宗敎の未來1927-001/1931.ja
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    一五三

    第二章

    宗教的觀念の特殊な價値は如何なる點にあるか。
    文化の加へる壓迫、及びそれの強要する本能上の自制に依つて惹起され
    た對文化の敵意に就いては
    既に述べた。若し吾人が文化の禁止が除去されたものと假想するならば、
    その時吾人は、意に叶つた女
    ならどんな女をでも性的對象として選び得ることであらうし、自分の總
    てでも、或は何か他のこと
    で抑壓した何人をでも、躊躇することなく殺し得ることでもあらうし、
    また自分の欲求する他人の物
    品を無斷で強奪し得ることでもあらう。何といふ素晴らしい、何といふ
    歡喜連續の人生であるだらう。
    如何にもそれと相違はないが、直に第一の困難に遭遇する。即ち、他の
    者を悉く吾人と同じ願
    望を抱くものである。そして吾人が何の考慮もなく他を遇すると同様に
    、他もまた吾人を選び得るであ
    らう。それ故に、實際には、かく文化に依つて負はされた制限を除去し
    て、無制限の幸福に浴するこ
    との出来る者はただ一人ほかあり得ない。たゞ一人とは、あらゆる權力
    手段を獨占した暴君、即ち獨
    裁主權者である。しかも、その者でさへ、人を殺す勿れ――といふ少く
    も一箇條の文化的戒律を、他

    第三章

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    一五四

    宗教の將來

    だが、文化を廢棄しようと努めることは、要するに何といふ愚知らずな、何といふ淺見であらう。
    これな廢棄した際に殘るものは、自然狀態であらう、さうしてそれは途方もない難い狀態である。如何
    にも自然は本能の抑制を我々に求めないばかりか、我々をして思ふがまゝに振舞はさせてくれるので
    ある、しかし、自然は我々を拘束する不思議にも有効な方法を保有してゐる、自然は、無情、殘忍、
    冷酷と思はれる方法で我々を亡ぼし、また、或は正しく我々を滿足させたところのものを以て我々を
    亡ぼすのである。自然が我々を脅すこれらの危険があればこそ、我々は團結して文化を創造したのだ。
    その文化こそ、分けても我々の共同生活を可能ならしめるものと考へられるのである。全く、自然に
    對して我々を擁護することは、文化の主たる仕事であり、眞の存在理由であるのだ。

    吾人は種々の方面に於いて、既に文化がこの事をかなりよく遂行し、また明かに、時の經過と共に
    更に一層の成功を収めるであらうといふことを承認しなければならない。けれど、自然はこれまでに
    征服されてしまつたといふ錯覺に囚はれる者はたゞの一人もあるまい。また、自然はいつか全く人間
    に征服されるであらうと期待する勇氣のある者もあるまい。自然には、あらゆる人間の管理を嘲笑す
    るかに思はれる諸要素が存在してゐる。――震動する大地は裂けて、人間とその製作品の總てを埋沒

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    一五五

    第三章

    する。水は澎湃たる洪水となつて萬物
    を浸す。嵐は行先にある總ての物
    その病気は他の生物の襲撃であることな、我々は最近に認めたばかりである。さうして最後には、死
    といふ痛ましい謎がある。その死に對しては、未だ救済策は發見されてゐないのだし、今後とても恐
    らく發見されなからう。自然はこれらの勢力を保持して、壯嚴に、無情に、道徳に我々の眼前に現出
    する。かくで自然は我々の弱さ、頼りなさを再び想ひ起させる、その弱さ、助けやうのない状態は、
    文化の所為に依つて救はれたと我々は考へてゐたのであつたが。それは自然力的な災難を冒して、人
    人が混亂と當惑から奮起し、胸裡の難事と敵愾心とを悉く忘れ、そして偉大なる人類共有の仕事、即
    ち自然の至大權力に對する人類保護を忘れぬ場合に、彼等が示し得る光景は高尚にして喜ばしい僅少
    なものゝ一つである。

    個人にとつて、また廣く人類にとつて、人生は堪へ難いものである。個人が興するところの文化は
    或程度の窮乏を個人に負はせる、そして他の人々は、この文化の法則を無視するためか、或は文化の
    不完全のためにか、孰れにもせよ或程度の苦痛を彼に被らせる。これに加ふるに、征服されない自然-
    人はそれはを運命と呼ぶ-それが彼に蒙らせる禍がある。個人の固有なナルチスムスが重苦しく
    悩み、常に不安な期待状態のあるのは、この事態の結果であると思ふ者もあらう。我々は既に、文化

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    一五六

    及び他人等が一個人に奥へる損害に對し、その個人が如何に反應するかを知つてゐる。彼はこの文化
    の制度に對する抵抗、それに對する敵意を、相應の度合に發達させるのである。だが、個人は、總て
    の者を脅すやうに、彼を脅すところの自然の、即ち運命の至大權力に對して如何にして彼自身を防
    禦するのか。
    文化はこの仕事に就いて個人の勞を軽減する。それは如何なる者にも、この事を同様に世話する。
     (この點に於いて、あらゆる文化が殆ど同じであることは顯著である。) 文化は自然に對して人間を
    防禦する任務に於いて、謂はゞ停れを叫ぶやうなことを爲さない。文化は他の方法に依つて一向にそ
    の任務を續行するのである。これは込みいつた仕事である。人間のひどく脅された己慢は慰安を渴望
    し、生活と世界とからはそれぐの恐怖とするものを除去しなければならないし、また最強の實際上
    の動機に依つて事實上増し強められた人間の好奇心は、附帶的に返答を要求するのである。
    自然の人間化といふ第一段階に入ると共に、既に得る所が多いのだ。自然が非人格的な力や運命で
    あつては何とも手の出して見ようがない。それらは永遠に縁遠きものである。しかし、若し自然力が
    我々自身の精神内で荒れ狂れ狂惰性と同じいものをもつならば、若し死そのものが自然なものではなく
    邪惡な意志の兇暴な行爲であるならば、若しまた自然の到る所に於いて、我々自身の環境にある人々

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    一五七

    第三章

    に類似するものが我々の身邊に在るならば、その時、我々は全く安んずることができ、超自然物の面
    前に於いて氣樂になることもでき、また我々の物狂はしい不安精神的に處理することも出来る。そ
    れでも、我々は恐らくはなほ無防禦であるかも知れないが、最早助かりやうのないほどに無力の有様で
    はなくなるのだ。少くとも我々は反撥することが出来る。恐らく我々は確に無防禦どころではなく、
    我々自身の社會に於いて、彼方の兇暴な超人等に對して我々の用ひてると同じ方法を手段として用
    ひることが出来るのである。我々は彼等の邪悪を除かうとすることも出来るし、宥めて見ることも出
    来るし、買収して見ることも出来るし、その上かく左右することに依つて、彼等の權力の一部分を奪
    ふことも出来るのである。かやうに心理學を以て自然科學の代用となすことは、單に目前の慰安を與
    へるばかりではなく、なほこの状態に就いて更に精通する方法をも指示するものである。
    何故かと言ふに、この状態には少しも新しいものはないからである。それは幼時に於ける原型を
    保有し、しかも實はこの原型の連續に過ぎないのである。人は會て一度、かかる頼りない状態にあつ
    たのである。それは兩親との關係にある幼児として、かやうであつたのだ。何となれば、人が兩親、
    特に父を恐れるのは理由のあつたことであるが、同時に、人は幼児の頃の自分にふりかゝつてゐた危
    險に對して、父の庇護あることを確信してゐたのである。從つて、この二つの状態を同化し、結合す

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    一五八

    宗教の将来
    るに至つたのは當然のことである。こゝに於いてもまた夢の生活に於けるやうに、願望が動きだした
    のである。睡眠者は彼を墓へ連れて行かうとする死の豫感に襲はれるのである。しかし、夢の作業
    はこの畏るべき出来事なさへ、願望充足に變へるやうな狀態を選ぶ方法を心得てゐる。夢見る人は古
    代エトルリア人の墓穴のうちに下つて、その墓穴が彼に興へてくれる考古學上の興味に滿足しながら
    その内にゐる彼自身を見るのである。それと同様に、人間は自然力をば自分と對等の者として交際し
    得る人々――それらの自然力が彼に興へる壓倒的感銘を自分等と同等なものと見做すのは公平でなか
    らう――さやうな人々の像に變化させるばかりではなく、自然力に父の特質を賦與し、神々に變化さ
    せる。かやうなことで、嬰兒の頃の原型に則るばかりではなく、私が説明を試み來つたやうに、系統
    發育上の原型にも從ふのである。
    時を經るに従つて、自然現象の法則及び秩序に關する最初の觀察がなされるが、それと共に自然力
    は人間の特性を失ふのである。しかし、人々の頼りなさは依然として存するので、從つて父權像と神
    神も殘存する。神々は三重の任務を持つてゐる。即ち、神々は自然の畏るべき恐怖を赦さなければなら
    ず、運命の殘酷さ、特に死に示されるやうな殘酷さを吾人に諦めさせなければならず、また文化の共
    同生活が人間に負はせた苦難と缺乏とを償はなければならないのである。

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    一五九

    第三章

    だが、これらの任務のうちでも、強調されるものには漸次の移動があるのだ。自然現象が内部の必
    要から自らを発生させることは認められてゐる。疑ひもなく、神々は自然の主人であつて、神々は既
    に自然なかの如く整頓した以上、今やそのなすがまゝに任せることが出来るのである。だが、時折
    神々は本来の権力範囲を毫も抛棄しはしないことを明言するかのやうに、自然の過程の内に所謂奇
    蹟なるものを起すのである。運命の有為轉變を氣遣ふ限り、人類の當惑と頼りなさとは到底除去さ
    れ難いものであるとの不愉快な疑念は消えない。實にこゝが、神々の我々の期待に甚だしく添はない
    点である。若し果して神々が自らの手で運命を作るとするならば、神々の業は不思議なものと考へら
    れなければならない。古の世の最も優れた才能の人々は、神々の上に運命が位し、かつ神々自身もそ
    れぐの運命の下にあるといふことを、朧げながら臆測してゐた。そこで、自然がますぐく自律的と
    なり、また神々が自然から撤退すればするほど、あらゆる期待は、神々に割り當てられた第三の任務
    にいよくく熱心に集注され、そして道徳はいよくく神々の眞の勢力範囲となるのだ。かく文化の缺
    陥と悪弊を正すこと、人々の共同生活に於いて互に煩はし合ふところの苦難に意を用ひること、また
    文化の法則――それは人々がいやいやく服従するものである――の履行されるのを監視することなどが
    神々の仕事となる。文化の法則それ自身は、神性の根元を有するものであると主張され、それらは人

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    一六〇

    宗教の將來

    さやうにして觀念の豐富な蓄積が構成される。それは人間の頼りなさ
    耐へ忍ばしめる必要から生
    じ、人の嬰兒時代及び人類の嬰兒時代に於ける頼りなさの記憶に依つて提供された材料から組立てら
    れるのである。これらの觀念が、自然及び運命の危険と、人間社會それ自身の悪弊とに対する二方面
    に於いて、人間を庇護することは容易に認められる。そこで、結局の意味はかうだ。現世に於ける生
    活は、一層高尚な目的に仕へるのである。この目的の性質の何たるかは容易に推測されないには相違
    ないが、人間の生存を完全にするといふ意味の包含されてゐるのは確かである。時の経過に連れて極
    めて徐々に、かつ不承不承に肉體から分離した人間の精神的部分、即ち靈魂が、恐らく、この向上と
    躍進との對象として考へられるのであらう。現世に生起する萬事は、我々よりも優れてゐる叡智の意
    向を表現するのだ。この叡智の迂廻する道筋に隨行するのは困難かも知れないが、結局、その定める
    所は萬事の善、即ち我々の利益である。見たところ厳烈ではあるが、慈悲深い天帝が上の方から各人
    を見張つてゐて、我々が苛刻無情な自然力の玩弄物となることを樺はずじまることはなからう。死そ
    のものの絶滅でなく、無機的無生への還元でなくて、一種の新生活の發端であり、その生活は、より
    高き或物への發達の進路に在るものである。更に問題を他面に轉じて見れば、我々の文化を構成した

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    一六一

    道徳上の法則も、また宇宙内部を支配する、但しそれらの法則は、至高権を有する法廷に依つて、よ
    り強い比類ない勢力と首尾一貫とを以て支持されてゐるのである。結局、あらゆる悪は酬いられ、あ
    らゆる善は報ぜられる。それが現世に於いて実現されない場合には、死後にはじまる彼岸の生活に於
    いて行はれるのだ。かくしてあらゆる恐怖、艱難辛苦は削除されるやうに決つてゐる。死後の生活、
    それはスペクトルの目に見えない部分が目に見える部分に接続してゐるやうに、現世の生活に連繋す
    るもので、我々がこの世に於いて恐らく取り得なかつたあらゆる完全な覆すのである。そしてこの
    結末を支配する優れた智慧、かく自らを表現する至高の善性、かくその目的を達する正義―これら
    は我々を驚くこの世とを形作つた神々の特性である、或は、我々の文化上、古代の總ての神々を綜合
    せしめたところの唯一の神の特性であると言ふ方が宜しからう。かく幾多の神性を一體に集中して光
    づ成功した民族は、この進歩に就いて勘少からず得意であつた。それは如何なる神の形の背後にも常
    に認められてゐる父といふ核心を示顕したのだ。それを根本的に見れば、神といふ観念の歴史的起源
    への還元であつたのだ。神が單一の人格となつたために、人の神にする關係は、子の父に對する關係
    の親密さと強さとを回復することが出来た。若し人が父のためにさやうに多く盡したならば、確に酬
    いられる所があつたらう、少くとも唯一の愛子、選ばれた民となつたであらう。遙か後世になつて、

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    一六二

    宗教の将来

    敬神を名とするアメリカは『神自身の國』であるとの主張を聲明したが、
    その中の一つにはその主張が確かに適用される。
    今まで約説したこの宗教的觀念は、固より發達の長い過程を經、幾多の形態に
    保持されて来たのである。私はかやうな發達の一形態を選り抜いたので、これに西洋に於ける現代キ
    リスト教文化の究極の形式に大約符合するものである。この統一體の部分々々が悉く互にぴたりと符
    合しないことは明かであり、解答を迫る諸の質疑が解答を與へられないことも明かであり、また日々
    の經驗の反駁が辛うじて棄却され得るに過ぎないことも容易に認められる。しかし、さうしたもので
    はあるが、これらの觀念–宗教上の、この言葉の最も廣い意味に於ける–は、文化の最も貴い所
    有として、また文化がその成員等に與へねばならぬ最も價値あるものとして重んじられる。それは、
    地球の資源を得る工夫、或は榮養物を以て人命を支へる方法、或は人の病氣を豫防し、或はまたその
    他さまざまな總ての工夫よりも、遙に優つて重んじられるのである。人々は、若し彼等のために要
    求される價値をこれらの觀念に與へなかつたならば、人生はさぞ忍び難からうと想像するのだ。
    ところで、ここに問題が發生する。–心理學に照して見る時、これらの觀念は如何なるものか。ま
    た、これらの觀念は、それらを支持してゐるところの價値を、何處より収得するか。更にまた、敢へ

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    一六三

    集全學析分神精ドイロフ

    第三章

    て訳が、これらの観念の現實的價値は何であるか。