禁制と徵候と杞憂1926-001/1931.ja
  • S.

    二七三

    第十一章

    補遺

    禁制と徴候と拒愛

    この解説の中には種々の問題が取扱はれてゐる。それは今迄は已むを得ず着手しなかつたが、今は
    種々の問題に要求されてゐる周到綿密といふ事の幾分かを保たんが爲めに、纏めなければならぬこと
    になつた。

    嘗て發表せる觀察の修正

    a 抵抗及び逆轉移

    抑壓は一度限りの作用をあらはすものではなく、連續的聲澤を必要する事は、抑壓の理論の重要な
    部分である。これが無くなるやうな時には、その泉源から絶えず流れ來る供給を保持してゐた處の
    抑壓された本能が、今迄閉鎖されてゐたその道を直ちに打開するかも知れぬ。その結果に對して抑壓

  • S.

    二七三

    が加へられねばならず或は折々に不定に繰返されねばならぬかもしれぬ。斯くして本能の饑餓性から
    自我に對して要求が起つてくる。それは自我の防禦作用を連續的營澤によつて確實にしようとするとこ
    とである。抑壓を守護しようとするとこの行爲は、吾人が治療に専心する際に抵抗1)として研究されるも
    のである。この抑壓から余が逆繰2)として記したものが假定されて來る。斯かる逆繰綿は強迫神經症
    の際に諒解されるのである。このものは此處では自我の變化として、自我の反應構成として、抑壓さる
    べき本能傾向とは相反する態度(同情、良心、正直)の強力になつたが爲めに現はれるのである。これら
    の強迫神經症の反應構成は誇張されてはゐるが發達する性格の潜伏期中に於ては普通の狀態とされて
    ゐる。理論を必須として期待されてゐるヒステリーの場合には、この逆繰綿を證明することは甚だ困
    難である。こゝに於ても亦反應構成による自我變化の分量は不明であり、又種々な關係に於て、この状
    態の主徴候として注意を強ひることは極めて奇怪なことであらう。斯様な方法に於て、例えばヒステ
    リーのアンビバレンツ葛藤は解かれ、愛人に對する憎悪が、彼女に對する愛撫心の過大と又彼女に對す
    る不安の過大とによつて制止されるのである。然し乍ら強迫神經症に對する鑑別として重要視すべ
    き事は、斯かる反應構成は一般の性格を示さずして、却つて全然特殊の關係のもとに制限されてゐる
    といふ事である。例えばヒステリーの如き、心底より自己の憎悪せる小児を過度に愛撫するのは、

    第十一章

  • S.

    二七四

    禁制と徴候と祖愛
    その爲めに總じて他の婦人よりも愛情の持ち合せがないであらし、又他の小兒に對しては全く愛撫な
    どはしないであらう。ヒステリーの反應構成は或る一定の對象に強く定着してゐるものであるから、
    自我の一般的素質にはならない。これが強迫神経症に於ては全く一般化されたもので、對象關係が緊
    密でなく、對象選擇の容易に轉移することが特徴である。
    逆纏綿の他の種類はヒステリーの特質に一層酷似してゐる。抑壓された本能活動は二方面から能動
    的にされる著しい纏綿する。第一には内部からで、内部の亢奮源より来る本能の増強によるもの、第
    二は外界からで、或る對象を認識することによる。この對象は本能に對して要求されてゐるらしいも
    のである。ヒステリー性の逆纏綿はむしろ外界へ危険を認める方面へ向けられたのである。そしてあ
    る特殊の逸達の形式を採つて、認識が生ずるに違ひない處の自我制限による状態を避けて、而してこの
    認識が生じたとしてもそれに對して注意を撤回させてしまふことに成功するのである。佛蘭西の學者
    (Laforgue) は簡単にこのヒステリーの行為を特殊な名稱『スコトミザチオン』と名づけたのである。ヒ
    ステリーよりも猶一層不思議なるは恐怖症に於ける逆纏綿の斯かる技巧である。その興味の中心は怖
    るべき事の認識を避けんとして極力努めることである。ヒステリーは一方では恐怖との間に、他方で
    は強迫神経症との間に逆纏綿の方向の相反せる事は、假令絕對的でないまでも意味をもつたものらし

  • S.

    二七五

    集全學析分神精ドイロフ

    第十一章

    い。抑壓と外界の逆纏綿との間は、退行と内部の逆纏綿(反應構成によ
    る自我變化)との間の如く緊密
    なる關係をもつてゐる事は大體に於て認められる。危険の認識を回避する事は結局神經症の一般的
    問題である。強迫神經症の種々なる命令や禁斷は、これと同様な目的に役立つべきである。

    吾人が分析の際に破らねばならぬ虚偽の抵抗は、自我から生ずるものであり、又自我は彼の逆纏綿に
    固着してゐるものである事は、嘗て一度明かに説明した事である。自我は、自己の注意力と認識と觀
    念とに應用する事を困難として居る。それを回避する事は以前から命令通りに行つたものである。
    或は衝動を自分のものとして認めることも容易でないのである。自分のものとは、自分に固有のもの
    として親密なるべき完全なる相手を形成してゐるのである。吾人が分析に於て抵抗と戦ふことは、
    前述の如き斯様な解釋の上に立つてゐるのである。吾人は抵抗を意識的にするのである。即ち彼は何
    處で、又如何にして斯く屢々、抑壓の關係のもとに自ら無意識になつてゐるかを知るのである。抵抗が
    意識された時には或は後に、吾人は抵抗に對して論理的の辯論は向けない。又自我が抵抗を放棄した時
    に、吾人は自我に利益と賞與金とを約束する。自我の抵抗にはそれ故に何等疑ふべき訂正すべき何
    物もない。これに反して、獨りこの抵抗は、分析の際に我々に對抗して生ずるやうな事柄を、隱蔽す
    るかどうかは問題である。吾人の經驗によれば、抑壓を削除することは自我にとつては異常の困難な

  • S.

    二七六

    禁制と徴候と犯襲

    ことであり、又自我がその企圖を摑んだ後に、自己の抵抗を放棄することも亦困難なことである。而
    して吾人は斯かる推賞すべき企圖の後に生ずる奮闘的努力の時代を『完成』の時代と記載したので
    ある。斯かる完成を必要とし且つ誤解せしむる動的の要素を認容するやうなは近づいて来た。これ
    は自我抵抗の廢棄後に更に反復強迫の威力が、即ち抑壓された本能過程に對する無意識の原型のもつ
    引力が、打破されたといふ事に過ぎないのであり、又世人がこの要素を無意識の抵抗として認めよう
    とも、それに就いて何事も論ずる處はないのである。斯かる修正を吾人は少しも迷惑してはゐない。
    これが吾人の誤解の一斑になるならば望ましき事であり、これが前者に反對せずして寧ろこれを補充
    し、時には通有性を制肘し、狭小なる理解を擴張するに至るならば、決して恥辱ではないのである。
    吾人はこの修正によつて、分析中に逢着する抵抗の方法に就いて、完全なる觀察を齎したとは思は
    ないのである。更に進んだ深い研究に於て、吾人は五種類の抵抗と戰つた事を認めてゐる。それは即
    ち自我、エス及び超自我の三方面より生ずるものであつて、その際に自我は、これらの力學にて三個
    に區別された形式の泉源として認められるのである。これらの三個の自我抵抗の第一は、以前に取扱
    はれた抑壓の抵抗であり、これに就いては改めて云ふべき事は餘りないが、このものから轉嫁の抵抗
    が分立する。これは同じ性質であるが、分析に於ては他の又は更に明かな現像を作るのである。何と

  • S.

    二七七

    なれば或は或る關係を分析状態に或は分析者の人格に造り上げる事が出来, 又同時に露はに思ひ出すべき
    抑壓物2), 眼前2)に再經驗することが出来るからである。自我抵抗も亦然し乍ら全く異つた性質であつ
    て, 罹病から生じて且つ自我の中の徴候關係に基いたものである。これは或る満足或は慰籍を放棄す
    ることに對する反抗に一致したものである。第四種の抵抗は―エス-
    要に向つての責務としてこれを作つたものである。第五の抵抗は超自我の抵抗であつて, これは最後に
    に認めたもので, 最も不明なものであるが, 然し必ずしも最弱のものではなく, 罪惡意識或は懲罰願
    望に基いてゐるやうであつて, 分析による各結果及び其後の治癒にも抵抗するものである。

    b リビドーの變化による拒憂

    第十一章

    この問題代表してゐる拒憂の説明は, 余は今まで正當と見做されものよりも遙かに縁遠いも
    の, 斷片である。余は嘗て拒憂を, 不快の條件の下に起る自我の一般的反應として觀察し, その出現
    を常に經濟的に諒解せむとして研究し, 且つ現實神経症の研究の結果, 自我から撤回されたリビドー
    (性的亢奮)或は自我から使用されなかつたリビドーが, その直接の放射に拒憂の形式をとつたといふ
    假定を下したのである。これらの種々なる決定は十分に合致しないこと, 又寧くとも相互に必要を生
    じないことは, 見逃がせないことである。其他, 拒憂とリビドーとの特殊の密接なる關係の現象が起

  • S.

    二七八

    禁制と徴候と杞憂

    るが、これは不快反應としての杞憂の一般的な性質とは調和せざるものである。
    この説明に對する抗議は、自我を孤獨の杞憂場となす處の傾向から出發してくるもので、故にこ
    れは『自我とエス』の中に探求された精神装置の組成の結果の一つである。以前の説明では、抑壓され
    た本能活動のリビドーを、杞憂の源泉として認めてゐるらしいが、新しい説明によれば、むしろ自
    我がこの杞憂に對して責任をもつことになつてゐる。それ故に自我杞憂或は本能(エス)杞憂と云はれ
    てゐる。自我は非性慾化されたエネルギーとの交渉を持つが爲めに、又革新されて、杞憂とリビドー
    との緊密なる關係は弛緩されるのである。望むらくは、少くともこの矛盾を明かにし、不確實の輪廓
    を鋭く示すべく、成就せむ事である。
    ランクの主張、即ち余が自ら最初に注意した如く、杞憂の感情は出産過程の結果で、又當時経験し
    た状態の反復であらうといふ事は、杞憂問題の新しい研究に必要となつて来る。彼の獨得の外傷とし
    ての出産の説明、その放射反應としての杞憂状態の説明、外傷を完全に『アプレアギレン』す
    る試験としての各新しき杞憂感情の説明、これらを問題にして余は論を進行させる事は出来なかつた。
    杞憂反應はそれからその背後の危険状態に歸還させる必要が此處に生じてくる。此の要素の移入と共に
    觀察に對する新しき見地が生じてくるのである。出産は、其後に生ずるあらゆる危険状態の原型とな

  • S.

    二七九

    つたもので、それは抑壓された存在形式と進歩せる精神發達との新條件の下に生ずる。彼等の眞の意
    味は、然し又危険に對する原型的關係に限られてゐる。出産時に受けた杞憂は、今時一つの感情狀態
    の原型となつてゐる。その感情狀態は他の感情の運命を分たねばならなかつたものである。この感情
    狀態は、根原的狀態に類似した狀態に、不合理なる反應形式として(最初の危険狀態の時には合理的
    であつたに拘はらず)自動的に再生するか、さもなくば或は自我がこの感情に就いての力を得て、自
    らそれを再生し、危険に對する警戒として使用し、又は快不快機關の關係を喚起させる方法として使
    用するのである。杞憂感情の生物學的意義は杞憂が危険の狀態に對する一般的反應として認められる
    處に存する。杞憂場所としての自我の役目は、杞憂感情を必要に應じて發する機能を持たされた處に
    確認される。その杞憂によつて將來の生活中に二種の根本的方法が指示される。その一方法は危険
    狀態がかの出産に類似して發生した時に無意志的に自動的に經濟的に正しく處理されるものであ
    る。他の方法は、斯様な危険狀態がその回避を要求せむが爲めに脅威した時のみに、自我から生じた
    ものである。この第二の場合には、自我は云はゞ接種を受けると同じやうに杞憂を受ける。それは輕
    い病氣發生によつて重い發作を免がれる爲めである。(譯者曰、接種とは豫防接種、豫防注射の意にし
    て、それによる輕度の熱發等の輕い罹病に依つて、重病を免れるものである)この苦痛の經驗を或る

    第十一章

  • S.

    二八〇

    禁制と徴候と杞憂

    抑壓及び防禦

    意味即ち信号としてのみに見做す傾向が明白である時には、所謂危険状態が生き生きとして出現す
    る。如何にしてこの際に種々なる危険状態が相次いで発生し、然かも根原的に相互に連絡してゐるか
    は、既に一々説明された事である。恐らくは吾人が神経症の杞憂と現実の杞憂との関係の問題に觸れ
    るならば、杞憂の解釋に更に一歩を進めることが出来ようと思ふ。

    杞憂問題に關する研究中、余は一つの概念を–或は謙遜的に云へば、一つの言葉を再び使用した。

    既に主張したる如くリビドーが直接に杞憂に轉移する事は、此處に於て吾人の興味を薄くして来た
    のである。然し吾人がこの事に觀察を向けるならば、多くの例を區別することが出来る。即ち自我が
    信號として現はす處の杞憂に就いて、彼はこれを考慮に加へてゐない。從つて又抑壓の移入によつて
    自我が動搖するやうな總ての危険状態をも考慮に加へてはゐないのである。それ故抑壓された本能
    のリビドー的纏綿は、吾人が轉換ヒステリーの際に明かに見るごとく、他に向けられて、杞憂に轉移
    したもの、又は杞憂として放射されたものとして經驗されるのである。これに反して危険状態に就い
    てこれ以上の討論がなされる時には、概して異つた説明の下されてゐる杞憂發生の例に吾人は出會す
    るであろう。

  • S.

    二八一

    第十一
    章

    それは二十年前余が研究の當初に於て専用したものであつたが、其後に至つて捨てたものであつた。
    これは防禦作用といふ言葉であると思ふ。余はそれを抑壓といふ言葉によつて起る結果に置き換
    へたが、然し兩者の關係は依然として不明であつた。余は今思ふに、この言葉は、あらゆる技巧に對
    して共通の記號法でなくてはならぬ事を確めたならば、防禦といふ昔の言葉に復歸させる方が、確か
    に有利である。自我は場合によつては神經症になりうる自身の葛藤の場合にはこの言葉を用ひてゐる
    が、同時に抑壓は、一定の斯かる防禦が其の名稱に止まつて居り、その名稱は吾人の研究方針に從つ
    て最初好く知られてゐたものである。

    1)防禦神經症(全集卷一)を參照。

    又、術語の單なる改訂は完成されてよいことであり、又これは新しい觀察方法の、或は吾人の見解
    の擴張の表示でなければならない。防禦といふ言葉を再び使用すること及び抑壓といふ言葉を制限す
    る事は、古くから知られた事實だが、然し二三の新しい意味の發見によつて得られた事實を今日は加
    算してゐる。吾人はヒステリーによつて抑壓と徴候形成に關する最初の經驗をなした。即ち吾人は亢
    奮的經驗の認識内容、病的思考構成の觀念内容は忘却され、記憶の復活は閉鎖されるといふ事を認め、
    且つそれが爲めにヒステリー的抑壓の主特徴は意識する事が妨碍される事であるとを知つたのであ

  • S.

    二八一

    禁制と徴候と杞憂

    る。其後吾人は強迫神経症を研
    究して、この症の感情の場合には病的事件は忘却されるものでない事
    を発見した。即ちこれらは意識されてはゐたが然し未だ理解する事の出来
    ないてゐたものであつて、その結果、ヒステリー性健忘によると殆んど同
    様な状態に陥つたのである。然し乍らこの區別は吾人の説を是認させる為
    には餘り大き過ぎるが、強迫神経症が本能の要求をやめさせる為めに用
    ゐる機制は、ヒステリーの場合と同一のものではあり得ぬらしいのである。
    更に進んだ研究によつて、強迫神経症の場合には、自我の反抗の為めに本
    能活動が早期のリビドー時代に退行するといふ事を教へられた。この退行
    は抑壓を無用とはしないが、然し明かに抑壓と同じ意味で作用するのであ
    る。吾人は猶ヒステリーに於て認めた逆轉綿が亦強迫神経症の際に
    も反撥的自我変化として自我保護に特別重大なる役目を爲してゐる事を認
    めた。そして『孤立させること』といふ仕組に注目したのである。この仕
    組みに就いては吾人は未だ報告する事は出来ないが、これは直接の徴候表
    示を作つたもので、魔術的と云はれる『抹殺』の仕組である。この否定的
    傾向に就いては何の疑點は有り得ないが、然し『抑壓』の機制とは少しも
    類似してはゐないのである。斯ういふ経験が、防禦といふ古い言葉を再び
    持出す立派な理由となつたのである。即ちこの言葉はすべての他の機制と
    同じ傾向で本能の要求に對する自我の保護–説明することが出来、且つ
    この言葉には『抑壓』を特別の場合とし

  • S.

    二八三

    て包含する事が出来るのである。吾人の研究が深くに進んで、防禦の特殊の形式と一定の感情との間
    に、例へば抑壓とヒステリーとの間に、緊密な關係状態を明かにし得たといふ可能性を考慮する時に
    は、斯かる命令の意義は早められてくる。吾人の期待は更に他の意味深き關係状態の方へも向けられ
    る。精神装置が防禦の他の方法を修得する爲には、自我とエスとの鋭い差異の生ずる以前が、超自我
    の構成される以前が、これらの編纂期に達した以後よりも容易であるべきだと想ふ。

    B

    杞憂に關する補遺

    杞憂感情は二三の性質を示し居り、それの研究には獨進んだ説明を要する。杞憂は期待といふ
    事に明かな關係をもつてゐて、即ち何物かに對する杞憂である。それには定まつてゐないといふ性質
    及び對象が無いといふ性質が結合してゐる。正しい言葉使ひは、その言葉が對象を發見した時は、そ
    の名を自ら變更して、次いでその名を恐怖で置換へるのである。杞憂は更に危険に對する自分の關係
    以外に、神経症に對する他の關係を有して居り、その説明に就いては吾人が永い間努力してゐるもの
    である。ここで何故に總ての杞憂反應は神経症的でないか、何故に吾人は常態よりも多數にこれを認
    め

    第十一章

  • S.

    二八四

    強制と徴候と杞憂
    めるかといふ問題が生じる。最後に現実杞憂と神経症的杞憂との差別が根本的評價を要求
    てゆく。これと同様な變更を現實杞憂の問題にして取扱ふならば、その解釋は容易である。現実危険
    は、吾人の認め得る危険であり、現実杞憂は、それと知られてゐる危険に對する杞憂である。これに
    反して神経症的杞憂は、吾人に認められない危険に對する杞憂である。神経症的危険はそれ故初めに
    探求されねばならず、それは本能危険であると分析は教へた。吾人がこれらの自我に知られてゐない
    危険を意識に上すことが出来るならば、これと同時に、現実杞憂と神経症的杞憂との差別は削除され
    て、終者を前者の如く取扱ふ事が出来るのである。
    現実危険には二つの反應を擧げた。即ち感情的のものである杞憂發生と及び保護作用とである。恐
    らくは本能危険の場合でもそれは生ずるであらう。吾人は合目的的なる兩反應の共同作用を認めて
    ゐる。それは、一方の反應が他方の反應の侵入に對して信號を與へるのである。然し又、不合目的的な
    例を却つてゐる。それは一方が他方を犠牲にして擴がつてゆくといふ杞憂麻痺の例である。
    斯ういふ場合もある。それは現実杞憂と神経症との性質が混合して現はれてゐる場合である。こ
    の危険は既知の現実のものであるが、然しこれに對する杞憂は異常に大きく、我々が考へるよりも更

  • S.

    二八五

    に大きいものである。これらの多數には、神經症的の成分が出でゐるので
    ある。然しこの例は何等の新原則をもつたものではない。それは分析によつて、既知の現實危險に未知の
    本能危險が結合したことが明示されてゐるのである。
    若し吾人が杞憂を危險に逆行させることに就て不服ならば、更に説明しよう。危險狀態の意味、即
    ちその中核は何であるか。それは明かに危險狀態の大きさに比較して吾人の強さの評價、危險狀態に
    對して吾人の無救濟の認容、現實危險の場合の物質的無救濟、本能危險の場合の精神的無救濟であ
    る。吾人の判斷は其際に實際爲された經驗から推論されるであらう。即ちその評價の誤つてゐないの
    は、その結果には關係ないことである。吾人は斯かる無救濟が受けた狀態を外傷的*)狀態と名づけ
    る。これによつて外傷狀態を危險狀態から分割するに好い根底としてゐるのである。
    今若し無救濟より起る斯くの如き外傷的狀態が期待されずして、むしろ危險狀態が期待される時に
    は、それは我々の自己防衛に於ける重要なる進歩である。斯様な期待を爲さしむる條件をもつてゐる
    處の状態を稱して危險狀態と云ふのであつて、これに對し杞憂信號が發せられるのである。これは斯
    う云ひ現したい。即ち余は無救濟の状態が惹起されることを期待してゐるた。或は現在の狀態が以前に
    受けた外傷的經驗の一つを余に想起させることを余は期待してゐるた。故に余は外傷を避くる機會のあ
    第十一章

  • S.

    二八六

    強制と償候と杞憂
    る限りは、この外傷に先鞭をつけて、恰もこれが眼前にあるやうな態度を採りたいと思ふのである。
    それ故に杞憂は、一面は外傷期待であり、又一面は外傷の緩和された反復である。吾人が杞憂に就い
    て思ひ浮んだ二つの性質は斯くの如く種々なる起原を有してゐるのである。是等が期待に對する關係
    は危険狀態に屬して居り、危険狀態の不定性(譯者曰、危険の原因の不明なる事)及び對象の無
    い事は無救濟の外傷性狀態に屬して居り、無救濟は危険狀態に於て先鞭をつけられるのである。
    發達順序に從へば、杞憂―危険―無救濟(外傷)と綜括する事が出来る。危険狀態は既知の、思
    出される、期待されたる無救濟の状態である。杞憂は外傷に於ける無救濟に對しての根原的反應で
    あつて、その外傷は斯くて後に危険狀態に於て、救濟信號として再生されるのである。被動的に外傷
    を受けた自我は、その外傷を弱めて再生して、能動的に變じてそれを繰返し、その外傷の有様を自發的
    のものにしようといふ希望をもつてゐるのである。この現象は、小兒が總べて自己に苦痛な印象に對
    してはこれと同様な態度を採つて、その印象を遊戯の中に再生してゐることを吾人は認めてゐる。こ
    の方法で被動性を能動性に轉ずる事によつて、小兒は自己の生活印象を精神的に操縦せむと欲してゐ
    るのである。若しこの事が『アプレギーレン』の意味であり得るならば、吾人はそれについて最少
    しも反對する處はない。斯く決定する事は何であると云へば、無救濟狀態に於ける杞憂の起因から、そ

  • S.

    二八七

    第十一章

    の期待即ち危険状態へ移る神経症反応の最初の転移である。それから次いで危険から危険の条件即ち対
    象消失及び既に説明された対象消失の変形物モディフィカチオンへと、更に進んだ転移が起るのである。
    幼児の Verwöhnung、『甘たれた我が儘』は、対象消失の危険が-
    保護としての対象-あらゆる他の危険よりも増強されたといふ不幸な結果である。それ故これは精
    神性の無救済の如く運動性の無救済を固有の特徴としてゐる幼児時代に立還る事を喜んでゐる状態
    なのである。

    今迄には現実𥜖憂と神経性𥜖憂とを區別して觀察する機會がなかつた。吾人はこの區別を知つてゐ
    る。現實危険とは外界の対象から脅威されるものであり、神経的危険は本能要求から脅威されるもの
    なのである。この本能要求が幾分でも現實的である限りは、神経性𥜖憂も亦現實に基いてゐるものと認定
    されるのである。𥜖憂と神経症との間に存する特に密接なる關係の外形は、自我が本能危険に對して
    𥜖憂反應の援助を借りて、外界の現實危険に對すると同じやうに自衛してゐるといふ事實によつて認
    められる事を吾人は誤解した。然し精神装置の不完全なるが爲にこの防禦活動の方向が神経症へ向ふ
    のである。本能要求が屢々内部の危険にのみなるといふ認識をも得たのである。何故ならば本能の
    満足は外界の危険を招くやも知れず、さうすると内部の危険は外界の危険を代理する譯だからである。

  • S.

    二八八

    抑制と徴候と不安

    又一面には外界
    (現実)の危険は
    になる。即ちこれ
    は無救済を経験し
    た状態に関係で知
    られねばならない。
    幼児は往々生命の
    危険を招くやうな
    事を行ふので、之
    を保護する相手は
    缺くべからざるも
    のである。外傷
    的な状態のやうな
    場合には、それに
    対しては無救助で
    あるから外界と内
    部の危険や現実危
    険などが一
    緒になつて来る。
    自我は或る場合で
    は苦痛を避けよう
    としないので受け
    て望を滿たさない
    で蓄積してゐる事
    は、経済的状態か
    ら見れば両者の場
    合は同一であつて
    、運動的無救済
    が精神的無救済で
    表現されてゐるの
    である。

    1)ある危険状態に
    は、それが正しい
    危険状態として見
    做されてゐるもの
    の中に、本能粗憂
    の一部が現実粗憂
    に附随してゐると
    いふ事は確かに有
    り得べき事である
    。すると自我から
    脅威されて満たさ
    れずに退い
    た本能要求は、被
    虐待性の本能、即
    ち自分に向けられ
    た破壊本能である
    であらう。恐らく
    この事は、粗憂反
    應が過大で無目的
    で麻痺的に陥つた
    といふ場合を明か
    に説明し得る。高
    處恐怖症
    (窓、塔、ハエンボレ
    、懸崖)はこれに
    由來して居り、そ
    のものゝ神祕的な
    女性的な意義は被
    虐待性に近いもの
    である。
    早期の小児期の
    不可解なる恐怖症
    は、此の處で猶一
    度説明する必要が
    ある。それらの一
    つ―孤独、
    闇黒、未知の人―
    は、対象消失の危
    険に対する反應と
    して解き得た。其
    他―小動物、雷鳴
    等―

  • S.

    二八九

    第十一章

    C

    杞憂、苦痛及び悲哀

    に對しては恐らく次のことが教示される。即ち現實の危險に對して先天的
    に準備されたものが、萎縮して遺物となつたのである。この現實の危險は、他の動物の場合に明か
    に構成されたものである。人間にとつては對象消失に關するこの太古の遺物の一部が存する事は合
    目的のことである。若し斯かる小兒恐怖症が固着して、次第に強くなり、後年に至るまで取去れない
    場合には、それはその内容が本能要求と結合したものであつて、又内部の危險の代理になつたもの
    だといふ事が分析によつて證明される。

    感喪機制の心理學では、次に述ぶる如き臆病なる見解には、最も考査的なる判斷を加へるやうな必
    要は極めて僅かより存在してゐない。次のやうな場合には問題が起る。杞憂は對象消失の危險に對す
    る反應になると云はねばならなかつた。今は既に對象消失に對する斯かる反應を知つてゐる。それは
    悲哀である。然らばそれが何時杞憂になり、何時悲哀になるか。悲哀に就いては吾人は既に以前に
    研究した事があつたが、こゝにある性質は全く不可解であつて特殊の苦痛として存在してゐる。對象よ

  • S.

    二九〇

    禁制と徴候と抑憂

    り識別する事が苦痛である事は、それにも拘らず吾人には自ら理解できるであろう。すると益々問
    題は複雑してくる。即ち、對象から別離することは何時抑憂となり、何時恐らくは
    單に苦痛となるか。

    註 (一) 悲哀とメランコリー(全集巻五)参照。

    この質問に對して解答を與ふろ事は、何等の希望を有してゐないことを吾人には直ちに公言する。こ
    の際に吾人は自ら二三の區別及び二三の意味を發見することで満足しようと思ふ。
    吾人の出發點は、理解したと信ずる一つの狀態に再び立返るであらう。それは自分の母の代わりに、
    知らぬ人物を眺める哺乳兒の狀態である。それは對象消失の危険を意味せる抑憂を示してゐる。然し
    抑憂は實に複雑であり且つより精細なる議論が必要である。哺乳兒の抑憂に就いては何等疑問はない
    が、然し顔面の表情と啼泣の反應とを見ると更に苦痛感ずることが認められる。哺乳兒の場合に
    は將來區別されさうな二三のものが共存してゐるらしい。彼は一時的の見失ひど永續的の消滅との區
    別とが未だ出來ない。即ち哺乳兒は一度母を見失ふと、恰も最早や二度と見る事が出來ないやうな風
    に振舞つて、そして繰返して慰藉されむことを望み、遂には母を斯く見失ふ場合には、直ぐ後に又見
    ることが出来るものだと悟るに至る。母は斯くの如く哺乳兒に向つて必要なる知識を豊かにさせ、子

  • S.

    二九一

    第十一章

    供の前にでよく行ふ遊びで顔を隠したり、顔を見せたりして喜ばせるやうな事をす
    る。而して子供は失望を伴はない所謂思慕の情を感ずる事が出来るのである。
    子供が母を見失ふといふ状態は自身の誤解であつて、子供にとつては少しも危険状態にはなく、む
    しろ外傷的状態であつて、更に正しく云へば、この機会に子供が母から要求を満たして貰ひたいと欲
    するならば、それは外傷的状態である。若しこの要求が現實に無いならば、これは危険状態に變ずる
    のである。自我自らが導く最初の犯變條件は、それ故に知覺消失のそれであつて、對象消失のそれに
    等しく見做されるものである。戀人の消失は未だ觀察されてゐない。其後の經驗によつて教へらるゝ
    處では、對象は存在するが、然し子供には悪い事になり、遂には對象側の愛の消失が、遙かに強い新
    しい危険と犯變條件とになるのである。
    母を見失ふことから生ずる外傷的狀態は、出産の外傷的狀態に比して、その區別點に於て差異が認
    められる。その當時には見失はれるやうな對象は存在してゐなかつた。而して犯變は唯一の反應とし
    て存在したものであつた。其後に滿足狀態が反復されて、母といふ對象が作られたのであつて、その
    對象は今は欲望の場合には、強い思慕的とも名づくべき繩縛を受けるのである。この變化に對して
    苦痛の反應が關聯してくるのである。苦痛は、それ故に對象消失に對する本來の反應であり、犯變は

  • S.

    二九二

    禁制と徴候と杞憂

    危険に對する反應であり、その危険は、對象消失そのものが更に危険に轉移する場合に於て、その消
    失が招いたものである。

    又、苦痛に就いて吾人は多くは知らないが、その本來の確實なる内容として、次の事實が存在してゐ
    る。若し末梢に於て侵入して來た刺激が、刺激の防禦柵を突破して絶え間なき本能の刺激の如く作用
    し、これに對して刺戟された部位を刺戟より撤回する處の有力なる筋肉活動が、無力になるやうな場
    合には、即座に且つ通常、苦痛が成立するといふ事實である。若し苦痛が皮膚からでなく、内部の器
    官から發する時には、その狀態には何等の變化は無く、それは單に内部の末梢部分が、外部の末梢の
    代理となつたに過ぎぬものである。小兒は明かに、斯かる苦痛の經驗を作る機會を持つてゐる。それ
    は自ら慾望した經驗とは無關係なものである。これらの苦痛の成立條件は、對象消失とは少しも類似
    して居らず、又小兒の思慕狀態に於ては、苦痛に對して本質的なる末梢刺戟の要素が完全に失はれた
    ものである。且つ又無意味でない事は、言語は内部の、精神的の、苦痛の概念を作つたといふ事であ
    つて、對象消失の感覺は全く肉體的苦痛に比肩するものであるといふ事である。

    肉體的苦痛の際には、高度のナルチス的とも云はるべき苦痛なる肉體部位の纏綿を生ずる。これは
    常に増進して來つて、云はゞぶち撒けたやうに自我の上に働きかけて來るのである。我々は内部器の

  • S.

    二九三

    第十一章

    苦痛の場合には、空間的な、斯様な肉體部分とは異つた觀念を得るものだと
    である。これは他の場合には全然意識的觀念とはならないものである。又注目すべき事實は、他方面
    の興味から起る精神的轉向の場合には強度の肉體的苦痛は存在しない事で(この場合無意識に存在し
    てゐると云つてはならぬ)これは苦痛なる肉體部位が、精神的代理者に集中して纏綿したといふ事で
    説明されるのである。さて、此の點からして苦痛感覺は精神的領域への轉嫁が許されるといふ類推法
    が存在するやうに思はれる。見失つた(消失した)對象の思慕纏綿は、その儘靜止すべき性質でない故
    に、益々強力に成長して、傷つける肉體部位の苦痛纏綿の如く、それと同様なる經濟的條件を作り、肉
    體苦痛の末梢的制限を顧慮する必要などは無くなるのである。肉體苦痛から精神苦痛への移行はナル
    チス的から對象纏綿への變更に一致するのである。慾望から高度に纏綿された對象觀念は、刺戟から
    纏綿された肉體部位の役目を演じてゐるのである。纏綿機制の持續性と無禁制性とは精神的無救濟狀
    態と同じ様な状態を惹起する。若し、かくの如くにして生じた不快感覺が、拒憂といふ反應形式を採
    つて現はれないで、えも云はれぬ特殊の苦痛の性質を帶びるに至つたならば、これに就いては、一つの
    要素が責任を負はねばならぬ事は明かである。それは未だ猶十分なる説明を要求されなかつたが、纏
    綿關係と結合關係との高い水準であつて、そこで斯かる不快感覺に導かれる機制が完成されるのであ

  • S.

    二九四

    禁制と徴候と杞憂

    る。

    吾人は更に對象消失による他の感覺反應である處の悲哀を認めてゐる。然しその説明には最早何等
    の困難もない。悲哀は現實試驗1)の影響の爲めに生ずるのである。現實試驗は、人が對象から分離せね
    ばならぬといふ事を、必然的に望んでゐるものである。何故ならば、對象から分離しないといふ事は
    成立たぬ事だからである。悲哀はそれ故にその作用としてやつてゐる事は、對象から斯くの如く退去
    して来たものを、その對象が嘗て高度の纏綿の相手であつたやうな、さういふ狀態に連れて行かうと
    する事である。この分離の苦痛的性質は、對象との結合の解かるべき狀態が再生してゐる間は、高度
    の、滯たされない對象の思慕纏綿といふ事をもつて、上述の説明と同じに説明されるのである。

    1)Wirklichkeitsprüfung