宗敎の未來1927-001/1931.ja
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    一九八

    第八章

    宗教の将来

    この最後の提言は、何等、特殊の困難を伴はずに履行され得ると思はれよう。如何にも、それは多
    少の抛棄を意味するであらうが、しかし吾人は恐らく失つた以上のものを取得し、また、更に大なる
    危険を避けられるであらう。だが、人々は恰も文明がそのために、なほ更に大なる危険を蒙る虞れで
    もあるかのやうに、これを恐ろしがるのである。聖ボニファチウス1)がサクソン人に依つて神聖な
    ものとして尊ばれてゐた樹を伐り倒した時に、周囲に佇んでゐた者共は、この暴挙の結果として何か
    恐るべき出来事が起こることを豫期してゐた。が、何事も起こらなかつたので、サクソン人は洗禮を受け
    たのであつた。

    1)聖ボニファチウス (Saint Bonifacius, 680–754) は英國のサクソン系の家に生れ、ドイツに於いて
    キリスト教布教のために粉骨砕身し、遂に異教徒のために殺された名僧である。彼が無智蒙昧の人々を
    集め、彼等の神聖視する樹木を、手づから伐り倒して、キリスト教の優秀尊厳の實を示したといふ話は
    有名なものである。(譯者)

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    一九九

    己れが憎むもの、己れの邪魔になるもの、或は己れの切望する財産を
    持つてゐるもの、さやうな隣
    人を殺すこと勿れ、といふ戒律を、文明が設定したことは、明かに人間
    の共同生活のためであつて、
    この設定がなかつたならば、共同生活は行はれなかつたろう。何故か
    と言ふに、殺人者は殺された者
    の縁者の復讐と、彼がかやうな狂暴行為を振舞つたと同じ程度の内心
    の傾向を感ずる他の人々の秘密
    の嫉妬とを、わが身に引受けるやうになるからである。かくして彼は
    自己の恨みを晴した喜び、或は
    掠奪品を決して長くは楽しめないことになるだろう。また遠からず
    自己が殺されるといふあらゆる豫想を
    もつことにならう。假令彼はその非凡の力と用心とに依つて、一人々々
    の敵に對して、身を護ることを
    が出来るにしても、これらの弱い相手の團結に對しては屈服しなければ
    ならぬことになるだろう。若しか
    かる團結が作られないならば、殺人の止む時はなく、遂に人々は互に
    根絶し合ふことにならう。かう
    なると、個人と個人の間に於ける事態は、コルシカ島に於いて今なほ
    家族と家族との間に行はれて
    ゐるもの――それ以外では、國民と國民との間にのみ殘存してゐるもの
    ――と同じくならう。生活の
    不安全、即ち萬人に對する一様の危険が、こゝに人々を一つの社會に
    結合する、そしてその社會は個
    人が人を殺すことを禁じ、かつこの禁止を犯す者を、社會の名に於い
    て殺す權利を社會自ら保留する
    のである。これが正義であり、また刑罰であるのだ。

    第八章

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    一〇〇

    宗教の将来
    とは言へ、我々は殺人禁止の合理的根拠を他の人々に告げることなく、却つて神がその禁止の創造
    者であると言明するのだ。かくして、我々は敢へて神の意向を推測して、神もまた、人々が互に殲滅
    し合ふことを欲しないと見るのだ。かく振舞ふことに依つて、我々は文化上の禁止に全く特殊の厳正
    さを賦課するが、同時にその禁止の遵守をば、神を信仰することに頼らしめるといふ危険を冒すので
    ある。若し果して我々がこの手段を撤廃し、最早神に我々自身の願望を負はすことなく、文化上の禁
    止に関する社會的證明に満足するならば、如何にも我々は禁止の神聖さを抛棄することになるが、し
    かしまた、我々は禁止の存續を危くすることを避けるのである。しかも我々はその上、何が他のもの
    を取得するのだ。神聖また不可侵性の特性――後生心の特性と言つてもよい――は、傳播或は感染と
    いふやうなものに依つて、僅かの重要な禁止から他の一切の文化制度、法則、訓令などへ伸張され
    た。しかし、往々、後光はこれらの制度などにあまりふさばはしくない。それらの制度、法則などは、各
    々の起原の時と場所とに據つて、相容れない決裁をなすために互に無効にし合ふのみならず、このこ
    とから離れて見ても、それらは人間の缺陥の徴證を洩してゐるのである。誰れでもそれらのうち
    に、目先の見えない憂慮の成果であり、狭少な利害の表現であり、或は不適當な假説の結果であるに
    過ぎない事柄をば、容易に認めることが出来る。それらを取扱はねばならぬ批判もまた、一層正當と

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    二〇一

    第八章

    認められた文化上の他の要求に對する人々の敵意を、好ましくないほどに減ずるのである。神自らが
    制定したものに何か、また全権を有する議會若しくは最高司法の判決の権能に由来するものは何かを
    決定することは、至難な仕事であるが故に、神を全然問題外に置き、かつ一切の文化上の法則制度の
    起源が純粹に人間界にあることを正直に承認するほうが確かに便宜であろう。さうすると、それらが
    神聖を主張することゝ共に、これらの法則條例の厳にして不易な性質もまた止むであろう。人々は
    これらの法則條例が、彼等を支配するためといふよりは寧ろ、却つて彼等の利益に仕へるために制定
    されたことを篤と領解し、從つて彼等はそれらに対して一層親善な態度を取り、かつそれ等の廢止を
    圖る代わりに、改善のみを目的とするであろう。このことは文化の課する負擔を軽減せぬやうになる
    途上の重要な進歩であろう。

    しかし茲に、文化法則の純然たる合理的基礎、即ちそれらは社會の必要に由来するといふ事の我我
    の解明は、不意の疑惑のために妨げられるのである。我々ははその例として殺人禁止の由来を選んだ。
    だが、我々のそれに関する説明は、歴史上の事實に符合するであろうか。我々はは符合しないと危ぶむ
    のだ。それは單に純理的構成に外ならぬものゝやうに思はれる。精神分析の助けに依つて、我々は人
    間の文化史に於けるこの點を研究した。そして我々はこの研究に支持されて、實際この事はかくの如

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    二〇一

    宗教の将来

    く に起ころなかつたことを言はなければならないのだ。現代に於ける人々に
    あつてさへ、純粋に合理
    的な動機は、情緒的衝動に對して、殆ど役にたゝぬものである。して見れば、
    原始的動物的人間にあ
    つては、合理的動機は、どれほど微力なものであつたことであらう。恐らくは
    現今でさへ、若しさ
    ま
    べ-
    の殺人行為のうちに、重大な結果を來すべき不可抗の情緒的反應を喚起する
    一殺人行為-
    最初
    の父殺し-
    それがなかつたならば、原始人の後裔は禁制なしにやはり互に殺し合ふであ
    らう。その
    情緒的反應から、人を殺す勿れ、といふ戒律が生じたのだ。そしてトーテム
    崇拝にあつては、この戒
    律は父代償に限られてゐたが、後に至つて他のものにまで押し及ぼされた、
    しかし今日と雖も、この
    戒律は例外なく遵守されてはゐない。

    こゝで私は繰返すには及ばないが、嘗て論證したとほり、最初の父なるものは
    神の原型であり、後
    代の人々が手本として自分達の神の姿を構成したモデルであつた。だから、
    宗教の説明は正しいので
    ある。神は實際にかの禁止の起原に交渉を有つてゐた。が、禁止を成立させ
    たのは神の威光であつて
    何が社會の必要であるかといふ事の洞察ではなかつた。その上、人間の意志
    を神に歸することの過程
    は十分に證明されてゐる。何故かと言ふに、人々は殘虐に父を排斥したこと
    を知ると、その暴挙に對
    する反動から、將來父の意志を崇敬する決心を固めたからである。それ故に、
    固より幾分かは改作さ
    れた神は、父の代償である。

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    第八章

    れ、擬装された形に於いてではあるが、宗教的教義は歴史的真實を示してゐるのである。それを否認
    するものは我々の合理的説明である。
    こゝで、我々は宗教的観念の遺寶が、願望充足ばかりではなく、重要な歴史上の證拠をも包含する
    ことを認める。過去と現在とのこの結合は、何といふ無比な、何といふ豐富な力を宗教に賦興するこ
    とであらう。しかし、類推の助けに依つて、我々は問題の他の見解への道を用心深く探ることが出来
    よう。観念をそれの生立つた土地から遠方へ移植するのは感心したことでないが、我々はこの類推を
    構成する類似點を指示せざるを得ないのである。我々は子供が、幾分か神経症と見るべき状態を經
    過するものでなければ、文化へ向つての發達を能く完成し得ないことを認めてゐる。その故は、子供が
    後に至つて利用すべくもない本能的衝動をば、合理的な心的努力に依つて禁壓し得ないで、寧ろ抑壓
    の働きによつて阻止するからであり、またそれらの抑壓の蔭には隠して危險動機が存在してゐるのだ。
    これらの兒童神経症の大方は、成長するに連れて自然に克服されるものであるが、殊にこれが嬰兒期
    の強迫神経症の成行である。克服されなかつた神経症は、更に後に至つて、精神分析療法に依つてこ
    れを消散することが出来る。吾人は丁度それと同じ様に假定すべきだらう、人類は、總に、幾時代を
    通じての發達中に、神経症に類似する状態を経験する、そしてこのことは兒童神経症の場合と事情を

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    二〇四

    宗教の将来

    同じくすると。何故かと言へば、人類が蒙昧でありまた智力の微弱であつた時代にあつては、人間の
    共同生活に缺くべからざる本能自制を、純粋に感情的手段に依つて成就したからである。ところ
    で、古代に行はれたこれらの抑圧に似た過程の残滓は、長く文明に纏りついて来た。かやうに、宗教
    は人類の普遍的な強迫神経症であらう。それは嬰児期の強迫神経症と同様に、エディポス-
    クス、即ち父との関係に胚胎したものである。この考方に依つて吾人は、宗教が成長過程の運命的な
    冷酷さを以て抛棄されなければならぬことを、また我々が丁度今、この發達段階の半ばにゐることを、
    豫言しても宜しかろう。

    我々は分別ある教師に倣つて、我々の行動をとるべきである。その教師とは、彼が直面する新らし
    い發達に逆ふことなく、却つてそれを助長し、またその突きける力を導かうと勉める人である。如何
    にも、この類推は、宗教の本質を盡したものでない。若し宗教が、一方に於いて、個人の強迫神経症
    にのみ-
    み得る強迫性的限界を伴ふとすれば、他方に於いては、例えば我々が獨獨な形ではマイネル
    ト氏錯亂症1)にのみ見るやうな願望錯覺の一組織を包含する。その願望錯覺の組織は、現實と兩立
    し難い至幸の幻覺的混亂状態である。尤も、これらのことは單なる比較に過ぎないが、しかしその助
    けに依つて、我々は社會現象を領解するために努力することが出来る。個人病理學は我々にこれと正

    1)アメンチア

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    第八章

    (一) Meynert's amentia. [Theodor Meynert, 1833–1892] 急性錯覚症にマイネルトと特に逸見者の名
    を冠するものは慢性の錯覚症であつて、主に急性傳染病、特に腸チブスの經過中に突然起るものである。(譯者)

    しかし、普遍一般に錯覚症と呼ばれるのはこれである。(譯者)

    宗教と強迫神経症との類推は、如何なる細目にまで追求されるか、また宗教の構成の變遷及び特質
    は、どれだけこの方法で領解されるか、といふことについては、既に(私自身、また特にテオドル・
    ライク Theodor Reik が)繰返し説明し来たことである。そしてそれは、誠實な信仰者が、或る神経
    症的苦悩の危険には陥らないで済むといふことと全く一致する。即ち、彼は普遍的な神経症を甘受す
    ることに依つて、個人的な神経症を起こさずに済むのである。

    或る宗教的教義の歴史的価値を知れば知るほど、我々はそれに対して尊敬の念を増すが、しかし文
    化法則の誘因から教義を排除すると言ふ我々の提言がそのために無効になるわけではない。それどころ
    かこの歴史的残滓は、謂はゞ神経症的遺物としての宗教的ドグマの概念を我々に興へたのであつた。

    そこで我々は、神経症の分析的療法に於けるやうに、抑壓の結果に換へるに合理的な心的努力を以て
    する時が来たやうであると言つても差支なからう。この改作の過程は、文化法則を圍繞する神聖さの

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    宗教の將來
    神々しい様子を追放らすに止まらないで、なほ、それらの法則に關する一切の修正は、それらの多くの
    廢止を意味しなければならぬといふことを豫言してもよいが、それを遺憾とすることもあろまい。そ
    して文明と人間との調和に關して我々に課せられた問題はこの方面から段々と解決されるであらう。
    我々は文化法則の合理的立場をすることに伴ふ歴史的眞實の喪失を悔むには及ばないものである。宗教
    的教義に包含された眞理は、要するに大衆がそれを眞理として認めることが出来ないほどに歪めら
    れ、かつ整然と變裝されてゐるのである。我々が子供に、生れたての赤ン坊は鶴が連れて来たのだと
    語るのは、同様な事の一例である。ここでもまた、我々は象徴的變裝に於いて眞理を語るのだ。何故
    かと言へば、我々はその大きな鳥が何を意味するかを知つてゐるからだ。しかし子供はその意味を知
    らない、彼は歪められたものだけを聞き、さうして欺かれたと感じるのである。子供の強情と成人に
    對する疑惑とが、如何にしば-
    くこの印象と密接に關係してゐるかを我々は知つてゐる。そこで我々
    は、眞理に關するかのやうな象徴的變裝を避けて、子供の智的發達の段階に適する方法で、事柄の眞
    狀を知らしめるはうが良好であるといふ結論に到達したのである。