S.
一四五
第一章
我々は図らずも経済学上の方面から心理学上の方面へ何時か移つてし
まつた。最初我々は、現存す
る物質的資源並びにその分配の設備に、文化の本質を求めようと思つたのである。しかし、如何なる
文化も強制的労働と本能上の自制とに基礎を置くものであり、従つてこれらの要求に煩はされた人々
の反抗を必然的に喚起するものであるといふことの発見と共に、資源そのもの、それを獲得する手段
及びそれの分配の設備などは、文化の本質的或は独自の特質ではあり得ないことが明確になつたので
ある。何故かと言ふに、それらは文化の成員等の反逆破壊的惰性とに依つて脅かされるからである。
かやうに、資源に加ふるに、文化擁護の方法――即ち、強制手段、人々を文化に服従させる手段、人
人の犠牲に対して彼等に補償する手段などが問題となるのである。なほ、今述べたこれらの事柄は、
文化の心理的領域であると称することが出来よう。第二章
我々は用語を一定するために、本能が満足させ得られない事実を『拒否』
Verdrängung と称し、この
拒否を確立する手段を『禁止』
Verbot と称し、さうして禁止に依つて生ぜしめられた状態を『缺乏
S.
一四六
宗教の将来
(節慾)-
Entbehrung と稱して置かう。それから次には、萬人が感ずる缺乏と萬人が感じない缺乏、
即ち、單に集團、階級、或は何らかの個々人の感ずる缺乏とを區別することである。前者即ち全般に影
響する缺乏は最も時代の古いものである。この缺乏の基となつてゐる禁止と共に-
何千年の昔かは
分らないが-
文化は人類の原始の動物的状態からの離脱を開始したのだ。ところで、驚くべきこと
には、それらの缺乏が今はその働きをなし、依然として文化に對する反抗の核心を構成してゐるこ
とを我々は發見して来たのである。それらの缺乏のもとに悩む本能的願望は、如何なる嬰兒にも新た
に發生するのである。世には或種の人々、即ち神経症患者がある。彼等は反社会的態度をとつて、拒
否のこの最初の類に早くも反應するのである。かやうな本能的願望とは、近親相姦、人肉嗜食、及び
殺人のそれである。これらの分類に於いて、總ての人々に異見がないとは思はれるやうな本能的願望と、
我々の文化上に許すべきか、許すべきからざるかに就いて非常に根強い論争のある別種の本能的願望と
を一緒にすることは、異様と思はれやうが、しかも心理的に見れば、この類別は是認されるのであ
る。またこれら最古の本能的願望に對する文化の態度は、それ-
ぐの場合に於いて同一ではない。た
だ人肉嗜食のみは、各人に依つて禁止され、また、分析的観察以外では分らぬほど、全く壓服されて
ゐるやうである。近親相姦願望の勢力は、やはり禁止の陰にこれを認めることが出来る。なほ一定のS.
一四七
第二章
条件のもとには、殺人もやはり我々の文化に依つて遂行されるばかりでなく、命じられるので
ある。吾人の前途に文化が発達し、さうしてその文化は前記以外の願望満足で、今日公然許され
てゐるものでも、今日人肉嗜食が不愉快に感ぜられるやうになるであらう
ことは有り得るだらう。これら最も初期の本能上の自制には、既に心理学的要素が包含されてゐる。その要素は澱て生起
する萬事に対して依然重要なものである。人間の精神は最古の時からこの少しも發達してゐない、
また科學及専門技藝の熟練の進歩に比して、これは今日依然歴史の初めと同様なものであると言ふ
のは眞實でない。吾人はこゝにこれらの發達の一例を擧げることが出来る。我々の發達の經過に従つ
て、外的強制が漸次に内面化されて特殊な心的機能、即ち超我(超自我)が自己の管轄権の下にこの強
制を行ふのである。どんな嬰兒でもこの化成の過程を我々に示すのだ。この化成に依つてのみ嬰兒が
道德的また社會的人間と成るのである。超我の鞏固といふ事は、文化にとつて極めて價値多い心理上
の所有である。かやうに鞏固に成つて行く超我を有する人々は、文化の敵たることから一轉してその
支持者となるのである。だから、かやうな人々の數が文化社會に増加するに従つて、その社會はいよ
いよ確固たるものとなり、また能く外的強制を廢することが容易になるのである。ところで、この内S.
一四八
宗教の将来
面化の程度は、それ-
ぐ-の本能上の禁止に依つて大いに異なるのである。既に述べた文化の最
も初期の要求に關する限り、もし我々が神経症患者の好ましくない除外例を勘定にいれないならば、
内面化の過程はかなり良く成就されてゐるやうである。しかし、我々がそれ以外の本能的要求に就い
て見ると、事情は一變する。この場合、吾人は次の事を見て驚くと共に懸念するところもあるのだ。
多数の人々が問題の文化上の禁止に服従するのは、外的勢力の壓迫があればこそである。即ち外的勢
力がその権能を主張し得、またその力が恐怖の対象であると感ぜられる間だけ、多数は従順であるの
だ。このことはまた同様に誰にでも適用される所謂道徳的文化の要求に對してあてはめるのである。吾
人が経験する人間の道徳上の不信實といふことの大部分は、この關係から説明さるべきである。無數
の文明人は、殺人または近親相姦を忌避するが、しかもなほその貪慾、その攻撃、その性的慾望など
を満足させるに躊躇しない、また彼等は罰せられさへしなければ、虚言、詐偽、讒謗などに依つて他
の人々を害しても更に慚愧しない-かかる文明人は無數である。さうして、常に大抵の文化時代を
通じて、實にかうであつたのである。もし吾人が社会の或階級にのみ適用される制限の力を見るならば、極めて明白な、また常に認めら
れて來た事態に面する。無視されてゐる階級が、恵まれてゐる階級に對してその特権を嫉視し、またS.
一四九
第 二 學
出来得るだけの力を盡して、彼等自身の(他階級以上の)附加的缺乏状態を除去せん
とすることは、期待さるべきである。ところで、若しこの除去がなし得られない場合
には、永続的な度合の不満がこの文明の中にわだかまるであろうし、またこれが危険
な爆發を引起こさないとも限らない。さて若し文明の状態がその成員等のうちの一集
團に關する満足が、他の集團、恐らくは多數の集團に對して必然的禁壓を意味するこ
とになる――しかもこのことが、總ての近代文化の實情である――といふ段階を越え
てゐない場合には、これらの禁壓は壓迫を受ける階級が、その文化に對して烈しい敵
意を抱くことになるのは明かである。かやうな文化状態の存在は、被壓階級の人々の
労働に因つて可能であるにも拘らず、その資源の分配に於いては、彼等の受くる所は
あまりに少いのである。かかる状態に於いては、被壓階級の間に、文化的禁止の内面
化を求められないのである。彼等はこれらの禁止を承認する準備をさへしてゐないば
かりではなく、實際のところ、文化そのものゝ破壊恐らくはまた文化が基礎とすると
ころの假定の破壊の方に傾いてゐるのである。これらの階級が文化に對する敵意はあ
まりに明白であつて、そのために一層よく分配されてゐる社會層の深く隠伏する敵意
は見落されてゐるのである。言ふまでもないことではあるが、非常に多數の成員に満
足を與へず、また反道の方へ彼等を驅りたてるやうな文化には、存在を持續する望み
もなければ、その値打もないのである。S.
一五〇
る。
文化上の法則が内面化された程度
は、吾人が文化の價値を評價するにあたつて、考慮すべき唯一の心理的財産でない。そのほかになは、
理想と藝術的創造物といふもの――換言すれば、それら兩者が興へる滿足といふ文化の相續財産があ
るのである。
吾人は文化の保持する心理的所有の内にそれの理想、即ち、文化の最も高尚な、また望みの頗る大
きい成就に對する判斷を、甚だ手輕に包括しがちである。最初はこれらの理想が、文化的集團の成就
するものを決定するかのやうに思はれる。ところが、實際の過程から見れば、理想なるものは内面的能
力及び外的事情の協同動作が可能ならしめた最初の成就を型どつて作られたものであり、また、今で
はこれら最初の成就は、續いて來るものゝ、模倣すべき先例として、理想に依つて確保されたに過ぎな
いものであるかのやうに思はれる。理想が文化の成員等に興へる滿足は、かくてナルチスムス的こゝ
性質のものである。即ちその滿足は、既に美事に遂げたといふ誇りに基づくものである。この文化は
この滿足を完全にするために、異なつた仕事に從事し、また異なつた理想を發展せしめた他の文化と
自らとを比較する。如何なる文化でもこれらの差異を笠にきて、自餘の文化を輕蔑するの權利を主張S.
151
するのだ。かくして文化上の理想といふものは、各國民間に最も明瞭に見ることが出来るやうに、
異つた文化集團の間に於ける不和と確執との主因となるのである。
註 (一) 本全集第一卷々末『精神分析語彙』参照。(譯者)
文化上の理想が興へるナルチスムス的満足はまた、文化的集團内にある文化に對する敵意を有効に
中和する勢力の一つでもある。それはこの文化の恩恵に浴する殊遇階級が、その満足の分配に與り得
るばかりではなく、被壓階級もまたその分配に與り得るのである。何となれば、文化外にある人々を
輕蔑する權利が、彼等自身の集團に於いて蒙る虐待を補償するからである。人は種々の義務と兵役と
に悩まされた哀れな一平民プレベエルであつても、同時に一ローマ人であつて、他の國民を支配し、それらの國
民の法律を指圖するの仕事に與る所があるのである。とは言へ、被壓階級と、彼等を支配し、また利
己的に使役する階級とのこの同一化は、一層大なる統一體の一部分に過ぎないのである。かくて前者
は感情的に後者へ結びつけられることが出来る、即ち、被壓階級は憎悪を抱くにも拘らず、支配者達
のうちに自身等の理想を見いだすことが出来るのである。本來満足を興へる性質を有するかやうな關
係が現存してゐたのでなければ、多數の文化が、大衆の正當なる敵意にも拘らず、長い間存在を
續けて来た理由を領解することは出来ないであらう。第二章
S.
一五二
集全學析分神精ドイロフ
宗教の将来
藝術が文化的集団の成員等に寄與する満足は、別種の性質である。概して藝術は、精力を潤すや
うな労働に従事し、また個人教育の恩恵に浴さなかった大衆にとって、依然として近寄り難いもので
ある。吾人が熟知してゐるとほり、藝術は最も古い–しかも常に最も切に感ぜられる–文化的自
制に對して、代償となる満足を與へる。またその故に、人々が文化のために拂つた犠牲に對し、彼等
を諦めさせるものは、この外に何もないかのやうに満足を與へるのである。一方に於いて藝術品は、
高く評価される情緒的経験に普く與らしめることに依つて、同一化の感情–それは如何なる文化的
集団にも極めて必要なものである–を増進させる。藝術品が或文化の理想を想ひ起させるやうな感
銘的方法で、その文化の成果を表現する場合には、その藝術品はまたナルチシスムス的満足を促進する
助けとなるのだ。
文化の心理的財産目録のうち、恐らく最も重要な部分を占めるものに就いては、未だ一言も言及さ
れなかつた。即ち、それは文化の–最も廣い意味での–宗教的觀念、別の言葉で、文化の錯覺
–この言葉の使用に就いては後に至つて是認されるであらう–これである。
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宗敎の未來1927-001/1931.ja
1927-001/1931.ja/2