S.
二五四
第九章
禁制と徴候と拒愛
今、残された仕事は、徴候形成と拒愛発生との間に於ける関係を処理することである。
これに就いては二つの考慮が撰げられるであろうである。その一つは、拒愛そのものを神経症の徴
候であると称すること、他の一つは、両者を廣い一層緊密な関係にあるものと見做すことである。そ
の結果としてあらゆる徴候形成は拒愛を回避せんが為にのみ作られるのである。即ち徴候は他に拒愛
として向けられたらしい精神的エネルギーを拘束するのである。それが爲めに、拒愛は神経症の根本
現象又は主要問題であるらしく思へるのである。この第二の主張の極く僅かな部分的の正確さは、顕著なる例をもつて證明することが出来る。若し
吾人が街へ連れ出した外出恐怖症患者を置き去りにして来たならば、彼は拒愛發作を起すに至る。又
強迫神経症患者に對して、手の洗滌を禁じたならば、彼は殆んど堪へ難い拒愛の虜になるのである。
それ故に患者と街へ一緒に行くことや強迫的に手を洗滌することは、斯様な拒愛勁敵を防禦すべき目
的や又成果を期待してゐるのであることは明かに判る。この意味に於て又各の禁制即ち自我が自制す
ることは、徴候と名づけ得られるのである。S.
二五五
んとして作られたものだと云ふ事が出来る。徴候形成が防害された時には危険が實際
に發生して來る。それは即ちかの出産にも類似した状態が出現して、その場合に間斷なく増加する本能の要求に對
して自我は無救済状態に陥り、かくて拒絶條件の最初のも及最も根原的のものが出現するに至るの
である。吾人の見る處では拒絶と徴候との關係は假定されたよりも稍狭く示されてゐる。それが爲め
に、吾人は兩者の間に危険徴候の要素を挿入したのである。そこで吾人は補遺的に、拒絶發生に徴候
形成の手引であると云ひ得るのである。確かにこれは重要な假定であらう。何故ならば若し自我が
拒絶發生によつて不快法則を覆さないならば、エスの中に用意された力、危険にせまつた機制を申
止させる力は持たなかつたであらうからである。こゝに於て拒絶發生が最少限度に制限され、その拒
絶が信號としてのみに用ひられるといふ傾向が明瞭に判るのである。何となれば、さもなければ單に他
の場所で避難せんには本能機制によつて威嚇される不快さを忍ばねばならなくなり、快感原則の目的
には無効であるやうなものでも、神経症の場合には完全に屢々生ずるに至るからである。斯くて徴候形成は危険状態を廢棄せんとして實際の成果を遂げてゐる。これには二方面あつて、
一面は吾人に隠匿されてゐるもので、エスの中で斯の變化が生じ、それによつて自我が危険から免か第九章
S.
二五六
抑制と償償と祖憂
然し吾人が以前に徴候形成から出發して説明して
来たものな防禦機制からと改め、又徴候形成とい
ふ名称な代償形成と同じ意味の語として使用して、
より正しく云ひ度いと思ふ。斯くすれば、防禦機
制は道走といふことに類推されて、それによつて
自我は外部からの危険の脅威を免かれるといふ事が
明瞭に判り、この機制が全く本能の危険から遁走し
ようとする企圖を表明してゐるといふ事が明瞭に
知るのである。この比較に関する考へは更に説明を
進めてゆく助けとなる。第一に対象消滅(對象側
の愛情消滅)及び去勢脅威は、何れも何か猛獣の如く
に外部から威嚇して来る危険物であつて、本能
の危険ではないなどといふ事が云へなくなつて来る。
然しながら全くこれは同一の場合ではないので
ある。例へば我々が狼に對して振舞ふ如き無關係さ
をもつて、狼も亦吾人に對して恐らく無關係に思
ふであらう。然し吾人の胸中に或る種の感情や目的
を抱かなかつたならば、狼は我々に對してその
愛を撤回しなかつたらうし、去勢も亦我々に對して
脅威とはならなかつたであつたらう。斯くの如く
此の本能活動は外界の危険の條件となつて、その
爲めにそれ自身が危険物となるのである。故に我々
は外界の危険物に對しては、内部の危険に對する
手段を以て戰ふことが出来るのである。動物恐怖S.
二五七
症に於ては、その危険は未だ全く外界の危険として見られてゐる観がある。
假令それが徴候の中に外界の轉移してゐる事を認めてゐるてもである。強迫
神経症の場合では、その危険は遙かに多く内的なものとなつて、超自我に対
する杞憂の一部即ち社會杞憂が矢張り或は外界の危険を内部的に代償するこ
とを告白し、他の一部は良心の杞憂であつて、それは全く内精神的のものである。第二の異論は、吾人が外界の危険の脅威から迴避する事は、自身と脅威物と
の距離を大きくする事以外には何物でもないといふ事である。吾人は實に危
険に對しては防禦法を講じては居らず、他の場合のような例へば棍棒をもつ
て狼に向ふとか武器をもつて射つといふやうな、さういふ事は危険に對し
て少しも試みない。それ故にこの防禦機關は然し乍ら迴避といふ事よりも更
に以上のことが爲されてゐるやうである。この機關は實に脅威的の本能の仕
事に關係してゐるのであるて、これを兎に角抑壓し、これの目的を撤回し、
それによつてこれを非危険性のものと爲してゐるのである。これらの異論は
どうも排斥し難いやうであつて、吾人はこれを勘定に入れなくてはならない。
思ふに迴避企圖に正確に比較されるやうな防禦機關が存在するといふ事は確
かにあるらしいが、然し自我は自ら他處に於て更に一層能動的に防禦法を講
じて強烈なる反抗行動を取つてゐるのである。若し防禦を迴避と比
較する事が概して差支へないやうな状態であつた場合、例へば自我とエス中
の本能とが實際に同一の第九章
S.
二五八
禁制と貫徹と杞憂
構成物であつて、分離した存在物でない場合―例えば狼と小児のやうな―だつたならば、その結
果として自我的の各態度が本能の仕事の上に或る變化を及ぼさねばならぬのである。吾人は杞憂條件の研究によつて、防禦作用に於ける自我の態度を、所謂合理的化作用として觀察
せねばならない。各危険状態は精神装置の一定の潜伏期或は發育階梯に合致して居り、且つそれらに
對して正常であるやうに思ふ。即ち、早期の小兒期の本體は事實上内外より來る全亢奮を精神的に操
縦すべき準備が出來てゐない。或る一定の年齢に對して實際的に最も重要なる興味ある事は、吾人に
關係のある人達がその母性愛的世話をいつまでも撤回しない事である。若し少年が權力ある父を母
に對する競爭者として見做すやうな場合には、父に對する攻擊的傾向と母に對する性的企圖とが感じ
られて、父を怖れるといふ事が正當となり、且つその膺懲の杞憂が種族生學的の強勢に從つて去勢
杞憂として現はれて來る。社會的關係が來る共に起自自我に對する杞憂、即ち良心が重要性を帯びる
に至り、これらの起因の廢止される事は、重大なる葛藤や危険等の泉源に在るに至る。然し全くそれ
らには新問題が結び付いてゐるのである。吾人は昔らくの間、杞憂感情を他のもの(例えば苦痛感情)をもつて代償しようと試みよう。四歳の
女兒が人形の毀れた時に痛ましくも泣き、六歳の折には女教師に叱られて泣き、十六歳の折には戀人のS.
二五九
第 九 章
つれなさに泣き、二十五歳の折には幼児を失つて泣くだらうといふ事は、吾人はそれを全然普通のこ
とと考へてゐる。これらの苦痛條件はそれ/\其の時代といふものを持つてゐて、時代の経過と共に
消散するものである。但しこの最後の一定のものは、生涯を通じて存留してゐる。然るに若しこの女
児が婦人となり母となつてから人形の破損で泣き出すやうな事があつたならば、これは不思議なこと
とせざるを得ない。處が神経症患者はそれと同じ態度をとるのである。彼等の精神装置の中には永い
間、刺戟の操縦に對するあらゆる法則が廣い範圍内で構成されて居り、これが十分な發達を遂げてゐ
る爲、彼等の多くの要求を自身に満たすことが出来て居り、そして去勢は最早腐蝕としては行はれな
いことなき時承知して居り、且つその態度は實に今も猶ほ昔の危険状態が存在せる如くであつて、
あらゆる早期の犯愛條件に固く結び付いてゐるのである。これに對する解答は、稍散漫的に陥るであらう。それは就中事實を觀察する必要があらう。大多數
の例では、昔の犯愛條件は既に神経症的反應を惹起した後にば事實上消滅されてしまふのである。嬰
児が孤獨や暗黒や未知の人に對してもつ恐怖症は殆んど普通のものと稱されてゐるが、多くは後年に
なつて、幼年期障碍でよく云はれてゐる所の
ワクセンテヒウス
『芽を出す』ことゝなるのである。屢々起る動物恐怖症
はこれと同じ運命をもつたもので、小児期の轉換性ヒステリーの多くは其後に至つて何等繼續して行S.
二六〇
強制と徴候と杞憂
かなないのである。潜伏期の中の儀式は極めて屢々起る出來事であつて、これらの場合の甚だ僅かな割合だけが其後に至つて完全なる強迫神経症を發生するのである。小兒神経症は主として–吾人の取扱つた高等
の教養を受けてゐる知識階級の會の小兒では–その發育中に起る規則的の挿入物である–とへ其れに就いては猶ほいまだ十分なる観察が施されてゐないとは云へ。世人は成人の神経症を観察する際に、その中に小兒期神経症の標兆の顕はれてゐるのを見逃しはしないが、然しこれを現
熱の経過中に杞憂条件は廃棄されたとはせねばならず、且つ危険状態はその意義を消失したとせねばならぬのである。然しこれらの危険状態の二三のものは、その杞憂条件を時期に應じて変化させるという事になるのである。それ故に例へば去勢杞憂は懲
罰恐怖の假面のもとに存在してゐることがあるが、それは去勢が最早性的快楽の放縦に對する懲罰としては残留してゐるでなく、なつてゐるとも、その代りに本能の自由性に對して重大なる疾患が育成してゐる
事を知つてゐるのである。その他の杞憂条件は主として消滅するものと我に對しての祖愛の如くに、生涯人間につき纏つてゐるものである。根原的の外傷性の杞憂状態の再生に對しては、成人であつても亦結局何等十分なる防備を持つてゐないのであつて、即ち各人は或るS.
二六一
第九章
限界を與へられてゐて、その限界を超えては
その精神装置は解決の成就に必要なる亢奮量を拒絶する
のである。
これらの少許の訂正は、此處に説明された事實を覆すものとは定め難い。この事實とは、多數の
人は危険に對して小兒的の態度となつて、年を經た杞憂條件を克服できないといふ事である。即ちこ
れと戰ふことは、神経症の事實を否定することになる。何となれば斯かる人々は同じく神経症患者と
稱されるからである。然し乍ら如何にしてこれは可能であるか。何故あらゆる神経症は次の時期に
達すると共に終了される處の發育の挿入物ではないのか。何處から危険に對するこれらの反應の繼續
要素は來るのであるか。杞憂感情が、他の總ての感情を餘處にして、獨りで多くの反應を喚起する事
を享樂してゐるやうに見える特權は何處より得らるのであるか。その反應とは變態として他より區別さ
れ、無目的に生活の潮流に逆行してゐるものである。換言すれば、吾人は測らずも屢々起つた處問題
に再び遭遇するのである。即ち、神経症は何處から來るか、その最終の起因、その特殊の起因は何で
あるか。十一年間の永き分析の努力の後に於ても、この問題は未解決のまゝ、初對面の如くに吾人の前に
出現するであらう。
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禁制と徵候と杞憂1926-001/1931.ja
1926-001/1931.ja/9