S.
二〇九
第五章
我々は徴候形成と、徴候に
対する自我の二次的争闘とを研究しようと思つたが、然し明かに恐怖症
を選定した事によつて何等の恵まれたる獲得を齎し得なかつたのである。感情の容姿の中で著しいも
のとされてゐる祖憂は、この事件を朦朧にさせる合併症の如き観を呈してゐる。何等の祖憂を示すな
い神経症は多数に存在する。真正の転-
換性ヒステリーは祖憂をも感ぜずして重き徴候を現はす種類
に属してゐる。この事實によつて既に我々は祖憂と徴候形成との間に何等の關係の結ばれるものでな
いことに注意せねばならない。恐怖症は轉換性ヒステリーに接近してゐるが爲めに、余はこれを
「アングスト祖憂性ヒステリー」として取扱ふのが正當であると考へるが、然し、それが轉換性ヒステリーの型
であるか、或は恐怖症の型であるかを決定するやうな條件を示して呉れたものは未だ誰もゐない。又
同様にヒステリーの場合に於ける祖憂發生の條件を研究したものもない。
轉換性ヒステリーに屢々起る徴候、即ち運動麻痺、拘攣或はコンベルジヨンス不隨意行動或はエントラデユング不隨排泄、苦痛、幻覺
は永久に固定したる纒綿機制であるか或は間歇性の纒綿機制であるかは、その説明に當つて新しい困
難を感ずるのである。元より斯様な徴候に就いては多くの事が知られてゐない。障碍された亢奮發現S.
二一〇
禁制と徴候と拒愛
が、徴候によつて如何やうに置換へられてゐるかは、分析によつて始めて實驗することが出来るので
ある。多くの場合に徴候それ自身は、この亢奮表現の一部を分擔せるが爲めに、その全エネルギーは
恰もこれにその一部を集中せるかの如く見える。苦痛はそこに抑壓が発生したといふ狀態であり、幻
覺は、その時の知覺であり、運動麻痺は、ある行動の拒否であつて、それは何時でも爲し得たものが
禁制されたものであり、拘攣は、通常その時起つてゐた筋肉への神経支配が他の場所に轉移したもの
であり、痙攣發作は、自我の統禦が無くなつた時の感情爆發の表現である。不快感覺が徴候を伴つて
出現した時には、その不快感は極めて多大に變化性を持つものである。恒久的に運動機に轉移した
徴候、例へば麻痺又は拘攣の如きものは全く不快感覺を有して居らず、この感覺に對して自我は無關
係の如き態度を取るのである。間歇的徴候及び感覺領域の徴候の場合には通常明瞭なる不快感覺が認
められ、殊にそれが苦痛徴候の場合にあつては非常に高度に驕まり得るものである。然し乍ら斯くの
如き多種多様なものの中から、斯く差異を可能にし且つそれを個々に説明し得べき要素を摘發するこ
とは甚だ困難な事である。又一度形成された徴候に對して自我は如何なる争闘を爲すかは、この轉換
ヒステリーの場合に於ては餘り注意されてゐない。若し肉體部分の苦痛感が徴候になつた時には、こ
の苦痛感は二た役を演ずる立場に置かれるのである。苦痛徴候は、この部分が外界から接觸される時S.
三二一
第五章
には、それは恰もその場所によつて代表された病的状態を、内部から聯合的に動かされた時の如くに、
確實にその徴候を表現するものであつて、且つ自我は外側の知覚をなしたといふ事によつて、徴候の
喚起を防ぐといふ防禦策を採るのである。轉換ヒステリーの場合に於て、何によつて不可解なる特殊
の徴候が起るかは説明し難いものであるが、然し乍ら我々にはこれによつて、成果なき領域を直に説
出すべき動機を、興へられてゐるのである。我々はこの徴候構成に就いて多くの経験が期待されてゐる強迫神経症に、目を向けようと思ふ。
強迫神経症の徴候は、一般に云へば二種類に分けられて居り、且つそれぐが反對の性質をもつてゐ
る。それは禁斷、防禦策、贖罪等の消極的性質のものか、さもなくば反對に代償滿足で、それは極め
て屡々象徴的變装をもつたものかである。この二團體の中には消極的のもの、拒絶的のものの懲罰的の
もの、隨喜的のものがあり、然し疾病の持続と共にあらゆる拒絶を恐れざる滿足が急速に増加して来
る。禁斷が滿足と合同することに成功せばそれは徴候構成の勝利である。その結果として根本的に拒
絶されたる命令又は禁斷も、亦一つの滿足の意味を持つことになり、それが爲めに屡々技巧的に結合
させむとする方法が甚だしく要求されてくるのである。これを爲さむが爲めに自我によつて既に周知
である處の綜合の傾向が示される。高級なる例では、患者は彼の徴候の多くのものに、その根本的の意S.
一一一
禁制と徴候と和愛
味に添へて更にその直接反對の意味を持たせる事に成就してゐる。それは雙存性の力の證憑である。
その理由は不明であるが、強迫神経症にあつては重大なる役目をもつたものである。低級な例では徴
候は一時的に現はれる。即ち一定の命令に従ふ行為に引続いて、直ぐにそれを拒絶した、若しくは逆
にした第二の行為が現はれて来る。然し第二の行為とても敢へてその反對を貫徹させようとは強ひな
いのである。
強迫神経症は外観的に見るなら、直ちに二つの印象が興へられる。第一は、抑壓されたものに對し
て持続的の争闘が此處に保たれて、その争闘は抑壓する力に益々不利になるといふことであり、第二
は、自我と超自我とは此の場合徴候構成に當つて特殊の大きな參與をなしてゐるといふ事である。
強迫神経症は確かに分析的研究に當つて興味があり、且つ感謝してよい對象であるが、然し未だ獨
は問題として征服されてはゐない。このものゝ本質を更に深く考察せむとするならば、我々は確實に
されない假説や證明されない想像をいまだ捨て去ることは出来ないと告白せねばならぬ。強迫神経
の發生状態は、ヒステリーのそれに比して少しも違はず、即ちエヂポス・コンプレクスのリビドー的
要求に對しての必要なる防禦である。又何れの強迫神経症の場合でも、その最下層には極めて早期に
形成されたヒステリー徴候が認められるやうである。其後には然し乍らより隔つた形態が實質的要素S.
二一三
第五章
によつて決定的に變化されるのである。リビドーの性器編成は、薄弱なる且つ抵抗力の僅少なるもの
として現はれる。若し自我が防禦作用を始める時には、最初の結果として性器編成(男根期)は全部又
は一部が早期の肛門虐待期に投身返される。斯かる退行の事質は全部の事で決定されるのである。
これには猶他の可能性が考究され得る。恐らく退行は素質的の結果ではなくて、ある一時的の結果
である。この退行はリビドーの性器編成が餘り弱かつたといふ理由では起らなかつたであらう。それ
はむしろ自我の反抗が餘り早期で、まだ虐待期の開花期中なるに始まつたが故である。余はこの點に
就いて確實なる決定を強ひるものではないが、然し分析の觀察にはこの假説は好都合なものではな
い。これは寧ろ強迫神経症に轉じた際には、既に男根期になつてゐたことを示してゐるのである。又
神経症の起る年齢はヒステリーのそれよりも遅い年齢であり(第一小兒期、潜伏期終了後且つ余が研
究し得た處によれば、斯かる感情の發生が特別に遅い例に於ては、今迄害されなかつた性生活が、そ
の時になつて實際的に價値低下したといふ事が、退行と強迫神経症の發生との條件を作るに至つたと
いふ事が明瞭に示されてゐる。)(註一)「強迫神経症の素質」参照、全集五卷。
余は退行の超心理學的解釋を「本能の分解」即ち性慾要素を區分することによつて研究した。その要S.
二一四
禁制と徴候と杞憂
禁制には性器期の發端と共に虐待的經緯が附加されてゐたのである。
退行の強要は、リビドーの要求に對しての防禦爭闘に當つて、自我の最初の成果を意味してゐる
である。我々はこゝで合目的に『防禦』の一般的性質を『抑壓』とは區別してゐる。抑壓とは防禦作
用が利用してゐるメカニズムの一つに過ぎない。強迫神經症の場合には、常態の場合やヒステリーの場合よ
りも恐らくは一層明瞭に、去勢コンプレクスの防禦として、即ちエディプス・コンプレクスの遂行の防
禦されたものとして認められてゐる。我々は今、潜伏期の發端に立つてゐる。それはエディプス・コン
プレクスの消退、自我の中に於ける超自我の創造或は固定、及び倫理的且つ美學的境界の建設等によ
つて認められてゐる時期である。これらの機制は強迫神經症には通常の程度を超えて現はれる。即ち
エディプス・コンプレクスの破壊に向つてリビドーの退行の低下が伴はれ、超自我は特に嚴格になり無
情になり、自我は超自我に對して従順になり良心同情正直等の高度の反應構成を發達させる。幼児が
手淫を持續したいといふ願望は、峻厳に拒絶されるが、然しこれは峻厳だからとて常に効果的ではな
い。この手淫は退行的(肛門虐待期)の觀念に依拠してゐるが、然し男根期編成の屈服させ難い部分を
代表してゐるものである。男性保持(去勢杞憂)の興味の中に、この男性たる各活動が妨げられるとい
ふのは、内部的反對が其の中に存在してゐるのである。この内部的反對も亦強迫神經症では單に誇張S.
二一五
第五章
されたもので、既にはエヂプス・コンプレクス除去の常態の種類に密着してゐるのである。多く
の過剰は、その自己廃棄の崩芽を自身の中に持つてゐる如く、強迫神経症に於ても亦、正面から抑壓
された手淫は、強迫行為の形式を採つて、その満足へ向つて常に近寄らむと努めることは確かであ
る。我々が正常の性格形成の誇張されたものとして認めてゐる強迫神経症に於ては、その自我の反應構
成を、退行及抑壓以外の新らしき防禦機制として見做す事が出来る。これらはヒステリーに於ては缺
けてゐるか或は非常に弱度に現はれてゐるやうである。考究的に見れば、ヒステリーの防禦機制の繼
つて現はるゝ虚の假定を考へることが出来る。それは自身を抑壓によつて制肘する如く見えるのであ
るが、その實は自我は不快なる本能活動より轉向し、彼等を無意識の經週に委ね、而して彼等の運命
に何等關與せざるに至るのである。これは全く正常ではない。何となれば、我々は確かに次の如き例
を知つてゐる。即ちヒステリー徴候は同時に超自我の罰の要求を満たすことを意味してゐる。とは云
ふものゝ、然しヒステリーに於ける自我の關係では、これは一般的な性質であると記述することが出來
得るのである。強迫神経症の場合には極めて峻厳なる超自我が形成されることは簡単に事實として承認され得る。
S.
二一六
禁制と徴候と杞憂
或は斯かる感情の根本的性質はリビドーの退行であると考へる事が出来、且つ超自我の特質をこれと
結合すべく試みることも出来るのである。エスから出来た超自我は、通常そこに生じた退行と本能の
分解とを免かれ得ないのである。それ故それは正常の発達の場合よりも、より頑固により實質により
無情にならうとも、それは不思議ではないらしい。
潜伏期の聞は、手淫意圖の防禦が主要問題として取扱はれてゐるやうである。この争闘は種々の徴
候を生じ、その徴候は種々の人物にも典型的方法をもつて反復され且つ一般に儀式的特質をもつたも
のである。これが未だ猶綜合的に且つ系統的に分析されずにあることは甚だ遺憾である。これは神経
症の最初の行為として、此處に應用された徴候形成の機制に就いて、最初の光明を廣げるであらう。
これは既に将来に於て重大なる疾患を惹起せしむるに重大關係をもつた性質を示してゐる。即ち将来
自動的に實行さるべき行為への橋渡しで例へば就寝には洗濯及着衣、運動には反復及び時間空費の傾
向が生ずる。何故に斯く成るかか未だ全然判明してゐない。然し肛門愛の要素の醇化作用がこの際に
明かな役目を演じてゐるのである。
思春期は強迫神経症の発達に於て決定的な時代を作つてゐる。小兒時代に於て破壊された性慾編成
は、今や強大なる力をもつて復活してくる。然し小兒時代に発達した性慾は思春期時代の新開始に向
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二一七
つてある方針を興へることを我々は知つてゐる。かくして一面に於ては早期の進撃的活動が再び喚起
され、他面に於ては新しきリビドー活動の多少大なる部分は―不良なる場合にはその全部は―退
行によつて示された道筋を選び、そして進撃的及び破壊的目的として現はれねばならなくなる。性慾
的傾向のかくの如き變裝と且つ自我に於ける強度の反應構成の結果、今や性に対すろ争闘が道徳の旗
印の下に繼續される。自我は驚愕してエスから意識に送られた處の殘酷なる亂暴なる要求に対して反
抗する。然し其際に性的願望、殊に嘗て彼の抗議に反對したやうなものに対して争闘しようとは考へ
てゐない。過度に峻厳なる超自我は、益々赤裸々の形を示す性慾に対しては益々強力に抑壓を加へ
る。かくの如くにして強迫神経症に於ける葛藤は、一方向に限局されろ現はれ、防禦するものは、より
頑迷になり、防禦されるものは忍耐し得ざるに至る。この兩者は、一つの要素たるリビドー退行の影響
によつたものである。我々の多くの假説に對する矛盾は、不快なる強迫觀念は結局意識されるといふ論の中から發生して
ゐた。然し乍ら強迫觀念は既に抑壓の過程を完成したものだといふ事は疑ひのない事である。多くの
場合、進撃的本能の本来の意味は結局知られてゐないものである。それを意識させることは分析の仕
事として好ぎ題目である。何者によらず意識に上つてくるものは、通常は單に漠然たる夢の如き不確第五章
S.
二一八
禁制と徴候と拒愛
質なもので、歪められたる代償物か、さもなくば荒唐無稽な変装で不明にされたたものである。抑圧に
よつて進撃的本能の内容が侵蝕されなかつた時でも、確かにそれを伴つた感情特質は取去られてしま
ふのである。かくのごとくその進撃は自我に對しては衝動1)としては現はれずして、むしろ患者の稱す
るとごく、冷淡に感ぜしむる虚の單なる「思考の内容」として現はるゝものである。然しながら斯様な
風でない場合もあることは注意すべきである。強迫觀念の認知の際に創られた感情は、直ちに他の場所に於て現はれてくる。超自我はこれに對し
て恰も何等の抑壓も加へなかつたかの如く振舞ひ、その進撃的活動を正しい音調と十分なる感情特質
とをもつたものとして周知のものゝ如き態度を採り、而してこの假想を基礎として自我を取扱つてゆ
くのである。自我は、一方に於て無罪だと知りつゝも他方では罪惡感を
認め、自身で説明できぬの
解答をせねばならなくなる。こゝに於て我々に提供された謎は、最初見たよりも餘り大きいものでは
ない。超自我の關係が全く了解され、又自我に於ける矛盾も次のやうに明かになつた。それは超自我
から來る影響を完全に受け入れてゐるにも拘らず、エスに對しては抑壓を繰りて相手にしないのであ
る。こゝに自我は何故に超自我の苦痛なる非難から逃れむとしないかといふことの報告によつて片づけられる。上多くの場合に現はれるといふことの報告によつて片づけられる。又全然、罪惡感を有しない強迫神
S.
三二九
経症もある。これは我々の知れる範囲では、自我は自ら罪悪感の知覚を、新しい徴候即ち贖罪行為や
自己懲罰の制肘によつて感ぜずに済ますからである。然し乍ら斯かる徴候は同時に、退行によつて強
められる虚の被虐待性の本能を満足させた事を意味してゐる。
註(一) Reik, Geständniszwang und Strafbedürfnis, 1925. S. 51. 参照。
強迫神経症の現象は多種多様であつて、その異れるあらゆるものを綜合せむとして如何なる努力を
拂つても摘出出来難い程である。故に吾人はこれに典型関係を抽出すべく努力し、且つ同時に重大な
る規律を發見すべく常に考察してゐるのである。
強迫神経症に於ける徴候形成の一般的傾向は既に鋭べた。それは拒絶を犠牲として代償満足に益々
多くの餘地を作ることでである。斯かる徴候は自我を根本的に制肘することでであつて、自我のもつ綜合
せむとする傾向の力により、将来も又満足の代償を受納するのである。然しこの後者の意義が漸次効
果を示すことは誤りない事である。極度に制肘を受けたる自我が、徴候によつて満足を求めむとして
それを目標とするに至つたのは、最初の防禦作用の完全なる失策に自ら益々強く接近せむとする過程
の結果となるのである。満足を得むとして力の釣合を轉移せしむることは、自我の意志を麻痺せしむ
べき怖るべき終末に導くものである。これはすべての判定に對して、恰も同じやうな強い一方からの第五章
S.
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禁制と徵候と杞憂1926-001/1931.ja
1926-001/1931.ja/5