S.
一七一
第五章
第五章
さて、我々の探究の脈絡を再びたどることにする。宗教的觀念の心理學上の意義は如何なるもので
あるか、またそれらの觀念をば我々は如何に類別することが出来るか。この問題は、最初必ずしも
容易に答へられない。私は種々の公式を擧げて、次の二公式に依つて自己の立場を定めよう。―宗
教は一定のドグマ、即ち外的(若しくは内的)現實の事實及び狀態に關する斷言から成立つてゐる。
そしてそれらのドグマは、吾人自身が發見しなかつた何かを我々に語ると共に、それらを信ぜよと
我々に要求するのだ。ドグマは我々にとつて人生に於ける最も感興的な、最も重要な事物に就いて致
示するから、特に高く評價されるのである。それらのドグマに就いて何事も知らぬ者は、全く愚昧で
ある、さうして、それらのドグマを同化した者は、彼自身を豊富にしたと考へて宜しいのだ。
この世の頗る不同雜多の事物に就いても、かやうな多くのドグマのあることは言ふまでもない。如
何なる學校の授業時間も悉くドグマに滿ちてゐるものである。その例として地理學を選ばう。我々は
敎場でから聞くのだ、コンスタンツツはボーデンゼーの沿岸にあると。或る學生歌にもある通り「うそS.
一七二
宗教の将来
だと思ふなら行つて見な』“Wo's nicht glüht, seh' hin und her,”
があるが、確かにこの美しい都會は廣漠たる水面の岸邊に在つて、その水の周圍に住む人々はこれを
ボーデンゼーと呼んでゐる。これで、私はこの地理學上の陳述の適確さを十分に首肯するのである。
なほ、これに關して、私はも一つの極めて顯著な經驗を想起する。私が始めてアゼンスのアクロポリ
スの丘に立ち、寺院の廢墟の間から紺碧の海を見峙したのは、既にをとなになつてからのことであつ
た。快感に混つた驚駭の感に動かされて、私は言つた。全くほんたうだ、いつも學校で教へられたこ
とは。今日これほど驚かされる位だから、嘗て耳にしたものゝ眞の木物に關する私の既往の信念はど
んなにか薄弱であつたに違ひないど。しかし、私はこの經驗の意義をあまりに多く力説したくない。
だが、私の驚きに關して別途の解釋は可能である。それは、その時私の注意を引かなかつたもので、
また全く主觀的性質を帶び、かつその場所の特異な性質に關聯してゐたものである。そこで、かやうな總てのドグマは、それらの内容に信念を嚴しく強要する。しかも、信念に對して
それらの各自を立證しないことはないのだ。ドグマは、思想の長い過程の凝縮した結果であることを
主張する。その結果なるものは觀察と、また確かに推理とに基づいてゐるのだ。若し人が試みて見る
つもりならば、前記の思想過程の結果を受け入れる代りに、自らこの過程を經驗し得ることを見せるのS.
一七三
がドグマである。そしてドグマの奥へ知識の淵源で、地理學上の記事のやうに自明を缺く點は増補
されるのである。例へば、地球は球體の形を持つてゐる。この事實のために擧示される證明は、フウ
コオ*)の振子實驗、水平線の現象竝びに地球周航の可能性である。そこで、總ての生徒に世界を周
航させることは、當事者皆々がよく知つてゐるとほり、實行されないが故に、學校の敎はそのままゝに
信用さるべきだといふことで、人は滿足する。しかし個人的に立てる確信への道のはなはだ開かれてゐ
ることは誰も知つてゐる。註 (一)Jean Bernard Léon Foucault (1819–68) フランスの物理學者。(譯者)
第五章
これと同じ吟味を、宗教のドグマに適用して見るとしよう。若し信ぜらるべきだといふドグマの主
張が、何に基づいてゐるかを尋ねるならば、我々は三つの解答を與へられるが、それらの解答の互に
一致し難いことは顯著である。三種の解答はかうだ。ドグマは信ぜらるべき價値がある。何となれば
第一に、我々の最初の祖先等が既にそれを信じたが故に、第二に、我々は證明を所持してゐる、この
證明は實はこの上古時代から傳へられて来たものであるが故に、第三に、それの確實性に関して苟し
くも疑問を起すことは禁ぜられてゐるからだ。往昔、この僭越な行爲は非常に嚴烈な刑罰を以て報
いられ、今日ですら、社會はこの行爲を再びはじめる人のあるのを好まないのである。S.
一七四
宗教の将来
この第三の點は、我々の最も強烈な疑念を起させざるを得ない。かかる禁止は確かに唯一の動機
しか持ち得ないのだ。即ち、社會は宗教のために為される主張の根據といふものゝ不確實なことなよ
く知つてゐるといふ事だ。若し根據が薄弱でないとするならば、自ら確信を得ようと望む人の意のま
まに、適切な材料が極めて容易に配置されるに相違あるまい。そこで我々は、容易に鎮められない疑
惑の感を懐いて、他の一籍論の吟味を始めることにする。我々の祖先等が信じたから、我々も信ずる
のが當然であると。しかし、我々の祖先等は我々よりも遙に無智であつた。彼等は今日我々が到底承
認し難い事物を信じてゐたのだ。そこで、宗教の教義もまたこのお多分に洩れないものだらうと云ふ
ことになる。彼等が我々に遺した證明は文書に託されてあつて、その文書なるものには信憑され難い
ことの一切の痕跡を存してゐるのだ。それらの文書は、矛盾、修正、まぎらはしい書込みなどで満ち
てゐる。それらは、實際の信憑すべき説明に就いて語つてゐても、それら自身の確實性は疑はしいの
だ。それらのテキスト、又は少くともその内容だけは天啓がその起原であると斷言されたところで、
役には立たない。何となれば、この斷言はそれ自身既にそれらの教義の一部であり、またそれら教義
の確實性は吟味さるべきものだからである。かつ如何なる命題もそれ自身自身の證明となることは出来な
いのである。S.
一七五
第五章
かくて我々は異様な結論に到達する。我々にとつて文化組織に於ける最も重要な意義、即ち我々のために萬有の謎を解き、かつ我々をして生活の艱苦を諦めさせる知識といふものが、確實性を主張し得る點に於いて最も薄弱であるといふことである。鯨が卵生ではなく胎生であるといふ事實と同じく我々に關係のないものは、この事實以上に良い證明をすることが出来ないならば、我々は到底これを承認する氣にはなり得ないのである。
この事情そのものは極めて顯著な心理學上の問題である。宗教の教義を立證することの不可能事に關する前記の意見は、何か新らしいものを含んでゐると思ふべきでない。それは常に感ぜられて來たことであつて、この形見を遺した祖先等に依つてさへ、確實に感ぜられたのである。恐らく彼等の多數も我々のやうに、同じ疑念を懷いたであらうが、彼等に加へられた壓迫があまりに強かつたので、それらの疑念を敢て口にしなかつたのである。昔から、無數の人々が同じ疑念に苦しめられて來た、しかし、彼等は信ずるといふ義務に束縛されてゐたればこそ、疑念を甘んじて抑制したのだ。また昔からこの爭闘のために多數の立派な智者が破滅させられ、また、妥協に依つて出口を求めたその妥協のために多數の人物が盲目を見たのである。
宗教教義の確實性のために唱道される論證が、悉く過去に胚胎してゐるとすれば、周圍を見廻してS.
一七六
宗教の将来
これらの事柄を一層適切に批判し得る現在も、またかかる謬説を興へることが出来ないかどうかを調
べて見るのは當然のことである。若し、かやうな行き方で、宗教組織の統一體の單一な部分から、疑
惑の要素を除去することに成功し得るならば、その統一體は無限にもつと信頼されるやうになるであ
らう。神靈論者の活躍の進入して来る點はこゝである。彼等は個人の靈魂の不滅を確信してゐるので
あつて、宗教的教旨のこの一箇條には疑ひを挿しはさむ餘地がないと、我々に論證しようとするのだ。
ところで、遺憾ながら、彼等の説く靈魂の現象出現とは、彼等自身の心的活動の所産に外ならぬとい
ふ事實への反證を擧げることに成功してゐないのだ。彼等は最も偉大な人々、最も優れた思想家達の
靈魂を呼び出したが、それらの靈魂から興へられた總ての言辭と報告とは馬鹿げてるると共に甚だし
く無意義であつて、吾人はそれらの靈魂を呼び出した人々の仲間に順應する能力が靈魂にあるといふ
事以外には、信ずべきものは何も發見することが出来ないでゐる。茲にこの問題を言ひ抜けようとする二つの企圖を述べなければならない。兩者共に狂氣じみた努力
だとの感を興へるものである。その一つはその性質上、高壓的であり、古いものである。他の一つは巧
緻であり、近代のものである。第一の企圖は、早い頃の教父の『不合理なるが故に余は信ず』(Credo
quia absurdum1))である。それは宗教的教義が理性の管轄區域外にある、即ち、教義は理性の上に1)Tertullian.
S.
一七七
第五章
在るといふ意を示すものであらう。その教義の真理は衷心から感ぜらるべきもので、これを理解す
る必要はないとの意味だ。しかし、この信條はたい自發的告白として興味あるだけのことで、命令と
しては拘束力を有してゐない、私は如何なる不合理でも信じなければならないのであらうか。若し信
じないでも可いならば、何故にこの一つだけを信じなければならないのか。理性以外に是非を問ふも
のはないのである。そこで、若し宗教的教義の真理が、その真理の證據となる内的経験に依るものな
らば、さやうな稀有の経験を得ることのない多數の人々を納得させるものは何であるか。吾人は總て
の人々に、彼等の有する理性の能力を行使することを期待し得るが、全然少數の人々に対してのみ存
在する根據の上に、總ての人々に適用すべき義務を提唱することは出來ない。宗教教義が實際の真理
だとの不動の確信は、――それは君を深く感動させた恍惚狀態から君が贏ち得たものであるが――そ
れは他の人々に對して果して如何なる意義を有してゐるのか。第二の企圖は『かのやうに』1)の哲學のそれである。それはかう説明する、我々の心
的活動に於いて、我々はそれの無根據を、またばかゞしい事を、十分に知つてなりながら、純粋に
假定を下すものであると。それらは『虚構』と稱せられるが、我々は結局一種の實際的な動機から、
これらの虚構を信ずる『かのやうに』振舞ふことになる。このことは、宗教的教義が人間社會を維持1)Fiktion
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一七八
する上に無比の重要さを有するが故にこれにも當る、と論ぜられるのだ
が故に余は信ず』の信條とあまり隔りはないものだ。だが『かのやうに』の哲學の主張は、た
學者ののみがなし得たものであらう。哲學の策略に左右されない思想を懐抱する人々は、到底それ
認することは出來まい。不合理とか、非論理的とかいふだけで、彼に關する限りでは、最早それ
に何も言ふことはない。人はその平常の活動にさへ要求する確實さを顧る重要な利害關係ある事柄
於いてなして濟ますとは考へられない。これに就いて私は私の子供の一人を思ひ出すのだ。この
幼少の頃から特に現實感の強いので異なつてゐた。さて、子供等は御伽噺を聞かされた時、みんな
中になつて耳を傾けてゐたが、この兒は乗りだして尋ねたのであつた、それはほんたうのお話かと。
さうでないと言ひ聞かされると、彼は輕蔑の様子を以て、他へ向いてしまふのであつた。だから『か
のやうに』の哲學の擁護あるにも拘らず、人々は宗教上のお伽噺に對して、やがて同様に振舞ふだ
うと思はれるのである。(一) Hans Vaihinger が一九一一年
に發表した Philosophie des Als ob.
譯「かのやうに」『大正三年四月』あり。(譯者)(二) 私は『かのやうに』の哲學の著者を、他に類似の思想家はあるが、或る見地の代表と成しても不公平
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一七九
第五章
でないつもりである。(H. Vaih-
inger, „Die Philosophie des Als ob.“ 一九二二年第七及び第八版
六八頁)『我々は虚構として、公平な理論上の働きを戴へいれるばかりでなく、最も高尚な心の人々から
流出する概念構成をも数へ入れるのである。それらに、それらから善ひとうとも我々は思はない
–むしろ、實際的の虚構として、我々はそれらをそのままにして置くのである。併しそれら虚構は理
論上の眞理としては滅び去るのである。』(C. K. Ogden 英譯 „The Philosophy of As If.“ 四八頁)
しかし、現在の人々はなほ全く異なつた振舞をしてゐる。さうして、過去の時代に於いては、宗教
的觀念が明かに確實性を缺いてゐるにも拘らず、極めて力強い影響を人類に及ぼしたのである。この
ことは心理學上の新らしい問題である。これらの教義が有する固有の力は何處に存するのか、また理
性の認知には無關係のまゝに効力を保つてゐるのは如何なる事情によつてか–我々はそれらの點を
尋ねなければならぬ。
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宗敎の未來1927-001/1931.ja
1927-001/1931.ja/5