそれを杞憂と對立
    させてゐるのである。余の経験によれば次のことが云へる。杞憂は危険状態に對する反應であり、こ
    れによつて自我が危険を避け、これより遠ざからむとして爲す仕事を省略することが出来るのである

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    二三四

    抑制と徴候と拒愛

    と。徴候は拒愛發生を避けむが爲め
    に作られるものであると、此際人々
    は云ふかも知れぬが、然しこ
    れは深く考へたことではない。拒愛發生を信號する虚の危険狀、悲慘を避けるが爲め
    のものであると云ふ事は、より正しい云ひ方である。この危険は然し從來觀察され
    た例に於て去勢か或は
    何かその生産物である。

    拒愛は危険に對する自我の反應であるとすれば、今後生命上の危険を屢々伴ふところの
    外傷性神
    經症は、去勢と自我の依頼とを放棄したる生命の拒愛、若しくは死の拒愛の直接結果であるとして解釋
    しても左程の違ひはないのである。これは歐洲大戰の外傷性神經症の例でも亦數多觀察せられ、且つ
    凱旋的に報告された。そして、自己保存本能の危険は、性感の種々なる參興なしに、又精神分析の復
    雜なる假定を考慮せずにも、神經症を惹起し得るといふ證據が提出されたやうである。然しそれには外
    傷性神經症の價値ある分析が一つもない事は實に非常なる遺憾である。この事は性感の原因的意義に
    對する矛盾の爲ではないのである。何故なればこれは以前からナルシスムスの移入によつて廢棄され
    たのである。そのナルシスムスは自我のリビドー纏綿を、對象纏綿をもつたある種類に移し、且つ自
    己保存本能のリビドー的性質を強調してゐるのである。それ故にこれはむしろこれに對する分析の不
    足だつたが爲めに、拒愛と徴候形成との間の關係に就いての決定的判斷を下すに當つて貴重なる機會

  • S.

    二三五

    を過した為である。我々が日常生活の簡易なる神経症の構造に就いて知つてゐる種々なる事に就いて
    考へても、精神装置の深き無意識の層の參與なしに、單に危険の客觀的事實のみによつて、あらは
    うろことは有り得ぬことである。然し無意識に於ては生命喪失といふ我々の概念の中に、何等の内容
    を興ふるものは持たなかつたのである。去勢は云はゞ日常生活経験する腸内容と別離するといふ事で示さ
    れ、又乳離れの折に経験した、母體の胸を犠奪される事によつて示されるのであるが、死に類似した
    物は決して経験された事もなく、或は氣絕の如きものも何等證明すべき痕跡すら残してゐないのであ
    る。それ故に余は、死の杞憂は去勢杞憂の類推物として解すべき假定を固持するのである。又自我が
    反應してゐる状態は、超自我の保護から見捨てられてゐること–運命力–であり、それによつて
    總ての危険に對する安全が悉無になつたといふ假定も固持するのである。其他外傷神経症に導く経験
    の際に、外部の刺戟防禦が破壊され且つ過大なる亢奮が精神装置に起り、その結果、こゝに二つの可
    能性、即ち杞憂はたゞ感情として信號されるのみでなきこと及びそれに反して經濟的條件からも亦新
    らしくなされるといふことが觀察されるのである。

    第 七 章

    この最後の注意、即ち自我は規則正しく反復される對象喪失によつて、去勢の準備が為されてゐる
    のではないかといふ注意によつて我々は恐怖の新しい解釋を得た。吾人が今までにこれを危険の感情信

  • S.

    二三六

    強制、喪失と拒愛

    號として観察して来たとすれば、これは去勢の危険に闘したことである故に、此處では喪失とか別離
    の反應として我々には思はれるのである。この結論に對しては亦直ちに種々の論が起り得るかも知ら
    ないが、さうなると我々は實に或るいみじき説明に驚かされるのである。人間の最初の拒愛経験は出
    産であつて、これは客観的に母から別離することを意味して居り、母を去勢すること(即ち=)だと
    いふ式によつて)に比較されるのである。若し拒愛が別離の象徴として其後の種々なる別離の際に繰
    返されるやうであるならば、それは極めて満足に値するかも知れぬ。が然し、悲しいかなこの事を説
    明に利用するには妨害がある。それは出産は主観的に見れば母との別離としては経験されないからで
    ある。何となれば、母は完全なるナルチス的胎兒にとつては對象として全く知られてゐないからであ
    る。他の考究によると我々には別離に就いての感情反應は知られて居ると云はれて居る。更に我々は
    それを苦痛や悲哀として感じて拒愛としては感じないと云はれてゐる。確かに我々は悲哀を論ずる場
    合に、何故に別離が斯く苦痛であるかを、亦理解できなかつた事を思ひ出すのである。