禁制と徵候と杞憂1926-001/1931.ja
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    三二一

    第六章

    吾人はこの葛藤中に、自我の二つの徴候形成の仕事を観察することが出来る。この仕事は、明かに
    抑圧の代償であり且つそれ故にその傾向と技巧とを立派に説明する事が出来る爲めに、特殊の興味を
    齎すものである。この代償と助力との技巧の作らるる事は、規則正しき抑圧の完成が容易でないと
    いふ證據の説明になるのである。強迫神経症の際には、自我は、ヒステリーの場合よりも多く徴候形
    成に參與し、且つ自我が強く現実と意識との関係に固着して、これによつて總ての自己の智的手段を
    布告するのである。實にこの思考力が一轉して性的に現はれることを知るならば、斯かる抑圧の變化
    といふ事が吾人に恐らくより明瞭になるのである。
    この二つの意味深き仕組みは『抹殺』と『孤立』とである。前者は大なる適用範圍を有し且つ、遠く
    昔に戻るものである。所謂消極性の力であつて、事件の結果(印象、経験)を抹殺せんとするのでなく
    て、運動機の象徴によつて反対に『事件そのものを抹殺』せんとするのである。この後者の表現を遡
    出したが爲めに、この仕組みの如何なる役割が、神経症のみならず、更に魔術療法、民族的習慣及び
    宗教的儀禮に於て演ぜらるゝかを説明し得るのである。この抹殺はまづ強迫神経症の二時的徴候の場

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    一三三

    禁制と徴候と不安

    合に現はれてくる。即ち第二の行為は、第一の行為を抹殺して何事も起らなかつたかの如く爲してる
    るが、兩者とも事實として起つたものである。強迫神経症の儀禮は廢棄の目的にその第二の根拠を
    持つてゐる。第一は保護とか防禦とかいふものであつて、これによつて或る出來ごとの出現を防ぎ、
    且つ反復しないやうに努める。この兩者の區別は容易に誤解される。即ち防禦策は合理的なものであ
    り、抹殺による『廢棄』は不合理的であり魔術的である。勿論想像されねばならぬ事は、斯かる第一
    の根柢の起源は、古代のアニミストの態度から發してゐるといふことである。それが正常の場合に反
    映したとすれば何かうかと云ふに、それは抹殺作用を non arrive (譯者曰く何事も起らなかつた1)の意)
    として取扱はうとするのである。だが、これに對しては事件にも結果にも何等憂慮しようとは企てな
    いのである。これが神経症の場合でみると、過去そのものも否定して、運動性に抑壓を加へむと企て
    るものである。斯かる傾向は神経症に屢々現はるゝ虚の反復強迫を説明し得るものである。この場合
    には多くの相容れざる意圖が集合してゐる。斯かる抹殺方法によらなかつたものは、願望によつて生
    じたかの如くに、反復といふ方法によつて抹殺されるのであつて、それが爲めに、總ての動力はこの
    反復に據らうとして進んでゆくのである。神経症の其の後の經過としては、外傷の経験を抹殺せんと
    する傾向が、初期の徴候形成として現はれる。吾人は或る新たな運動性の防禦的技巧に對して全く豫

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    二二三

    第六章

    期しない印象を興へられるのである。更に抑壓に對しても先づ同様のことが云へるのである。
    新たに述べた仕組みの他の一つは、強迫神經症に特有なる『孤立』といふことである。これは同じく
    運動領域に關係してゐて、次のやうである。即ち不快な事件のあつた後とか、又同樣に神經症として
    意味ある特有の行動をなした後には、最早何等の出來事も起り得ず知覺もされず動作もされないといふ或
    る休止期間が挿入されるといふことである。最も特殊なる此の狀態は、我々に直ちに抑壓に於ける關
    係を明かにして呉れる。それはヒステリーに於て見らるゝもので、外傷的の印象を健忘に陥入らしめ
    ることが出来るのである。強迫神經症に於てはこれは不可能であつて、經驗は忘却されない。然しそ
    の聯絡に感情を拔取られ、その聯絡狀態は抑壓され或は中斷され、その結果その經驗は孤立した如く
    に殘されて、思考の經過中にも再生産されて來ないのである。この孤立が齎す效果は、抑壓によつて健
    忘を惹起せしむるのと同樣である。この仕組みは斯くの如くし強迫神經症の孤立に於て再生産される
    が、同時に魔術的目的の目的に於ても亦運動性に強められるのである。斯く區別されたるものは恰も聯合
    の一部をなしてるもので、運動性の孤立は思考の聯絡關係が中斷されたといふ保證を興へたもので
    ある。正常の集中作用は、神經症のこの仕事に向つて、一つの口實を興へてゐる。我々に對して有意
    味の印象として又問題として現はれるものは、他の思考や行動の要求が
    同時に來ても障碍されるも

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    二二四

    禁制と徴候と不安

    のではない。然し既に正常の場合には集中作用は、無關係のもの
    又はその附屬物のみならず、却つて
    あらゆる不適當なる反對物から遠ざかる事に應用されるのである。
    最も障害されたものとして感ぜら
    るゝものは、最初には、緒であつたものが發達の進歩によつて分離
    されたものである。例へば神に對す
    る關係に於ての、父コンプレクスのアンビヴァレント
    雙存性の發現であり、若しくは愛情亢奮に於ける排泄器官の亢奮で
    ある。故に自我は思考過程の支配する場合には正常に大なる孤立營
    爲を爲さねばならぬのである。

    且つ我々は分析の施行中に、全く準備されたこの作用を、一時放棄さ
    せるやうに自我を教育せねばなら
    ぬのである。

    我々は種々なる經驗を爲した。その結果、強迫神經症者にしては精神
    分析の根本法則に從つて
    やることとは特別に困難なることを知つた。恐らく彼の超自我とエ
    スとの爭闘の高度の緊張の結果とし
    て、彼の自我は一層警戒的になり、その孤立は一層尖鋭となるので
    ある。自我は思考作用に於て、無
    意識の空ファンタジー
    想の干渉や雙存性傾向の發現を十分防禦せねばならない。それは放
    任されない事で、爭闘
    準備に前進させる。然してこの集中作用と孤立作用への強請を、魔
    術的孤立作用によつて防ぐのであ
    る。この魔術的孤立作用は徴候として頗る奇抜であり臨床的であり、
    頗る有意義であつて、自身には
    勿論不必要であつて然かも儀禮の性質を有するものである。

  • S.

    二二五

    第六章

    然し聯想即ち思考の結合を障碍せん
    と試みる間に、強迫神経症の最古の
    且つ根原的の禁斷、即ち「接觸のタブー」(譯者曰、觸れるこの忌み)
    が生ずる。若し人が、何故に神経症に於ては接觸・結合・傳
    染を忌避することが頗る重要な役目であるか、又何故に内容中に頗る複
    雑なる徴候が作らるゝかと質問するならば、斯う答へられるであ
    らう。接觸・肉體的結合のその第一の目的は進撃的及び愛撫的の
    對象纏縛であると。エロスは接觸を要求する。何となれば彼は自我と
    愛人との空間を取去ること、即ち合體せんことに努力してゐるから
    である。然し乍ら飛び道具の發見以前に、近く於てなし得た破壊
    作用は、これも亦肉體的・接觸捕獲を想像せねばならぬものである。
    Das Glied nicht berühren (婦人に接觸する)といふ事は、用語上では性的
    對象として婦人と關係する意味の婉曲な詞となつてゐる。Das
    Glied nicht berühren (肢體に觸れない)とは自責禁斷の語調である。強迫神
    経症は初めは性的の接觸、次で退行後には進撃の假面をか
    ぶつた接觸を要求するが故に、これに對しては他に何物をも高度
    に禁斷されないし、且つ禁斷されるやうな焦點となるやうな何物も持た
    なかつたのである。然し乍ら孤立は、接觸能力の放棄、即ち各接
    觸物を引離す方法であり、又たとへ神経症者が休止期間によつて
    印象や行動を孤立させたとしても、彼がそれらの思考と他のものとの聯
    絡的接觸を欲せざる事を我々に象徴的に理解させるのである。

  • S.

    二三六

    禁制と徴候と杞憂

    徴候形成に関する我々の研究は、かくまで進んで来た。然しこの研究を総括する
    ことは無益の事で
    あつて、これは獲る處僅少で且つ不完全であり、既に以前から知られてゐなかつたやうな事は又餘り
    獲られなかつた。恐怖症、轉換-
    ヒステリー及強迫神経症以外の他の感情の徴候形成を観察する事は見
    込のないことかも知れぬ。それに就いては殆んど知られてゐない。然し乍らこの三つの神経症を総括
    して研究するならば、既に最も緊要なる且つ瞬時も看過し得ざる問題が擡頭して来る。この三例に對
    してはエデポス-コンプレクスの破壊はその出發點であり、總ての場合に於ては去勢杞憂は自我反抗
    の動因であると我々は想像するのである。然し乍ら恐怖症に於てのみ斯かる杞憂は出現して且つそれ
    は代理されるのである。他の一つの形式の場合は如何であるか、自我は如何にして斯かる杞憂を省略
    させるか。この問題は、若し我々が以前報告した次の如き可能性を考へるなら益々尖鋭になつてくる
    のである。即ち杞憂はある酸酵の方法によつて、経過中に障碍されたリビドー-纏綿自身から起る
    ことに續いて去勢杞憂は果して抑壓(或は防禦)の唯一の動機であるか否かといふことを考へるならで
    ある。然しながら若し婦人の神経症に就て考へる時には、これは疑問とせざるを得ぬのである。何と
    なれば、極めて確實に彼女等の場合の去勢コンプレクスは自身に證明されて居り、正しい意味に於け
    る去勢杞憂に就ては、既に完全に去勢された場合には論ずることが出来ぬからである。