宗敎の未來1927-001/1931.ja
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    一八〇

    第六章

    宗教の将来

    我々はこれら二つの問題に對する解答の道を十分開拓したことゝ思ふ。それは我々が宗教的觀念
    の心理的起源に留意するならば明らかになるであらう。これらの觀念は、ドグマイルヂョンであることゝ公言し、
    經驗の剩餘でもなければ、また熟考の究極の結果でもないのである。宗教的觀念は錯覺である、人類
    の最も古い、最も力強い、かつ最も頑固な願望の達成なのである。宗教的觀念の力の秘密は、これら
    願望の力なのである。嬰兒期の頼りなさの恐ろしい感情が、庇護-愛に依る庇護-の必要を生じ
    させ、その庇護は父が與へるゝといふことを我々は既に知るのである。また、この頼りなさが全生涯を
    通じて繼續するものであるとの發見が父の存在-この時のものは一層力あるもの-に執着するの
    必要を惹起させたことゝも、既に我々の知るところである。かくて神的攝理の慈悲深い法則は、生活の
    危險に對向して我々の危惧を軽減し、道徳界の秩序の設定は、人類の文化内於いて、現有達成され
    ずに置かれがちだつた正義の要求の成就を保證し、剩へ來世に及ぶ現世の生活の延長は、この願望
    成就のために、局部的また現世的な装置を準備するのである。人間の好奇心を誘ふやうな問題、例へ

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    一八一

    第六章

    ば宇宙の起原だとか、肉體と精神との關係だとかいふ問題に對する解答は、この組立の土臺となつて
    る根本的假定に從つて發生してゐるのである。父コンプレクスから生ずる嬰兒期の矛盾が全然壓服
    されることは到底あり得ないにしても、それらの矛盾から解放されるならば、そしてそれらの矛盾が
    萬人に承認される解決を與へられるならば、それは個人の精神にとつて偉大な慰藉であることを意味
    する。

    宗教的觀念は錯誤であると言ふにあたつて、私はこの語の意義を定めなければならない。錯誤は謬
    謬と同一でない、いや、それは必ずしも誤謬ではないのである。例えば、害蟲は糞から發生するとい
    ふアリストテレス Aristoteles の所信は、無智の人々の今なほ固執してゐるところであるが、誤謬
    であつた。同様に、春鬱病は房事過度の結果であるといふ前時代の醫師達の所信も誤謬であつた。こ
    れらの誤謬を錯覺と呼ぶことは妥當であるまい。他方、インドへの新航路を發見したといふ事は、コ
    ロンプス Columbus の方にあつては錯覺であつた。この誤謬に於いて、彼の願望が演じた役割は極め
    て明瞭である。インド・ゲルマン語系の民族が文化を作り得る唯一のものであるといふ國家主義者達
    の或者の陳述や、或は嬰兒には性的性質がないといふ所信――これは獨り精神分析が論破したところ
    である――なども錯覺と言へる。人々の願望に由来するといふことが、錯覺の特質である。この點に

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    一八二

    於いて、錯覚は精神病學の妄覚に近いものであるが、後者の一層複雑な組織は全く別として、これと
    妄覚とは區別さるべきものである。妄覚にあつては、我々が重きを置いて要點と言ふは、現實との矛
    盾である。ところが、錯覚は必ずしも虚偽であることを要しない、換言すれば、實現されないこと、
    或は現實と矛盾することを要しないのである。例えば、貧しい少女は、王子が現れて彼女を連れ歸る
    といふ錯覚を持つかも知れない。それはあり得ることである。また嘗てこれに似たやうな事の起つた
    ことがあるのだ。救世主が現れて黄金時代を創建するといふのは、前の例に比して、甚だしく有りさ
    うにもないことだ。吾人は個人的態度に従つて、この信念をば錯覚として、若しくは妄覚に類似のも
    のとして類別するであらう。眞實になつたといふ錯覚の例はこれを發見するに容易ではないが、しか
    し總ての金属を變じて黄金にすることが出来るといふ錬金術家の錯覚はその一例となり得る。夥しい
    黄金を、出来るだけ多くの黄金を得ようとする欲望は、富の條件に對する我々の近代的洞察に依つて
    著しく挫かれたとは言へ、化學は金属を黄金に變化することを不可能とは考へないのである。かく我
    々は願望成就が信念の誘因の顯著な要素である場合に、この信念をば錯覚と稱すると同時に、錯覚そ
    のものが現實との關係を無視すると同様に、信念と現實との關係を問はなのである。
    この概觀の後、再び宗教的教義の方へ轉じて見るならば、その教義は總て錯覚であるといふこと、

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    一八三

    第六章

    その教義は吟味を許さないといふこと、また何人誰もその教義を實質なものと考へ、若しくはこれ
    を信ずるやうに強ひらるべきでないと言ふ事を繰返し得るのだ。宗教的教義の或ものは極めて眞實ら
    しくなく、また我々が世の中の現實に就いて努力して發見した如何なるものとも調和しないから、我
    はそれらの教義を―心理上の差異は適切に斟酌して―安寛に聽へることが出來ぬのだ。大抵の
    宗教的教義の眞實價値に就いては、我々は判斷することは出來ない。それらの教が證明されないと同
    くまた論破されることもないのだ。我々はまだ批評的に宗教的教義に近づくことを殆ど知らないので
    ある。宇宙の謎は、我々の探究に對して只徐ろに洩らす所があるのみだ。科學は多くの問題に關して
    未だ解答を與へることが出來ないのだ。しかし、科學的作業は、我々が外的現實に關する知識を得る
    ための唯一の方法である。また、直覺力若しくは精神昏迷に何物かを期待することは錯覺に過ぎない。
    それらは我々自身の心的生活の顛末―それを解釋することは困難である―その外に何物をも我々
    に興へ得ない。また宗教の教義の方では手輕に答へられてゐる疑問に關する知識を興へることが出來
    ないのである。吾人自身の勝手な活動を以て間隙を塞ぐことは無責任であり、また吾人の個人的評價
    に從つて、宗教的體系のかの部分やこの部分が多少承認され得ると言明することも無責任であらう。
    これらの問題は宗教的體系にとつて、あまりに重大―神聖過ぎると言つてもよからう―である。

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    一八四

    宗教の将来
    この點に就いて異議が挾まれる事だらう。―さて然らば、宗教の主張が理性のために論破される
    筈はないといふことか。意地悪い懐疑者さへが容認するならば、それらの主張は、傳統や、人々の同
    意や、またはそれらが真であるあらゆる経験など、それほどの味方を有してゐるのであるから、何故私
    はそれらの主張を信じてはならないのかと。全くその通りだ。何人誰も強ひて信仰させられる筈がな
    いと同様に、また何人も難を強ひて信仰させられない筈もない。だが、君はさうした辯論を以て、正
    しい推理の道を辿つてゐるのだといふやうな考に誤られてはならない。曾て手軽にやれる議論の場合
    があつたとするならば、これが即ちそれである。無智は無智である、如何なる物でもこれを信ずると
    いふ道理は、決して無智から生ずるものでない。思慮ある人ならば、誰でも信仰以外の事柄に関して
    かやうに輕々しく振舞はぬであらう。またその意見なり、その選んだ態度のために、かやうな薄弱な
    根據を置いて満足してゐることはあるまい。ところが、至高、至聖の事に於いてのみ、彼はかやうな
    盲信を許すのだ。眞實のところ、かやうな有様といふものは、人が長い間自ら宗教と縁をきつて来た
    後に、なほ宗教に縋つてゐるといふ信仰に自らを欺き、或は他の人々を瞞着しようとする試みに過ぎ
    ないのである。宗教問題に關する場合には、人々は不誠實と智性上の非行とのあらゆる種類の犯
    すものだ。哲學者達は言語の意味を伸ぱして、殆ど本來の意味が少しも保留されてないまでににする。

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    一八五

    彼等は自ら創造した或曖昧な抽象的概念を『神』と称して、世間の前に自然神教者
    とが、信者とかの風を装ふのである。彼等の説く神は実態のない影に過ぎないもので
    あり、最古宗教的教義を有す
    る偉大な人格でなくつてゐるにも拘らず、彼等は一層高尚な、一層純粋な神の観念に
    到達したと誇
    ることさへある。批評家達は頑張つてかう言ふのだ、宇宙を前にして人間の無意義、
    無力の気持を自
    白する者は『信心深い』のだと。だが、宗教的情緒の本質を構成するものはこの感情
    ではなくて、尊
    ろこの感情から救はれようとする次の手段、即ちそれに対する反動なのである。これ
    に反して、更に
    一歩を進めない者、言ひ換へれば、人間が宇宙に於いて演ずる無意味な役割に畏まつ
    て馴従する者は
    言葉の最も正しい意味に於いて無宗教なのである。

    註(一)自然神教とは、萬有の大原因である唯一の神を認め、その神は自然の法則によつて宇
    内を支配するが、
    宇内の上に超越すると主張する宗教を言ふのである。(譯者)

    眞理としての宗教的教義の價値を評價することは、今の探究の範圍の事でない。我々は心理学的に
    考察した上で、宗教的教義や錯覚として認識したことだけで十分である。しかし、我々はこの發見が
    多数の人々にとつて最も重要な問題と思はれるに相違ないものに対する我々の態度に、強く影響する
    事實を隠蔽する必要はない。我々は大略、如何なる時代に、また如何なる人々に依つて、宗教的教義

    第六章

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    一八六

    宗教の将来
    が構成されたかを知つてゐる。若し今我々が如何なる動機からこのことが生じたかを知るならば、宗
    教問題に對する我々の態度は目に見えるほどの變化を呈するであらう。我々は獨語する―若しこの
    世界と慈悲深い天意との兩者の創造者である神があるならば、また若し道徳的世界秩序と來世とがあ
    るならば、實に全く心地好いことであらう。しかし同時に、このことは總て自分達が自ら願ふべきだ
    といふのは全く妙なことだ。さうして、若し我々の憐れな、無智な、不自由な祖先等が、これらの困
    難な宇宙の謎すべてを解くことに成功したとすれば、それは一層妙なことであらう。