宗敎の未來1927-001/1931.ja
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    二二五

    集全學析分神精ドイロフ

    第十章

    「それは素晴らしく聞える。人類はあらゆる錯覚を抛棄して、この地上に於ける生存を堪へ得られるや
    うになるとは! しかし私は貴方の期待に興することは出来ない。このことは、恐らく貴方が考へて
    ゐるやうに、私が豚頭の保守主義者である故ではない。否、寧ろ私が物の分る人間だからだ。今や我
    々は役割を交換したやうに思はれる。貴方は錯覚のために引ずられる熱誠家と成り、私は理性の要
    求、懐疑の権利を代表する。貴方が今しがた説いたばかりのことは、誤謬に基づいてゐるやうに思はれ
    る。それらの誤謬は貴方の願望の影響を十分明白に裏切るから、私は貴方の示した例に倣つて、それ
    らを錯覚と称しても差支あるまい。幼児期に宗教的教旨の感化を受けなかつた人々は、かねて望んで
    ゐるやうに、本能生活を制する智慧の卓越を容易に得るだろうといふ希望に貴方は耽つてゐる。それ
    は確かに錯覚である。この決勝點に於いて、人性變るといふことは殆どありさうにもない。若し私
    が誤解してゐないならば―誰も他の文明に就いては殆ど知る所がない―今日でさへ宗教的體系の
    壓迫のもとに成人しない人々は澤山にゐるが、しかし彼等は宗教教育を受ける者よりも、貴方の理想

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    二六

    宗教の将来

    に近附かないのである。若し貴方がヨーロッパ文明から宗教を聽しよ
    うと望むならば、宗教以外の教義體系に依つてこれなし得るより外に道はない。
    さうして當初から、この體系は、總ての宗教の心理學的特質、即ち同様の神聖さ、
    嚴格さ、偏狹さ、また同様の自衛のために思想禁止などを承繼することであらう。
    その教義の要求に對する當然の誇として、貴方にかやうなものを持たなければな
    らぬのだ。

    貴方は教育を施さないでは何事をも爲し得ないのだ。乳臭の幼児から文明人に到る
    の道程は長い。若し青年等が自らの發達を指導されることなく、放任されたまゝ
    であるならば、實に多數の青年が道を失ひ、然るべき時に生活の業務に到達し損
    ずるであらう。彼等の教育に利用された教義は丁度貴方が非難して今日の宗教の
    爲す所だといふものと同じく、彼等の壯年時代の思想を制限し勝ちである。

    本能に依つて支配され、智的に微弱である子供に、成人の圓熟した智慧のみが公平
    に取扱ひ得る決斷の資質を強ひることは、我々の文化、いや、如何なる文化にも
    在る根絶し難い本來の缺陷であると貴方は認めないであらうか。

    しかし長い年月を經て來た人類の發達は、幼児期の數年に凝集されるべき事實の
    ために、文化は前記以外に爲し得ないのである。さうして、感情上の感化に依つ
    てのみ、子供は當てがはれた仕事をなし得るのである。

    だから、これが貴方の所謂『智慧の卓越』の前途であるのだ。

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    第 十 章

    『そこで、教育と人間の共同生活との基礎として、宗教的教旨の體系を保存するために、私が間に起
    つて調停するとしても、貴方は驚くには及ばない。それは實際上の問題であつて、眞實價値の問題で
    はないのである。我々の文化を保持するためには、一個人を感化することを延期して、その人が文化
    に適する頃まで待つ―多數の人は決して左様にならない―といふ諺にゆかぬ以上、また批判の餘
    地を與へぬ假定として効果を殘すべき筈の教旨の或體系を、これから成長する子供に強ゆるのは論議
    ないことである以上、この宗教的教義體系は遂に能くこの目的に適合するやうに思はれる。固より、貴方
    が宗教的體系を「錯覺」と認める主張の理由となつてゐるその性質、即ち願望充足と慰藉との力あろ
    ために有効であるのだ。實在に関する何物をか發見することは困難だが、いや、このことが一體我
    我に可能であるかどうかといふ疑念あるにも拘らず、人間の必要とする物もまた實在の一部分、また
    實にその重要な一部分であり、それが我々も特に關係深いものであるといふ事實を看過してはならな
    い。

    『私は宗教的教義の一特質に、別の優越さを認める。貴方はそれに對して特に異議を唱へるやうに思
    はれる。それは觀念に精錬と昇華とを與へ、そしてそのために、教義の保有する原始的な文字供らし
    い考へ方の多分な痕跡が能く除かれるのである。かうなつて來ると、あとに殘つてゐるものは、最早

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    二一八

    科學もこれと矛盾せず、また反證を擧げることも出来ない觀念の一體である。宗教的教義に關する
    これらの修正は、貴方が姑息手段、また妥協として咎める所だが、無聊な大衆と哲學的思想家との間
    の懸隔に架橋することを可能ならしめ、また文化の擁護には極めて重要な兩者に共通の羈絆を保持す
    ることをも可能ならしめるのである。かやうな譯で、貴方は無學な人間が社會の上層の人々の『最早
    神を信じない』ことを發見しはしまいかといふことを懸念するに及ばないのだ。私は思ふ、貴方の努
    力の歸着する所は、證明されてゐる、また、人を感動させる上から貴重である錯誤に代へるに、證明さ
    れてゐるならず、また感動上の價値もない錯誤を以てする事であるのを明かにしたと。
    君は私が君の批判に對して無感覺であると見てはならぬ。錯誤を避けることの如何困難であるか
    は私も知つてゐる。恐らく私が告白した希望でさへ欺瞞的な性質を帶びたものであるかも知れない。
    しかし、私は少くとも一つの特質を固持してゐる。私の錯誤は―それらの錯誤に與しないからとて
    何の罰詞も課せられないといふ事實は別として―宗教的錯誤のやうに修正の加へられないやうなも
    のでない。また、何等の安慰的特質を有してゐないのである。若し萬一經驗が―私にではなく、私
    に倣つて私が考へるやうに考へる他の人々に―我々が間違つてゐるといふことを示すならば、その
    時我々は自分達の期待を抛棄するであらう。私の努力がどんなものであるかを考へてもらひたい。如

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    二一九

    第 十 章

    何なる心理学者も、現世に於ける自分の態度を定めることの困難に調して自ら欺くところの無い者は、
    一個人が幼時期から成人にまで発達する間の心的過程を研究することに依つて得た僅かの識見に照し
    て人類の発達を判断しようと努力するのである。この関係に於いて、宗教は幼児期の神経症に比較さ
    るべきものであるといふ観念が強くなつて来る。さうして、彼は、恰も大多数の子供が類似の神経症
    から脱けだして成長するやうに、人類もこの神経症的状態を征服するだらうといふことを、可なり楽
    観的に仮定するのである。個人心理学からのこれらの知識の断片は不十分であるかも知れない、人類
    へのその適用は是認されないかも知れない、またその楽観主義は無根拠かも知れない。私はこれら一
    切の不確実さを許容する。しかし、我々は、値打以上に聞かれやうとは思はぬと辯解しつゝも、思つ
    てるだけの事を言はないでゐられないことが往々あるものである。
    なほ、私は二つの論點に就いて、もう少し細論しなければならない。第一に、私の立場の弱點は、聊
    も君の立場の強味となることを示すものでない。私が思ふに、君は負け訴訟を擁護しつゝあるのだ。
    我々は、人間の智性は本能に比べて無力であるといふことを言ひたいだけ主張しても差支へはない、
    また、さう主張するほうが正しいかも知れない。だが、それにも拘らず、この弱點には何か特殊なも
    のがある。智性の聲は調子の低いものだが、聽き入れられるまでは休止しない。畢竟、際限なく繰返
    されるのである。

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    一三〇

    宗教の将来
    される拒絶の後、それは成功するのである。このことは人類の未来に関し
    て楽観的であり得る僅少な
    特質のうちの一つであるが、それ自身、少からず重要なものなのである。それなほ他の希望へ向ふ
    出発點とすることが出来る。智性の卓越は確に遙か、遙か遠方に存するのであるが、それにしても恐
    らく無限の遠方に存するものではあるまい。君の崇拝する神の力に依つて――勿論限界の範圍内で、
    客觀的實在、即ち『天道』の許す限りに於いて――人間の四海兄弟状態及び苦難の軽減が實現される
    ことを期待するが、智性の卓越はそれと同じ目的の實現を企てると推測されるから、我々互の反對は
    たい苟且のもので、和解し得ないものではないと言つても差支あるまい。我々は同一の事柄を欲求す
    るのであるが、君は私や、私と同様な立場になる人々よりも一層性急であり、一層強要的であり、そ
    の上――何もさう言つて悪いといふ理由はあるまい――一層身勝手である。君は死後直に至福の状態
    がはじまるやうにと望むのだ。君は不可能なる事を求め、個人の要求を抛棄しようとはしない。これ
    らの願望のうち、我々の神ロゴス(理性の意)は客觀的自然が許すものだけが實現するであろうが、
    しかもこのことは極めて徐々に、たい豫想されぬ未來に於いて、人間の他の子供等に對してのみ實現
    するであろう。神は苦難な生活に慣れ我れに補償しようとは請合はない。この遠い目的に達するまで
    の途上に於いて、君の宗教的教義は、最初の企圖が失敗にをはらうがをはるまいが、また最初の代償

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    三二一

    第十章

    構成が不安定であると立証されようがされまいが、孰れにしても見棄てられなければなるまい。
    君はその理由を知つてゐる。結局、理性と経験とに抗し得るものはなく、宗教がその両者に対して闘争の
    盾は甚だ明瞭である。浄化された宗教的観念でさへ、それらの観念がなほ何かしら宗教の纏綿を保持
    しようと努める限りは、この運命を免れることは出来ない。勿論その観念がより高い精神的實在の主
    張に躊躇するならば――その實在の特質は説明され難く、その意向は認識され難い――科学の干渉も
    その観念に利かないだらう。併し人間の興味から抛棄されることになるであらう。

    第二に、錯覚に對する君の態度と私の相違を見ることでである。君は全力をあげて宗教的錯覚を擁護
    しなければならない。若しそれが信ずるに足らぬものであるといふことになれば――また、それは確
    かに十分に脅かされてゐるのだ――君の世界は崩潰するであらう、文化や人類の未来や、その他一切
    のものに就いて絶望する外に、君に残されるものは何一つあるまい。この苦役を私は、否、我々は兎
    に角耐へ忍ぶことの出来るのである。

    我々は愚見らしい願望の大部分を抛棄する覚悟が出来てゐるので、たゞ我々の
    期待の或るものが錯覚であると立證されても、それを耐へ忍ぶことが出来るのである。

    宗教的教義の負擔を除かれた教育は、恐らく人間の心理學上の素質に多くの變更を生ぜしめないで
    あらう。我々の神ロゴスは、非常に有力な神ではあるまい。彼はたゞ彼の先輩が約したことの一小部

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    二二二

    宗教の將來

    分を履行するに過ぎないかも知れない。我々がこのことを認めなければならないなら、忍従の態度を
    以てそれを認めるであろう。が、そのために我々は現世及び生活に關する興味を失ふことはあるまい、
    何となれば、少くとも一つの點に於いて、君に缺けてゐる確な支持を我々は有してゐるからである。
    我々は科學の仕事が世界の實在に就いて何かを發見し得、我々はそれに依つて自分達の力を増進す
    ることも出來、自分達の生活を規定することも出來ると信ずるのである。若しこの信念が錯覺である
    ならば、我々は君と立場を同じうするのであるが、科學は夥多の意義ある成功に依つて、それが決し
    て錯覺ではないことを示して来たのである。科學は宗教上の信仰を弱め、またそれを覆さんとするた
    めに、これを容赦することが出來ないと言ふ人々のうちに、あからさまに科學の敵たる多數、なほ隱
    れたる一層多數の敵があるのである。科學が我々に教へた事は瑣々たるもので、比較にならぬほど重
    要な事は依然として闇の内に殘されてゐるといふ理由で、科學を非難する人がある。さう言ふ彼等は
    科學は如何に若いか、その端緒は如何に困難であるか、また人間の智性が科學の從事する仕事に十分
    堪へられるやうになつてからの力の時間の如何に極微に僅かなものであるかを、忘れてゐるのだ。
    我々の制限の根據を構成する期間があまりにも短時間であるといふ事に、我々は總て過ちを為してる
    のではないからうか。我々は地質學者からの例を擧げなければならぬ。人々は科學の信頼し難いことに
     

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    二二三

    第十章

    就いて苦情を言ふ、科學が今日、法則として宣言するものでも、次の時代の人々はこれを誤謬と認め
    るであらうし、またこれを適用期間の等しく短い新たな法則と換へるであらうと。しかし、これは不
    當であり、かつ幾分か虚妄である。科學的觀念の變化は發達進歩の過程であつて、變革の過程ではな
    いのである。最初、普遍的に正確であると主張された法則は、一層包括的である法則の特殊な場合で
    あることが分る、さもなければ、それの範圍は、後に至つて始めて發見される別の法則に依つて限定
    されてゐるのだ。眞理への不正確な接近は、一層注意深く整へられず接近に依つて置換へられる、さ
    うして、順に後者は更に完全への接近を待つのである。幾多の範圍に於いて、遠からず不適當なもの
    として排除されねばならぬ假説を吟味する探究の状態を、我々は未だ喩えてゐないのである。しかし
    他の範圍に於いては、我々は既に確實なそして殆ど不變な知識の心臓を手に入れてゐる。最後に、科
    學の努力を根本的に疑はうとする試みが企てられたのである。その根據はかうである。科學は我々自
    身の機構の條件に束縛されてゐるから、たい主觀的結果を出し得に過ぎない、然るに、我々の外部
    にある事物の眞實性は、科學の近附き難い所であると。だが、このことは科學的仕事を領解するた
    めに決定的に重要な幾多の要素を無視することである。第一、我々の機構、即ち我々の心的裝置は、
    外界を研究しようとする企てを以て、現に發達したのである。從つて、その構成に於いて、或程度の

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    二二四

    宗教の将来

    安當さを必ず實現したに相違ない。第二、我々の機構そのものは、我々の研究する筈になつてゐる世
    界の一構成部分であつて、容易にかゝる探究を許すのである。第三、若し我々が科學の仕事を限定し
    て、それは我々の機構の特質のために、世界が我々にどう現はれなければならぬかを説明するものとす
    れば、科學の仕事は十分に制限される。第四、科學の究極の見附け物は、それが獲得された方法を考
    へて見ても分かる通り、我々の機構のためばかりではなく、この機構に影響したものゝためにも制限さ
    れてゐるのである。最後に、我々の知覺上の心的装置には關係のない世界の性の問題は、實際上の
    利害關係のない空虚な抽象的觀念である。
    否、科學は決して錯覺ではない。しかし、我々が科學の興へ得ないものを何處かほかで得ることが
    出来るだろうと假定するならば、それこそ錯覺であろう。