宗敎の未來1927-001/1931.ja
  • S.

    一六四

    宗教の將來

    第四章

    獨自のやうに、間斷なしに進行する探究といふものは、全然危険な件ではない。人は研究
    中に邪推する思想を、ともすれば押退けがちであるが、その代りに不安の念が残り、その念も、結局
    過度の決斷のために何處かへ沈められるであらう。それ故に私は、私の議論に疑感を懐きながら隨伴
    する反對者があると思慮する、またその人をして處々に差出口をさせよう。

    反對者は言ふ、「貴方は頻りに『文化はこれらの宗教的觀念を作る』とか『文化は成員等の意のまゝ
    にこれらの宗教的觀念を濫蔑する』とかいふ辭句を使用してるが、それらの言葉はどういふものか
    私には異様に聞える。その理由は自分には言へないが、しかしその言ひ方は文化が勞働の産物を分配
    することや、女子及び子供等の上にはる權利などの規定を作つたと言ふことほどに無理がないとは思
    れない。」と。

    右の意見があるにも拘らず、私は次のやうに述べることか是認されると思ふ。私が説明しようとし
    たのは、宗教的觀念はその他の總ての文化業績と共に同じ必要から生じたものだといふことである。

  • S.

    一六五

    即ち、文化が自然の圧倒的な至大権力に對し、
    自己を防衛するための必要から、宗教的觀念が
    生じたといふことである。更にそこには、第二の
    動機ともいふべきもの、即ち痛ましく感ぜられる
    文化の缺陷を修正しようといふ熱望がそれである。
    なほ、文化が個人に宗教的觀念を與へるといふ
    言方には、特に適切なものがある。何となれば、
    個人はそれらの觀念を手近に見いだす、つまり
    それらの觀念が既製品として提供されてゐるから
    である。個人はそれらの觀念をひとりで見いだす
    ことは出来ないと思ふ。世には幾十代かの世襲財産
    があつて、個人はそこへ入りこみ、乗算表や幾何
    學などを繼承するやうにこれを繼承するのである。
    そこには勿論相違點はあるが、それはここに存する
    のではないから、只今それを檢討することは出來
    ない。反對者の言ふ異樣の感は、宗教的觀念の
    この持合せが、概して神聖な天啓として興へられる
    といふ事實に依つて、半ば説明されるであらう。
    しかし、それは本來、宗教的體系の一部なのであり、
    またそれぐ異なつた時代及び文化に於けるこれら
    觀念並びにそれらの變化の既知の歴史的發達をば、
    全然無視してゐるのである。

    第四章

    「私には更に重要と思はれる今一つの點がある。
    貴方は自然の畏るべき力に面して、人間の當惑と
    弱りなさ-
    とを絶たうとする欲求から、またこれらの力との
    關係を設定し、遂にはこれらの力を左右するため
    の必要から、自然の人性化を演繹しようとした。
    だが、この説明は無駄のやうに思はれる。何故

  • S.

    一六六

    宗教の將來

    かと言ふに、原始的人間には選り好みはなく、他に思考する方法を持たないからである。彼にとつて
    は、自分の生活をこの外界へ投射し、また自分の觀察に入り來る總ての出來事を考へて、根本的に自
    分自身に類似したものゝ表明とすることは、恰も生れつきであるかのやうに當然のことなのである。
    それは彼の唯一の理解法である。しかし、かく彼が自分の自然的な傾向を恣にするに從つて、大
    きな慾望の一つを満足させることに成功するのは、決して自明ではなく、却つて顯著な暗合なのであ
    る。」
    私はそれほど顯著であるとは認めない。何となれば、人々の思想過程には少しも實際上の動機がな
    いと貴方は想ふのであらうか。人々の思想過程は無關心な好奇心の表現に過ぎないものであると想ふの
    であるか。それは全く信じ難いことである。私は寧ろかうやうに信ずる。人間が自然力を人格化する場
    合には、彼はも一嬰兒期に於ける原型に則つてゐるのだ。彼は嬰兒時代の環境にあつた人々から、
    彼等を左右する方法は彼等と親族關係を設定することであるといふことを習つた。それ故に、後に至
    つて、同じ目論見を以て、彼はそれらの人々を取扱つたやうに、自分の身に到来する一切の事を取扱
    ふのである。かくして私は君の記述的觀察に反對はしはしない。事實上、後に至つて支配せんがために
    先づ理解しようと思ふ事物を悉く人格化すること――物質的征服に對する準備としての精神的征服

  • S.

    一六七

    第四章

    は、人間にとつては當然のことである。しかし、私は人間思想のこの特質に對して、更に或動機と
    由来とを興へるのである。

    「ところで、なほ第三の論點ともいふべきものがある。貴方は嘗て一度、貴方の著書『トーテムとタ
    ブウ』のうちで、宗教の起原を取扱つたことがある。だが、その著書では、見解が異にしてゐるやう
    に思はれる。萬物は子と父との關係にある。神は高貴の父であつて、その父に對する憧憬が、宗教に對
    する要求の根原である。その以後になつて、貴方は人間の弱さ並びに頼りなさの要因を發見したやう
    に思はれる。通例、この要因に宗教構成に於ける重要な役目の割當てられるのは全くのことだ。そし
    て以前には父コンプレクスであつた物を、今や貴方は恐く頼りなさといふことに轉嫁するのである。
    この變化を明かににしては頂けないものかしら。」

    承知した。私は只管この懇請を待つてゐたのである。しかし、それは實際に變化であらうか。『トー
    テムとタブウ』に於ける私の目的は、宗教の起原の説明であつて、たゞトーテム崇拜の起原のそれで
    なかつた。君は君の知つてゐる何等かの見地から、次の事柄を説明し得るか。即ち、人間に示現され
    た守護神の最初の姿は動物のそれであつたといふ事實、この動物を殺し或は喰らふことの禁止があつ
    たといふ事實、しかもなほ年々一度は團體的にその動物を殺しかつ喰らふことが神聖な慣例であつた」

  • S.

    一六八

    「宗教の將來」
    という事實などを説明し得るか。トーテム崇拜に行はれたことは、まさに上述のとほりである。だが
    トーテム崇拜が宗教と名づけらるべきものかどうかを論證することは劃でである。トーテム崇拜
    は後の神像崇拜の宗教と密接な關係を有し、また、トーテム獸類は神々の神聖な獣となる。そして最
    も初期の、かつ最も深遠な道徳上の制限―殺人禁止及び近親相姦禁止―は、トーテム崇拜に胚胎
    するのだ。「『トーテムとタブウ』」の論結を君が是認するにせよ、しないにせよ、あの著書に於いて數
    々の孤立した極めて著しい事實が、矛盾のない統一體に纏められてゐることを容認して欲しい。
    何故に獸神は結局満足されなかつたか、また何故に獸神は人間神と置換へられたか―といふこと
    は「『トーテムとタブウ』」に於いては殆ど論ぜられなかつたし、また宗教の構成に關する諸問題も全然
    言及されなかつた。しかも君は、かゝる制限を否定と同一なものと考へるのであるか。私の著書は、
    精神分析的觀察が宗教問題に寄與し得べき持分の最正に孤立してゐる一適例である。若しも私が今、
    それと他の―さう深くは秘められてゐない―部分を加へようとするとしても、前に私の偏頗を非
    難したと同様に、君は私の矛盾を非難すべきであるまい。固より、私が前に述べたところのものと今
    發表するところのものとの間に、深い處に在る誘因と顯在する誘因との間、父コンプレクスと人間
    の頼りなさ及び保護の必要との間に、連結環を指摘するのは私の仕事である。

  • S.

    一六九

    第四章

    これらの連綿を言いだすことは困難でない。それらは嬰児の頼りなさ
    と成人がこれを持続する事との関係にある。それ故に、當然さうであ
    らうと思はれたやうに、宗教の構成に關する精神分析上の立
    證は、その鎖を誘因への嬰児期の寄與であることから判明するのだ。
    我々はめい-
    く
    に嬰児の心的生活
    を想像しようではないか。君は精神分析で言ふところの、アンレーヌ
    ング型1)の對象選擇を思ひだ
    されるか。リビドーはナルチシスム的要求の方針に從ひ、それら要求
    の満足を確保するところの對象
    に纏綿するのだ。從つて、兒の飢餓を満足させる母は、兒の最初の愛
    對象となり、また外界のあらゆる
    不定な、恐ろしい危険に對する最初の庇護者となる。で、若しからう
    言へるならば、母は危惧に對す
    る最初の庇護者となるのである。

    註1) 六四頁註1)参照。(譯者)

    この機能に於いて、母はやがて一層力強い父と置換へられる、そして
    この状態は、その時以後、嬰
    兒期の全部を通じて存續する。けれど、父に對する關係は、特殊なア
    ンビヴァレンツ1)に依つて影響
    される。恐らく、たゞ母に對する初期の関係のために、父は一個の危
    險物でさへあつた。從つて、彼
    は憧憬され嫌美されるのと同様に、畏怖されるのである。このアンビ
    ヴァレンツの證跡は、『トーテムとタ
    ブー』の中に示されてゐるとほり、あらゆる宗教に深く印されてゐる。
    さて、子供が成長して、しか

  • S.

    一七〇

    宗教の将来

    も永遠に子供のまゝでゐる運命を擔つてゐることを發見し、かつ此庇護者がなくては、未知の強大な力
    に對して何事もなし得ないことを發見する時、彼は、これらの力に父の像の特性を賦興するのである。
    即ち、人は自身のために神を作り、それらを恐れかつ宥めようと勉め、またそれにも拘らず、それら
    に自分を庇護する任務を委ねるのである。かやうに父憧憬の意義は、他の意義、即ち人間の弱さの成
    行に對する庇護者の必要と同一である。自己の頼りなさに對する嬰兒の防禦的反應は、成人の有する
    頼りなさの感覺に對する彼の反應に、即ち宗教の構成に特有の趣を賦興するのだ。だが、これ以上に
    神の觀念の發達を追求するのは我々の意でない。ここに我々が問題にするのは、文化が個人に譲り渡
    す既製遺寶としての宗教的觀念である註(一)。

    註(一)一九頁註(二)參照。(譯者)