S.
一九五
集全學析分神精ドイロフ
第四章
我々が観察した最初の例は、或る小児のヒステリー性動物恐怖症である。即ち『少年ハンス』1)の
馬恐怖症の如きは總ての主題點に於てこの典型的の例として擧げられる。神經症疾患を實際取扱ふ
場合に、我々が抽象的に考へてゐた時の期待よりも非常に複雑なものであるといふ事は、一見して直
ちに知られるのである。これには二三の仕事が附隨してゐる。それは抑壓された衝動は何か、その徴
候代償は何か、抑壓の動機は何處かを標示することである。註 1) Analyse der Phobie eines Fünfjährigen Knaben. (Ges. Schriften, Bd. Ⅴ 參照)。
少年ハンスは馬が怖ろしい爲めに街に行く-
ことを拒むのであつた。これが素材である。それからそ
れに就いての徴候即ち拒絕發生、拒絕對象の選擇、或は自由なる運動性を斷念すること。或は同時に
それに就いての種々なる事柄等は何であるか。拒絕するといふ滿足は何であるか。それを拒絕せねば
ならぬは何故であるか。この例に於ては左程多くの謎はあらないといつても差支へ-
なかろう。馬に對する不可解な拒絕が徴
候であつて、街を歩く事の出來ないことには、拒絕させない爲めに自我が自身に課した制限、即ちS.
一九六
禁制と徴候と杞憂
禁制現象である。後者の點の說明の正しい事は容易に判ることだが、今こゝでのやうな禁制現象と
いふ事を論議することは問題外とする。然しこの例の初めの反相的觀察では、この確固たる徴候を實
際に的云ひ現したとは決して云へないであらう。我々が精密な審問をなした場合に經驗する通り、これ
は馬に對する不明瞭なる杞憂ではなくて、一定した杞憂の豫想であつて、即ち馬は自分を噛むだらう
といふ事なのである。確かに斯ういふ内容それ自身が意識から消退し、その代りとして單なる恐れ
とその對象とを持つてゐる處の不明な恐怖症でもつて、置き換へようとするのである。今は先づ斯様
な内容がこの徴候の核心ではあるまいか。この少年の全精神的状態が分析の仕事中に明瞭に観察されない間は、我々はこのこれを進めて行くこと
は出来ない。彼は父に對して嫉妬と敵愾心とをもつたエヂポス状態に置かれてゐたのである。然し母
が不和の原因となつてゐない限りは、彼は父を心から愛してゐたのである。斯様にしてアンビバレン
ツ葛藤、即ち心からの愛と十分是認される憎悪との二つのものが、同一個人に對して向けられてゐるの
である。彼の杞憂は、この葛藤を解決せむとする試みでなければならぬ。斯かるアンビバレンツ葛藤
は屢々存するもので、我々はその葛藤の他の一典型的出發點を知つてゐる。この場合にこの兩者の一
方は、相互に廻轉する感動(普通は愛情的なもの)を非常に強大にし、他方はそれを消失させるのであS.
一九七
る。この愛情の過度の強さは、これを示すのみが唯一の態度ではな
く、その態度によつて絶えず其
の反對物(憎惡)を壓迫するやうに警戒して居り、更に反應構成(自我に於ける)による抑壓として記述
したやうな出来事を組立てゝゐるのである。少年ハンスの場合では斯様な反應構成は何も示してゐな
い。アンビバレンツ葛藤から惹起されるやうな種々なる途は明かにあるのである。
或る誤つたものゝ此の中に存することを確實に認めた。即ち抑壓された本能は、父に對する敵愾心
の衝動である。分析によつて、馬が咬むといふ思考の成立を辿つて行けば、その事は證明される。ハ
ンスは乗馬遊びをしてゐた時、馬が倒れるのを見たり、仲間が落ちて怪我したのを見たことがある。
馬や仲間が倒れたり怪我したやうに、自分の父もさうなつて呉れればよいがといふ願望を組立てるこ
とが、このハンスの場合に於ても正しいといふことを、精神分析は我々に知らせて呉れる。最初に觀
察した事柄を見ると、父を亡きものにせむとする願望が又幾分臆病なる表現を採つたといふことが想
像される。然し斯様な願望は、エディポス・コンプレクスの殺人的衝動をもつたもので、自分自身を亡き
ものにせむとする目的と同じものである。
この抑壓された本能から、馬恐怖症を想像し得るやうな代償を見出す方法は、現在の處一つもない
のである。我々は今幼時の動機及びアンビバレンツを除去しつゝ少年ハンスの精神状態を單純化して第四章
S.
一九八
禁制と徴候と杞憂
見ようと思ふ。彼は或る家庭の若小使であつて、その主婦に惚れ込んで、その主婦から寵愛される
のを喜んでゐた。それが爲めに彼は威めしい主人の方を嫌つて、これが亡くなつて呉れ-
いふ願望を抱いてゐたのである。さういふ譯で自然の結果として、彼はこの主人から復讐されると
を怖れ、主人に對して怖れるといふ状態を現はすに至つたのである-恰も馬に對しての恐怖症の如
くにある。これは、我々はこの恐怖症の杞憂を徴候として見做すことは出来ないのである。若し母
に愛情を感じた少年ハンスが、父に對する杞憂を示したやうな場合には、これを神経症とか恐怖症と見
做す事は正當でないかもしれない。我々は全く理解できる感情的の反應を各自に持つてゐるらしい。この反應を神経症に爲すものは單一のものであつて、馬をもつて父に置換へたといふ事それのみであ
る。そこでこの轉移(置換へ)によつて徴候と名附すべきものが出來るのである。この置換へは他の
機制、即ち反應構成の助けを借りずにアンビヴァレンツ葛藤の解決をつけた機制である。これは元來ト
ーテミズムの方への痕跡が、1)尚この稚い時代には容易に復活されるといふ事よりして、この轉移が
容易となり又可能となるのである。人間と動物との差は未だ猶明瞭にされて居らず、確かに其後強く
主張された程には考へられてゐないのである。獣侮されてゐるが然し又怖れられてゐるといふやうな
成人成人は、大きな動物と同位置に置かれる。何故ならは大きな動物は色々な事で羨望されるが、又危害
S.
一九九
第四章
を 受 け る 為 に 警戒 さ れ る か ら 、
云 は ゞ 迂 回 し 乍 ら 、 そ の 衝 動 の 一 つ に 、 或 る 他 の 人 物 を 代 理 と し て 置 換 へ て 成 さ れ る の で あ る 。
然 し 乍 ら 我 々 の 知 つ て る 限 り で は 、 少 年 ハ ン ス の 恐怖 症 の 分 析 は 、 他 の 點 に 於 て 我 々 に 完 全 に 謎 を
解 い て 呉 れ た の で あ る 。 徴 候 構 成 を 仕 立 て る 處 の 歪 み は 、 抑 壓 さ れ て る 本 能 の 代 理 者 (観 念 内 容) に
用 ひ ら れ て る の で は な く て 、 そ れ と は 全 く 異 つ て 、 只 本 来 の 憎 悪 に 對 す る 反 應 に の み 一 致 す る や う
な も の に 用 ひ ら れ て る 。 若 し 少 年 ハ ン ス が 、 馬 を 恐 怖 す る 代 り に 、 馬 を 虐 待 し て 毆 打 し よ う と い ふ
考 へ を 起 す か 、 或 は 馬 が 倒 れ 又 は 痙 攣 を 起 し て 、 死 ぬ や う な 傷 害 を 受 け る の を 見 た い と い ふ 願 望 を 明
か に 示 し た な ら ば 、 我 々 の 期 待 は も つ と 早 く 達 せ ら れ た の で あ ら う 。 こ の 種 の 或 物 は 又 實 際 に 彼 の 分
析 中 に 現 は れ て く る が 、 然 し そ れ は 長 く 眞 先 に は 神 経 症 に は 存 在 し な い 。 そ し て ― 特 別 に ― 若 し
彼 が 父 に 向 け る 代 り に 馬 に の み 向 け た 斯 様 な 敵 愾 心 を 、 實 際 に 主 要 徴 候 と し て 發 達 さ せ た な ら ば 、 彼
は 神 経 症 で あ る か ど う か は 全 く 判 斷 出 来 ま い と 思 ふ 。 そ れ 故 に 抑 壓 の 解 釋 に よ つ て も 、 或 は 徴 候 の 定
義 か ら 見 て も こ れ は 秩 序 立 つ て る 事 と は 云 ひ 難 い 。 従 つ て 勢 ひ 斯 様 な こ と が 直 ぐ 浮 ん で 来 る 。 そ れ
は 少 年 ハ ン ス が 實際 馬 に 對 し て 斯 か る 事 實 を 示 す の で あ る な ら ば 、 確 か に 非 難 す べ き 虐 待 的 本 能 が 抑
壓 に よ つ て は 變 化 を 受 け な い で 、 單 に そ の 對 象 だ け が 變 へ ら れ た の で は あ る ま い か と い ふ 事 で あ る 。S.
一〇〇
禁制と徴候と杞憂
抑圧が斯く餘り遂行されない場合のあることは確かである。然し少年ハンスの恐怖症の發生には、
この抑圧が多大に起つたのである。猶精細にせむが爲めに我々は他の部分の分析から解釋しよう。我々は既に少年ハンスが彼の恐怖症の内容として馬に咬まれるといふ観念を擧げてゐるのは承知し
てゐる。そこで我々は其後狼が恐怖動物となつてゐた動物恐怖症の一例の發生に就いて観察した事が
あるが、これは狼が同時に父の代償となつてゐたのであつた1)。分析して明瞭になつた一つの夢に
よると、この男児には七つの小山羊の童話のやうに狼に咬まれるといふ杞憂が起りつゝあつたのであ
る。る。少年ハンスの父が、明白な證據となるやうな、乗馬遊びなどを子供と一緒にしたといふ事が、
確かに恐怖動物の選擇を決定させるに至つたのであるが、これと同様な事を極めて蓋然的に作らしめ
る事は、余が三十年間に初めて分析した露西亜人の父親は、その子供と遊んでゐる間に狼の真似をし
て、冗談に喰つて了ふぞと脅した事である。其後余は第三の例として或る米国青年を知つた。その青
年は動物恐怖症ではないが、その症状によつて前の場合を誤解するに好い助けとなつた。その青年の
性慾亢奮は空想的の童話で燃え立つてゐた。その童話といふのは人から讀んで聞かされたもので、或
るアラビアの酋長が食べ物で造つた人間(Griesinger)を喰はうとして追ひかける話であつた。彼
は自身この食べられる人間と同一化したものであり、酋長は父の代理として容易に誤解され、更にS.
二〇一
第四章
この空想は彼の自己性感の活動の基礎となつてゐるのである。父に喰はれるといふ観念は、典型的な
古代の小児の遺産であつて、かゝる神話(クロノス)と動物生活との類似性は一般に認められてゐるも
のである。
註1) Aus der Geschichte einer infantilen Neurose (Ges. Schriften, Bd. VIII.)
この観念の内容は、斯様に解説したにも拘らず我々には異様に感ぜられて、それを子供にたゞ懐疑
的にしか聞かせられない程である。又この観念の内容は、實際明示されたやうな事の意味を持つてゐ
るか何かは我々には判らないし、更にそれが如何にして恐怖症の對象となり得たかも理解できな
いのである。然し乍ら精神分析の仕事は總べて我々の要求する處のものを教示して呉れる。分析の致
ふろ處によれば、父に喰はれるといふ観念は、受動的愛情の亢奮が退行して低下した形を採つたも
のであつて、性器性感の意味で、對象としての父から愛情を受けたいと希ふことである。この例の病
歴を追求すると、以上の意味の正しい事に疑念を挾めなくなるのである。この性器亢奮がロ唇リビド
ー編成から虐待性リビドー編成までの、征服されたる移行期の言葉で表はされる時には、この性器亢
奮は勿論最早何等かの愛情的目的をさへさないのである。然しこれは單に退行的の形であらはれた代理
者の代償に過ぎないものであつて、或は又エエスに於ける性器亢奮の事實上の退行的低下であるかは、S.
二〇二
察劇と徴候と杞憂
容易に決定することは出来ない。露西亜人の『狼男』の病歴では、全く決定的にこの後者の重要な可
能性を示してゐる。何となれば、彼はその決定的な夢で邪悪な拷問的な態度をとり、そして
その上に直ちに本当の強迫神経症を起して来たからである。常に我々が考へてゐる意見は、不
快なる本能亢奮を鎮すべく自我の命に従ふ處の唯一の方法ではないといふ事である。若し本能を退
行させる事に成功するならば、其時は自我をして抑壓によるよりも根本的に、より力強く傷害するこ
とが出来るのである。確かに屢々抑壓は最初の強いられた退行に従はせられるのである。狼男の場合の事情とそれより稍簡單な少年ハンスの場合の事情とは、猶多くの事を考へさせる。そ
こで既に我々には二つの豫期しなかつた觀察を得た。疑ひもなくこれらの恐怖症の場合に抑壓された本
能は父に對する敵愾心である。これらは逆に變へる行程をもつて抑壓されるので、即ち父に對する虐待
の代りに、自分に對する父の虐待-
復讐-
が起ると云ひ得る。斯様な虐待はそれまでなくとも虐待
性リビドー期に根ざしてゐるのであるから、確かに猶口唇期の段階まで或る低下を必要とするのであ
る。この段階はハンスの場合では咬まれるといふことで示され、露西亜人の場合では又喰はれるとい
ふ事で明かに示されたのである。其の他又實に分析は、種々の疑念に就いて確實に明示してゐる。そ
れは同時に他の本能活動で、父に對する受動的愛憎の反對のもの、即ち既に性器根リビドー編成のS.
二〇三
第四章
水準に達した處の本能活動は、抑壓下に置かれるといふ事である。しかしのみならずこの事は、抑壓作
用の最終の結果に對してより深い意味をもつてゐるやうに思はれる。即ちこれは更に引繼いで退行し
て、恐怖症の内容に或る一定の影響を與へるものである。斯くて我々が單に本能の抑壓のみを研究す
るならば、斯様な二つの作用の關係が承認せねばならなくなる。即ちこの二つの本能活動―父に對
する虐待的進撃と被動的の愛撫的狀態―は反對の一對をなしてゐる。これは少年ハンスの病歴を正
しく檢べると猶一層明かにわかる。ハンスには恐怖症が発生したからとて母の愛撫的對象戀縮は中止
されてゐないことが認められる。この愛撫的對象戀縮は恐怖症の内容は少しもないのである。これ
は、ハンスの例では―露西亞人では餘り明瞭でないが―エヂポス・コンプレクスの殆んど全構成
に相當する抑壓作用に關係してゐるのであつて、即ち父に對する愛撫的活動と同じやうな敵愾心と、
母に對する愛撫的活動とである。
これ等は我々にとつて厄介なる合併である。我々は單に抑壓から生じた徴候の簡單な例を擧ばうと
して、其の目的をもつて小兒の最も早期の且つ明瞭なやうに見えた神経症に向けたのであつた。た
つた一個の抑壓の代りに、斯様な餘計なものを發見し、そして更にこれが退行といふことに關係して來
たのである。恐らく我々が混亂に陥つた理由は、この二つの動物恐怖症の勝手な分析―少年ハンスS.
二〇四
禁制と徴候と杞憂
と狼男―を同一の軌道に置かうとしたからであつた。今こそ此の両者の或る差異には気が附く。唯
ハンスの場合に於て確實に切-
出来るととは、彼の恐怖症によつて、エデポス・コンプレクスの二つ
の主要活動、即ち父に對する虐待性と、母に對する超愛撫性とが作られたといふ事である。父に對す
る愛撫性も亦確かに存在してゐたのであるが、この愛撫性はその反對のものゝ抑壓の際に演じられた
役割であつて、その反對のものは抑壓を招く程十分-
強かつた事や且つ又其後に廢棄された事も證明
される事である。ハンスは所謂「積極的」エデポス・コンプレクスを有する常態の青年であつたやう
に思へる。我々が失つた要素が又彼の場合に助力的であつた事は可能であるが、然し我々がその要素
を示すことは出来ない。我々が徹底的に分析した材料でさへもこれと同様に缺點があり我々の理論も
不完全である。露西亞人の場合では缺陥は他の部分にある。即ち彼の女性的對象に對する關係は早期
の誘惑によつて妨げられてしまひ、受動的な女性的方面が彼に強く形成された。且つ又彼の狼の夢の
分析では父に對して企てた虐待的進撃に就いては僅かよりしか分からないが、その代りに、抑壓は父に
對する受動的愛撫的態度に相當してゐるといふ明かなる證據を得るのである。こゝに又他の要素が關
與してゐるかも知れぬが、それは現はれてゐない。この二つの例が殆んど正反對に近いほどの差異を
もつてゐるに拘らず恐怖症の最後の結果が殆んど同一であつたとするならば、これに對して他の方面S.
二〇五
第四章
からの説明が必要になる。我々が少し比較研究した第一の結論に就いて説明しよう。我々は両例に
於て、抑壓の動機を認めたと信ずるし、その役目が二人の子供の發達の經過によつて強固になつたこと
を知つてゐる。これは両例とも同じもので、即ち去勢の脅威から生じた抑壓である。去勢杞憂から少
年ハンスは父に對する虐待性を放棄した。それ故に馬に咬まれるといふ杞憂は強迫的でなしに完成せ
られたもので、馬に彼の性器を咬み取つて去勢するだらうといふのである。然し又露西亞少年も去勢
杞憂から性的對象として父より愛されたいといふ願望を斷念する。何となれば、斯様な事は女性との
區別點である處の自分の性器の犧牲を、豫期するかもしれないといふ事を彼は承知してゐたからであ
る。エヂポス・コンプレクスこの二つの形態、即ち常態のものと加動的のものは、同性愛と同様に實
際去勢コンプレクスに出逢つて坐礁するのである。狼に喰はれるといふ露西亞人の杞憂觀念は、去勢
の意味がないとは云へず、又口唇期退行によつて遠く男根期から隔たつたものであるとも云へない。
彼は夢の分析では去勢の意味種々な方面から澤山證明されてゐるのである。恐怖症といふ言葉の中
には去勢といふ意味を少しも含まないといふ事は、これ又抑壓が完全に成功したと云ふべきであ
る。此處で今、豫期しない結果に到達した。それは、二つの例に於て、抑壓の動機は去勢杞憂であるこ
S.
二〇六
閹割と傲慢と拒愛
と,即ち馬に咬まれ狼に喰はれるといふ拒愛の内容は,父から去勢されるといふ内容の變裝的代償で
ある。抑壓が自身で經驗したところのこの内容は特有のものである。露西亞人では,これは男性たる
ことを拒絶することには從はない願望をあらはし,ハンスでは虐待性を反對に轉向した反應のあらは
である。然し乍ら恐怖症の本質を作り上げてゐる拒愛感情は,抑壓作用から起るのでなく,又抑壓さ
れた活動のリビドー的纏綿から起るものでもない。むしろそれは抑壓そのものから起るのである。即
ち動物恐怖症の拒愛は變形されなかつた去勢拒愛であり,又現實拒愛即ち實際的に脅威される危險,
又は現實として判斷された危險に對する拒愛である。此處に於て拒愛が抑壓を作るのであつて,余が
以前に考へた如く,抑壓で恐怖を作るのではないことが云へるのである。
次のことに就いて考ふる事は愉快な事ではないが,然し否定する事は出来ない。それは余が屢々以
前に示した事,即ち抑壓によつて本能の代表が歪められ,轉移をされる事及びそれに似たる即ち本能の
リビドーが恐怖に變化する事等のことである。この事柄を説明するに當つて最も適當であるべき處の
恐怖症の研究は,この事柄を確實にするに至つてないし,恐らくこれには直接に矛盾してゐるや
うに見える。動物恐怖症の恐怖は自我の去勢恐怖であり,外出恐怖症は,根本的には十分研究されて
ゐないが,發生的に見れば去勢恐怖と關係ある處の誘惑恐怖であるらしい。多くの恐怖症は,現在一S.
二〇七
第四章
見した處では、リビドーの要求によつて生じたる自我の斯かる
𢠸愛に歸することが出来る。その場合
常に自我の𢠸愛態度は原型的なものであり又抑壓を受くべき動機である。
𢠸愛は決して抑壓されたリ
ビドーから起るものではない。余はもつと早く、「抑壓の後には、出現を豫期されるリビドーの代りと
して、𢠸愛のある量が現はれるものだ」とさう云つて満足して居つたならば、今日に至つて余は何
等撤回するものはなかつたのである。その叙述は正しくあり且つ抑壓された活動の強さと受けた𢠸愛
の強さとの間に確かに主張されたる一致點があるのである。然し乍ら余は異なる叙述より以上のもの
が興へられたことを信じ、更に、リビドーが直接に𢠸愛に置換へられるといふ超心理的過程を發見し
たことを認めるのである。それ故この事は余が今日最も早固持することは出来ない。又斯様な變化が如
何にして行はれるかに就いても、余は以前に報告する事は出来なかつたのである。
斯かる變化についての觀念を余は主として何處から作つたか。自我に於ける機關とエスに於ける機
制とを區別する事が未だ猶遠かつた時に、折よくも現實神經症の研究から得たのである。ある種の
性的行爲、例へば體外射精 Coitus interruptus, 亢奮禁斷 Frustrane, 強迫的回避 Zwangsabstinenz
Abstinenz の如きものは𢠸愛發作と一般の𢠸愛胚胎とを起すものであることを知り、更に常に性的亢
奮が滿足されない間に禁制され中止され或は除外された時に起るものであることを知つた。性的亢奮S.
二〇八
禁制と償候と杞憂
はリビドーの本能活動の表現であるか為めに、リビドーが斯かる禁制作
用によつて杞憂に變化することと想像するのは無理でないやうである。
今は斯様に觀察する事も價値のある事で、即ち他方では抑壓の毀敗によ
つてエス機構のリビドーが障碍を起すといふ事は認められるのである。
然し、本能活動のリビドー纏綿から杞憂が形成されるといふ事は猶常に
正しいといい得るのである。然し乍ら如何にして斯かる結果を他の結果
と一緒に考へねばならぬのであるか。即ち恐怖症の杞憂は自我杞憂であ
り、自我の中に發生し、抑壓によつて起らずして抑壓を招來するもので
ある等の事を如何なる關係をもつたものか。これは矛盾してゐるものゝ
やうであつて、簡單には説明できないのである。一個人に於ける杞憂の
二つの原因を責める事は容易に出来難いものである。然し乍ら假定ので
きることは、自我は障碍された性行為、中絶された亢奮、又は回避等の
状態に於て危険を探知し、それを杞憂として反應するのである。然しそ
の為めに何うなるといふ事はないものである。其他、我が取扱つた恐怖
症の分析は訂正を必要としないやうに見える。然し斷言はしない。
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禁制と徵候と杞憂1926-001/1931.ja
1926-001/1931.ja/4